2-5 勝負受諾
「走りで勝負だっ! 竜髭菜」
「……はァ?」
下等知能を馬鹿にする白い目を向けてくる竜髭菜。ここまで乗りが悪いとは正直思っていなかった。若干以上に精神にダメージを負ってしまったものの、一度口の外に出した言葉を引っ込める訳にはいかない。
「竜髭菜! 勝負してください!」
「……アァ?」
丁寧に言ったのにガン付けられて、自分が思う以上に意気消沈してしまう。
駄目だ、めげてはいけない。人類は負けない。
「竜髭菜さん。ぜひ、あの……走りで勝負をですね」
「……あ?」
この超高度AI。言語の機械学習に失敗しているのではなかろうか。さっきから人間の言葉を喋っていない。
勝負を挑む相手に謙るのもどうかと思うので、低姿勢になりかけていた体を垂直に立てらせる。竜髭菜の目をしっかりと見た。
「今日の放課後、このグラウンドで徒競走だ。走り姫と呼ばれるお前が徒競走を拒否しないよな」
俺はずっと竜髭菜が登校してくるのを待っていた。
待っている間、ぼーっと机で過していた訳ではない。鈍っている足腰の筋力強化のために毎日運動していた。誰も走らないトラックが寂しい思いをしていたので、走り姫の代わりに俺が走っていたのである。
最近は自己ベストを更新する事に夢中になったぐらいだ。……ちなみに、カロリー消費量が増えて夜の空腹が更に辛くなっている。
「勝手にやってろ」
「――と、竜髭菜が大腸菌を見るような目で断ってくる事ぐらい想定済みだ。勝負だから報奨はきちんと用意してある」
「超高度AIを物で釣ろうっていうの。AIに頼り切りの人類が何をしてくれるって?」
勝負を面白くするスパイスとして、勝利者にプレゼントが与えられるのは定番だ。
俺は竜髭菜に走る意味を送りたい。
そのためにも、まず、実利で釣る。
「竜髭菜が勝ったら、お前にかかっているすべての機能制限、権限制限の解除を約束しよう」
まだ言葉もうまく喋れない子供が、ミレニアム懸賞問題の解法をぽつりと呟く光景を目撃した。そのような驚きの表情を竜髭菜は見せてしまう。
だが、直に奥歯を噛んで表情を引き締めた。驚きという肯定を表現してしまった己の迂闊さを恥じ、同時に、低脳の人類ごときが己の恥部に気が付いていた事実に怒気を生じさせる。
青い短髪の先が剣山のように鋭くなっていく。
勝手に触れてはならない超高度AIの恥の部分に手を出して来た俺へと、憎しみの視線が突き刺さる。
より高度な知能を有する非人類の怒りを買うのは恐ろしい。が、機能制限に絡めとられた少女の前から逃げ出さない。
呼びかけても聞こえないぐらいに聴覚も制限されている竜髭菜と会話するためには、彼女に俺の唇の動きを読み取ってもらうしかないのだ。
「アンタごときがっ、馬鹿言わないでっ」
「そうでもない。そうだな……、勝負の前に敵に塩を送っておこう。大腿筋の動きまで制限された相手に勝っても楽しくない」
「ほざかないでッ」
超高度AIたる竜髭菜の不調。
人類のように病の心配のない星姫候補が機能不全に陥っていると気付くのは難しい。ただ性格が悪いAIなのだと平然と勘違いしていたのだが、思い出せば、竜髭菜からは色々なシグナルが発せされていた。
夜になっても竜髭菜は走り続けていた。それは、昼だろうと夜だろうと視覚制限されたコンディションでは影響がないから。
俺と衝突したのに竜髭菜は走り続けていた。それは、光学的なセンサー類のみならず触覚さえも制限されているため、誰かとぶつかったと思わなかったから。
教室で話しかけられても立ち止まらず竜髭菜は走り続けていた。それは、聴覚が一切働かず何も聞こえないから。
学園以外で接点のない俺でさえ、竜髭菜の不調に気付いたぐらいだ。本人はより深刻な不自由を感じているのだろう。自分の体なのに他人に権限を奪われたもどかしい状態が続けば、他人に冷たく当たってしまうのは当然だ。
竜髭菜も星姫候補、元から捻くれていた訳ではない。
元は人類を救おうと必死に思い、そして断念するしかなかった可哀想な機械の子だ。彼女にも優しさや労わりがあって、俺達と気持ちを共有できる子なのだ。……たぶん!
「シリアルナンバー001、馬鈴薯。聞いているはずだよな!」
一度、校舎の方向へ振り返る。どこかにいるであろう相手に、俺は大声で頼み込む。
「頼む! シリアルナンバー015、竜髭菜の権限制限を緩和してやってくれ。本気で走れるようにして欲しい!」
正直に言うと、相手の姿が見えない状態での一方的な頼み方は好みではない。
弱みある相手が絶対に俺の頼みを聞いてくれると確信しているなら、なおさらだ。
竜髭菜の制限は超高度AIの規定に即した公平な処置だというのに、横からしゃしゃり出た人類が解除請求するなど無理であり無駄である。超高度AIらしく杓子定規に断ってくれても良い。
「どうしてここで馬鈴薯!? いえ、彼女がアンタの言葉に従うはずがない。たとえ従ったとしても、星姫学園統括AIは私達から隔離されたスタンドアローン。たった一体の星姫候補の要望なんて無視され――嘘っ?!」
最初の星姫候補。シリアルナンバー001ともなれば模範的な行動が求められる。
けれども……馬鈴薯は俺の頼みだからと張り切って承認してしまうのだろうな。
“――星姫学園統括AIより要請コード。シリアルナンバー015宛。
星姫候補の三分の二以上からの嘆願により、制限事項の一部見直しが行われた。
グラウンドのトラック上において、シリアルナンバー015は運動機能を無制限使用可能となる”
竜髭菜が眩暈を起してコースの白線上でたたら踏む。
いや、眩暈のようで眩暈ではない。一パーセント未満まで制限されていた身体機能が復帰した事による情報量の増大に、クリアに見える視界の素晴らしさに、頭が追い付いていないだけだ。星姫候補なら直にカンを取り戻せるだろう。
「どうだ、竜髭菜。勝負を受けて、勝負に勝てば常時制限のない生活が送れるぞ」
「……アンタ、本当は何者?」
「同じ学園の同級生のはずだが?」
「はぁぁ、屈辱。こんな開放感を知ったら、どんな条件でも飲むしかないじゃない……」
思った通り、たった一秒でブランクを取り戻した竜髭菜がしっかりとグラウンドに立つ。二、三度その場で軽く跳び、地面の感触を確かめている。
機能制限のない体を、小動物のように跳び跳ねて喜ぶ。
重し付きの鎖から解き放たれた高揚感に、竜髭菜の心は舞い上がる。
「いいわ。勝負とやら、乗ってあげる。このコンディションなら負けるはずがない」
それまでの不機嫌さは吹き飛んでいた。酷く嬉しそうに竜髭菜は俺と向き合う。
「よし。勝負の時間は授業が終わった後、場所はこのグラウンド。勝負内容は走り」
「何が目的か知らないけど、そんなチャラい条件なら全面合意してあげる。証拠に、星姫候補の承認証だって発行するわ」
手持ちの端末――某歌い姫に破壊されたので二代目――にアスパラガスを抱えた小人のスタンプが届けられる。竜髭菜の承認証だ。
電子的な印に過ぎないが、星姫カード以上に貴重なものである。
「あー、それと勝負だから、竜髭菜が負けた時のことも決めておきたいのだが」
勝負を挑んだ側である俺は勝つつもりだし、策もある程度準備させている。
ただ、勝利そのものが今回の主題ではないため、竜髭菜が敗北した際に何をしてもらうか一切考えていない。彼女に訊ねたのも勝負という建前のためでしかない。
「私が負ける? そんなのありえないから」
「いや、そうは言っても勝負だから出せるものを考えて欲しい」
落としどころは食堂のA定食か、星姫カードへの直筆サインぐらいだと俺は思っていました。本当です。
「面倒。どうせ実現しないし、何でも良いわ」
「……ん、何でも?」
大気が澱む。邪念交じりのザワ付きが校舎から激しく伝わってくる。
「走り姫の……何でも?」
「マジかよ。あの走り姫が、添い寝してくれるのか。ごくり」
「いやいや、もっと凄い何でもだろ。手を握ってくれるとか弁当作ってくれるとか」
「たった一度の願い事だ。フル活用するなら……ハッ、結婚か」
「だ、誰か! 上位権限者呼んできて! 馬鈴薯が笑いながら地下格納庫の起爆コードを打ち込んでいるの!」
一部を除いて皆ピュアだなぁ。
制限解除で感覚が復帰している竜髭菜が、校舎――にいる男子と一部の女子――から伝わってくるプレッシャーに怪訝な顔をする。よく分からないままに体を両腕で抱えてガードする。
「お前は何でもやってくれるのか?」
「な、何でもって言っても、何でもはできないわよ。私の権限で出来る範囲だけ。それと青年法にひっかかる事は三原則的に無理で、ありえないし!」
超高度AIらしいファジーな何でもである。
運命の放課後、天気は快晴。
誰もよりも先にグランドへと現れていた竜髭菜は、陸上ユニフォームとスパイク付きのシューズを身に付けている。そこはいつもと変わらない。
いつも以上にウォーミングアップを行っているが、勝負を意識している訳ではないだろう。普通に体を動かせる喜びを味わっているからに過ぎない。
一方、勝負相手である俺は体育の授業で着る体操着に運動靴。気合を表すために鉢巻も額に巻いていた。
若く柔らかい体だからといって運動前の準備を怠ったりしない。竜髭菜と並んでアキレス腱を伸ばし始める。
「走る距離は五十メートル?」
「いや、せっかくグラウンドが広いんだ。百メートルにしよう」
「誰の目から見ても圧勝になる。私がゴールテープ切った時には、アンタは遥か後方よ」
「ふ、走る前から勝ったつもりとはな。もう頭の中では計算が終わっていると?」
「演算の必要がないくらいに歴然としているはずだけど?」
横目で俺を見てくる竜髭菜の顔は笑っている。ウサギがカメを憐れむ表情だ。直に全力疾走で酸欠に苦しむ表情に変えてやる。
ストレッチが完了し、二人でスタートラインに立ち並ぶ。
ゴールはグラウンドの端。かなり遠い。
「勝負なのに合図はなくていい訳?」
「三、二、一の掛け声で良い。それとも審査員が必要か?」
「別に。何なら少し遅れて走っても良いぐらい」
竜髭菜は立ったままの姿勢で合図を待つ。俺のようにクラウチングスタートの体勢になっていない。まったく、この超高度AIはどこまで人類を舐めていられるだろうか。直に吠え面をかかせてやる。
今朝は目立っていたので、勝負は特に告知されている訳でもないのに学園生徒に注目されていた。二階の教室の窓からは多数の女子生徒の姿が覗える。一部はグラウンドまで下りてきて勝負を近くで観戦だ。
オレジン色の髪の人参はグラウンド組で、俺に対して手を振っている。もちろん、手を振り返します。
「場はすべて整った。竜髭菜。勝負を開始する。余裕こいていられるのは今の内だぞ。……三」
「言っていなさい。……二」
「勝つのは俺だ。一ッ!」
「私が勝つから。一ッ!」
長年付き添った夫婦みたいに完璧なタイミングで、誤差なく二人で走り始める。
前傾姿勢のまま先を行くのは、俺だ――。
「げふぉ、ぐへフォ。おえぇぇ」
酸欠で死にそうな顔をして、ゴール直後の地面に倒れ込んで吐きそうになっている敗者。
勝者は敗者を笑う権利を有しているが、勝者であれば己の格を落とすような真似はしない。
「――お、遅い。遅過ぎ。何で男子平均よりも三秒も遅い癖して、勝負なんて挑んできたのやら……」
勝者の竜髭菜は呆れた表情を作るのに忙して、全然笑っていなかった。地面で悶える俺を不憫に思ってスポーツタオルを投げてくる優しささえ見せてくれる。
「勝負になっていなかったけど、勝ちは勝ち。約束通り、私の制限をなしにしなさい」
だから、代わりに俺が笑う。
「う、げフォ、おフォ」
失礼。唾が気管に入ってしまった。
呼吸を落ち着かせてから、改めて勝者だと勘違いしている竜髭菜を鼻で笑う。
「ふ、誰が一回勝負だと言った?」
「へ?」
「まだ勝負は終わっていない。二走目だ!」
ゴールとスタートを入れ替える。
血中の酸素飽和度に不安を残しつつも、俺はゴールラインぎりぎりに両手を付いてクラウチングスタートの体勢に入る。
「アンタ、何言っているの??」
「早く並ぶんだ。竜髭菜。カウントダウンを開始するぞ。三」
「勝負が複数回って、何?」
「二」
「そもそも回数繰り返しても意味ない癖に」
「一ッ」
「何度走っても、私の楽勝なのに。はぁ……」
スタートラインに近付いてもいなかった竜髭菜を残して俺は走る。
竜髭菜はスタートラインに変わった白線の十メートル後方。女子相手に百メートル走で十メートルのハンディキャップ。これでは負けられない。
一度酸欠になった事で肺が大きく膨らんだ。一走目よりも速く走れている実感がある。
けれども、後ろから近づいて来た疾風が、あっと言う間に俺と並んで追い越していく。
「は、速いッ」
「アンタが遅いのよ」
竜髭菜の走りは本物だった。2080年の女子百メートルのレコードを上回る速度を叩き出している。
ゴールに到達したのは当然、竜髭菜。俺は三秒以上突き放された。
悲鳴を上げる足の筋肉。
悲鳴さえ上げられない肺。
倒れ込んでしまいたい気持ちに鞭打って、今到着したばかりのゴールラインぎりぎりに手を付く。
「さ、三走目だぞ?」
「まだやるつもり? 諦めが悪い」
「勝負は、まだ終わっていない! 三、二、一!」
立ち止まっていた竜髭菜を置いて再び走り出す。
そして、百メートルの中盤で追い抜かれてしまって、また惨敗してしまう。
「はぁ、はぁ、はぁ、四走目ぇ……三……、二……、一ッ」
「はぁぁ。まだ?」
四回やっても結果は変わらない。連続して走っている俺のスタミナが尽きて見苦しさが増しただけである。
これまででもっとも差を付けられて負けてしまう。
倒れていく体をどうにか機動修正して、出来損ないのクラウチングスタートに形作る。
「……五……走目。……さん、……に、……いちッ」
「まったく意味が分からない。人類の不条理で不完全な生態については学んだと思っていたけど、今日のアンタほどに意味分からないのは初めてよ」
分からないだろう。
分からないから、教えたいのだ。人類の醜い足掻きの末に、どんな意味が待っているのかを竜髭菜は知っていない。だから教えたい。
だが、彼女が気付くよりも先に俺のスタミナが底に付いてしまう危険がある。毎日一食のみで暮している肉体は引き締まっているというよりもガリガリで、走り続けるのに必要なエネルギーを備蓄するスペースが足りていない。
五走目の後半は歩く速度でどうにか走ったが、とうとう、その場から立ち上がれなくなってしまう。
「やっと終わり? 無駄に粘っただけね」
違う。まだ終わっていない。けれども立ち上がれない。
駄目だ。まずい。
「エンドレス勝負だとしても、不戦勝なら私の勝ちで間違いな――」
悔しいが、確かに俺の走りでは竜髭菜に敵わない。本気を出させる事さえできず、五回の百メートルも彼女にとってはウォーミングアップレベルだったに違いない。
俺は竜髭菜に勝てなかった。
だが……俺ではなく、俺達であれば負けていない。
「――その勝負、俺達も参加させてもらおうかッ!」




