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翌日、目が覚めると机の上に問題集とページ数が書かれたメモが置かれていた。そのページを確認してみると、ちょうど俺が学校を休み始めたあたりの範囲からだった。メモの差出人の名前は書いていないが、文字でわかる。俺が学校の授業についていけるよう、あいつが俺に問題集をくれたのだろう。
その日から毎日、俺のいない間か寝ている隙に机にお見舞いの品が置かれるようになった。これじゃ結局、何も意味がないじゃないか。
俺は夜早く寝て、朝早くに寝たフリをして彼女を待つ作戦を立てた。
彼女は俺の思惑通り、朝の六時、そっと扉を開けると、机の上に剥いたリンゴをタッパーに入れたものとそっと置き、そのまま部屋を出ようとする。
「おい」
「っ!?」
「こっち、座って」
彼女は、俺と目が合うなりまた逃げようとする。
「待ってくれ。俺は、お前を体で引き止めることができないんだよ。頼む」
そういうと、彼女は泣きそうな顔で、必死に涙を堪えながら椅子に座った。
「この前は、きついこと言ってごめん。でも、もうこんなことしてくれなくて良いんだよ。お前は、お前の人生を生きてくれ」
「……やだ、やめない」
「なんでだよ。いつまでも俺と関わってると、お前まで不幸になるぞ」
「な、ならない……!」
「なんでそんなに言うこと聞いてくれないんだよ、小学生の頃はいっつも俺の言うこと聞いてたくせに。もうお前は俺がいなくても生きていけんだろ」
「無理だよ……」
「無理じゃねえよ。中学からずっと、俺なしでもしっかり生きていけてるじゃねえか」
「それは、あなたがいてくれたから。私は、あなたがいないと生きていけない。あなたは、私に多くのものをくれた。ずっといじめられてた私を、救ってくれた。悲しい時、私を慰めてくれた。今度は、私の番。私が、あなたを支える番」
「そんな昔のことなんて、忘れちまったよ。そんなもんに縛られてないで、お前のしたいことをしろ」
「私は、あなたのそばにいたい」
「そんなこと言ったって、俺、下半身動かないんだよ。お前、介護できんのか? そんな体力、持ってねえだろ」
「……ねえ、握手しよう」
「ど、どうした急に」
「いいから」
俺は、差し出された真っ白な手を握る。いかにも触れたら折れてしまいそうで、美しい手だ。
「ちょっとごめんね」
「いでっ、いたた、痛いって!」
彼女は俺の手を握り潰すかの勢いで握った。あんなに細い腕のどこにそんな筋肉がついていたのだろう。
「私、あなたが入院してたこの三ヶ月で、筋トレしてたの。もしかしたら、介護する必要があるかもしれないって、お医者さんが言ってたから」
それにしたって、三ヶ月でこんなに強くなるものなんだろうか。
「ねえ、私は本気。どうか私を、あなたのそばに居させて」
「……それでもダメだ。やっぱり、俺なんかといるべきじゃない。高校生活を棒に振ることになるぞ」
「それでもあなたと一緒にいたいわ」
「だから! 俺が許せねえんだよ! なんでお前まで俺の道連れになるんだよ! 俺のせいでお前まで不幸になるなんてーー」
危うく倒れそうになるくらいの勢いで、彼女が俺の胸に飛び込んできた。
「私はあなたといて、絶対に不幸にならない! それに、あなただって、私が不幸になんてさせない……どうして、自分が不幸になるのは当たり前みたいに思っているの? 私が絶対に、不幸になんてさせないから」
彼女の顔を見ようとすると、彼女は泣いている顔を俺に見られまいと、ギュッと抱きついて、俺の胸で完全に顔を隠した。
気付いたら俺は、彼女のことを抱きしめていた。
俺は勝手に、自分は不幸な存在なんだと決め付けていた。サッカーをなくした俺に、なんの価値もないと思っていた。
けれどもし、今からでも俺にできることがあるのなら。こんなどうしようもない俺の面倒を三ヶ月も見てくれた彼女に、少しでもお返しができるように行動するべきだ。
五分ほどそうした後、俺は両肩をそっと掴んで、ゆっくりと彼女を自分から離した。
彼女は、真っ赤に腫れた目で俺のことを見ている。
「ごめん。そして、ありがとう。俺、過去のことしか考えられてなかった。今できることから、逃げてただけだった。こんなバカな俺に、ずっと付き合っていてくれて、ありがとう」
「ううん、私の方こそ、あなたの方が辛い思いをしているのに、私ばかり泣いていて、ごめんなさい」
「謝らないでくれ。謝らなきゃいけないのは、むしろこっちのほうなんだから」
「あなたは、何も悪くないよ。悪いのは、あの居眠りクソドライバーよ」
彼女が、今まで見たことないような顔をしている。お前、そんな顔もできたのか……
「……俺、お前を泣かせないように頑張るよ。お前を必ず幸せにしてみせる。後悔なんてさせない。だから……これから、よろしくな」
「私の方こそ、よろしくね」
そういうと、彼女は満面の笑みで俺に抱きついてきた。左肩から聞こえる水音には、気付かないふりをした。
退院してから俺はできる限りのことをしようと決めた。具体的には、腕の筋肉を鍛えてできるだけ自分のできることを増やしたり、あとは勉強だ。足が使えなくなってしまった今、働くことを考えると頭を使うしかない。俺は必死になって勉強した。
また、高校は通信制の高校に通うことにした。家から出なくて良いため、移動する手間が省けるからだ。そして、彼女が朝から介護ができるようにと、家を空けがちだった両親が彼女の家に俺を居候させることに決まった。小学生の時から家族ぐるみでの付き合いがあったので、すんなりと決まった。
彼女の介護は、筋トレの成果もあり安定性が抜群だった。俺もできるだけ自分の腕で移動するようにしているので、ほとんど不便なく日常生活を送ることができた。
通信制の高校に通いながら、できるだけ動かなくても良い仕事に着くために、プログラミングの勉強を始めた。プログラミングなら、家にいながらでも仕事をすることができる。彼女のことを思うと、これくらいの勉強は全く苦にならなかった。
高校卒業と同時に起業した会社が軌道に乗り、そこそこの収入を得ることができた時、俺は彼女は彼女に告白した。あの時以来、彼女は俺に泣き顔を見せることがなくなった。告白した時も、泣きそうになったら俺に抱きついて顔を隠そうとした。なんだか申し訳ないことを言ってしまった。
彼女が大学を卒業する時、俺はプロポーズすると決めていた。
「卒業おめでとう」
「ありがとう」
俺と彼女は今、少し奮発して、高めのレストランに来ている。仕事の調子がいいおかげだ。
これから俺がすることにおおよその見当がついているのか、彼女は少し緊張していた。
「なあ」
「な、なに?」
「俺と、結婚してくれ」
「っ……!!」
「嫌か?」
「そ、そんなわけない! ありがとう……」
彼女の目が潤む。
俺が車椅子に移動しようとすると、彼女がすぐに立ち上がって近づいてきてくれる。
彼女が俺を車椅子に移動させようと、手を脇の下に入れてきた時、俺は彼女を抱き寄せてキスをした。
「ーーーー!!」
顔を離すと、彼女が目を見開いてこちらを見ている。目の端から涙がこぼれそうになると、顔をばっと横にそらした。
「泣いてる顔、隠さないで」
「で、でも、あなたは私の泣いている顔が嫌いだから」
「そりゃあ泣いてる顔は嫌いだよ。でも、俺の見てないところで泣いてる方がもっと嫌だ。だから、お前が泣いてるところは全部俺に見せてくれ」
俺は、彼女の頬に手を当てて、俺の方を見るように顔を向けさせる。
今度は、どちらからともなくキスをした。
彼女の指に指輪をはめると、彼女はまた泣き出した。
けれど、泣いている目は今度はしっかりと俺のことを捉えていた。
彼女がいなければ、俺は生きていけない。
俺は笑いながら、彼女の涙を拭った。