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愛しのキュートアグレッション

作者: 藤崎珠里

 可愛いものは食べたくなる。一種のキュートアグレッション――『可愛いものへの攻撃性』なるものなのだろうけど。


 だからといって、それは私が杏汰(きょうた)先輩の手に唐突に噛みついてしまった言い訳になんてなりやしない。


 一応甘噛みだったから痛くはなかっただろうけど、問題がそこじゃないことくらい私にもわかる。

 怯えた子犬のような顔で硬直している先輩は、たぶん我に返ったら尻尾を巻いて逃げ出すだろう。せっかく懐いてくれていたというのに、またびくびく怯えられる日々に逆戻りだ。

 ……どうしよう、どうしたらいい?


「先輩」


 考えがまとまるより先に、つい先輩のことを呼んでしまった。零れた声はアルトという表現も相応しくないような低さで、たとえば電話越しなんかで聞けば大抵の人は男の声と間違えるだろう。

 私が、嫌いな声。


「すみません」

「え、あ、おー……おあ?」


 母音しか話せなくなってる……。

 わたしはもう一度「すみませんでした」としっかりと頭を下げた。そのまま、杏汰先輩が正気に戻るまで待つ。

 たっぷり数十秒が経ってから、先輩は再び口を開いた。開いた、どころの話ではなく、「えっ待って何今の何、え? 今噛んだ? 噛んだ!? 手を!? 待って!? なんで僕の手噛んだ!?」と騒ぎ始める。声が男性にしては甲高いこともあり、パニックになった子犬のようでとても可愛い。


「なんで、と言われると……難しいんですが……」

「な、なんか僕やなことしちゃった? 怒ってる……?」

「怒ってません。とりあえず顔上げてもいいですか?」

「許可出すまで顔上げないとかやめてよ……いいに決まってるじゃん……」


 おそるおそる顔を上げれば、先輩とばちりと目が合った。合わせた、というほうが正しいか。

 そうすると、みるみるうちに先輩の顔が赤くなっていった。ようやく『手を噛まれた』という事実が頭に染み込んだらしい。


「……ま、松賀(まつが)サン」


 何度もお願いして下の名前を呼び捨てしてくれるようになっていたというのに、初期の呼び方に逆戻りしてしまった。しかもカタコト。


「詳しい、説明を、求めます」


 逃げずに話を聞く姿勢を取ってくれたことにほっとする。この様子だと、まだ嫌われていないようだ。たぶん。……自信なくなってきた。

 人一倍人見知りが激しい先輩の心を開くまでに一年以上かかっているので、それがなかったことになっていなければいいな、と願う。


「……今さっきまで、私たちは二人で談笑していました」

「あ、そこから? そうだね、前提の共有は大事だよね……。でも茉央(まお)は笑ってなかったよ」

「そうでしたか?」


 ちゃんと名前を呼んでくれたことにまた安堵しながら、首を傾げる。

 私はどうにも表情筋が硬いようで、ちゃんと笑っているつもりでも笑えていないことが多々ある。


「とにかく、楽しいひと時を過ごしていました」

「まあ、うん。楽しんでくれてたなら嬉しいけど……」

「そしたら先輩が、部活をぶかちゅと盛大に噛んで」

「そこまで今関係あるの??」

「恥ずかしそうにしながら、なかったことにしようとそのまま話し続けるのがとても可愛かったので」

「なかったことにしてよ……」

「先輩の手を噛みました」

「なんで?」


 目をまんまるにして首を傾げるのが可愛い。


「いや……茉央から可愛いって言われるのには慣れてきたけど……なんで噛む……?」

「可愛いものは食べたくなっちゃうので……」

「怖くない!? え、今まで僕に可愛いって言ってきたときはいっつも僕のこと食べたかったってこと……?」

「いや、さすがにそこまでは」


 そうだよね、と胸を撫で下ろす先輩には申し訳ないが、事実を伝える。


「ここ数ヶ月ほどはそうでしたが、それまでは特には」

「数ヶ月」

「ごめんなさい」


 また頭を下げると、すぐさま「お願いだから顔上げて」と懇願された。おとなしく従う。

 今度は目を合わせずに、先輩の右手に視線を向けた。


「……痛かったですか、手」

「いや、痛くはなかった、けど。歯形も残ってないし。……でも歯より先に当たるものがあるでしょ。そっちのほうが僕的には問題なんだよ」

「はあ。あ、今のは相槌で、別に歯とはあをかけたわけじゃ」

「わかってる」


 呆れ果てた表情で、先輩は私の言葉を遮った。そして逡巡するように視線を揺らし、上目遣いでこちらを窺ってくる。


「……変なこと訊くんだけどさ」

「はい」

「………………茉央って僕のこと好きなの?」

「……?」


 たっぷりの間の後に投げられた問いに、首を傾げる。――茉央って僕のこと好きなの?


「一分待ってください。十秒前になったらカウントお願いします」

「んえ!? わ、わかった?」


 目を白黒させながらもうなずいて、先輩は腕時計に視線を落とした。きっちり一分計ってくれるらしい。

 その間に、頭の中を整理する。


 好き。先輩が、好き。

 ――当たり前だ。可愛いものは好きだ。私は可愛くないから、可愛いものは昔から好きだった。


 先輩は私よりも小さい。先輩が特別小さいわけではなく、私の背が高いだけだ。175センチもあれば、女子はおろか男子ですら私よりも背が低い子が多い。

 先輩の髪の毛は、私よりもさらさらだ。先輩の目は、私よりも大きくてくりっとしている。先輩の肌は、私よりも白くてニキビもない。……先輩の手は、私よりも綺麗。


 先輩は別に、女の子みたいに可愛い、というわけじゃない。もっと可愛い男の子なんていくらでもいるだろうし、もっと小さい男の子だっている。

 だけど、一目で『可愛い』と思った。廊下ですれ違ってすぐに話しかけてしまうくらいには可愛いと思った。……そのときはすぐにぴゃっと逃げられてしまったけど。


 時間をかけて、名前を聞いて、名前を覚えてもらって。

 それからちょっとずつ話すようになった。移動教室のすれ違い際だから、毎回ほんの少しの時間だったけど。

 部活の聞き出しに成功したときには、すぐに入部届をもらった。元々私は女バレに入っていたけど、うちの学校は兼部も許されている。女バレの週一のオフがちょうど先輩の部活――部員がほとんどいない書道部と被っていたのも好都合だった。


 週に一回の書道部での時間を、私は大切にしていた。先輩と二人きりになれることも多くて、可愛い先輩を存分に、かつこっそりと眺めるのが楽しかった。

 目を合わせてくれることも少なかった先輩は、今では笑顔を見せてくれるまでになった。少しずつ少しずつ、心を開いてくれるのが何よりも嬉しかった。


「……十、九、八、」

「……こういうことを好きだと言うのなら、確かに好きなのかもしれません」


 一分じゃ結論は出なかったけど、これ以上先輩をお待たせするのも申し訳ない。

 秒数をカウントしていた先輩の口が一度止まって、それからはくはくと声なしに動く。何かを言いたいのかな、と少し待てば、先輩はつっかえながらもしっかりと声を出した。


「ど、どういうことを?」

「まず、私は先輩のことをとても可愛いと思っています」

「……それは、知ってる……」


 可愛い、と言うたびに羽虫でも見るかのような反応をされていたのが、今ではこれだ。思わずドヤ顔をしそうになってしまったが、大事な話をしている最中なので我慢する。


「先輩とちょっとずつ仲良くなれるのが嬉しかったし、いつもびくびくしている先輩が私の前だとリラックスして笑ってくれるのも、嬉しいです」

「……うん」

「すれ違うときにお話しするのも好きですけど、こうやって週に一回部室でゆっくりとお話しできるのが楽しみです。先輩とお話しする時間を大切にしたいと思っていますし、大切にしています」

「……そう」

「はい。あと、誰かを食べたくなるくらい可愛いと思うのも初めてなので……」

「いやそこに関しては怖いよ、なんで今の流れでそうなるの」

「なんでと言われても、可愛いものは食べたくなっちゃうので、としか」

 

 そこに更なる理由を求められると困ってしまう。そういう種類の人間もいるのだ、ということで納得してほしかった。


「……それで、まあ、そういう感じなんですが」


 じっ、と先輩の顔を見つめる。


「私は、先輩のことが好きだと思いますか?」

「違うと思う」


 即答だった。迷いなく言い切られた。そんな自信満々に言うならそうなんだろうな、と思えるくらいに迷いなく。


 ――そっか、違うんだ。


 安心したような、残念なような、よくわからない気持ちで「ならそうですね」とうなずく。

 先輩がここで嘘をつく理由もないし、客観的に見て違うと言い切れるのなら、私は別にそういう意味で先輩のことが好きなわけではないのだろう。

 それで話は終わりかと思いきや、先輩はなぜか「えっ」と顔を引きつらせた。


「どうしました?」

「い、いや、あー、んん、えーっと……違う、のかな?」

「先輩がそう言うならそうなんじゃないですか?」

「なんでそこを僕任せにするの。普通は自分で判断するとこでしょ!?」

「はあ。でも、よくわからないので。どっちでもいいですし」

「どっちでもいい!?」


 愕然と叫ぶ先輩の心情がまったくわからない。早く次の話に移るか、休憩をやめて筆を持つ先輩を眺めるかしたいのに。

 ……いや、一応私も、眺めるだけじゃなくて自分の練習するけど。真面目に活動しない後輩を、この先輩はそれはもう冷たい目で見るのだ。


「どっちでもは……よくないんじゃないかな……」

「そうですか? でも私的に、違うと言われたらまあそうなのかな、って感じなので」

「茉央は好きじゃないやつのこと噛むの!?」

「好きじゃないわけないじゃないですか。でも別に、そういう好きじゃなくても可愛ければ食べたくなるので。人間を食べたくなったのは先輩が初めてですけど」

「もうわけわかんない……」


 わけがわからないのはこっちだ。


「……なんなんですか、どっちがいいんですか? 先輩の都合がいいほうにしてください」

「そ、んなふうにさ、決めることじゃないでしょ」

「そんなふうに決めたいことなんですよ。それで、どっちですか?」


 都合のいいほうを答えにするのは簡単なことなのに、さっきは即答したのに、それなのに、なぜか先輩はためらう。何を考えているんだろう。

 難しい表情で黙り込む先輩も可愛いので、返事は急かさずに待った。


「……僕は」


 しばらくして先輩は、ぽつりと口を開ける。


「やっぱり、茉央は僕のこと好きじゃないと思うよ。そっちのほうがいいなって思う――それでいい?」


 縋るものを探すような、どこか必死な顔だった。……やっぱり、よくわからない。

 微笑みでも返せれば先輩も何か安心してくれるかもしれないが、あいにく作り笑顔は苦手だ。普通の笑顔ですら苦手なのだから。


「もちろんです」


 だから私ができることと言えば、大きくしっかりとうなずいてみせることだけだった。



     * * *



 それからというものの、先輩はあからさまに私を避けるようになった。すれ違うときに声をかけても「うん、またね……」とそっぽを向いた状態で足早に去ってしまうし、部活でも一切視線が合わない。

 時期的に間違いなくあのやりとりをした後からなので、そこに問題があったことはわかる。でも何が問題なのかまったくわからなかった。


 だって先輩が、こっちのほうがいいって言ったのに。


 なのに、何が悪かったんだろう。「別に茉央が謝ることじゃないでしょ」と謝罪すら受け取ってもらえないものだから、ほとほと困っていた。

 出会った最初の頃のほうが言葉は交わしてくれなかったけど、今よりはまだ視線を合わせてくれた。とはいっても、本当に『今よりはまだ』レベルで、当時だって目が合うだけで喜んでしまうくらいだった。それを下回るというのはかなり問題だ。

 ……ここまでされると、正直、寂しい。



「先輩、私のこと嫌いになりましたか?」


 二人きりになるのを待ってはいられなかったので、他にも部員が活動している部活中に尋ねてみた。

 びくん、と肩を揺らして、先輩が私を見上げる。先輩が筆を置いたのを見計らって声をかけたのだが、そうして正解だった。そうじゃなかったら書いている字がひどいことになっただろう。

 そしてはっと目を伏せる先輩。急に話しかけられたから反射的に視線を合わせてしまったけど、合わせるつもりはなかったらしい。……さみしい。


「……今ここでするような話?」

「じゃあどこでしてくれるんですか」

「面と向かってするような話でもない気がする」

「未読スルーされる気がするので」

「そんなことしな……」


 い、とは言い切らなかった。自分でもやりかねないと思ったのか、ばつが悪そうに言葉を呑み込む。

 そんな私たちに気を遣ったのだろう、部室にいた他の部員二人が連れ立って外に出ていった。ファイト、となぜかひらひら手を振ってくれたので、私も振り返した。ありがとう、斎藤くんと田中さん。


「これで二人きりになりました」

「あの二人……!!」

「他に何か問題がありますか?」


 ドアのほうを睨みつける先輩に問えば、口がへの字に曲がる。子供っぽくも見えるその口は可愛くて、時折わざとこういう顔をさせてしまったりもする。……今は意図的じゃないけど。


「杏汰先輩。お話ししましょう」

「……何を」

「まずはさっきの質問についてです。イエスですか、はいですか」

「なんで一択しかないの」

「だってそうとしか思えないので」

「……それでなんでそんな平気そうな顔してるの」

「平気そうな顔してますか? これでもすごく困ってますし、寂しいですし、悲しんでますけど……」


 自分の頬をむにむにとさわってみる。

 ……というか先輩の今の言い方だと、『先輩に嫌われているにちがいない』という状況をもっと悲しんでほしかったみたいだ。事実そうなのだろうけど、理由がわからない。

 誰かが悲しむことを喜ぶようなひとではないし、たとえ嫌いな相手に対してでもわざと傷つけるようなことはしないひとだ。と、思う。先輩に嫌いな人がいるのかは知らないけど。


 私の答えに、先輩はぎょっと目を見開いた。


「悲しんでるの……!?」

「当然じゃないですか。好きな人に嫌われたら誰だって悲しいですよね?」

「き、嫌いじゃないから!」


 嫌いじゃないよ、ともう一度、念を押すように先輩は言った。それでもまだ、視線は合わないまま。


「でも最近、私のこと避けてましたよね」

「それは…………ん、んん、ごめん……。ちょ……っと……あの」


 うろうろと視線をさまよわせて、大分間が多い喋り方で何かを言おうとする。一応語る気にはなってくれた、のだろうか。


 先輩の言葉を待ちながら、最初の頃はこういう喋り方だったな、と思い返す。

 じっと待てば何かしらは言ってくれるから、こうやって待つ時間も好きだった。もちろん、今も。……いや、今は違うかもしれない。


 嫌いじゃないとは言ってくれた。

 だけどそれが咄嗟のごまかしだったら? 私を傷つけないための嘘だったら?

 そんな可能性を否定できないから、こわい。


「……僕、は……」

「はい」


 相変わらず、先輩の視線は私じゃないものにばかり向けられている。


「……茉央のこと、後輩だけど……な、仲がいい……かもしれない、友達……かもしれない、と思ってて」

「かも?」

「……茉央がどう思ってるかはわかんないから……」


 言われてみてから考える。

 仲がいい。これは当てはまるはずだ。関わりのある人全員の中で、先輩のことを考えている時間が一番長い。それに、一緒にいて楽しい。

 友達。これは……ぴんとはこない。先輩と後輩って、友達になってもいいんだろうか。いや、いいんだろうけど、やっぱりちょっとぴんとこない。


「仲はとてもいいと思います」


 ぱっ、と先輩の表情が明るくなる。


「でも友達ではないかな、と」


 しゅん、と落ち込む先輩。可愛い。……こういうのもキュートアグレッションなんだろうな。

 嫌われたくないと思うのなら、こんなことやめたほうがいいとはわかっている。好きな人には優しくしたほうがいいに決まってる。だけど可愛い先輩が見たくて、わざと意地悪をしてしまう。好きな子をいじめる小学生男子、とはまた少し違うけど、似たようなものだ。


 また噛みたくならないように、私も先輩から視線を逸らす。そして再びちょっと考えてから、そうっと付け足した。


「……先輩が友達だと思ってくれるなら、私も友達だと思えると思います」

「思えないよ」


 割と勇気のいる発言だったのに、すげなくはっきりと拒絶されてしまった。

 ショックを受ける私に気づいているのかいないのか、先輩は先ほどとは打って変わった淡々とした口調で話し始める。


「今言ったけど、僕は茉央のこと仲のいい友達みたいに思ってた。茉央と一緒にいるのは楽で、僕だって話してて楽しかった。これからも仲良くできたらいいなって、ずっと友達みたいでいられたらいいなって、思ってたんだ」

「それって、今はもう思ってないってことですか」

「……思えなくなった、ってことだよ」


 重苦しい声に、おそるおそる先輩のほうへ視線を戻す。――なぜかその顔には赤が滲んでいて、想像と違う顔色に、あれ、と戸惑った。


「だ、だっておまえが、どう考えたって僕のこと好きだから! あんなことまでされて、友達のままいられるわけないじゃん!」


 まるで貞操でも奪われたような口ぶりだが、私はただ手をちょっと甘噛みしただけだ。いや、それもまあ、相当アレだけど。


 ところで、先輩は人のことを「おまえ」と呼ぶこともあるんだな、と初めて知った。こんな場面でなければ、気の置けない相手認定を受けたのかもしれないと嬉しくなっただろう。

 でもこれは。……これってつまり、どういうこと?

 ぽかんとしながら、続く言葉に耳を傾けていく。


「おまえが僕のこと、すっ……好きだとか、思ったら、全然顔見れないし! なのになんでおまえは変わらないの!? なんで僕に、僕のこと好きじゃないって言われただけで納得できるの!? どう考えたって僕のこと好きでしょ!?」

「はあ……」

「はあじゃない! 僕だけこんなふうになって、おまえはいつもどおりで、なんなの……。こっちはおまえのこと、別に好きじゃないけど、いや、好きだけどそういうのじゃなくて、そういうふうに見たことなくて、」


 先輩の顔はもう、はっきりと赤くなっていた。真っ赤だ。こういうとき、『トマトのように赤い』とかたとえるのが一般的なんだろうけど、もっと可愛いものがいい。なんだろう。さくらんぼかな。

 なんだかもう、どうしようもないくらい胸がきゅぅ、となって、可愛いなぁと思って、私はまた先輩の手を取ってしまった。


「あっ、何するの!?」


 ぐぐぐーっと引かれる手を、ぐぐぐーっと引っ張り返して。そしてその手の甲にかぷりと噛みつ――こうとして、歯を立てるのはかろうじて我慢する。ただ手の甲にキスしただけみたいになってしまった。これはこれでこっちのほうがまずい気がする。

 その状態で視線を上げれば、限界以上に赤くなった先輩が涙目で口をぱくぱくしていた。


「……つまり、先輩は」


 先輩の手から口を離して、だけど手は握ったまま問いかける。


「私を嫌いになったわけじゃなくて、単に恥ずかしかっただけですか? わたしのことを意識しちゃって照れてただけですか?」

「ちがう!!」

「ほんとに? 本当に違いますか?」


 首を傾げてじっと見つめれば、先輩は言葉に詰まった。それが答えのようなものだとは自分でもわかったのだろう、ついにその目からぽろっと涙が落ちた。泣かせるつもりはなかったので、私は慌てて先輩の手を放した。


「すみません、やりすぎました」

「こっち見ないで」

「はい」


 両手で顔を隠す先輩に、ぐるりと背を向ける。これくらい大げさにやったほうが先輩も安心するだろう。


「……僕は別に、茉央のこと恋愛的な意味で好きじゃないし」

「はい」

「友達にはもう戻れないけど、でも話せなくなるのは、さみしいし」

「私も寂しいです」

「…………なんで、僕みたいなの好きになっちゃうんだよ」

「私は別に先輩のこと好きでも好きじゃなくてもどっちでもいいので、答えにくいです」

「どう考えても好きじゃん」

「先輩の都合がいいほうでよかったんですよ、本当に」


 結局、私はどうすればいいんだろう。ただの後輩として振る舞っても、先輩がこんなじゃ意味がない。


「……茉央」


 長い沈黙の後、何かを諦めたように先輩は私の名前を呼んだ。


「僕が茉央のこと好きになれるように、頑張って」


 そうくるか、という気持ちと、なるほど、という気持ちが混ざった。そんな提案をしてくるなんて予想外だったけど、確かにそれは、この膠着状態の一番の解決策なのかもしれない。


「わかりました。頑張ります」

「えっ、いや、あっさりしすぎてない? どう頑張るの?」

「それはわかりませんけど……先輩、もうそっち見てもいいですか?」

「……いいよ」


 不本意そうではあったが、許可はもらった。体を反転させて、先輩を見る。やっぱり視線は合わなかった。

 優しく、また先輩の手を取る。熱い。びくりと肩を震わせた先輩は、それでも今度は手を引こうとはしない。

 そして私はその甲に、今度はそっと唇だけを押しつけた。完全にただのキスだ。


「……こんなことをしても嫌われないみたいなので、気長にやっていけばなんとかなりそうな気がして」

「僕のことちょろいって言ってる!?」

「……いえ、そんなことは」

「嘘でしょ絶対!! 目見て言える!?」

「言えますよ」


 もう目を見てもいいのか。意外に思いながら先輩と目を合わせる――その瞬間、勢いよく先輩が顔を背けた。ようやく赤みが引いていたのに、一気に耳まで染まっている。


「……先輩」

「言わないで」

「可愛いですね」

「なんも言わないでって言ったじゃん!!」


 何もとは言われてない。何を、とも。

 けれどそんな言い訳を口にしたらもっと怒らせてしまうのは明らかなので、私は粛々と「すみません」と謝った。


「っていうかずるいでしょ……」

「もう目を合わせても大丈夫になったのかと思って」

「そこじゃなくて! 久しぶりに顔まともに見るってタイミングであんな顔されたら、どうすればいいのかわかんなくなるじゃん!」

「……はあ」


 あんな顔、とは。いつもどおりのつもりだったのだが。


「変な顔してましたか?」

「……変だったよ。めちゃくちゃ変」

「なるほど。先輩がそういうふうになっちゃう変な顔って、もしかして先輩への好意がだだ漏れだったとかそういう感じですか」


 返事はなかった。代わりに手を思い切り振り払われた。わかりやすくて可愛い。

 でもつまり、先輩はそんな私の顔にときめいてくれたということだろうか。……私なんかの顔に? よくわからないけど、もしかして先輩って本当にちょろいんじゃないか。


「先輩、私頑張りますね」

「いややっぱりそんな頑張らなくていいよむしろ頑張らないで」

「先輩って、思ってたより私のこと好きなんですね」

「なんでそうなるの!?」

「理由、言ってもいいんですか?」


 うぐっ、と顔をしかめる先輩に、つい笑ってしまう。ちゃんと笑えているかはわからないけど。


「とりあえず、改めて言ったほうがいいですか?」

「……何を」

「先輩のことが好きですって」

「もう言ってるじゃんそれ……」

「そうですけど、ちゃんと言うのと今みたいな流れで言うのとは違いませんか?」

「ちがわない。もういい」

「好きです」

「もういいって言った!」

「あはは、ごめんなさい」


 さすがにこれ以上からかったら本気で怒られそうだ。大人しく謝って引き下がろうとすると、先輩がちらりとこっちを見て、なぜかうなだれる。


「だから、そういう顔……」

「今わざわざ見てきたのは先輩ですよ」

「そうだけど!」


 むっすりとしてしまった先輩は、たぶん照れているだけだ。可愛い。もっと困らせたくなってしまうし、食べたくなってしまう。

 だけど我慢、と自分に言い聞かせて、私は立ち上がった。


「話し合いは終わりましたし、あの二人呼び戻してきますね。一応まだ部活中ですし」

「……声かけにいかなくても、頃合い見て帰ってくるんじゃない? どこにいるのかもわかんないし、ここで待ってたほうがいいんじゃないかな」

「華道部でお菓子でももらってるんじゃないですか? いそうなところだけざっと見てきますから、先輩はここで待っててください」


 さらに先輩の口がへの字に曲がる。どうやら何かがお気に召さないらしい。流れからして、私に行ってほしくないみたいだけどなぜだろう。……私と二人きりの時間を、どういう意味にしろ気に入ってくれているのだと自惚れてもいいんだろうか。

 でもさすがの私も、それを直接訊く勇気はない。


「一人になるのが寂しいんですか?」

「……違うよ」

「じゃあ、なんでですか」

「別に、ただ思ったこと言っただけだよ」


 答えてくれないなら、勝手に自惚れてしまおう。


「本当に可愛いですね」

「何が!? っていうかもう噛まないでね!?」


 両手を背中の後ろにばっと隠す仕草すら可愛い。「噛みませんよ」と答えても、信じていないのが丸わかりな目でじとっと見つめてくる。かと思えば、また顔を背けて大きなため息をついた。


「行くなら行きなよ」

「いえ、ここで先輩と待つことにします。お喋りしますか? 作品書きますか?」


 ちょっと迷った後、先輩は「書く」と再び筆を手に取った。それなら私も臨書の練習の続きをしよう。そう手に取った筆の先は少し固まっていて、きっと先輩の筆も固まってしまっているだろうな、と思った。

 ……もともと長話するつもりだったんだから、先に筆の手入れをしてもらってからのほうがよかったかも。そうしたらまだ私とお喋りしてくれていたかもしれない。

 そんなことを考えながら、私は整えた筆先を紙に載せた。


 そこからはただ静かに筆を動かす時間が続いた。戻ってきた斎藤くんと田中さんに、「ついに付き合った!? それともまだ!?」とキラキラした目で訊かれるまで。

 ついに、って何だろう。そもそも二人は、私の「私のこと嫌いになりましたか」って言葉を聞いてたはずなのに。その流れからそうはならなくないか。

 けれど私が首を振るより先に、先輩が慌てて口を開いた。


「まだだよ!!」


 ()()。……まあ、言葉の綾みたいなものかな。まだ? と訊かれたからそのまま返しただけだろう。

 そう納得したというのに、先輩が「あっ、ちが、ちがくて、あの、」と真っ赤な顔でしどろもどろになったものだから、真意がわからなくなってしまったのだった。先輩が可愛いということしかわからなくて、ちょっと困った。





 そして、一週間後。

 先輩は「絶対ちょろいって言わないでね……」と前置きして私に告白してきた。

 さすがに早すぎませんか? という言葉は呑み込んだけど、我慢できずに唇に噛みついたら悲鳴を上げて逃げられてしまった。……とても反省した。






     * * *


 ファイト、と手を振って、斎藤と田中は部室を出た。


「どうなるかなーって心配してたけど、茉央ちゃんも柏木(かしわぎ)先輩もやっと仲直りしそうだねぇ」

「喧嘩してたわけでもないと思うけどな、あれ」

「まあね。でも斎藤も安心したでしょ?」

「した。あと俺、戻ったら二人が付き合うことになってるに五百円」

「え~っ、こーゆうので賭けするとかクズじゃん。てかあたしも気持ち的にはそっちに賭けたいけどなー、あの二人じゃ無理そうじゃね? ってわけで、あたしはまだ付き合ってないに百円」

「おまえも賭けてんじゃん、っていうかやっす」

「いや五百円も百円もそんな変わんないわ。まあそう言うならあたしも五百円でいーよ」


「ところで思ったんだけどさ、付き合う前からアレなのに、付き合ったらどうなるんだ?」

「……どうなるか全然わかんなくて面白すぎるんだけど。え、やば。さらにらぶらぶになる未来も逆によそよそしくなる未来も、今のまま継続の未来も全部見える。これはまた賭けるっきゃないでしょ」

「今度はそっちから言い出すのかよ。じゃあさらに仲良くなるほうに五百円」

「う~んじゃあよそよそしくなるほうに五百円!」


※二人が付き合い始めた直後は斎藤が(杏汰が茉央から逃げまくったため)、その一週間後には田中が(二人が無自覚にいちゃいちゃし始めたため)五百円を払うことになるも、最終的には部室で千円分のコンビニ菓子パーティーをした。

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