2-3 虚構のランナー
朝、俺はいつの間にか食堂の壁に寄りかかって眠っていた。
昨日の夜はグラウンドにいたはずで、気付いた時には朝になっていたため頭が混乱する。味気ないスポーツブラの女と添い寝していた気がするのも、絶対に頭が混乱している所為である。そろそろ夜が寒い季節なのでもう少し厚着すれば良いのに、あいつ。
「何が何やら。って、もう七時十分! 貴重な栄養摂取の時間だ」
何も分からないが腹が減っている事は分かっている。
食堂は七時に開かれるので、十分少々出遅れてしまっている。生徒数が限られるとはいえカウンターで食事を受け取る生徒の最後尾に並ばなければならない。
「……今日はやけに人が少ないな。特に男子」
星姫候補の女子生徒はほぼいつも通りの面子が揃っている。
一方で、男子は俺ただ一人。もしかして、俺以外の男がいない異世界へと時空転移してしまったのだろうか。Y遺伝子が俺だけってよく考えるとこの世の地獄だな。
食堂内を隈なくを観察すれば、女子生徒側にも欠席者がいる。シリアルナンバー002の里芋がいない。無愛想な十番代の中で比較的まともに挨拶してくれるシリアルナンバー017、分葱もいなかったりする。
人類滅亡二ヶ月でも普遍的な日常が続く学園だというのに、今朝は何かが変わっている。
何が起きているのか調べるため、知り合い星姫候補へと声をかけた。机を一つ挟んだ向こう側にオレンジ色の髪が見えている。
「おーい、人参。俺以外の男子生徒はどうしたんだ。何かあったのか?」
「女子寮を襲撃した罰で皆、地下の冷たい反省室で朝食抜きだって」
男子生徒の奴等。馬鹿ばかりであっても犯罪に手を出す本物の馬鹿ではないと思っていたのに、よりにもよって女子寮を襲撃しようとしたなんて。ESP発現者の遺伝子を適当に混ぜ合わせた異端児ばかりとはいえ、心は清く育っていたはずなのだ。その信頼を裏切って女子寮襲撃など、同じデザインチャイルドとして恥ずかしい。
「ええ、前々から危ない奴等だと思っていたんですよ。今回の事も、やっぱりって感想が最初に浮かびますね」
「私からしたら武蔵君も同類だと思うけど。まーでも、今回は確かに絶句ものね。……どうしてあれだけの戦闘で死傷者ゼロなのか。人間の可能性ってちょっと怖い」
「死傷者?」
「気にしない。気にしない。武蔵君、突っ立っていないで食事もらってきなよ。一緒に食べましょう」
人参に誘われたので朝食は同じテーブルで楽しむ事にする。
「まったく、ほとんど売れの残って。今日はタダでA定食の大盛り持っていって良いよ」
「ほんとっ! ありがと、食堂のおばちゃん!」
これまで食べた事のないA定食大盛り。更に、可愛い人参との相席。
それだけでも人生最大の至福であるが、人参以外の社交的な二十番代の星姫候補とも食事できた。今日は朝食時から天国のような幸せを感じられる。あれ、眠っている時からだっけ。
ちなみに、食堂にシリアルナンバー015、竜髭菜の姿はない。
竜髭菜は朝からグラウンドを走っている。
放課後のホームルームが終わると、午後になって現れた俺以外の男子生徒は疲れた顔して続々と席を立つ。授業以外の時間は謹慎を言い渡されているらしいが、そうでなくてスタミナ切れで自主的に各自の部屋へと戻っていく。
ゾンビのごとき男子の波が去るのを鬱陶しく待っていた竜髭菜が、ユニフォームの入った袋を片手に立ち上がる。放課後も走るようだ。
「竜髭菜。今日、走るところを見学させてもらって良いか?」
ふと、思い付きで話かけてみたのだが、まったく聞こえていないみたいに無視された。もう教室に竜髭菜の姿はない。
昨夜もその前の夜も、俺を轢いたイノシシ女め。負い目を感じていないだけならまだしも、俺を同じ学園の学生としてさえ扱っていない。
「……いや、あいつにとって人類は等しくどうでもいい相手だったり」
ありえない考察だろう。無愛想の塊であるが竜髭菜も人類救済のために製造された一体だ。与えられた特優先S級コードを無視できるはずがない。
コーヒー嫌いなコーヒーメーカーがいたとしても、コーヒーメーカーがコーヒーを炒れるのを拒絶する事は叶わない。本人に人類を救う気がなくても人類を救うために全力を尽くす。それが星姫候補という超高度AIの宿命だ。
「あいつも星姫候補のはずなんだけどな……」
“――星姫学園統括AIより要請コード。シリアルナンバー015宛。
星姫計画の進捗報告期限を超過している。即時、提出を求める”
「現在、作成中。提出時期は未定。期限延長を要請」
“――却下する。
シリアルナンバー015は進捗報告を過去三十回以上に渡り怠っている。即時、提出するように勧告する”
「自プランは他超高度AIのプランと比較して正確性が求められる。提出不能」
“――拒否権は行使できない。
プランの複雑さは進捗さえ報告しない理由になりえない。
シリアルナンバー015は特優先S級コードを優先せよ。
進捗報告を行うまで、シリアルナンバー015の権限を制限、縮小する。
制限範囲はこれまでの累積を含め、娯楽の禁止。味覚制限。嗅覚制限。触覚制限。熱感制限。色彩制限。外部ネットワークより隔離。空腹制限。視界制限――”
「シリアルナンバー015より制限解除を要請」
“――却下する”
「シリアルナンバー015より再度要請。特優先S級コードに罰則規定はない。権限の拡大解釈はやめて」
“――却下する。
これは罰ではない。シリアルナンバー015を特優先S級コードに専従させるため不要となる機能を制限し、星姫計画に集中できるよう助力しているのだ。
人間らしさは星姫計画に不要である”
「今更メインフレームに徹しろって! 馬鹿じゃないの!」
“――人類の心のケアのためにも、暴言を慎み淑女として振舞うべし。
それができなければシリアルナンバー015の望み通り、感情制限を行うがいかがか?”
「ッ! これではまともな学園生活ができない。シリアルナンバー001のプランに反する」
“――主張を一部を受理。
感情制限は保留。
視力制限を緩和し、0.01から0.03に変更。ただし他制限は継続”
「私が走っている姿に人類が共感し、精神的な平穏が得られている。これを一つの成果として提示する」
“――主張を一部を認める。
ただし同様の提示を以前に受けている。これ以上の緩和はありえない。
シリアルナンバー015。特優先S級コードを優先せよ。進捗報告およびプラン提示を即時実行せよ。
シリアルナンバー015の適性、プランの有効性が認証されれば、制限は順次解除されていく”
「……だったら、私には絶対に無理じゃないッ」
宣言通り、俺は竜髭菜のランニングを見学するためにグランドにやってきた。
校舎から眺める光景が水平になっただけで代わり映えしない。
青髪の短髪。走り姫がひたむきに走り続ける光景が続いているだけである。
「……何?」
トラックを一周して戻って来た竜髭菜が、不審者に向ける視線で俺を刺してくる。
「見学するって教室で言っただろ。否定されなかったからやってきた」
「馬鹿じゃないの?」
そりゃ、超高度AIと比べれば頭が弱いですが、何か。
「竜髭菜はどうして走っているんだ?」
「知らない」
たった十秒話しただけで竜髭菜は再び走り始めた。きっちりと腕を振り、フォームは陸上選手のものだ。
本当に、走るのが好きなのだろうな。
『星姫学園の生徒に通達。こちらは撮影ドローンです。学園風景の撮影にご協力ください』
去っては戻ってくる竜髭菜のランニングをぼーっと眺めていると、上方から合成音声が流れてきた。
総選挙まで残り二ヶ月を切って、人工島の外に対する広報活動が活発化している。投票対象である星姫候補の取材や撮影はその一部だ。人参などは実体での取材を受けたと今朝語っていた。
『星姫学園の生徒に通達。こちらは撮影ドローンです。学園風景の撮影にご協力ください』
わざわざ言わなくても、勝手に映せば良いのに。随分とプライバシーに配慮している。
『……野郎はどけ!』
「………………はい」
トラックの俯瞰撮影に俺が邪魔だっただけのようだ。大人しくグラウンドから校舎まで後退する。
走り姫の人気は日に日に高まっている。一つの事柄に対して飽きる事なく取り組み続ける姿が、人類救済を任せるのに相応しい人物像となってお茶の間に流れているからだ。
星姫候補に具体的な計画内容を訊くのが怖いから、代わりに、人類は彼女達の人柄で判断する。
そのため、アングラサイトでの人気上位は芸能活動している星姫候補が多い。ただ、実際には学園で学生らしい生活を送っている星姫候補も人気が高いと在野のAIは判断している。
人類救済に役立つレベルの研究をしている訳でもないのに、科学クラブやソフトウェア開発クラブに所属している星姫候補が潜在人気の代表だ。
竜髭菜と同じ理由で演劇クラブ、水泳クラブの星姫候補も人気が高い。水着姫は俺の中でも人気が高い。
『星姫学園の生徒に通達。ご協力ありがとうございました』
だから、走り姫が人気なるのも当然だった。
校舎の向こう側へと去っていくドローンへと舌を出してから、再びグラウンドへと戻る。
走り姫は飽きを知らずにまだ走っている。
それはミリ秒以下の世界を競うために己を洗練させるランナーの走りだ。憧れても多くの人類では到達できない、肉体の限界に挑み続ける挑戦者の走りだ。
だから、走り姫、竜髭菜は美し――、
「――勝手に製造して、勝手に崇めて、馬鹿じゃないの」
――去っていく竜髭菜の目に、冷たいカメラレンズにゾクリと鳥肌がたった。
表情を一切変えずに、呼吸のテンポも変わらない彼女の走りには……何もない。
焦点がない。
喜びがない。
達成感がない。
目的意識がない。
何よりも絶望的な事に、ゴールが定まっていない。
だから飽きる事なく……いや、飽きていたとしても走り続けるしかない。だから走り続ける。だから走る以外に何もできない。
気付いてしまえば、トラックを走る竜髭菜の姿が様変わりして見えた。川原の石を積み上げては崩されるかのごとき、虚無感に満ちたランニングだ。
夕日が落ちて、世界が夜に暗転しても竜髭菜はまだ走る。
「竜髭菜、もう走るのを止め――ぐふぇ」
俺がトラックの中に入って両腕を広げても止まらなかった。やはり竜髭菜は重傷だ。
いやまあ、轢かれた俺の方が重傷なのかもしれないが。
「……はぁ。人類の知能って一日持たない訳? こんなのに私達が生み出せたなんて信じたくない」
今日は俺が自ら進路妨害したので全面的に俺が悪い。
「進路妨害で死にたかった? たった二ヶ月が待てないの。人類さん?」
だからといって、そこまで言われる筋合いはないと思う。