93.薬品製造の準備①(構想)
硝石・硫黄・木炭から黒色火薬を製造する筋道は立った。
次は硝酸と硫酸を生成するプロセスを検討する。
夜に講義も兼ねて黒と相談する。
例によって下手なイラスト付きだ。いやフローシートと敢えて敢えて呼びたい。
硝酸の工業的製造法として、オストワルト法が知られている。アンモニアを高温・高圧下で触媒を用いて一酸化窒素を生成させ、一酸化窒素から二酸化窒素を生成、その後に二酸化窒素を温水と反応させ硝酸を得る方法だ。
「アンモニアって硝化細菌が亜硝酸に変えるアレ?」
「そう。アレだ」
「なら、硝酸も蚕の糞から精製できる?」
「残念ながらそうはいかない。この方法には圧力容器が必要だし、まだまだ足りない機材が多すぎる。
それに刺激臭の強いアンモニアを使用する。あまり好ましくない」
「そうか。それは残念。じゃあ次の硫酸は?」
硫酸の工業的製造法は、二酸化硫黄を触媒下で酸化させて三酸化硫黄を作り、この三酸化硫黄を水に吸収させることで得られる。
ここでネックなのは触媒だ。五酸化バナジウムなど、割と特殊な触媒が必要なのだ。
「二酸化硫黄は硫黄を酸化させたもの?それならタケルが採ってきた硫黄を出発原料にできる?」
「できる。ただし硫黄をただ燃焼させて酸化させるだけでは、二酸化硫黄にしかならない。二酸化硫黄は水に溶かすと亜硫酸になるが、求めている硫酸とは少し違う。例えば二酸化硫黄を過酸化水素で酸化させると硫酸にはなるが、今度は過酸化水素の生成プロセスが必要になる」
「じゃあ硝酸や硫酸を作るのは不可能?」
「いや、これが実はそうでもない。工業的製造法とは、一日に何十トンも生産する時に採用されるプロセスだからな。今回のような実験室レベルならもっと簡単な方法がある」
そもそも硝酸にせよ硫酸にせよ、最初に合成したのは錬金術師達だ。
収率や純度を度外視すれば、今手に入る道具や原料でも製造そのものは可能だ。
「例えば硫化鉄を乾留すれば希硫酸は製造できるし、硫黄と硝石の混合物に水蒸気を吹き込みながら燃焼させるでも希硫酸になる。硫酸と硝石があれば硝酸は製造できる。だから今回は実験室的製法で試してみよう」
まあ無い物ねだりをしても仕方ないのだ。
とりあえず手近なところから始めよう。
中学高校の化学実験室にあって、里にないものは何だろう。
ガスバーナー、アルコールランプ、三脚、クランプ、いろいろあるが、目下必要としているのはフラスコや冷却管といったガラス器具。
特に無機酸といった腐食性の強い液体を取り扱うのに、ガラスは必須だ。
ガラスの原料は珪砂・ソーダ灰・石灰。
これに着色や強度向上のため添加物が入る。
これらの原料のうち、珪砂は珪石を砕いたものだから、北の山で採掘できる。
石灰も同じ場所で石灰岩として産出する。
問題はソーダ灰つまり炭酸ナトリウムだ。
降雨の少ない乾燥地帯では天然ソーダとして産出するはずだが、日本では聞いたことがない。
炭酸ナトリウムは、海藻を燃やした灰には多く含まれる。一方、樹木や草を燃やしても得られる灰は炭酸カリウムだ。
炭酸ナトリウムも炭酸カリウムも様々な製品の原料になる非常に使い勝手のいい化合物だが、一番身近な例は石鹸だろう。
石鹸…そういえば作っていない。
そもそも式神達は汚れるという概念がないらしいし、小夜はこっそり俺のシャンプーやボディーソープを使っているのを知っている。
子供達はお湯に浸かるだけで満足しているが、特に桜や椿が式神達や小夜のサラサラの髪を羨ましそうに見ているのは俺でも気付いている。
炭酸ナトリウムが手に入ったら、まずは石鹸を作ろう。
炭酸ナトリウムの工業的製法はソルベー法だ。
アンモニアと石灰石そして食塩から、塩化カルシウムや塩化アンモニウム、水酸化ナトリウムなどと一緒に炭酸ナトリウムも製造される。そう考えるとアンモニアは全く有益なのだが……やはり臭気がネックだ。
ルブラン法ならどうだろう。18世紀に開発され、後発のソルベー法に駆逐されたが。
ルブラン法の出発原料は食塩だ。
食塩を硫酸で処理して硫酸ナトリウムと塩酸とする。得られた硫酸ナトリウムに石灰と炭素を加えて加熱し、炭酸ナトリウムと硫酸カルシウムを得る。
いや、無機酸を製造するためにガラスを作りたいのに、いきなり無機酸を使用するプロセスは無理がある。
やはり海藻を燃やした灰に含まれる炭酸ナトリウムを、硝石と同じように結晶化により抽出するしかないようだ。
「海藻ってタケルがときどき欲しがっているコンブとかワカメというもの?」
「そう、昆布はいいぞ。いい出汁が出るし、食べても旨い。干しておけば日持ちするしな。ただ、昆布はどちらかと言えば北の海で採れるから、玄界灘では採取は難しいかもしれないなあ」
「ワカメもこの辺りでは採れない?」
「いや、ワカメはだいたいどこでも採れる。ただ砂浜より岩礁帯のほうがいいだろうな」
本来ワカメの収穫時期は春先のはずだ。今は生長しきって、食べるには硬くなっているかもしれないが、炭酸ナトリウムの抽出という目的にはちょうどいいかもしれない。
「じゃあ採集も兼ねて海に行く?桜と梅が海の魚が美味しかったって言ってた。ずるい」
ずるいって……そうだな。確かにタイの塩焼きやカニの味噌汁の話をされれば、食べたくなるのもわかる。
「それにねタケル。先月は紅と桜、梅をずっと連れて行っていたでしょ。小夜や白や椿が寂しがっている」
「黒はいいのか?」
「私はこうして知らないことを教えてもらったり一緒に実験できていれば大丈夫。でも採集は一緒に行く」
夏も盛りを過ぎたし、寒くなる前に一度海に遊びに行ってみよう。
早速翌日の午後に海へ向かうメンバーを募る。
真っ先に手を挙げたのは椿、そして小夜と白が続く。それから平太・惣一朗・杉・惣二郎・松の男の子達が手を挙げた。そして男の子たちのお目付け役として青が加わってくれる。
これで総勢11人。里の人数の過半数が参加することになったが、まあいいだろう。
向かう先は志賀島先端の勝馬の浜。砂浜だが、両端が岬になっており適度に岩礁帯もある。
恐らく水面下は岩と砂が混じったような状態だろう。
黒の門から出た子供達が歓声を上げる。
見渡す限りの青い海と空、白い砂浜とのコントラストが美しい。
そして男の子たちが当然のように海に飛び込んだ。
まあ短パンにTシャツ、草鞋だから、特に支障はないだろう。今回の遠征組の服装は皆そんな感じだった。
別に水着というものがあるわけではないから、当然ではある。
では今日の目的を果たそう。
俺と黒は打ち上げられた海藻の収集。椿と小夜、そして男の子達は泳ぎの習得と魚や貝の採集だ。青と白は子供達に泳ぎを指導してもらう。
あとは黒と二人で波打ち際を歩きまわり、打ち上げられた海藻を拾い集めた。
ワカメの大株やアカモクといった比較的大きなものの他に、寒天の材料となる赤い天草も回収する。
子供達はあっさりと海での泳ぎをマスターし、魚突きや潮干狩りを始めている。
と、沖合でナブラが立った。
大型魚が小型の魚を捕食するために、水面目掛けて追い込んでいるのだ。
魚影にマーキングし、水面近くに浮いてきたところで次々に矢を放つ。
しばらくして浮いてきたのは、立派なカツオだった。
今日の収穫
カツオ×5匹
マダイ×5匹
タコ ×1匹
ワタリガニ×5匹
アサリ 多数
海藻類 およそ1トン




