知識と未来の造物主
音のする方向は浴室だろう。扉の前に立って耳を澄ませると、シャワーの流れる音だけが響いている。本当に薬子は中に居るのだろうか。
「覗くつもり?」
「えッ」
背徳のリスクに驚いて振り返ると、深春先輩が軽蔑の目を向けながら浴室の前に陣取った。
「幾ら同級生だからって、そういうのは良くないと思うわ。幾ら口説かれたからって」
「ち、違うッ! 今のは何となくでして……ああもう。分かったからそんな目を向けないでください。俺が変態みたいじゃないですか」
「変態」
「違います」
本当に足を踏み入れるつもりは無かったのだが、変態の名前をつけられてまで食い下がる気は無い。浴室を後に、俺は手近な部屋のノブを回した。礼によって壁も白く、ここがどんな部屋かという名札もないので入ってみるまでどんな部屋なのかは分からない。
「…………」
驚異の白さに驚かされた今、何を見せられても驚くつもりは無かった。しかしこんなものを見せられて驚くなというのは無理がある。俺は部屋の中心まで足を運ぶと、ポツリと呟いた。
「か、可愛い……」
ここは薬子の寝室だろう。部屋中が色とりどりのぬいぐるみに満たされている。空白の世界にすっかり目が慣れてしまったが、普通はこうだ。こうあるべきなのだ。生活感のある家というものは色彩豊かで、雑多或いは清潔であるべきだ。この家に来てから白以外の色を認識出来なくなった可能性について考慮しなければと思っていたがその可能性は否定された。
近くのぬいぐるみを手に取って、裏返す。別に仕込みは無い。普通のぬいぐるみだ。
「あいつ、こんな可愛いものが好きだったのか…………」
独り言の癖は無いが、今だけは許してほしい。口に出さなくては混乱を免れない程、俺はギャップに苦しんでいた。人間味の薄い、雫を捕らえる為なら手段を選ばないとされる外道(何を言ってるかちょっと分からないが)に、こんなファンシーな趣味があったとは。
どちらかと言えば俺の中ではクールなイメージのあった薬子だが、ここにきて女の子味を増し始めた。イメージダウンと言いたい所だが、彼女にも人間味があったと認識出来た事で個人的にはむしろイメージアップだ。
自由に歩き回るつもりではあるが、タンスに入っている私物に手をだすつもりはない。迂闊に下着を取り出せばまた変態と言われかねない。部屋を出て左。斜め向かいの部屋に足を踏み入れる。
再び空白の世界を色づかせたのは膨大な数の棚、そこに収められた蔵書の数々だった。
その数は数えるのも馬鹿らしい。少なくとも俺は梯子を使わなければ最上段まで手が届かない。梯子が見当たらないので多分薬子はよじ登っているのだろう。そこまで手間をかけてまで読む価値がある本かと言われると首を傾げたい。表紙は読めないが、多分日本語ではないので手に取れたとしてもどっちみち読めないだろう。
蒐集素人の俺に言わせれば、真に驚くべきはその手入れの行き届き方だ。大切という言葉の尺度にもよるが、適当な棚に本を置いて放置しているだけでも本は汚れていく。埃であったり黄ばみであったり。だがここにある本には一つとして手入れの届いていない本が無い。確証はないが臭いで分かる。全く埃臭くないのだ。
「知識は奪われる事のない財産ですから」
堂々と俺を見下ろす本棚に圧倒されていると、側面から俺の考えを読み取った様な声が差し込まれた。薬子だ。しかし普段の制服姿ではなく、デニムの短パンに黒のタンクトップという何とも動きやすそうな服装に着替えていた。真夏には程遠いが外は暑いので、時期に沿った服装と言える。
それにしても腰からお尻にかけてのラインが煽情的すぎる。へそ出しのタンクトップは彼女のスレンダーさを一層強調していると言っても過言ではない。特に視線を奪われたのは臍だ。臍周りの形というか、うっすらというより割とハッキリ見える腹筋が何とも言えぬエロスを醸し出しており……
これ以上は変態になりそうなのでやめておこう。薬子は気にも留めなさそうだが、俺は過剰に気にするのだ。
「な、何だよ急に」
「どうしてこんな沢山の本が、と思ったのではと。余計でしたか?」
「いや、当たっているけどさ。この本、全部読むのか?」
「勿論、そうでなければ所有する意味がない。知識とは己に蓄積させて初めて『知識』です。それまでは単なるインクのうねりでしかありません」
「辛辣な言い方するなあ。読書家は積むって言うぜ」
「私には理解出来ない概念です。何か気になる本があるのでしたら、お貸ししますよ」
そう言われても、ここまで本の数が膨大だと目が滑ってしまう。気になる本以前に俺はどの段にどんなジャンルがあるのかさえ把握出来ていないのだ。
「なあ。色んな本があるみたいだけど、例えばこの段は何のジャンルなんだ?」
「分かりません」
薬子は本棚に目を向けながら、目を輝かせながら嬉々として言った。
「ここは知識の宝物庫です。ありとあらゆる知識がここには眠っています。そして知識に本来区別はありません。例えば、何となく手に取った一冊。ふと目に留まった一冊。ここは出会いを提供する本棚です。分からなくても、たとえ読めなくても、きっとその本は役に立ちます」
「質問の答えになってねえよ。ジャンルを答えてくれ」
「区別はありません。よって、どの段にどんな本があるかは私も知りかねます」
はあ? と声を荒げそうになったのを何とか喉元で抑え込んだ。何を言っているのかサッパリ分からないが、薬子に限って整理が出来ないとかそういうタイプには見えないので、恐らく『自分なりの片付け方』があるタイプなのだろう。そういうタイプは傍から見れば雑に並べている様にしか見えないが、その人なりのルールに則って片付けているので、一般に整理と呼ばれる行為を誰かにされると物凄く嫌がる。
何故知った風な口ぶりかというと、鳳介がそのタイプだったからだ。
「んー。いや、いいかな今は」
「それは残念です」
特別引き留める事もなく会話が終了した。部屋の広大さに対しているのは俺達二人のみ。この気まずい空間に居られなくなって大人しくリビングまで退散しようとした時、彼女に肩を掴まれた。
「向坂君。正直な意見を聞かせて欲しいのですが、貴方は―――私の事をどう思っていますか?」
「え?」
「恋愛的な意味でも何でも構いませんが、一番重要な要素として一つ。私を信じていますか?」
それは、確信。
何度でも言わせてもらうが、俺は雫も薬子も両方信じ切れていない部分がある。双方が双方を敵視し、双方が俺を利用しようとする以上それは避けられない対立関係……もとい疑念だ。だから巡視に事態を知らず、俺を信じてくれる深春先輩の様な人物が欲しかった。でなければ『限』なんて危なっかしい話に首はツッコまなかった。
「……ああ。えっと。勿論信じてるけど」
「本当ですか? もしもそれが本当なら…………凄く、嬉しい事です。それならば、今回はどうかその信頼に甘えさせてもらっても構わないでしょうか」
「その割には随分堅苦しい前置きだけど、何だよ」
「連休中、私は貴方の妹―――瑠羽さんと出かけます。向坂君、今回の雫の襲撃は不幸の前触れです。オカルトの意味合いではなく、貴方と距離があれば私が来るまでの間に殺せてしまうという確信を持たせてしまいました。さしもの私も遠く離れた場所から一瞬で駆けつける事は出来ません。そこでどうでしょうか、私達と一緒に出掛ける―――デートしてみる、というのは」
雫は俺に餌としての価値が生まれたと言い。
薬子はタイムラグを測定されて危険が増したと言う。これだ、これがあるから俺はどちらとも信用出来ないのだ。個人的な感情を挟めば雫に肩入れしたいが、騙されていたらどうしようという気持ちが拭えない。
どちらも信じるという選択は物理的に取れず、どちらかを尊重すればどちらかを踏み躙る。そして思惑は分からないが、表面上は善意で行われている忠告を踏み躙るなんて俺には出来ない。せめてどちらかの思惑がハッキリすれば覚悟も決まるのだが、正反対の癖に雫も薬子もこういう所だけはきっちり秘密にしてくる。
ここで断らなければこの後の予定が狂ってしまうだろう。しかし断るのもそれはそれで不自然だ。むざむざ死にに行くのをどうして見過ごさなければならないとか理由を付けられるのが目に見えている。
―――余計な時間を過ごしたと取るか、瑠羽と久しぶりに遊ぶ時間が取れたと喜ぶべきか。
それとも秘密主義者の薬子を知るチャンスだと企むべきか。考えた末に、俺は大きく頷いた。
「……ああ、分かった。俺だって死ぬのは怖いからな。お前の隣に居れば絶対に―――殺されないんだよな? 信じるぞ」
せめてもの仕返しに問い返すと、薬子は微妙に口元を綻ばせて、胸を張った。
「約束します。私の隣に居る限り向坂君には指一本触らせません」
自信満々にそう告げる薬子。瞬きをしたその瞬間、彼女の笑顔はまた口を固く結んでしまった。あまり顔に感情が出るタイプじゃないのは大分前から分かっていたので今更驚かない。
しかし部屋を出る寸前、確かに俺は聞き逃さなかった。
「―――ッフフ」
隠しきれない喜びをかみしめる薬子の微笑みを。
自室のファンシーさと言い、凛原薬子と言う女性は意外に感情豊かなのかもしれない。表情が固いのは気持ちを悟られない為とかなんとかで、もしかしたら俺が思ってるよりもずっと可愛いのかもしれない。
もしそんな彼女の素顔の拝見が彼氏だけの特権と仮定するならば、恋人になるのも悪い選択肢ではないのかもしれない。尤も俺には雫が居るので、そんな裏切る様な真似はしないのだが。
彼女の方が包容力は上だ。




