存在しない
世の中全ての人間がそうとは言わないが、俺は最後にご褒美があると途端にやる気がでるタイプだ。週末まで代わり映えのしない日常を過ごすとか、そんな風に落胆はしない。逆に考えるべきだ。俺の日常は雫によって保護されていると。
こら、そこ。胸に懐柔されたとか言うんじゃない。
あれは信頼関係の確認みたいなもので、いかがわしい感情などないのだから。
「行ってきますッ」
幸福度が頂点に達した今の俺にはどんな言葉も耳には届かない。虚言癖? ああそう。妄想癖? そうですかそうですか。なんて下らない、なんて浅ましい括りだろうか。世界は希望に満ち溢れているというのに、そんなマイナスな言葉を使うなんて。
部屋の窓を振り返ると、カーテンの隙間から僅かに顔を出した雫がこっそりと手を振っていた。何処か大人びている実際の雰囲気とは異なりまるで幼子のようではないか。とても愛らしく、愛おしい。
俺は間違っていた。雫と薬子のどちらを信じるべきかという問いに悩む必要はない。雫一択だ。何故なら彼女は俺を信頼している。発言は勿論の事、その瞳が何よりそれを訴えている。俺の立ち周りに問題こそあったが(イジメがどうのこうのと喚き散らしたのは考えれば考える程悪手だと思う)、とはいえ家族は俺に寄り添ってくれなかった。
無償の愛なんてものはない。親しき仲にも礼儀あり、家族間とて信用を失ってしまえばそれでおしまいなのだ。俺が思うに『血が繋がっていても所詮は他人』という言葉の起源はここにこそあるのではないだろうか。
……過去の失敗を悔いている訳ではなく、信用の話をしている。家族は俺を信じなかった。だから俺も家族を信じなくなった。『信じて頼る』と書いて信頼だ。信用失くして信頼はない。そして人付き合いは多くの場合鏡であり、相手にしてきた対応がそのまま自分に返ってくる。
無条件に信頼している雫を俺が信じないでどうするのだ。
―――そう言えば迎えに来るとか言ってた割には来ないな、アイツ。
いや、来ないなら非常に有難いのだが。謎の感覚で雫の居場所が探知されても困るし、それで殴り合いにでもなったら五秒でノックアウトする自信がある。何か良くない事の処理に手間取っているのかと思う反面、あのロボットみたいな機械的な喋り方から単に俺がオーケーを出してないから来ていないのではないか、とも考えられる(銃声が聞こえて話は中断された)。
「……う」
視線を足元に向けていたせいで、俺は足を止めるしかなかった。止まらない人間はきっと実行犯だ。学校までの僅か三十メートルの間に、カラスの死骸が一定の距離を保って墜落している。その数、五羽。
カラスの死骸自体は間々見るが、ここまで大量の死骸は見た事がない。単純に気味が悪かった。とはいえこの程度で登校をやめる程俺の意思は薄くない。どう足掻いても死体そのものは大きく躱せないので、全力で走って突っ切った。
なんであんな事に。
話のネタとしては最適で、俺がまともならクラスの誰かに話していただろうがクラス内における自分は虚言癖の人間であり、少しでも現実味のない話をしようものならそれだけで嘘と断定され流されてしまう……
しかし、待てよ?
通学路にある死体なのだから、俺以外も見ている筈だ。既に話のネタになっていても不自然ではなく、他の人が話しているなら嘘と流される可能性はぐっと減る。そう考えたら、何だか心が躍ってきた。
そもそも虚言癖という設定(虚言癖じゃないのでそう言わせてもらう)はイジメ関連でのみ適用されていたので……俺の不安は、もしかしなくても杞憂だったりする。イジメは既になくなり、その実行犯は既にこの世にいない。やり方は苛烈極まるが雫は確かに俺を助けている。
校門を抜けて昇降口へ。すれ違った後輩の視線が妙に気になったが今はそんな事どうでもいい。一刻も早くこのネタを誰かに喋りたい。そして普通に盛り上がりたい。特別な存在になりたいのと同時に俺は平和に過ごしたいとも考えている。雫を匿った時点でそれは叶わないのだが、だとしてもそういう風にとり繕う事は出来る。
向坂柳馬は普通の高校生。死刑囚なんて知らないし、夕音が目の前で死んだ事もないし、あの三人が目の前で死んだという事実も無い。飽くまでその情報を知るだけ。何も知らない一般人。
―――よし。
理論武装ならぬ記憶武装を済ませた俺は勢いよく教室に入った。
「おいみんな! ヒーローのお出ましだぜえ!」
それは新手のイジメかと思う程に唐突だった。
何故かクラスメイトは一様に拍手をし、俺の事を称えている。何をと言われても知らない。本人に心当たりはない。逆の心当たりならむしろあり過ぎて困っている。
「……え?」
男子なんて薬子と親しい仲であるかのように振舞ったものだからその件で突っかかられても文句は言えないのだが、何故その男子までもが俺を称えているのか。褒められるのが嬉しくない人間は恐らく居ないと思うのだが、心当たりのない事で褒められても嬉しくない人間は大勢いるだろう。ありもしない成果を自慢げに掲げられる人間は一体どんな自信家なのか。
「向坂! 助けてくれてありがとねッ。その……向坂っていい人だったんだね。私、誤解してた」
「……えっと。え。あ、うん」
「お前が薬子さんと親しかったのそういう訳だったんだなー! お前って奴は本当に性格が悪いんだから! ちゃんと言えよー、なあ?」
「は? え、お…………おう?」
その場の発言に合わせられないくらい俺は戸惑っていた。心当たりがないとはいえそう突飛な話でもなければ無理なく対応出来たのに、突飛とかそういう次元ではなかった。彼等は何を言っているのだろう。集団幻覚でも見ているのだろうか。
輝則に至っては『俺も鼻が高いよ』と言わんばかりにこちらを見つめており、違う意味でこの場に俺の味方は居なかった。
「向坂君」
「―――うおッ!」
いつの間にか背後に立っていたのは薬子だ。制服の上から羽織るコートの両ポケットに手を突っ込んでおり、その状況から俺の次に来たのは明白だ。彼女もまた俺と同じ歓迎を受けていた。困惑のあまり挙動不審になりつつある俺とは反対に、薬子は微動だにしない。
「く、薬子。これは一体どういう……えっと。説明出来るか?」
「構いません。廊下の方へ来てください」
言われるがまま廊下へ出る。説明出来るかと俺は問うたが、説明出来なくても怒るつもりは無かった。だって何が起きているかさっぱり分からない。しかし彼女は答えられると言ったのだから、満足のゆく説明を求めたい所だ。
「何が起こってるんだ?」
「昨日、貴方がクラスメイトを襲った男達を撃退したから、賞賛されています」
「待って。そこから理解が出来ない。いつそんな事したんだよ」
「覚えてないのですね。学生をメインターゲットにした痴漢魔が逆上して刃物を振り回していた所を貴方が私と協力して制圧したではないですか」
「知らねえよ。なんだそれ」
薬子は困った様子を……多分浮かべた。視線が僅かに揺れたのでそう思っただけ。こっちの表情を先取りするな。何を言っているんだ。
「……ああ、そういう事ですか」
「勝手に納得するな。俺にも説明してくれ」
「いえ、貴方に記憶が無いのは七凪雫の仕業だと理解したのです。彼女が貴方を狙っている理由は分かりませんが……」
説明が出来ていない。するならちゃんとしてくれ。雫の仕業って、雫が出来るのは飽くまで操作だけで記憶の改変なんて出来ない筈だ。しかも対象が俺になる筈がない。だって彼女は俺を守って…………守って…………
守っている、のか?
「私にも反省するべき点はあります」
「え、反省するべき点?」
「どうも私の見立てでは貴方は詮索されたくないようで。ついその場しのぎで貴方とは仕事仲間という事にしてしまいました」
…………え?
反省と言いつつその顔は全く悪びれもしていなかった。
「しかし都合が良いのもまた事実。向坂君、本当に私の仕事を手伝ってくれませんか? 公的機関の保護を受けられれば、七凪雫も貴方に手出しできないでしょう」