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探偵とジョーカーのパソドブレ 短編集  作者: 探偵とジョーカーのパソドブレ企画
3/3

火之道間

 今時めずらしい毛筆で書かれた文字をなぞると、内に込められた執念が手袋を染めてしまうのではないかーー。

 探偵協会会長である男はそう考えながらひっそりと笑みを浮かべ、紐で綴じられた資料の表紙を指先で撫でた。


『探偵、火之道間に関する意見書』


 ずっしりと重いそれを持って来た張本人、吉賀崎善は革張りのソファにゆったりと体を預けて窓の外を眺めている。今しがた降り出した雨は急激に勢いを強めた。所謂ゲリラ豪雨というものだろう。ビルの上階から見える景色は灰一色だ。

 探偵協会本部にある応接室は外の喧騒など知らぬといった沈黙で満ちていた。吉賀崎に連れ添って来た助手ふたりは会長と秘書の二名が揃うまでは随分とヒステリックであったが、それもここに漂う圧力に負け、落ち着いたようだ。

 意見書に目を通しながら用意された氷入りの緑茶で唇を湿らせ、会長は思案する。

 いつかこんな声が上がると予測はしていたし、どう対応すべきかも幾通りと考えてきた。しかし実際に吉賀崎の鋭い眼力と、締めくくりの一文を目の当たりにすると、歳を取ったとは言え自身の感情を制御するのに少しばかり難儀した。


『よって火之道間から探偵資格を剝奪し、異形の者として然るべき取り扱いをされたし。』


 貼り付けられた証明写真は二十年以上前に撮られたもので、端が淡く褪せているが、そこに写る表情は現在とほとんど変わりがない。青年を協会本部のビル裏口で拾ったのは、この写真を撮る少し前だった。

 会長自らが率先して探偵に仕立てた青年、火之道間はその身の内に人間である己と異形の者である悪神とのふたつを収め、老いない肉体で今日も駆ける。



――



「貴っ様! いつまで逃げ回るつもりか!!」

 ビルとビルの隙間。薄暗い路地には不似合いな錫杖が鈍い光を揺らし、持ち主の激しい動きに合わせ音を奏でる。突然降り出した雨と、水気を含んだ足音がふたつ。それを気まぐれに裂くのは遠い雷に似た異形の者の低い唸り声だ。

 異形の者は自分を追う探偵ーー火之道間から受けた傷をものともせずに、飛び跳ねるような軽い足取りで前へ前へと駆けていく。敵とは対照的に苦しげな表情を浮かべた火之は目の周りを落ちる水滴を肩で拭うも、既にぐっしょりと濡れきった道着では思うようにならず、積み重なるままならない現実に盛大に舌打ちをした。

 数日に渡って追って来た異形の者と対峙した矢先のゲリラ豪雨。展開した火炎の術式は強すぎる雨に威力を弱め、止めの一撃には成りきらなかった。それでも敵の体からは黒い粘液が沸き出るように零れており、これなら武術で追い詰められると、そんなほんの一瞬の油断がこの追走劇を招いた。

(ぬかった……!!)

 あのときの術式が完全だったならば。悔んでも仕方ないとわかりきっているはずなのに、その一言が火之の頭の中をぐるぐると巡った。

「くそっ!!」

 気付かずに踏みつけた水たまりが大きな飛沫をあげると同時にスニーカーの中へどぷりと雨水が流れ込む。足を止めずにそのまま進めば、溜まった水が上下して足の指の隙間をくすぐっていく。いっそ裸足の方がマシだと毒づきたい気持ちをぐっと抑え、滑る錫杖をきつく握り直した。

 今回の排除は対異形種専門チームを有するつかさ警備と合同で行なっているとはいえ、自分の不手際の後始末は自分でつけるべきだと火之は考えていた。ただでさえこの身を忌避する人間の多い探偵業界で、誰かに弱みを見せるなどもっての外だ。今まで向けられてきた数多の侮蔑の眼差しが記憶の奥でちかちかと明滅した。

 大きく頭を振って目の前の異形の者に集中しようと努めるが、天候、足場、出血とあらゆる悪条件が重なった相手との間でじわじわと開く距離に焦りが募る。人間としては大柄な火之とて、大型の異形の者にはとても敵わない。歩幅の差を見れば、ここまで追ってこられただけでも十分過ぎるくらいだ。


 ーー雷鳴。

 違う。異形の者が発した笑い声とも取れる雄叫び。

 怯える子のように周囲の窓ガラスがびりびりと震え、脳のど真ん中に突き刺さるような刺激に立ち眩んだ。

 右へ左へと徐々に高く、ビルの壁面を蹴って羽ばたくように逃げ去る相手を視界に捉えながら、火之は動かない手足を持て余し、じっと雨に打たれた。

(こんな体たらく、会長殿に、……師匠にだって顔向けが出来ん)

 ようやく動くようになった指先で、つかさ警備の善知鳥束に持たされたスマートフォンから彼らへ連絡する。敵を逃がしたこと、逃げた方向、怪我をしているものの身のこなしが異様に軽かったこと、恐らく次に成り変わる人間を探していること。それらを一方的に伝えて通話を終了させた。

 足音の消えた路地裏に排水管を滑り落ちる濁流の音が虚しく響く。俯いたまま汚れきったスニーカーを眺めていても埒が明かん、と濡れた髪を乱暴に後頭部へと撫でつけると、額に浮かび上がった鬼のツノのような突起が手のひらをくすぐる。火之の胸は一層苦しく詰まった。

「…………うるせえぞ! 笑ってんじゃねえ! この畜生めが!!」

 火之は一人きりにも関わらず、何者かにそう怒鳴り付けると自らの胸を力いっぱい拳で殴り付けた。そしてもう一度「畜生」と吠え、がむしゃらに駆け出す。

 敵を追うためではなく、耳元にこびりつく笑い声から、現実から逃れようとする走りだった。



――



 膝の上に置いた意見書の束をテーブルに戻し、会長は吉賀崎へと向き直った。彼が助手を連れてここへ来るのはもう何度目か数えることを止めて久しいが、こうするたびに自分らしくもない緊張を覚える。

 自身が探偵協会を取り仕切るようになってから多くのことを変えてきたが、そのなかでも一番は「機関への登録を済ませた者に限り、異形の者にも探偵資格を与える」という項目だろう。

 決定の前段階から今日に至るまで、それは常に議論の槍玉に挙げられてきたし、吉賀崎のように抗議活動を続け、直談判にやって来る者も少なくない。それでも、異形種全体ではなく火之道間という個人に対してのみ真っ向から意見してきた人物は吉賀崎が初めてだった。口火を切るのは大抵この男なのだ。

「君は火之道間という者の危険性を、まともに考えたことがあるのだろうか? 私には、それが疑問だ」

 吉賀崎は独特のゆったりとした口調で言うと、助手に合図し意見書を自分の手元に置いた。はらはらとめくられていくページがある箇所で止まる。彼は会長にはっきりとそれを見せるでもなく、小指、薬指、中指、人差し指、と順番にリズム良く紙を叩く。

「彼の青年は、ひとつの体に異形の者と暮らしているという。異形が人を真似ている、空の人間を器として使っている、そのどちらでもない。まったく訳が違っている。にも関わらず、機関の監視下に置かれるわけでもなく、また探偵に追われるでもなく、人間として、あろうことか探偵として、生きている。

 いつ隣人を食い荒らすかも知れぬ者が、何食わぬ顔で、正義を気取っている。何故だろうか、我らのしてきたこととは何なのだろうか。敵に、新たな抜け道を示すことが、今の時代に適していると、そういうお考えか?」

 静かな笑みをたたえて助手を見やると、ふたりは待っていたとばかりに吉賀崎に賛同した。会長と同年代の吉賀崎よりも二周り、下手をすればそれ以上に歳が離れているであろう若者はすっかり吉賀崎所長に心酔している。

 乾いた指先によって幾枚か紙が戻る。大きく開かれたのは先程の古い写真のページだ。隣には丁寧に頭を丸めた男の写真も載っている。吉賀崎の手はその僧侶の下で止まった。

「君が、この妙光氏を慕っているのはよく知っている。知っているが、氏の力以外に火之道間の安全性を示すことが可能か」

「妙光先生の護符は強力なものだ。ここ数年、彼が人間として正しく生きて来たことからも明白だろう」

「はっ、ははは。護符ひとつで誰もが異形と仲良く肩を組んで暮らしていける、と? 我らが彼に全幅の信頼を寄せられると、そう言うつもりか?」

「……何もまだ話はすべて終わってはおらんだろう、」

「異形を排除するため味方に背を向ければ、その実、敵に挟み撃ちにされ命を落とす。そんなことが起こらぬと、なぜ言い切れる」

 語尾を強めた吉賀崎は柔らかく開いていた指先を揃え、大きくテーブルを叩いた。響く衝撃音が助手を縮こまらせる。その姿を見た会長は、思わず手のひらで自らの顎をなぞった。

 写真に写っていた僧侶ーー妙光は火之の育ての親である。

 異形の者に家族を奪われ寄る辺を無くしたまだ幼い火之を拾い、育て、彼に巣食う悪を抑えるだけの強力な霊力を護符に込めて亡くなった。

 僧侶としてだけでなく、探偵として、術式の第一人者として、多くの人々に慕われていた存在で、会長や吉賀崎の記憶にもその名は鮮明に刻まれている。

「彼のなかの異形の者がどのように変化しているか、我々には知る術がない。弱体化しているのか、息を潜めて力を蓄えているのか。

 では吉賀崎、君はどうするんだね? あの探偵妙光ですら太刀打ちできなかった程の異形の者を、今あれの体から引きずり出し、誰が排除出来るというんだ?」

「お、お言葉ですが! 妙光氏が火之道間に住まう異形の者に殺害されてから二十年以上が経っています! その間に探偵協会だけでなく、機関や研究所も異形の者への研究を進めているじゃありませんか!」

「そうです。過去に太刀打ち出来なかった相手でも、現在も同じとは限りませんよ、会長」

 これまで静かに座っていた助手たちが我慢ならないと口を開く。

 確かに彼らが言うことも間違いではない。我々はここ数十年で新たな発展を遂げてきた。霊力、科学、統計。あらゆる角度から異形の者へアプローチをしている。そんなことは誰よりも協会の頂点である会長が熟知していた。

 それでもなお火之道間に潜む闇を晴らすために出来ることはない、とそう判断せざるを得ないのが現状なのだ。

「立場上、無暗矢鱈と一般市民を危険にさらすことは出来んのだよ。敵を排除出来るという確証がない以上、行動を起こすことは認められん。それまでの間、ひとりの青年を異形の者の檻としなければならないことを探偵協会会長として、ひとりの探偵として、そして人間として、情けなく思うがね」

「……今すぐに異形を排除せよ、とは言ってはいない。話のすり替えは止してもらおう。

 まずは、彼から資格を剝奪すべきだと、言いたい。他の資格保持異形種はまだ理性がある風に装って見えるが、彼の中身はどうだろうか? あれは違う、理性と感情がばらばらだ。そんな者とは誰も手を組まん」

 吉賀崎の言葉に、会長は指を組んで応える。

「私が彼を探偵にしたのは、異形の者がどういうものなのかを理解させ、対処する能力を身に付けさせたかったからだ。生きる方法を教えるためでもある。

 君の言う通り資格を剝奪した後はどうする? 何もわからぬ青年を拘束し、監視下に置き、何をさせる? 臭い物に蓋をした後の処理は誰が行なうというのだ」

「異形との共存でも目指すか? 会長殿は立派な博愛主義者だ」

「……吉賀崎、君は念願の異形狩りの足がかりとして、彼を利用したいだけなんだろう?」

 会長がはっきりと問いかけると、応接室内の空気は氷がぬるい水に触れた瞬間のように音を立ててひび割れた。

 吉賀崎は声を荒げることも、指先ひとつ動かすこともしなかったが、瞳の奥を轟々と燃やし、ただじっと自分へ問いを投げかけた薄いくちびるを睨みつけた。



――



 稲光がいくつも枝分かれしながら上空に光る。三、四、五秒。遅れて響く音に胃袋が競り上がって来る感覚をぐっと飲み込み、異形の者が逃げたであろう方角に火之は走り続けていた。

 雨の日は苦手だ。忌まわしい記憶には必ずといっていいほどこの香りが染みついている。

 地面から立ちこめる重く湿った風に足を絡め取られそうになるのを必死にこらえて体を動かし続ける。ゴミ箱や自動販売機、古びた自転車が雑然と並ぶ路地裏から数メートル。やっと大通りに出る。悪天とはいえ、拓けている分これまでよりも明るく感じられた。

 道着のなかで鳴り出したスマートフォンを取り出し、ろくに相手も確認せずに画面を耳に押しあてた。火之はあまり機械の類いが得意ではない。

「つかさ警備、葵です」

 善知鳥の助手からの連絡だ。これまで何度か葵八重と顔を合わせる機会があったが、「何の用か」と聞いたあとの様子が記憶にある無感情にも似たビジネスライクな雰囲気とは随分違って聞こえた。

「ええ、……チームが対象と接触し、排除行動に移りました。…………ですが、その、」

「なんだ、はっきりと言え」

「善知鳥社長が、単独で敵に当たっています」

 つかさ警備の対異形種班はチームワークが売りだ。世情に疎い火之でさえ知り得るほど大々的にそう宣伝されている。今回の件に関しても善知鳥は葵と羽田という二名の助手と共に仕事をこなす予定ではなかったのかと問えば、葵は更に言葉を詰まらせた。

「我々は周囲の一般人の安全確保へ向かうように命令されています。異形の者の移動は予想の範疇を越えており、周辺の避難は完全ではありませんでしたので。

 ……しかし社長の様子が、あまり、……普通ではないように見受けられまして、急ぎ火之さんに合流していただければと思い連絡を」

 あの男が普通でないのはいつものことだろう、と言いかけたのをぐっと堪えてゆるゆると歩いていた足を止めた。わざわざ連絡を寄こすほどだ、よっぽどのことなのだろう。

 錫杖を通話している方の腕に立てかけ、濡れた手を払う。金の揺れる音が受話器の向こうにも届いたのか、じっと黙っていた葵がふっと息を吐いた。

「火之さん、どうかお願いします。社長を助けに行って下さい、お願いします、あの人を死なせないで下さい」

「承知した」

 葵は現在の善知鳥の居場所について既にメールを送信したと告げ、通話を終了させた。

 死なせないで、という言葉に内臓が震えたのが嫌になるほどよくわかった。どうしても思い出してしまう記憶を、そして毎度それに反応してしまう火之自身を、腹の内を蠢く誰かがまた笑っているのだ。

「師匠が死んだのがまだ面白いか」

 地図に書かれた赤い丸をじっくりと確かめながら小さく呟くが、返事はなかった。再び軽く腹を叩き、大体の道筋を脳内で辿り直す。そんなに遠くではない。大雨のおかげか人も車も多くはないから、到着まで大した時間はかからないだろう。

 端末をポケットにしまい、錫杖をしっかりと握り直す。動き出す前に一度、先程失敗した術式を展開させるイメージをした。大丈夫、うまくやれる。強く、出来る。もう二度としくじらない。屈伸をしながら自分に言い聞かせ、善知鳥と異形の者との合流地点へ急いだ。



――



 じ、じ、と虫の声がする。

 古びた寺に夏の暑さを存分に含んだ風が通り抜け、玄関に吊るした風鈴をくすぐっていく。

 まだ若干の梅雨の気配を残した空気は湿気をはらみ、黒電話の受話器が押し付けられた丸い頭にいくつもの汗を浮かぶ。住職の妙光は首にかけたタオルでその汗を拭きながら、明石一希の母親の話に相槌を打っている。

 昔からこの寺は遊び場として、学び舎として、子供たちに親しまれており、妙光は子供たちだけに留まらず彼らの家族とも良い関係を築いてきた。それは寺に暮らす青年、火之道間も同じで、他の僧侶に比べてまだ若い彼は兄弟や悪友として、育ての親である妙光から学んだ事柄や、辛い過去の経験から感じたことを拙いながらも子供たちに伝えようと奮闘してきた。

 その性格や職業柄、悩みを打ち明ける相手に選ばれる経験の多い妙光だったが今日は勝手が違っている。電話越しに聞こえる緊迫した息遣いが、最悪の現実の訪れを知らせていた。

「妙光先生……、た、助けてください……!」

「お母さん、落ち着いて。どうされました、今はどこに?」

「わた、わたしたちの家、ああ! 家族みんな、殺されるかもしれません!」

 電話のある引き出しの上、壁に貼られた村の地図を指でなぞりながら、もう一度落ち着くようにと声をかける。駐在でも、消防団でもなく、一番にここへ連絡を寄こしたのだから、用件がどういうものなのかは言われずとも分かる。

 妙光は僧侶だけでなく探偵としての一面を持ち併せており、既に広く世間に知られているのだ。つまりこれは異形の者による危機。一秒も無駄には出来ない。冷静な口調を崩さないよう注意しながら、片手で現在地から明石家までのルートを辿る。

「まずは逃げられる人から身の安全を確保してください、お母さんの他には誰が?」

「わたしと、主人と、主人の両親、それからこ、こども、一希が……!」

 術式の鍛錬の最中に電話がかかってきたため、「しばらくひとりで練習していろ」と境内に置いてきた道間が不満げな表情をして玄関で草履を脱ぎ散らかしているのが見えた。妙光の様子を見て、この電話がどういうものかすぐに察したのだろう。どかどかと足音を響かせながら、ぴたりと受話器の傍に寄った。

 「仕事だ」と道間にアイコンタクトをして、繰り返し母親に家族の避難を促す。せめて子供だけでも連れて、出来る限り遠くへ逃げればまだ救いはある。しかし、母親の返事は更にひどい現実を伝える。

「一希が、一希がもう、一希じゃないんです……!」

「……わかりました。では、一希くん以外のみなさんはなるべく早く避難を、」

「わたしの子供なんです! 先生、早く来てください!!」

 このままでは無駄に犠牲を出すだけかも知れない、と妙光は念押しで避難を勧めてから素早く電話を切った。絡むコードを丸めて受話器を戻すと、道間のささくれた指先が一番の近道を爪で描いた。

「やっぱ異形の者だったのかよ」

「ああ、急ぐぞ道間。」

 ふたりは言葉少なに駐車場に停めた車に飛び乗った。蒸し暑い車内せいか、焦りのせいか、エンジンがかかる頃にはじっとりとした汗が背中を伝う。道間は膝の上に握った拳で自分の太股を強く打ちつけた。

「なんで一希が! そうじゃない可能性だってまだあったんじゃなかったのかよっ!?」

「落ち着け、道間。お前の気持ちはわからんではないが、冷静になれんのなら現場へは出さん」

「っるせえよ、じじい! いいから飛ばせ!」

 癇癪を起す子供のように喚く道間にひとつ返事をしたきり、妙光は何も言わずに車を走らせた。

 道間は、異形の者に家族を奪われ、家を奪われ、何もかもを無くし、ひとりきり立ち尽くしていた少年だった。もう数十年以上前のことだ。

 横殴りの雨、街灯もまばらな田舎町、真っ白に水蒸気を巻き上げながら燃え盛る一軒の家屋。あの夜のことは今でも鮮明に思い出せる。探偵協会からの協力要請を受けて現場に到着したときには、既に見るに耐えない光景が目の前に広がっていた。異形の者の力がどれほどのものかなど、誰から聞く必要もなく、ひりつく空気だけですべてがわかった。

 結果として協会の人間を総動員しても異形の者を取り逃がし、救えたのも家族の息子ひとりきりだ。自分だけが助かった罪悪感に囚われ、一歩たりとも踏み出せなくなった少年に妙光は『道間』という法名を授け、新たに、強く生きられるようにとその身を支え続けて来た。

 だからこそ、子供が犠牲になったこの状況で道間に落ち付けというのは無理なことだとわかっていた。だが、助手として排除の場に居合わせるだけの冷静さを欠くならば手伝いをさせることは出来ない。それは事前に本人にも伝えている。

 人気のない一本道を抜け、アクセルを踏む足に力を入れる。横目で見た道間はきつく目を瞑り荒い深呼吸を繰り返していた。


 一希の家に到着すると、周囲の地面はでたらめにひび割れ、ガラスが散り、周辺の草木には何者かが這ったような跡がくっきりと残っていた。

 少し離れたところに停められた車が一度、二度とライトをつける。そこから駆け寄って来たのは一希の母親だ。以前に見かけたときとは別人のようにこけた頬があまりに痛ましく、妙光はその肩に両手を乗せて「もう大丈夫だ」と優しく声をかけた。

 それが呼び水になったのか、母親は矢継ぎ早に最近の一希について語り始める。一ヶ月前の連休に家族でキャンプに行ったこと。そこで一希が行方不明になったこと。なんとか無事に帰ってきたが、以来ふらりとどこかに出かけては朝方に家に戻り、数日にもかけて眠り続けるようになったこと。もし自分達が憑き物筋だとしたら、と父から口外を禁じられていたこと。そして今夜、息子が人ではなくなってしまったということ。

 全てを話し終えた母親は糸が切れたように脱力し、その場で泣き崩れた。車からこちらへ駆け寄る一希の祖父に彼女を任せると、妙光と道間は頷き合い、家の敷地へと足を踏み入れた。


 魚の鱗を丁寧に織り合わせたような繊細な造りの結界が子供の細い手足を拘束する。捕らわれた一希の肉体は不気味に張りを失い、空気の抜けた紙風船を思わせた。

「……子供の体にこんな真似をするのは気が重くてかなわん。道間、外の結界をもう少し均一にしなさい。一希の家族が本当に避難したか危ないぞ」

「わかってっけど、ちょっと待ってろ」


 崩れた玄関を避け、庭から家内の様子を伺おうとしたふたりに突如襲いかかって来た影は妙光の錫杖が派手な音を立てて弾いた。探偵用のそれに反応するのは幼い子供の体ではない。異形の者だ。

 あちこちから伸びてくる攻撃はまるで妙光と道間とじゃれるようで、嘲っているのが目に見えた。痺れを切らした道間が妙光の助けを借りてもなお手足の自由を奪われながら無理矢理に居間に上がり込み、一希の体を庭へ引きずり出した。それを妙光の結界術でようやく拘束したのである。

「妙光せんせい、道間兄ちゃん、止めてよう、助けてよう」

 磔の手足を震わせて一希が言う。

「止めろ!!」

「道間、心を乱されるな。敵の思う壺だ」

 ぽろぽろと涙をこぼす大きな瞳から逃れる道間をか細い声が追いかける。

「兄ちゃん、怖いよ、兄ちゃんなら助けてくれるでしょ?」

 周辺に張り巡らされた結界が道間の心ごと揺れる。

 妙光に術式を習い始めたのは探偵業の手助けのためでもあったが、一番は家族の仇討のためだった。それなのにどうして防御術ばかり、と不貞腐れていた自分を道間は今さらながらひどく愚かに思った。

「道間! 集中しろ!!」

 妙光が叫んだかと思うと、にわかに地面が白く光り、子供の柔らかな頬が下から照らされる様が道間の目に映る。あどけなさの消えた目は潤んだままゆっくりと弧を描く。

 そのあとスローモーションのように動き出したのは皮の剥けた唇だった。

『…………もう、飽いた』

 言葉と同時に、炎が妙光と道間を取り囲む。

 地面のひび割れから生じたそれは結界の緩みを探り当てては勢いを増す。突然の熱さに道間は目が眩んだ。自分がどこにいるのさえわからなくなる。

 ここは? 家は? 家族は?

 知らない名前を呼ぶ声が鼓膜を揺さぶる。ぼくはーー?

 異形の者の拘束を強めようと妙光がいくら足掻いても、自らを見失った道間の結界は弱まる一方で、辺りは一瞬の内に火の海と化した。

「道間! 一希を守るのではなかったのか!!」

「…………いやだ。こわい、こわいんだよ、父ちゃん、母ちゃん……」

 ふるふると首を横に振り、その場にうずくまった道間は両の腕で作った囲いの中で地面に転がる砂の粒をじっと見つめた。熱気で浮かんだ汗が額を、首筋を、鼻先を滑り落ちて、ぽた、ぽた、と黒い染みを作っていく。その粒はまるで雨のようで、ああここは自分の家だったのかとぼやけた頭で理解した。

『か弱い童よ、先の相撲遊びの勢いはどこへ消えた』

 縛り付けられていた一希の肉体が糸の切れた人形のように拘束を擦り抜け、地面に崩れ落ちた。妙光は無駄になった結界術を解き、かつての少年の笑みを思い浮かべて静かに手を合わせる。

 人間の器を捨てた異形の者は、水墨画の荒々しき龍の如き出で立ちで燃える屋根の上をくるりと回り、長く伸びた尾で幼子にするかのように庭の火をあやしてから妙光の前に落ち着いた。黒い体の所々がその身から生じる炎で赤に青にと爆ぜている。

「蛇か、いや龍と言った方が正しいか?」

『……儂を、誰と思うておる。汝、その首を垂れよ』

「悪いがそうも言ってられん。交渉の余地のない今、お主が誰であろうと、ここで死んでもらう他ない!」

 妙光が異形の者との距離を詰め、錫杖を鳴らしながら振りかぶる。火の粉を散らす髭のすぐ傍で空を切った先端が、真っ直ぐに龍の瞳の中心を目指す。素早い動きを軽くいなした敵はたてがみをゆらりと震わせ、長い爪の先で妙光を弾き飛ばした。

 崩れた塀の石材に叩きつけられた妙光は敵と道間が相まみえるさまをどこか遠く見つめていた。

『童の記憶では僧を獲るが賢明かと思うたがーーーー』

 ゆらり、ゆらり。龍の姿をしたそれは愉しむように道間との距離を縮める。値踏みをする無遠慮な瞳に炎の照り返しが光ると周囲の火が一層大きく燃えた。

 そこらじゅうに転がる石のかけらやガラスの破片が手のひらに突き刺さるのも構わず、妙光はまだはっきりしない視界のまま駆け出した。異形の者が何をしようとしているのか、わかってしまったのだ。

「道間!!」

 地面に小さく丸まり現状から目を反らしていた道間には何が起こったのかまったく理解出来なかった。熱くて、炙られた頬がぱりぱりにひりついて、汗が全身をくまなく滑り落ち、地面に染みる。

 突然背中が重くて、勢いのまま仰向けに転がされ、手の先に熱された錫杖の輪が当たり、控えめにチリと鳴る音。

 過去の記憶から覚める。燃えているのは一希の家で、張っていたはずの結界の手掛かりはどこにもない。倒れた一希の体、頬が熱いのは乾いた熱風のせいだけではない。震える指先でそっとそれを拭った。ぬめる、血の臭い。自分に覆いかぶさっているのはいつかの父や母でなく、現実に生きる妙光その人だった。

 見上げる視界いっぱいにたゆたう龍神を見つめながら、恐る恐る自分を庇った重い体に触れた。

「おい、くそじじい、おい、返事しろ」

「……私のことは妙光先生と呼べと、いつも言っておろうが、たわけ」

「ち、ちがう。今はそんなことどうだっていい、そんな、あ、ああ……、おれが、おれ、」

「馬鹿者、それこそ今はどうだってよいことだ。それよりも、」

 妙光は緩慢に体を動かし、地面に寝そべった。

「これを」

 胸から下げていた護符を鷲掴み引き抜くと、頼りない動作でそれを道間の胸元に押し当てた。「燃やすなよ」といたずらっぽく笑う声は途切れとぎれで、道間は力の抜けた妙光の手を、腕ごとしっかりと抱き止めて護符を受け取る。

「こんなのいらねえよ! しっかりしろ、じじい、なあ、なあってよ!!」

「…………道間、」


「……つよく、」


 ふっと笑みを浮かべると妙光は目を閉じた。

 道間がいくら強く揺すってもそのまぶたが開くことは無い。道間の目から涙は落ちず、焼かれて乾いた角膜が地面に広がる黒い血だまりを映していた。そしてそれは何の前触れもなく小さく弾ける。ひとつ、ふたつ。それから続けて、いくつも。

 ーー雨だ。

 護符を握ったのとは反対の手で、足元に放り出された錫杖を手に取る。既に濡れた表面はまだ熱さを残していたがそれでも力いっぱい握りしめた。

 妙光の遺した「つよく」という言葉を何度も反芻する。無理だと思った。今だって何をどうすればいいのか皆目見当も付かないで、自分の身を守ろうと武器を手にとって、立っているのがやっと。火と灰と雨の匂いが綯交ぜになって鼻孔に入りこむたび、まぶたを掻き毟って叫び出したいような気持ちになる。一瞬で子供の頃に戻ってしまう。それなのに、自分を救ってくれる妙光はーー。

 そんな現実を受け入れることなど、道間には到底出来ることではなかった。

『汝の肉を、我が血肉にせしめる時、汝の苦しみは全て消え失せようぞ』

『あの童も、この僧も、汝の肉と引き換えならば…………』

 道間は短い息を繰り返し吐き出しながら、異形の者の声を聞いていた。自分の命と引き換えにふたりが生き返るのなら、本当にそれが可能ならよかった。

 手の中の護符を胸にぴったりと押し当てて深呼吸をする。濡れた服に守られていた皮膚の奥で心臓が苦しいほど動いている。

 錫杖を思い切り地面に打ち付けると、重力に持ち上がった輪が広がり、落ちる。耳のすぐそばで目が覚めるような音がした。

「うるせえんだよ、くそじじい……」

 自分を叱りつけるときの妙光の癖を真似れば、あの腹から響く怒鳴り声が聞こえる。目の前の異形の者と対峙する体の震えはそれで止まった。



――



 胸のむかつき、いや高鳴りというのが正しいのだろうか。忌まわしい自分以外の感覚に奥歯を噛み、道なりに右へ曲がる。少し前から漂っていた血の香りがぐんと濃くなり思わず顔をしかめた。善知鳥だ。

 警棒を振るう後ろ姿にやはり体内の異形の者が喜んでいるのがわかる。善知鳥が何度も殴り付ける敵は既に事切れている。それに気が付いていないわけでもないだろうに、男にしては細い腕がびゅんびゅんと風切り音を奏でながら警棒を縦横無尽に動かしている。狂気的だと、火之は素直に思った。だが、異形の者には良い見世物になってしまった。

「善知鳥、善知鳥殿。もう止せ、死んでいる」

「……っは! 君か、遅かっ、たじゃ、ないか!」

 息の上がった体を落ちつける素振りもなく、善知鳥は火之を振り返りもせずに返事をした。

「近頃、デスクワークが多かったものだから、ちょっと運動をしようと、思ったら、これさ」

 ようやく火之を見た男はほのかに笑みを浮かべていた。火之は何も言わず、足元に転がっていた傘を拾い上げ、くるりと骨が折れていないかを確かめる。黒い生地は厚く、骨の数も多いが、いざ持ってみると見た目に似合わぬ軽さと持ち手の木の感触の滑らかさに驚かされた。おそらく善知鳥がさして来たものなのだろう。良い物だ。

 もう雨は随分と小振りになったが、火之はゆっくりと善知鳥に近づき、傘をさしてやる。

「僕らの想像を上回るスピードで逃げたんだ、生命力が強かったんだ、特別なのかと思うじゃないか。蓋を開ければどうだ、なんら普通の奴らと変わらない。つまらない奴だったよ」

 傘の影に入り、善知鳥は攻撃を止めた。代わりに表面を敵の体に擦り付けて、汚れを拭い取ろうとしている。それでは余計に汚れるだけだろうと声をかけても、半端な笑い声が返って来るだけだった。

 仕方なし、と火之は錫杖を握り、強くアスファルトを叩いた。雨水と粘液とが混じり合った水たまりが小さく跳ね、音が響く。

「行き過ぎた攻撃になんの意味がある」

「は? ははっ、彼らに敬意を払えって?」

「探偵として、人として、お主の行動が正しいと思わん」

 伸ばした警棒をケースに収納した善知鳥は楽しそうに目を細め、今度は心から楽しげに笑って見せた。汚泥にまみれた手袋を器用に裏返しになるように外し、死体の側へ投げ捨てる。

 一歩、歩み寄って下から睨みつけるように火之を見る瞳の奥底はひやりと静かに冷えている。澄んだ湖に張る氷だ。

「君に人としてのあり方を説かれるとは、なかなかに面白い」

「……僧侶に育てられたのでな。そのへんは人間より人間らしいだろうよ」

「そうかい。さあ、協会へ報告に行こう。君も乗って行けよ」

 ひょいと傘の下から出た善知鳥は何事もなかったかのようにひょうひょうと歩き出した。大通りに停まっていた車に乗って行くのだろう。

 この男と近付き過ぎるのは良くないと頭の片隅ではわかっていたが、濡れ切った体を早く温めたかった火之は提案を受け入れることにした。傘をさすには大袈裟な雨だ。おそらく探偵協会本部に着く頃には止んでいるだろう。火之は自分には不釣り合いな傘を畳み、善知鳥の背中を追いかけた。



――



 会長は秘書に目配せをして、テーブルに広がった資料の数々を片付けさせた。途中、助手らが妨害をしようとするのを咳払いでたしなめ、ちらりと自分を見る秘書には眉を上げて見せる。彼女はまるで授業参観に来た母親のように目だけで上司を諌めて、全ての書類を吉賀崎の前に重ね、最後に意見書を頂上に乗せた。

「異形の者と共存をする気など、私にだってさらさらないさ。だが、異形の者の被害者とは共に、同じ社会に生きて行きたいと願っているのだ。例えどんな後遺症を抱えた者でも、それは同じだ」

「火之道間が、いつまでただの被害者であってくれるか」

「ああ、吉賀崎、君の言う通りだ。いつ彼の中の敵が我々に牙を剥くか知れない。彼だけで無い、他の異形探偵だってね。だから君たちの言い分もこうして聞いているのだ。

 だがね、現状の危険性を案じるばかりでその対策も被害者への支援方法もろくに提案せず、やみくもに協会の人間を蔑むような者の言い分を私は決して飲まん。何度ここへ来たところで結果は変わらんよ。次はせめて人員不足へのもう少しマシな代替案を持って来てくれることを期待しようか」

「…………会長、お電話です」

 会長は軽く手を上げると席を立ち、秘書からスマートフォンを受け取って窓際で電話に出た。相手は善知鳥束。依頼が完了したという報告だ。


ーーデータでもお送りしましたが、気になる点がいくつかあったので直接報告に向かいたいのですが、今からでもよろしいですか?

「ああ、構わない。本部にまで来てくれるか」

ーー既にそちらに向かっています。火之くんも一緒に。

「そうか、それはいい」


 背後から物音がして、秘書が出口に誘導をする声が聞こえた。客人ももうお帰りか、とやっと肩の荷が下りたようにため息をつく。受話器越しにそれを聞いた善知鳥が「お疲れですか」と鼻で笑い、「お疲れだよ」と返せば更に笑い声が膨らんだ。遠くで火之の怒っているような声もする。

 それでは、と善知鳥が通話を切るのを確認して端末をポケットにしまう。誰もいなくなった応接室は空調の音だけが鳴っている。見送りの必要はないだろう。

 会長は目の前に広がる風景に、いつか火之が絶望のふちで語った夢を思い出した。


「強く生きたい、か」


 雨の上がった街の景色。

 遠くの雲の切れ間から光の束が降っていた。

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