3-1
目を開けると、部屋の中は薄暗い明かりに照らされていた。
相当硬い板かソファの上で寝てしまった時のように痛くなっていて、我ながらどこで寝てしまったのだろうと呆れてしまいそうになった。
ぼーっとした頭を動かそうと首を振って額に手を当ててみたが、すぐに効果があるわけでもなく、すぐには頭が回ってくれそうにはない。さすがに同じ体制で居るともう一度眠ってしまうと思い、のっそりと効果音が付きそうなほどゆっくりと体を起こすと、胸元から何か落ちような感触があって、慌てて胸の上から転がった物体をキャッチする。
寝ぼけ眼でそれを見ると、どうやら携帯だったようでキャッチした自分に感謝する。
時計に表示された時刻を見れば、すでに六時を回っているようで、まだそこまで寝ていないのかと窓の外を見てみる。
何という事だろうか。すでに日が傾きかけている朝日に赤みが増した空が見えて、自分がどういう状況になっているのかを把握して額を叩いた。
これは朝じゃなくて夕方だった!
……要は一日以上育の上で眠っていたという事になる。それは色々な意味で痛い。
「予定外の二度寝を強いられている……。大学が休みでよかった」
おそらく、昨日帰って来て――エリちゃんと路地の調査をしに行った後――から服を着替えて、汗を流して……。例の人に連絡を入れてそのまま眠ってしまったのだろう。
ベッドで寝てないのはあれだが、化粧を落としたり服は着替えているので、自分がギリギリ女としての境界線を保っていて昨日の自分を褒めるべきだと感じる。
褒めるのはさておいて、徐々に連絡を入れた人の事を思い出してブルーになっていく。
エリちゃんに家へ送ってもらった後。相手の声を聞くのも嫌だった私は、メールだけを押し付けて、早々に携帯をスルーしたのだ。
さすがにその日のうちに連絡が来ることは無かったので安心して――否、安心しすぎて眠りすぎてしまったが、あの人の事だ。そろそろ連絡があってもおかしくはない。
あれから丸一日近くたってしまっているし、もしかしたら携帯に連絡がはいっているかもしれない。そう思い、携帯の履歴を見ようと――。
「ふおおお! バイブーレション!」
手元に電話がかかって来る振動がダイレクトに伝わって来た。
単純にいきなり震えるだけで驚くのに、まるで図ったかのように電話が鳴り始められて心臓が飛び跳ねる。慌てて画面に表示された名前を見て、溜息を吐きたくなってしまった。
予想通り。あの人の名前が表示されていて、まるでどこからか見ているかのようなタイミングだった。
恐るおそる通話を取って、携帯を耳に当てる。
『おはようございますわ。電話を取ってくださったということはご気分はよろしいでしょう?』
「……はい、おはようございます。すごいタイミングですね」
思いっきり寝起きの声で対応してしまった。
体調が良いのも含めて、どこから見ているようなタイミングで戦々恐々としています、夜風さん。
『いいえ、タイミングが良かっただけですわ。このお時間であればあなたも大丈夫と思っただけですもの。ちょうど起きてくださって助かりましたわ』
電話の相手――日陰夜風さんは、電話越しにもわかるほど妖艶に笑った。
彼女は何と説明するべきか。簡単に言えばとある不動産会社を持っている文武両道の社長、と言えばいいだろうか。いわゆる摩訶不思議な事に対しての知識があり、そう言った事態に詳しい人で、私に「お願い」と称した変な依頼を押し付けてくる知り合いでもある。
私も直接怪異や化け物の類は何度か見たことあるが、彼女は妖怪や化け物と比べても別格だと感じてしまう。
何度もこの人の知識や力には助けられているのだが、何を話していてもこちらのことを見通したように行動を掌握されているので、あまりしゃべりたくないお相手でもある。
ええ、できれば声も聴きたくありませぬ。
端的に済ますために早々に本題に入らせてもらうことにする。
「それで、今回の事件、なにか分かりましたか」
『今回はその対応で助かりますわ。申し訳ありませんけれど、今日は私も時間がありませんもの。結論だけを言ってしまいますわ」
「助かります」
色々な意味で。
「それで……。あなたが知りたがっていた迷いの路地の噂のお話。結論だけを言えば、あそこには本来のもの以外何もありませんでしたわ』
「本来のもの以外なにもない?」
電話口の夜風さんの言葉に同調するように、そして私の動揺を表すかのよう位部屋の窓がガタガタと音を立てた。
つい、彼女の言葉の意味を考えてしまう。
あの夜風さんが、本来の路地以外何もないと言っている。それはつまり、あの路地は「迷いの路地」以外の何物でもなく、人を迷わせる意外に何の意味も無い場所、という事だ。腕が落ちてくるという噂は路地の現象が表面化した幻覚、ということだろうか。
だけど、あの路地はそんな表立った幻覚を見せるほど大きな影響は出ないはずだ。
いったい、どういうことだろうか。
黙り込んでいると、電話口からくふふ、という彼女特有の笑い声で音が揺らいだ。
『何かご質問があるのではなくて?』
ええ、あります。ありますけど、どうしてそんなに的確に言い当てるのでしょうか夜風さん。
このまま言葉にすると思うつぼだと思いぐっと飲み込む。すると、電話の向こうからくすくすと、今度は笹の葉を揺らした時のような印象を受ける笑い声が響いてきた。
確実に遊ばれている。
『路地の理由はお聞きにはなりませんの? それとも、どうして私があなたの起きた直後に電話をかけたのか、のほうがよろしかったかしら』
「夜風さん夜風さん。この家って盗聴器ついてましたっけ」
『ふふっ、いいえ。把握している限りはついていないはずですわ。調査をご依頼ですの?』
「それはそれで新しい依頼を取り付けられそうなのでご遠慮ください」
『つれない答えですわ』
そこでつれたらプライバシーが消えそうです。
さすがに怖い相手にプライバシーを全部明け渡すような行為はできないのですよ。ええ、現代人間ですので。
まあ、この人の場合はやろうと思えば私の情報などいくらでも手に入るのだろうが。
「夜風さん。そろそろ聞いてもいいですか」
『あの路地がどうしてそんなことをしたのか。それがお聞きになりたいのでしょう?』
「はい」
私が真剣に返すと、風か何かで揺れていた窓もシンと静まり返った。また夜風さんのクスクスという笑い声が聞こえて、静まり返った部屋で反響する。
『素晴らしいですわ。好ましいですわ。それでこそこの町に気に入られている人間。私も調べたかいがありますもの。――ときに、鳥鼠美也子。あなたはは忘却についてどう思いますの?』
「ぼうきゃく……。忘れることについては、特に……。強いて言うのなら、ある程度は必要なものかなとは」
彼女の問いに意味は解らなかったが、そう返した。
忘れるという行為は、少なくとも人間にとっては大事なものだ。
昔の癖や、施された悪い教育。傷ついた過去は忘れるという行為をしなければ、人として生きていくのは難しい。それは人間という動物が社会を形成した時から変わらない。
そう思って答える。
『ええ。その認識は間違っていませんわ。人が人らしく生きるためにはある程度必要な事。他人から見れば、それは幸せなんですもの、仕方ありません。でも、忘却は大罪ですわ。誰にとっても』
夜風さんがそう言うと、窓が再びガタガタと震えていた。
忘却が罪、という言葉に棘を感じて言葉に詰まる。忘れるという行為に対して、彼女なりに何か思うところがあるのだろう。
あまり触れずに聞き続けることにした。
『くふっ、多少なりとも怪異や幻想種に触れているのなら、今後覚えておくとよいですわ。忘却という行為はそう言った類の者に対して、存在を削ぎ落しているような行為ですもの』
「忘れることが、削ぎ落す」
『ええ。私たちの死生観では日本やメキシコのお盆や死者の日が例えとしては分かりやすいと思いますわ。記憶に残るという行為は、噂や幻想種にとってこの世界に存在するために必要な物。そう考えればある程度は理解しやすいと思いますわ』