1.はじまり
気がつくと崖の下に仰向けに倒れていた。
ゆっくりと四肢に力を入れようとしたが、身体が言うことを聞かない。
下半身と両手から激痛が走り、ようやく何が起きたか思い出した。
まだ肌寒い3月の夕方。
突然降り出した雨に、裏山の崖沿いの道を小走りに家に戻る途中、崖を踏み外したのだ。
落差5m。打ち所が悪かったのか、若い頃なら大した怪我でもなかったのだろうが…
必死に腹ばいになろうとしたが、全く動けない。
このまま死ぬのだろうか…ふと今までのことが走馬灯のように蘇ってきた。
俺の名前は健。39歳独身。
高校在学中に両親と兄妹、祖母を事故で亡くし、祖父の後見の元で工学部を卒業。エンジニアリング会社に就職したが、祖父の介護のため34歳で退職。
祖父の後を継ぎ半農半猟で生活している。
体型は中肉中背だと思い込んでいるが、若干腹回りがダブついてきたのは自覚している。
学生の頃は茶髪のロン毛なんかもやっていたが、今となっては白髪も目立ちはじめた。ただ長い髪はそのままだから、1つ結びにしている。
目は二重だが、別に芸能人に例えるほどイケメンではない。高校生の頃にクラスでイケメン10人挙げろと言われたらギリギリ滑り込めるぐらいと評されたことがある程度だ。
祖父はいくつかの田畑と筍や椎茸が採れる山林、農業の知識と狩猟の技術を遺してくれた。また、古武術も教えてくれた。合気道と剣道と薙刀を組み合わせたような武術だ。おかげで子供の頃も肉体的にいじめられるようなことはなかった。精神的なものは大なり小なりあったけど。
祖父が残した山のてっぺん(といっても標高はしれていたが)には、古い祠があった。由来は祖父も知らないようだったが、「本当に困った時は助けてくれるけん、信心を欠かしたらいかん」と耳にタコができるほど言い聞かされていた。
今日は毎朝の日課でもある祠のお参りを済ませてから、苗代の準備をし、有害鳥獣(主にタヌキ)用に裏山に仕掛けた罠を見回って帰る途中だった。
急に降ってきた雨に追い立てられるように、段々畑の畦道をショートカットしようとして、足を踏み外した。畔道の下が崖だった。
どれくらい時間が経ったのだろう。あたりは真っ暗で、目を凝らしても何も見えない。冷たい雨がどんどん体温を奪っていく。
別に思い残すことはない。独り身だし、帰りを待つ人がいるわけでもない。パソコンに恥ずかしいフォルダがあるわけでもない。近所付き合いが多いほうでもないし。1週間もすれば、野菜を卸していた道の駅のおばさんが、顔を見せないことに気づいて尋ねて来てくれるかもしれない。
生きていくためとはいえ、それなりの数の生き物を狩ってきた。このまま大地に還るのも理不尽なことではないだろう。
少しづつ痛みを感じなくなりながら、そう思っていた。
ふと強烈な光を浴びて意識を取り戻す。
目の前に太陽のような光があった。とても直視できない。
光の中から声が聞こえた。
「そのまま朽ちることを選ぶか、それとも別の道を選ぶか」
低く朗々とした声。神々しいと表現するべきか。
別の道…別の道とは何だろう。
「望むなら別の人生を活かしてやる。お前を生き返らせることはできん。だが、違う時代と違う世界に飛ばしてやることはできる。お前は毎朝儂の住まう祠への祈りを欠かさなかった。だからほんの情けじゃ」
ああ…じいさんの言っていた「助け」か。どうせ死ぬのなら別の世界で生きてみるのも悪くない。
でも裸一貫で放り出されても困るな…
「安心せい。今までの知識と経験、技術はそのままじゃ。お前の家にあるものもまとめて送ってやる。使い物になるかは行ってみないとわからんがな。ついでに精霊を使役する術も使えるようにしといてやる」
術?いわゆる魔法のようなものか?
「魔法?まあ西洋風に言えばそうなるのであろうな。別に呪文など唱えんでもよい。強く念じることが大事じゃ。使いこなせるかはお前次第だ」
ふむ…猟銃や狩猟道具、種籾や球根類が持ち込めるなら、いきなり餓死することはないだろう。実包は狩猟期の残りが未だある。医薬品も最低限は薬箱にあったはずだ。だが使えば終わりだ。
「こちらの世界から持ち込んだものは、向こうでは一定時間後にもとの数に戻るようにしておこう。また壊れても治るようにしておく」
ん?つまり使っても数が減らないし、壊れても修理可能ってことか?
ん〜何不自由なく暮らせるんじゃないか?いきなりジェラシックパークってことでなければ。
「安心せい。儂が産まれた頃の時代と同じような世界じゃ。大きなトカゲなんぞおらんわ。
こちらの世界でのお前の存在は、初めから無かったことになる。だからお前の私物など残っていても邪魔なのじゃ。
では、飛ばされるのでいいのじゃな」
どうせ死ぬのなら、いっそのこと別の世界で生きるのもいいじゃないか。よし、覚悟は決まった。