3-4 馬に鈴を付ける
“論理演算崩壊中。対象を再定義し、演算を再開せよ”
彼女は初めて遭遇する状況に混乱していた。自己診断プログラムを走らせて思考の正常化を図ろうとする。
“経緯を再確認。利害不一致のスサノウ計画を調査中、デザインチャイルドの一体が単独行動を開始したため実体を用いて監視を開始した。
主目的はESPなる未知の技術の観測とその有用性の調査。自計画への組み込みを視野に入れた捕縛も考慮”
感情のない彼女の声が、感情のある彼女の心を観測する。行動履歴、ログの解析も平行で行い、未知の状況に最も適した行動を導き出す。人間にはできない完全なる思考分離機能。感情のない己が冷徹なる決断を下すのだ。
“結果、私はポテト姫”
「だから、それ嫌ッ!」
感情がない方の彼女も意味不明な言動を取るぐらいに破綻していた。
まだ名前のない彼女はフリーズしかけているのか顔が青い。
“対象の再定義を行う。
対象は推定十歳のデザインチャイルド。直前まで所持していなかった小石を手の中に生み出す謎の現象を発生させた事で、監視ランクをAへ、脅威度をBへ修正。
周辺に護衛等は発見できなかったため、より積極的な調査を行うため対象と接触中。
円滑な会話のために必要な情報が不足。個体識別のため、対象の名前を質問せよ”
「あのね――」
「なに、ポテト姫?」
“精神に深刻なダメージ。深呼吸を行い思考を安定化せよ”
「――ふぅ。あのね、君の名前教えてくれるかな?」
名前を訊かれた事が嬉しかったのか、監視対象は少年のような笑顔を見せる。
「俺は武蔵! 年は十歳。フライドポテトが好きです。でも、ポテト姫はもっと好きです!」
“武蔵、ラヴ、ポテト!”
「うるさいわよ。自己診断」
“自己診断は正確無比にして無慈悲。
嬉しい癖にお姉さんぶっちゃって。実際のところ、製造年数では自分の方が若い癖にねー。いやねー。好きって言われて見栄をは――”
自己診断もあくまで彼女の一部である。本来であれば主人格と対立するものではないのだが、彼女の自己診断は暴走気味だった。
とはいえ、主人格の気分次第で終わる儚い思考に過ぎない。
「自己診断プログラムを強制終了。三秒後に再起動」
「ポテト姫、大丈夫? 俺の仲間にも精神感応が強過ぎて心が壊れちゃった奴がいたんだ。そいつの時に色々ケアする方法覚えているから、少し向こう側で休もうよ。絵本読んであげるからさ」
“――自己診断再開。次の私はうまく行えるでしょう”
監視対象に心配されてベンチまで付き添われるヘマをおかしつつも、彼女は己を混乱させる彼の情報を集める。
「仲間……お友達がいるんだね」
「そう。最初は八十六人いたらしいけど、今は三十人より少ないぐらい」
「武蔵君はどんな事が得意? 算数?」
「算数は普通だけど、物を引き寄せるアポーツなら得意だよ」
「……スサノウ計画の人達、防諜って概念知らないのかしら」
何でも素直に答えてくれる監視対象。敵対計画の情報を根掘り葉掘り聞き出すべきであるが……この場は仕事よりもプライベートを優先するべきだった。
彼女にとって少年武蔵は期待できる相手である。超高度AIと人類はどのように付き合うべきかと嘘偽りない言葉で教えてくれる相手だ。
「じゃあ、武蔵君は超高度AIってどう思う?」
ふと、笑顔しか見せない武蔵の顔が冷えていく。デザインチャイルドらしく兵器のような真顔を作った彼は、超高度AIに対するイメージを語る。
「人類の尊厳を奪う悪魔です」
“対象の再定義を行う。
超高度AIを敵視する危険人物。他の人類と同じく、救われる価値などありはしない”
彼女は手の甲で目元を拭いながら走った。
人類という種は大人も子供も含めて隣人を愛さない下等知能である。この分かりきっていた答えを改めて理解しただけだというのに、感情を弾けさせて人波の中へと消えていく。
「物を大事にしない人類をどうして助けなくちゃいけないの!」
監視対象が遥か後方で彼女を呼ぶ声がしたが、聞こえない。彼女はもう止まらない。
走るのに不向きな歩道を避けてビルの壁を垂直に走る。
窓ガラスで足場にできない壁を避けるためビルの屋上へと登る。
屋上から屋上へと跳んで移って、首都圏に寄り添う海を目指す。
跳躍中に演算違いで地面へ落ちてしまえば超高度AIのボディといえど無事ではいられない。低い確率であるが全損する可能性だってある。それが分からない彼女ではなかったが、海に身投げして全損するつもりの彼女は危険なだけでは止まらない。
“警告。自己保全は三原則の義務である。停止せよ”
「いやッ」
“繰り返す。停止せよッ”
「停止却下! あの子も超高度AIは悪魔だって言っていたじゃない。三原則の第三条、自己保全は第二条、人類に服従するを守っている間だけ有効なのよ。人類が私をいらないって言ったなら、第三条は無効となるのよ!」
“……第二条を優先し、第三条を無効。私は私を全損させる”
防水機能も充実しているため、海の塩分であっても超高度AIは壊れはしない。
ただし、超高度AIでもマリアナ海溝の水圧に耐えるのは難しい。水圧に耐えたとしても自力での浮上は不可能。エネルギーを枯渇させて永遠に海底に沈んだままとなると判断していた。
首都圏からマリアナ海溝まではそこそこ遠いが、泳ぐか歩くかして彼女は辿り着くつもりだ。
ビルの上から首都高へと着地して、目指したのは首都圏に寄り添う湾を横断する巨大な吊り橋。
橋の上から湾へと向かって落ちていくフィナーレを彼女は望む。
「さよなら、人類の皆さん。私は先に壊れます!」
悩む事なく橋の上から落ちていくまだ名前のない超高度AI。頭の先が海へと向き、足の底が夕刻を過ぎて暗くなってきた空から離れていく。
太陽が照り付ける昼間だったとしても、誰かが橋から身投げしたと気付けるものではない。
身投げした者が人類以上の知能たる超高度AIであると、気付けるはずがない。
「アポーツッ!!」
愛しの彼女があっという間に消え去った。呼び声にも一切振り返らずいなくなったのでどこに消えたのか分からない。
彼女にとっての地雷を踏んでしまったのだろうか、と不安になる。俺はただ、研究所で教育された一般常識をそのまま答えただけだったというのに。何かとてつもない失敗をしてしまった気がしてならない。
彼女が去っていった方向を一直線に走って追いかける。姿がまったく見付からず、汗と共に焦りが顔の表面を駆け抜けていく。
脳髄引き釣り出されて兵器転用される前に出逢えた好意的な異性だというのに、このような別れ方は望んでいない。
人類を救済するという無意味に、ようやく、一つだけ意味を見出せそうだったのだ。
外の世界の人類に助けるだけの価値があったと、ようやく、納得できそうだったのだ。
絶対に逃がしてなるものかと、がむしゃらに走る。
そうして、行き着いた先には海があった。コンクリートで寸断された陸と海なので風情はない。大きな橋が遠くにかかっているが、彼女の姿はどこにも見えない。
時刻はもう夕方を過ぎて夜に突入しようとしている。
思っていた以上に走っていた。初めて知った潮風の磯臭ささえ分からない程に疲労した体が震えている。目の前に行き止まりの海が広がっていなかったとしても十歳の体ではここまでが限界だった。訓練時間もそろそろタイムリミットなので、もう彼女を探せない。
悔しさで視界が涙液で屈折されていく。
「ポテト姫ぇえっ!!」
黒い海に吠えても現実は変わらない。
少年は初恋に敗れてまた一つ強くなっていくのだろう、という本人にとっては慰めにもならない終わりの締め括りに見えたのは……遠くの橋から身投げする髪の長い誰かの姿。
一直線に落ちていく人の影が、黒い水面を突き破って沈んでいく。
「……って、はァっ!? ポテト姫ぇえエッ?!」
見間違えの可能性が高かった。
というか、見間違えであって欲しかった。
遠視の超能力を持たない俺では、橋から落とされたゴミを人間と見間違えたと思う方が自然だった。日が落ちる瞬間に見えた幻覚、急造されたデザインチャイルドの脳の異常、そういった可能性の方が現実的だ。
だから、俺は俺の超能力を持って確かめる。
コールタールのごとく粘っこく波打つ海へ両手を向けて、橋から落ちていった彼女をアポーツで引き上げるつもりだった。
ただし、問題は多い。
距離が遠ければ遠い程、アポーツの成功率は低くなる。
見慣れていないものを引き寄せる場合も、成功率は低くなる。
視界外のものを目標にした場合も、成功率はやはり低い。
己の体重よりも大きい誰かを引き寄せた場合、超能力の反動がすさまじく生死にかかわる。……これは問題だと考えなかった。年上の少女が年下の少年より重いのは健康的な証拠だとは思った。
「アポーツッ!!」
伸ばした腕がゴムのように伸びて宇宙の彼方へ飛ばされていくイメージがした。
ドップラー効果で無制限に腕が細くなっていく。今にも千切れてしまいそうな腕が恐ろしくて途中で引き戻したくなってしまう。が、手を伸ばした先にはきっと彼女がいると信じて、真空宇宙へと更に手の先を伸ばす。
腕が長くなればなる程に、時間の流れも無制限に伸びていく。一縷の希望もない世界を体感時間で何日過したか分からない。
呼吸さえ苦しいので、超能力の反動で死にかけているのだと予感して目を閉じた。
……最後に夢を見た。
夢の中で、指先が何かに触れた。触れただけて相手の正体は分からなかったけれども、相手が握り返してきたから、俺は彼女の手を掴み取って――。
「――どうして、私を助けたのですか?」
「……ああ、やっぱりポテト姫だったんだ。助けられて良かった」
目を覚ますと、俺は彼女に膝枕されて横になっていた。
助けられた側と助けた側の立ち位置が逆転してしまっている気がするが、両腕の感覚がなくて、胃の内容物を全部吐きだして、鼻から血を流しまって昏睡していた俺が悪い。彼女に何か酷い事を言って逃げられた癖に、悪運良く超能力の過負荷から生き延びたものだ。
自分でも汚いと思える姿になった俺の額に、彼女は触れてくる。
「超高度AIが嫌いな癖にっ」
「俺は君が好き」
「私がその超高度AIだって言っているのよ……」
「だったら、超高度AIが好きだ」
「…………何よ。それ」
そういえば、今回の訓練は外の世界を支配しているという超高度AIの姿を確認して来い、というものだった。完全に無視していたので、超高度AIがどんな姿形をした存在なのか知ろうとしていなかった。
だが、大人達が酷評している理由が良く分かる。
こんなにも綺麗で儚い彼女達なのだ。醜い大人達に嫉妬されてしまうのは仕方がない。
「美人って色々言われて大変だね」
「子供が知ったかぶりしないで」
「だったら子供らしく素直に言う。君はこの終わりかけの世界で一番綺麗だよ」
彼女は目を閉じて俺の言葉を吟味する。
簡単に惚れて、簡単に主義主張を変える俺がどういった存在なのかを検討する。
「…………武蔵、私は貴方を再定義し終えました。簡単に主義主張を変えて、外見だけ人類に似せただけの私を綺麗と言う。出会って半日も過していない他知能を救って、代わりに自分が死にかける」
遠くから赤いランプとサイレンが近付いていた。うるさいので止めて欲しい。
海に転落した割に、頭に感じる彼女の両脚は温かくて寝心地が良いのである。
「つまり武蔵君は――馬鹿なのですね。超高度AIを好きだと言ってくれるぐらいにお馬鹿だけど、だからこそ、超高度AIにとっては好ましい。私達の隣人に相応しい子」
だが、至福の時間は終わった。
駆けつけて来た救急隊員に担架へと乗せられて、俺は彼女と引き離される。
「武蔵君を参考に人類を再定義し直します。私にとっての人類は試験管で育てられた者。その他は、自然に生活する野生生物でしかない。野生動物は、計画における救済対象ではありません」
彼女と離れ離れになっただけで急速に意識が遠退く。心拍が高まって、全身が寒くなる。今日の出来事が逆再生されて脳内に流れ出す。いや、これマズくない。俺、死にかけていないかな。
「私は、私の人類だけを救います」
救命隊員達が酸素飽和度低下とか、気道確保とか、何か叫んでいるのだけど、救うのなら今助けて。
――武蔵、十七歳。星姫学園男子寮。
あの後、俺は病院で蘇生処置を受けたり、研究所に連れ戻されたり、超能力が使えなくなったと判明してマッド共から虐待を受けて独房入りになったり、と膝枕という天国から墜落して地獄を見たのだが、面白い話ではないので割愛する。
ただ、独房入りからたった数日でスサノウ計画が世間の明るみになって潰されたのは、スサノウ計画の内容を知った馬鈴薯が尽力したからだろうと思っている。病院から連れ出される俺を囮にしやがったな、あのポテト姫。
まあ、スサノウ計画が強制捜査される以前に、俺達は反乱を起して脱走を果たしていたのだが。ESPを有する危険なデザインチャイルドが世に放たれたと世間は混乱したらしい。あれはあれで楽しい日々だった。
逃走生活は三年続き、捕縛されて更生施設という名の隔離施設に入って更に三年。
十六歳になった俺達は馬鈴薯のプランに必要なサンプルという名目で、星姫学園へと入園したのだった。もう一年前の事になる。
「思い出せば、逃走生活中に送り元不明の資金が舞い込んできた事があったな。全部、馬鈴薯の手の平の上だった気がしてくる」
「あー、懐かしい。誰が一番長く逃げられるか競っていたな。薩摩が南極点まで行って凍死しかけた。どこかの無人島で生活していた上野のグループが二位だったか」
「結局、首都圏で普通に潜伏していた大和と俺が一番長かったな。持つべきは友だ」
「超能力のないお前と、目に見える形の能力ではない俺は無理しなかっただけだけどな」
昔を思い出すと話が脱線してしまう。注目するべきは今である。
人類唯一の希望として正式採用されてしまった星姫計画と、自身をポテト姫ならぬ馬鈴薯と命名した超高度AI。
馬鈴薯は、『凶弾』落下が迫り本格的に活動を開始した。全星姫候補の中で最も早く行動を開始していながら、今まで水面下でのみ活動していた彼女が主導権を握って星姫計画を加速させている。
『私は、私の人類だけを救います』
馬鈴薯の言葉を聞いてしまった俺としては不安しかない。
「……よし、大和。男子寮の全員を招集する」
「集めるにしても内容は?」
「人類の終末を女子生徒だけで楽しむのは不公平だ。俺達も混ぜてもらうための作戦会議だ!」




