新発売のパンが7割引で売られていた
「採用決定だ」
開発部長の知らせに、由香は一瞬にして頭の中がどうにかなってしまうほどの衝撃を受けた。
試行錯誤を重ね、試作パンの数は50を超え、そして三度目の実食会議の末、ようやく掴んだ発売。
由香の右目からは一筋の雫が流れた。
「おいおい、泣くのはまだ早いぞ? 発売はまだ先なんだから」
開発部長に肩を叩かれ、必死で頷く。
強く握り締めていたレシピノートには、既に空白が無いほどに文字が埋め尽くされていた。
「やることはまだまだある。だが、ひとまずはおめでとう。初めての企画担当、さぞかしプレッシャーだっただろうに」
「ありがとうございます、ありがとうございます」
開発部長に頭を何度も下げ、由香はその日、久しぶりにパフェを食べに行った。
「──えっ!? 原料が入らない、ですか……?」
「ええ、予定してた海外からの流通がダメになってしまったんです」
ゾッとした。発売まであと少し、ここに来て原料の産地変更を余儀なくされた由香。
「別ルートで仕入れましょう」
不安と焦り。そして苛立ち。
由香の緊張は高まるばかり。
家族や友達にも既に自分が企画担当したパンが発売されることを伝えており、今更立ち消えましたとは言えない。是が非でも発売にこぎ着けなくては次は無い。由香はトイレで二度吐いた。
工場で製造ラインを見た時、由香は両目から大粒の涙をぼろぼろとこぼした。
自分のパンがコンベアーを流れてゆく。
どこを見ても自分のパンばかり。
由香は番重いっぱいに敷き詰められたパンの山を見て、ずっと涙が止まらなかった。
発売日、由香は起きるとすぐに近くのコンビニへ向かった。
パンコーナーの中段辺りに、夢にまで見た光景が広がっていた。
「あ、あの……どうしましたか?」
「いえ……パンがあったので……」
他の客に心配されるほどに、由香はパンコーナーで泣いてしまった。
友人達からもSNSで『見付けたよ~♪』と、通知が沢山来た。
数日が過ぎ、由香は会社帰りにスーパーへと立ち寄った。時刻は夜の七時半、値引きシールをお目当てに、由香はアルコール消毒をして買い物カゴを手に取った。
「……え?」
由香はワゴンセールの中に自分のパンを見付けた。
七割引のシールが貼られていた。それが何個も置いてあった。
由香は気が付いた。
そう言えば誰からも【味の感想】を貰っていない事を。母親からも、だ。
ノイズ染みた思考を何とか押さえようと、隣にあった1割引のところてんを手に取り、その場を離れた。
何かの間違いだ。
由香はそう思うことにした。
ずっと気が気では無かった。
胸が苦しくてはち切れそうな痛みを伴っていた。
もう耐えられない。由香はワゴンセールの前へと戻った。
パンはまだ置いてあった。
上から重ねて貼られた8割引のシールが、由香の心を容赦なく傷付け、ダメにした。