8: 薔薇姫、契約する。
一日足らずでセノン・バイデンを脅迫する人間を探し出し、二度と彼に関わらないようその身に恐怖を刻み込んだアーシェは、暇潰しに街中を歩いていた。依頼を完遂した旨を報告しに【獅子王の牙】本部を訪れた帰りのことだ。
「あ、リオナ!」
明るい声に偽名を呼ばれ、アーシェは立ち止まって振り向いた。笑顔を浮かべたエレンが手を振って、こちらに駆け寄ってくる。
あの事件で心に傷を負った彼女は、しばらくの間は気が塞いで部屋から出ようとしなかった。彼女が自らの意志で部屋を出たのは、闇オークションの主催者が重罰に処されることが決まったことが切っ掛けだった。
「仕事の帰り?」
「その途中で散歩ってところかな」
屈託なく笑うエレンに安心しつつ、アーシェは答えた。
「ふぅん。今日はどんな仕事だったの?」
「馬鹿がこれ以上馬鹿なことをしないよう、言い聞かせてきただけだよ」
「言い聞かせただけ?」
「それはもう、言葉を理解できない馬鹿でもわかるよう、優しく言い聞かせたんだ」
「うわぁ、すごく怖そう」
くすくすとエレンが笑う。年頃の割に無垢で幼い笑顔を見せる少女が、アーシェにはまるで自分とは全く違う生き物のように見えた。今まで全く思ったことがないその感想のせいか、少しだけ息苦しい。
「エレンは、何か用事でも?」
「これから帰るところなの。もう帰らないと、お母さんが心配するから」
「そう。なら送っていく」
「いいの? ありがとう」
以前の彼女なら遠慮しただろうが、あの事件から間もない内に、日没間近の薄暗い路地を歩く気にはなれないようだ。安心したように頷いて歩き出したエレンの隣に並んで、アーシェも足を動かした。
路地のそこかしこで商人と思しき人々が露店の片付けをしている。しかし、夕暮れ時に差し掛かり、人も減ったので撤収するのだろう。
「そういえば、今日は隊商が来てたんだった。見逃しちゃったな」
遠方から訪れる隊商は、庶民にとって物珍しい品を持ち込む。彼らにとってはそれが娯楽のようだが、アーシェには理解しがたい感覚だ。
「…ガルシャの隊商か」
「リオナは行ったことある?」
「ハンターになる前に、一度だけね」
服装や片付け途中の品々を見て呟いたアーシェに、エレンは好奇心に瞳を輝かせる。
国内ではあるが、険しい山脈に囲まれたガルシャ地方は、独自の文化を築き上げた。彼らの作る品々は珍しいものばかりだが、自ら買いつけに行く者は少ない。利益が労力に見合わないからだ。
家を出奔した後、しばらくは好奇心の赴くまま国内を旅していた。楽しくはあったが、ままならない現実から逃げ出して得た自由は苦々しくもあった。理由が何であれ、果たすべき義務を放棄したことに違いはない。
ハンターになって、誰かに利用される日々は思い描いていた未来に近づいたが、凝りは残った。望んでいた筈の対価も、時に重くて仕方がなかった。
原因はわかっている。果たすべき義務から逃げたのなら、それを貫き通すべきだった。今更妥協して、その真似事をするべきではなかったのだ。
「――着いた! 送ってくれてありがとう、リオナ」
「あぁ、どういたしまして」
苦いものを呑み込んで、笑顔で手を振るエレンに振り返したアーシェは、浮かない思いを抱えたまま路地を歩く。しかし数分後、不意に立ち止まって空を見上げた。
目に痛いほどに鮮やかな夕焼けが、街を赤く染め上げている。間もなく日が沈み、夜の帳が落ちるだろう。アーシェはその短い間の空を眺めるのが好きだった。
人気の消えた公園に立ち寄り、ベンチへ腰を下ろす。西の空が茜色に、東の空が紺色に染まる中、アーシェはぼんやりと空を眺めていた。
「――こんばんわ」
誰かが近づいてきていることも、それが誰かもわかっていた。だからアーシェは振り返らず、空を見上げたまま口を開く。
「また随分と変わった場所で会うものだね。こんな場所にいていいの、レヴィネイス殿下」
「その呼び方は勘弁してくれないかな」
苦々しげに答えた声に、アーシェ少しだけ笑う。
「ちょうど良かった。お礼を言いたかったんだ」
「…お礼?」
「あの件の首謀者、あなたが処罰してくれたんでしょう。あの件以来塞ぎ込んでいた知人が、それを知ってようやく立ち直ってくれたから」
「あぁ…別に、礼を言われることではないな」
「そう――あの時と逆だね」
思い出すのは、大型魔獣討伐中に出会った翌日の出来事だ。延々と礼を言い続ける彼と、その筋合いはないと突っぱねる自分を思い出して、アーシェは彼の方へ振り返る。かちりと視線が合って、驚いた彼は気まずそうに目を逸らした。
「それでも、ありがとう。恩人の娘なんだ」
「…そう、か。役に立てたならよかった」
視線は合わせないまま、彼は早口で呟くように答える。その態度を若干不審に思いつつも、アーシェはそのことについて何も言わないことにした。
「お礼といっては何だけど、何か厄介事があるなら、ギルドを通さずに無償で引き受けてあげる。何でもするよ」
大抵の厄介事なら対応できるという自負あっての発言だ。実際、ハンターとして生活する中で、一通りの依頼を完遂している。
依頼に高額な金銭を必要とする上級ハンター、要するに自分を無償で使う権利は、アーシェが唯一自信を持って差し出せるものだ。最も、目の前の人物にとってはそれさえも些細なものに成り下がるのかもしれないが、それでも無価値と評されることはないと確信している。
「…何でもするなど、言うべきではないだろう」
「やだな、流石に相手を選んだ上で言っているよ」
領分を弁えている相手に言う分には問題ない。だからこその発言だが、彼は酷い渋面で溜め息を吐き出した。
「…今後は誰にも言わない方がいい」
「そう?」
アーシェには彼が何をそこまで気にしているのかが全く理解できない。だが、それ以上不毛な会話を続けるのが面倒で、適当に頷いて終わらせた。その内心が透けて見えたのか、本当にわかっているのかと言いたげな視線を向けられたが、気にしない。
「で?」
「…なに」
「優秀な部下が大勢いるからいらないと言うなら仕方ないけど」
あれだけの結界を創り出せる魔術師を配下に置いているくらいだ。優秀な部下を揃えようと思えば容易くできる人物なのだろう。
とはいえ、だからこそわざわざ自分に頼みたいことなどそうそう無いのかもしれない。用件ができてからでも構わないと言いかけたアーシェより早く、彼が何かを言いかけた。
「…そうだな、それなら――」
しかし、言葉は続かない。数秒ほど言いあぐねて、彼は目を伏せる。余程言いにくいことなのだろうか。言いかけては口を閉ざす行為を繰り返している。余程の難事を抱えているのかもしれないと、アーシェは気長に言葉を待つ。
結局、彼が言葉を紡いだのは、完全に日が沈んだ直後のことだった。
「――これからずっと、傍にいてくれないか」
「…傍に?」
予想外の言葉に、アーシェは思わず首を傾げる。抽象的で、彼が何を望んでいるのかいまいちわからない。傍にいる、とは具体的にどのような状態を指しているのか。自問して、不意に思いついたものに彼女は納得した。
「影になってほしいということなら、別に構わないけれど」
「…あぁ、そう、それは良かった」
言葉の割に、彼の表情は少しも喜んでいない。解釈が違っただろうかとアーシェは思ったが、それ以上彼女は何も言わなかった。
一瞬だけ遠くを見つめた彼は、不意に微かな吐息を零して、小さく微笑む。
「よく、こんな願いを聞き届けようとしたものだね」
「そうだね、私もそう思うよ」
西の空に太陽は既になく、東の空には冴え冴えと輝く月が浮かび、自分たちを淡く照らしている。ふと懐かしい心地がして、アーシェは不思議に思う。こんなことが前にもなかっただろうか。そう思って記憶を掘り返してみるが、浮かぶのは不快な思い出ばかりなのでさっさとやめた。
「――でも」
幼い頃に見た、とっくの昔に心の奥底へ埋めた筈の夢。それを、この青年が掘り返してしまった。この青年ならきっと、あの時見ていた夢を実現してくれると、直感が囁く。
「子供の頃に見ていた夢の続きを見たいと、そう願ってしまったんだ」
彼は不思議そうに首を傾げる。しかし、アーシェはそれ以上何も言わない。その夢を知っているのは、自分だけでいいのだから。
アーシェは基本的に恋愛沙汰とは無縁の生活を送ってきたので、その手のことには鈍感です。
レヴィネイスの願いが曲解されたのはそのせいです。可哀想に(棒読み
次の話で終わりそうなので、早めに上げたいと思います。
それではここまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。