正義との付き合い方
「二人共、昨晩はよく眠れたようで」
妹を叩き起こして外へ出た所、全くもって苛立った様子の無い薬子が無愛想にそう言った。
「は…………は?」
「いえ、家の前で待機したにも拘らず一時間の遅れが生じたものですから。さぞやぐっすり眠れたのだろうと……ノンレム睡眠の時に目覚めたのでしょうか、まだ目を擦ってますね」
「……すまん。普通に寝てた」
幸か不幸かあの変な夢を見たからこそこの程度で済んだともいえる。その証拠に、瑠羽はまだ目を擦っていた。そう早い時間に待ち合わせた訳ではないし、誰よりも薬子とのデートもといお出かけを楽しみにしていた瑠羽がこんな風になるのはいささか不自然……気にし過ぎだろうか。
まあ気にしすぎか。あの変な夢のせいだ。何が過去と向き合えだ阿呆らしい。俺は漫画の主人公みたいに乗り越えるべき過去なんてない。昔あったのは過ち、そして忘れたくても忘れられない苦い記憶だけ。
あんなのと向き合っても仕方ない。綾子とはもう絶交してしまったし、俺の親友は…………間違っても生きていないのだから。
「怒ってるか?」
「怒っている? 何故? 一時間の遅刻でどうして怒らなければいけないのでしょうか」
「……むにゅう」
「瑠羽いい加減起きろ。日光浴びてんだろ」
「眠い……めちゃねむ」
「お前の大好きな薬子の目の前だぞ。いやマジで起きろ、寝ぼけ眼で町中歩くのは色々危ないから」
瑠羽と来たら今朝はどうしたのだろう。大袈裟な言い方をすれば意識が混濁している。あまり気は進まなかったが指先三本で軽く頬を叩くと、ようやく彼女の意識が少しだけ戻った。
「あれっ」
「あれ、じゃねえよ。これからデートなのにボーっとするなよな」
「あ、ごめん。お兄は眠くないの?」
「眠くねえよ、だから着替えられたんだろ」
瑠羽の着替えを手伝うのは心底面倒だった。妹の裸なんぞ見慣れているが、ガン見するのはおかしいし、かといって全く手伝わないと妹の着替えは絶望的だ。寝ぼけ眼というより催眠にかかっているかのような危うさは見ていられなかった。
実際、声を掛けて指示すれば素直に従ったので、催眠状態というのもあながち間違いではないのかもしれない。
「あなた方が一時間も遅刻した理由は把握出来ています。そして、それは不可抗力です。拳銃を持った男に脅されて犯罪を犯してしまう様なもの。怒れるものですか」
「単なる寝坊ごときに大袈裟なやっちゃな」
「あなた方は夢の深みに押し込まれていたのです―――七凪雫の力によって」
その発言に、今度ばかりは俺も耳を疑った。瑠羽に至っては訳が分からないだろう。行方知れずの死刑囚がどうして自分を狙うのか、と。それは俺にも分からない。傍に死刑囚を置いても尚、理解しきれない。
「し、死刑囚が何で! わ、私出会ってませんよッ」
「そもそも何で分かるんだよ。雫の仕業だって」
「匂いですよ。向坂君には散々説明したと思いますが」
血の匂いだの鉄の匂いだの言われすぎてどっちがどっちなのか忘れてしまったが、そう言えばそんな話を受けた気もする。一緒に暮らしている以上雫の匂いが付いていても不思議ではなく気にも留めていなかったが、瑠羽にまで匂いがついているなら話は変わってくる。
「私が家の前に居たから手を出せなかったのでしょうか。いずれにしても、怒る理由はありません。きちんと来てくれただけでも感謝しています」
妙な話に話題が逸れたせいですっかり言及しそびれたが、此度の薬子は家での軽装とも学生服とも違う、肩出しの白いブラウスにデニムの短パンというあまりにも可愛らしい格好をしていた。勝負服とは言うまいが、普段の薬子を知るだけに俺は暫く目がおかしくなったのかと疑ってしまった。
「……似合ってるな」
「え?」
口を吐いて出た感想に薬子が目を丸くする。遅れて服装を見た瑠羽が顔の前で手を合わせた。
「わあ、薬子さん可愛いです!」
「…………そうですか?」
雫のせい(と言ったら本人が怒りそうだが)で不穏な空気の漂ったデートは一転して和やかな雰囲気を取り戻した。いつもは気だるげな瑠羽が、眠気を取り除かれたら中々のハイテンションだ。非常に微妙な変化だが長年兄妹をやっている俺にはハッキリと分かる。
ワクワクしている、と。
「お兄もそう思うよね」
「ああ。似合ってる……可愛い……可愛い? うん……可愛いな」
「歯切れ悪いよッ。お兄は可愛いって思わないのッ?」
「うるせえ。あんまり意識すると恥ずかしくなるんだよ」
素直に可愛いという感想が出たとしよう。それは感情のままに出た純粋な感想であり他意はない。しかし改めてそれを言わせてしまうと、そこには他の感情が混ざる余地がある。
俺の場合、『好意があると勘違いされるのではないか』『気持ち悪く思われるのではないか』『お世辞だと思われているのではないか』等のネガティブな感情が混ざる。何より何回も人を褒めるのは単純に恥ずかしい。
ええいうるさい、鳳介や綾子を除けば俺を肯定してくれた人物など妹くらいしか居なかったのだ。最早虚言癖と断ぜられる前から両親には怒られていた記憶しかない。
「大体似合ってるって言ったからもういいだろっ。なあ薬子!」
「え、私ですか?」
まさか話を振られるとは考えていなかったらしい。その上体が僅かに仰け反った。
「私は別に、どうという話でもないと言いますか」
「でも可愛いって言われたら嬉しいですよねッ」
「それはまあ、はい。人並には」
「ほらお兄! やっぱりきちんと言葉にするのが大切なんだよッ。もう一回行こ、もう一回」
「やだよ恥ずかしい。大体薬子が可愛いなんて俺が言うまでも無く周知の事実なんだから今更感溢れてるんだよ」
「でも可愛いでしょ?」
「さっきまで寝ぼけてた奴とは思えないくらいテンション高いなお前ッ。いやな、確かに可愛いぞ、可愛いけどな、そんなの一番アイツが分かってるんだよ。だって鏡見れば一発だ。言うまでもないんだよ可愛いなんて」
「…………向坂君ッ!」
デートが始まるよりも早く始まった世界一どうでもいい口論を終結させたのは他ならぬ薬子だった。
しかし何故俺を名指し。発端は妹だぞ。
「……その。流石にそこまで連呼されると恥ずかしい、です。どうかそれ以上は辞めていただけると助かります」
「……え。あッ、いや……違う。今のはその……」
薬子は両手をポケットに突っ込んで俯いていた。どちらかと言えば無愛想な彼女にしては珍しくも分かりやすい反応だ。恐らく照れを通り越して恥ずかしがっている。顔を見せようとしないのはイメージダウンを防ぐ為か。
「…………分かった。やめる。すまん。妹に嵌められた」
「えーなんで私? 元はと言えばお兄が可愛いって―――」
「それはもうええっちゅうねん!」
妹の頭を鷲掴み、ぐわんと大きく揺さぶる。家の前で阿呆なコントしてないで、さっさと出発したいのだ俺は。
「気を取り直して行きましょう。場所はどうか私に一任させてください。面白いかどうかはわかりませんが、少なからず衝撃的な体験を約束しましょう」
「「衝撃的な体験?」」
そんな体験が出来る場所は物凄く混んでいそうだ。深夜から待機するガチ勢も居るかもしれない。そう考えると今から気が滅入って仕方がない。行列は嫌いだ。前を向いているにも拘らず、彼女はまるで俺の心を読んだかのように補足した。
「飽くまでツテを辿っただけですから、行列が立ち並ぶという事は万が一にもありません。そこは安心してください」
「……お前、なんか察しが良いって言われないか?」
「向坂君の事はお見通しですよ。分かりやすいですから」
怖い怖い怖い。
俺は瑠羽に耳打ちする様に尋ねた。
「俺ってそんなに分かりやすいか?」
「うん、分かりやすいと思う。お兄恋人が出来てからいつも気分良さそうだし」
…………否定出来ねえ。
女性の柔らかさも、人間の優しさも、自尊心を支えてくれる献身も、全ては彼女が与えてくれたもの。気分良さげなのも致し方あるまい。死刑囚が恋人になって、しかもどんなお願いでも聞いてくれるなんて二度とは味わえない奇跡なのだから。




