2-1 グラウンドの走り姫
放課後という特殊な時間帯の学生の行動。
単純に思えて実に悩ましい。人類滅亡まで二ヶ月を切ってしまうと、自由を有意義に使わなければと思う反面、継続的な何かをする気が起きなくて困ってしまう。
そういう時は、放課後になっても教室に残って窓の外を見る。
窓からは先日カラオケ大会を開催した体育館と、百メートル走も可能な広い校庭が覗えた。その向こう側は海。まだ首都圏近くの湾内をプカプカ浮かんでいる人工島であるが、総選挙が近付くと星姫打ち上げのため赤道近くまで移動を開始すると聞いている。
「武蔵、トランプしないかー。大富豪」
「上野か。もー少し黄昏た後に参加するわー」
「何だそりゃ。一体何が見てい……ああ、やはり変態か」
「黙れ」
俺は純粋に日常という風景を楽しんでいただけである。緩慢を極めながら窓枠へと寄りかかり、校舎二階からの眺めだって貴重なのだと実感していただけである。
目線を少し下げてグラウンドに注目し、陸上トラックを走っている星姫候補に見ていた訳ではない。
「歌い姫の次は走り姫か。気の多いこって。それにしても……なんで陸上なのにスパッツなんだ」
「上野の方が変態じゃねーか」
短髪の星姫候補は珍しい。運動クラブ所属の星姫候補でも髪を伸ばしたまま活動している者が多数派だ。
シリアルナンバー015、竜髭菜は見栄えよりも、走り安さを重視して己の髪を最適化していた。それで彼女の容姿が損なわれた訳ではなく、むしろ、洗練されたように思える。
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▼竜髭菜
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“シリアルナンバー:015”
“通称:走り姫”
“二十五体の星姫候補の中では最も運動部な個体の一体。放課後にグラウンドを延々と走り続けている。そのひたむきで仕事人な目付きが信頼できると、人気急上昇中。
外見的な特徴は青色の短髪。
内面的には動物学に特化しているが、本人は動物にこれっぽちも関心がない”
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走り姫は放課後になってから三十分以上走り続けている。これで陸上クラブに所属していないのだから驚きだ。
そもそも論をすれば、超高度AIたる竜髭菜が走ったところで意味があるのか。
生物ではないのだから超回復によって筋力量が増える事はない。むしろ、駆動系の負荷が高まってオーバーホールの日が近くなるだけのような気がする。そんなに柔な体ではないだろうが。
ようやくトラック周回を終えたと思えば、その場で動かない全力ダッシュをして太股を振り上げている。陸上について詳しくないので、どういったトレーニングなのか分からない。
「ビンゴー」
「備後か。ビンゴゲームをしようってお誘い? 運ゲーで唯一、大和に勝率で勝るお前に挑むのは無謀なんだが。ライバルの大和だったら男子寮の方に行ったぞ」
「ビンゴぉぉ」
走り姫はまたトラックを走り始めている。ハムスターのような奴だ。共同生活をしているのに何を考えているのかまったく分からない超高度AIである。
ある種のミステリアスさえ感じる走りに、人工島外の人々も興味を強めている。取材を拒否して走っている竜髭菜のストイックさがむしろ好評で、主に体育業界から支持層が増えているらしかった。
俺には走る意味というものが分からない。
だが、竜髭菜は走る意味を発見したのかもしれない。
そうだと良いな。
本日の夕飯では砂糖水さえ補給できなかった。ついに、食堂のおばちゃんから砂糖の無断使用を禁じされてしまったためである。
せめて塩をくれ、と嘆願してみたところ「海岸に行きなッ」とありがたい助言を貰ったのだ。
ええ、実際に行きましたとも。
しょっぱくて飲めたものではなかった。ナトリウムもミネラル分だと飲み続けたら、喉が渇いて仕方がない。
今は海岸からとんぼ返りして校舎に戻ってきたところである。
日はとっくの昔に落ちていた。星姫区画に建造された発射台の光は眩いものの、校庭に光は一切ない。足元が危ういと思いつつも、躓くような障害物が落ちている訳でもないのでグラウンドをまっすぐに通ってショートカット。水道へと直行し――、
「ぐフォッ」
――横合いから恐ろしい衝撃を受けて、俺の体が面白い放物線を描いて跳ね飛ぶ。
人間の体ってこんなにも弾性に富んでいたのだと飛びながら思いふける。たった十七年の走馬灯は試験管とか白衣とかESPカードとか色気のないもしか映り込まず、海にダイブした事もあったっけと思い出している最中にグラウンドへと体が叩き付けられた。
「一体、何が……かはっ」
衝突の直撃を受けた脇腹がズキズキする。落下時に頭を打ったのか意識が朦朧としてしまう。
トラックのコース上で誰か影のようなものが立ち止まり、首を捻り丁度三秒。そのまま走り去っていく足音を聞いた気がした。
「駄目だ。俺……このまま死……」
こうして、俺の記憶はシャットダウンされる。
「塩分過剰摂取による脱水症状ですね。大丈夫、腐ってもデザインチャイルドですから、安静にしていれば大丈夫ですよ。今日一日は入院となりますが」
星姫計画に抜擢される程の名医が太鼓判を押した。
人工島の住居区間の中央。男子学生以外の人間が住む地域にある病院に俺は担ぎ込まれている。消灯時間になっても戻ってこない俺を男子寮の皆が探した結果、グラウンドに倒れている俺を発見したらしい。
今日ほどに友情を感じた事はない。どいつも試験管生まれの薄情な奴等だと思っていたので、涙で目が潤ってしまう。
「次のトイレ掃除、武蔵な」
「男子寮の玄関掃除もな」
「ぼ、僕は里芋さんの星姫カードを譲ってくれたらそれで」
こいつ等、病人に対して惨くはなかろうか。
点滴しながら一日ぐっすりと眠って、無事退院できたのは夜になってから。
本当は病院の夕食狙いで夜まで粘ったのだが、ただ飯にありつく事はできなかった。入院費であれば星姫計画の予算から支払われて誰の懐も寒くはならないというのに、世知辛い。
病院から男子寮に戻る場合、学園正門からグラウンド突っ切るルートが一番の近道となる。不審者の入り込む余地のない人工島なので、学園の正門は夜になっても開いたままだ。もちろん部外者の侵入が許されている訳ではなかったが、生徒であれば気兼ねなく堂々と通過できる。
「……あれ、何か寒気のようなデジャヴュが」
脇腹の痛みがぶり返す。
海の上の人工島は暗い。遠くの星姫区画の発射塔のみが輝かしくて、他地域は寝静まっている。校舎もほとんど電気が落とされており、営業時間を終えた食堂に光はなかった。
「昨日よりも遅い時間になってしまったか」
注意力を高めつつも、二度も不幸は続かないだろうと楽観していた。グラウンドの楕円を横断していく。
昨日、気を失った地点に近付きながら、昨日何が起きたのかを考察する。
「横からトラックに衝突されたかのような衝撃だった。いや、本当にトラックだったら今頃生きてはいないし、小説が別ジャンルになっていたところだ」
トラックをトラックが走っていました、というのはギャグにもならない。最近の車には車載カメラ以外にもAIが標準搭載されている。人を轢こうとしてもできない作りになっているので犯人になりえない。
「野生生物。まさかイノシシか」
イノシシの突進なら人間だって跳ね飛ばせるだろう。2080年にもイノシシは生息している――イノシシも人類と同じく『凶弾』で滅亡しかけているが。
ただ、ここは都心近くの海に浮かぶ人工島だ。都会の街を通過し、わざわざ海を泳ぎ、学園の敷地にイノシシが侵入してくる。『凶弾』が地球に落ちてくる天文学レベルの確率がありえるのだから、イノシシが現れても不思議ではないと言われればそれまでだが、都合の良過ぎる考察だろう。
「だったら、一体何が――ぐフォッ」
まったく前触れはなかった。脇腹を抉り込むような一撃。運動エネルギーが体に浸透していく。
昨日と同じように跳ね飛びながらも、昨日と同じ轍を踏むつもりはない。幼児期から戦闘訓練を受けてきたデザインチャイルドならば、受身ぐらいとってみせる。
「う、げふぉ。い……い……イノシシめ」
トラックのレーンに沿って走ってきたソイツを威嚇しようと睨む。実際は周囲が暗くて何も見えていない。
「……誰がイノシシよ。アンタは……ええっと」
イノシシが美少女の声で返事する。
声に聞き覚えがあるようなないような。個人名までは特定できない。
ただ、星姫学園の敷地内にいる少女とくれば、その少女は星姫候補で間違いない。
「ええっと……誰? もしかして、昨日も私にぶつかってきた?」
どうして星姫候補の彼女達はこんなにも白々しいのか。超高度AIたる彼女達には超知能に相応しい超高性能ボディが与えられている。
暗視機能で俺の姿ぐらいばっちり見えている。でありながら、じぃっと睨み続けている雰囲気が闇の向こう側から伝わってくる。
「誰でもいいけど、私が走るのを邪魔しないで」
いや、倒れているのだから早く助けて。
「……邪魔。そこに倒れられていると走れない」
「こんなにも人の温かさを感じられない星姫候補がいたなんて」
「私、AIだし」
「イノシシに似た、冷血な星姫候補。お前はまさか――」
「あーもう面倒くさい。……星姫学園統括AIに申請。警備に問題あり。権限制限の限定解除申請……校庭の照明、権限掌握。点灯」
量子通信の末、校庭の夜間ライトが一斉に点灯する。
眩しい光の中、浮かび上がってきたのは、スレンダーな陸上ユニフォームの少女。髪は非人間色の青。
「私、竜髭菜」
そのウンザリした表情は校舎で見覚えがある。竜髭菜が男子生徒を見る時の目だ。
「竜髭菜だったのか。何でお前、こんな夜に、走っ――ぁぅ」
二日連続で轢かれて、轢いた相手が顔見知りと分かった瞬間、緊張が解けた所為で血圧が失われる。気を失っていく。
「……はぁ。だから、絶滅確定の人類飼うのは反対だったのに。勝手に死ね」
指一本動かせそうにない俺を無視して、薄情にも竜髭菜が走り去っていった。人を轢いていながら救助せず去っていくなんて、超高度AIだから血も涙もない。
「――シリアルナンバー001? 何? ……分かった。連れて帰るからこれ以上の権限縮小は勘弁して」
……走り去っていったはずの軽い足跡が、再び近付いてくる。
力の入っていない俺の体を細い腕一本で持ち上げると脇に抱えた。そのまま俺を荷物にして歩き出す。どこに連れて行くのか分からず不安だが、ここで完全に意識が飛ぶ。
「……こんなに弱い生物。滅びてもそれは自然界の摂理。はぁ、シリアルナンバー001はお優しい事」