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「さて、と」
無事自分の借りているフラットの一室までたどり着いた私は、ソファに体を預け、とりあえず何をするべきかと部屋中を見回した。
西洋式の建物なので靴を脱ぐ場所はない。左手に寝室の扉があるものの、直通でそのダイニングにつながっているので、玄関から見たらさぞ狭苦しい部屋なのだろう。私のいるソファから、正面に食事用のテーブル、その奥のシンクにはまだ洗われていない食器が水漬けされていて、シンクの足元には洗濯物が溜まっている袋が見えた。我ながら生活感にあふれる部屋だった。
このまま洗い物をためるのは確実に良くない。
仕方なくソファから重い体を起こし、シンクで洗い物を片付けていると、思考が手持ち無沙汰になってついつい噂の迷いの路地のことを考えてしまう。
どうして、あの場所で噂になるようなことが起きたのだろうか。
たしかにあの路地にはいろいろと噂があるし、だれがどんな物を見て、どういった感情を持ってもおかしくない。それがあの路地の現象だ。
だから、腕が落ちるくらいは普通にあってもおかしくないわけで……。
大きくため息をついて、食器を水の中に落とした。
「…………。行ってみるか」
思考が乱れているせいか、それともただ頑固なだけか。食器の汚れがなかなか落ちなかったので、こんどは洗剤を溶いた水につけて、携帯に手を伸ばした。
行くと決心したは良い物の、私一人で外へ出かけるのは医者に止められている。
お医者様の言うことは絶対だ。
なので、私が外に出かけるのなら別の誰かを巻き込むことになってしまう。
少し考えて、連絡先の中でもこの時間は暇だからと、念を押していた相手に渋々電話をかけることにした。
* * *
彼女に連絡をした数十分後。
私は待ち合わせの相手と会うために、噂の「迷いの路地」の出口がある巨大スクリーンのついた建物の下で安全柵に寄りかかっていた。
一人で出かけるなと言われたが外に出るなとは言われていないのである。
……後でマジで怒られそうである。
自分の心配ばかりをしていたが、一番の問題は待ち合わせの相手である。
この場所はアイドル達がコンサートをする会場が近いこともあって、通りにはまばらに人や車が通って行くのだが、待ち合わせの相手は大丈夫なのだろうか。
つい待ち合わせ相手の心配をしてしまいそうになって……。
「まあ、あの子なら大丈夫か」
相手の事を考えて、すぐに心配をするのを止めた。
ふと視線を上げると、ライブ会場の近くということもあり、巨大スクリーンにはロックバンドのアイドルとして活躍しているヴァンパイアの映像が流れていた。ヴァンパイアはカーミラという人がボーカルをしている吸血鬼をモチーフにしたゴシック系のロックバンドで、未希と私は昔から彼女たちが好きなので度々ライブに足を運んでいる。
遅いなとスクリーンに表示されている時間を見ると、待ち合わせの時間を少し過ぎてしまっていた。
相手が時間にルーズというわけではないのだが忙しい人だ。暇な時間を教えられたからと言って、急な仕事が入ればドタキャンされてしまう可能性だって高い。まあ、私は一般人なので優先順位が低いのは当然なのだ。
余りに遅くなるようなら、近くの喫茶店に待ち合わせを変えた方が良いかもしれない。
そんなことを考えていると、ライブ会場とは別の方向から帽子を目深にかぶった女の人が歩いてくるのが見えた。
道を開けようと安全柵に寄ると、その人は私の目の前で立ち止まってふふんと得意げに鼻を鳴らされて、ようやくそれが誰なのかに気が付き、待ち合わせ相手が帽子のつばを上げる。
「はあい、お待たせしちゃったかしら。我が愛しの子猫ちゃん♪」
そこにはさっきスクリーンにも映っていたヴァンパイアのボーカリストでもあるカーミラ――、本名、長姫恵理ちゃんがサングラスをずらしながらウィンクをしていた。
今日の彼女は暗い赤色の髪をまとめてシニヨンにして帽子をかぶっていた。本人曰く、髪の色は帰国子女でちゃんと外国人の血が流れているのだとかなんとか。帽子と同じく、黒を基調にしたピンクの柄の上着。白地に茶色の文字の入ったインナーに、デニム生地のセミショートのスカート。靴は茶色の編み上げブーツをはいていた。
アイドルである彼女にウィンクをされて子猫ちゃんと言われるなんて、ファンだったら気絶してそうなフルコースだった。あいにく、彼女の性格を知ってるので冷静に対応する。
「おはよう、エリちゃん」
アイドルであるエリちゃんに、私は冷たく返した。
ちなみに、本名で呼ばないと怒られてしまうので、ファンには申し訳ないがエリちゃんと呼ばされている。そう、呼ばされているのです助けてください。
そんな豪華な悩みを持っていると、冷たく対応されたことにご立腹なのか、ぷんすか怒りながらそっぽを向かれてしまう。
「もう! そこは冗談でも『ううん、今来たところ、エリちゃん(はあと)』って言わなきゃダメじゃない!」
「なぜ私がそこまでせにゃならんのか」
「え? だってこれってデートのお誘いでしょ?」
「なにゆえにエリちゃん様はおデートだとお思いに?」
「変な喋り方……。だって、子猫ちゃんの方から誘ってくれるなんてほとんどないじゃない?」
「ええ、まあ」
忙しいだろうし。
「そうでしょう! なのに、お仕事の合間をぬってデートに誘われたのよ。それくらいはあってもいいと思うわ、子猫ちゃん」
町民的人気アイドルはそう言って朗らかに笑ってみせた。
彼女がここまで私を慕ってくれているのは嬉しいのだが、その感情は絶対にあの事件で救ったことによる吊り橋だ。けっして私とエリちゃんがそういう関係だから、というわけではない。
けっしてないはずだ。
どう答えようか迷っていると、最初から答えには期待していなかったのかサングラスをカタンと下げて、溜息をつかれてしまう。
「もう、つれない。デートは冗談にしても、せっかくここまできたんだから何をするのかくらいは教えてくれたっていいじゃない。たしかに同伴してもいいって答えたのはあたしだけど……」
それはその通りだ。
同伴してもらう理由を説明するべきだと感じたので、エリちゃんをここに呼んだ経緯と、事情を説明する。説明を終えると、あからさまにむっとして不機嫌そうな表情になってしまわれた。