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噛み締めて

作者: もずく


 「ねぇ、あの時のこと、覚えてない?」

 

 そう聞かれた私は純粋な疑問を浮かべた。

 いくつか年上の姉は何かを堪える様な顔をしてから、やっぱりあなたは病気だったんだね、と優しく言った。

 たった一年前の記憶なのにひどく曖昧だ。いつの頃からか私の中の喜びも、怒りも、悲しみも、愛でさえ、全て曖昧で朧気な意識にのまれて消えてしまった。

 私が精神疾患に患っていたのはほんの二、三ヶ月前までのことだ。発症したのはいつからかは定かではない。

 希死念慮から始まり、私は何度か自殺未遂を繰り返した。

 ニコチンの液体に口をつけたその喉が焼けるような苦味も、手首を切りつけたときの痛みも、ロープに結ばれたときのもがきたくなるような苦しさも、朧気にしか覚えていない。

 今思えばあの頃は感情も、望みも、生理的欲求でさえ輪郭をなさずに全てがどうでもよかった。まるで、私の中の「私」が死んでしまったように自分を認識できずに、ただ、なんとなくそこに横たわっていた死への願望にすがって、全てから逃げられると信じて疑わずに死を願った。

 

 私が今ここで生の喜びを噛み締められるのは一重に家族のお陰だと強く思う。症状が出ているときには煩わしささえ感じた暖かさが、今では私の生きる根幹を成している。

 私が死にたいと声に出して願ったときの母の涙も、姉の怒りも、父の悲しみも、今はあまり記憶にない。強烈なはずの出来事なのに、掌から水がこぼれるように私の脳の隙間から流れ出てしまっている。

 だが、家族の感情は消えた訳ではないのは明白だ。あの時の私は正常ではなかったが、家族は正常であり、だからこそ過去の記憶に苛まれているのだと私は考える。

 私が忘れてしまったあの輪郭のない日常が家族の心に根付き、苦しめている。

 これは決して無くならない私の罪だ。

 恩を返そうだなんてことはできない、なぜなら一生かかっても返しきれないほどの恩を、優しさを、暖かさを私は与えられたのだから。

 

 だからこそ私は生きなければいけない。生きて、家族に笑ってもらわなくてはならない。

 少しでも私の感じた生の温もりを、家族に返さなければ私は私を許せないだろう。

 たとえ必要がないと言われても、家族だから当然だと言われても、私は確かに幸せをもらったのだから。

 

 一度生を諦めたからこそ、延々と続くありふれた日常に溢れる幸せを噛み締めて私は生きていく。

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