5: 両名、潜入する。
レヴィネイスは険しい顔つきで遠くに見える建物を見つめていた。繁華街の中でも奥まった地区でのことだ。
「――レヴィン様」
「ラベンダーか」
視線は逸らさず、自分に声をかけてきた者の名を呼ぶ。お忍びで街に出る時、彼は必ずそう名乗る。
茶色に染めた髪が視界の端にちらつく。普段は何とも思わないが、今日に限ってはやけに気に障る。搔き上げた髪を耳にかけ、レヴィネイスは苛立たしげに目を細めた。先ほど出会った少女に見せていた穏やかな態度は幻のように消え去っている。
今日街に下りたのは、今夜開かれるという闇オークションを取り締まるためだ。その少しの隙間を縫って関係のない場所を歩き回ったのは、単なる気紛れか、それとも――らしくもなく「運命」というものを期待していたのかもしれない。
「何かあったのか?」
「何かあったのはレヴィン様の方じゃないですかぁ?」
にやけた顔で言うのは、レヴィネイスの影であるラベンダーだ。名前通りの色の瞳が爛々(らんらん)と輝いている。二十代半ばほどの美しい女性で、荒事には向かないものの、それ以外は何でもそつなくこなす優秀な影だ。ただし、主すらからかう対象にするほどに楽しいこと好きな性格は頂けないと、レヴィネイスは常々思っている。
「私語は慎め」
「いいじゃないですかぁ。どうせ夜までは何もないんですしー」
夜に客を装って忍び込む計画なので、ラベンダーの言うことは間違いではない。しかし、彼女に言われると素直に頷きがたい。それ以上言い合うのが面倒で、レヴィネイスは無言を貫いた。
「レヴィン様ってばー」
「…」
「えー!? 無視とかひどいですよー!」
「――うるさいぞ、ラベンダー」
「うっわー面倒なのが来ちゃった」
「ミント、戻ったか」
見るからに堅物な雰囲気の男がラベンダーを睨みつけている。彼もまたレヴィネイスの影だ。今は影として行動しているが、普段の彼はレヴィネイス付の騎士として出仕している。影はいずれも呼び出されない限りは本職に励むが、本職でもレヴィネイスと関わりがあるのは彼だけだ。
ミントというのはレヴィネイスが彼に与えた、影としての名前だ。意外にも香水を好むのか、常にミントの香りをまとっており、それが名前の由来となっている。
「二人とも、中へ。くだらない言い争いは事件が解決してからにしろ」
「御意のままに」
「はぁい」
雰囲気に違わず生真面目で堅物なミントと、自由奔放で緩い気質のラベンダーは折り合いが良くない。ミントは無表情で、ラベンダーは不満げに頷く。内心で溜め息を吐き出して、レヴィネイスは踵を返した。
***
豪商の夫婦を装い、招待客として潜入する。その試みは上手くいった。うんざりとした心境を仮面の下に隠して、レヴィネイスはラベンダーの腰を引き寄せ、周囲を見回した。仮面をつけた者たちで溢れかえった空間はあまりに異様で、狂気すら感じる。
「楽しみね、今日はどんなものがあるかしら」
普段の脳天気ともいえる言動はどこへ行ったのか、ラベンダーは貴婦人と称するに相応しい優美な振る舞いと、婀娜やかに匂い立つ色香を周囲に見せつけている。その艶姿は普段の彼女とは似ても似つかず、女優張りの演技力に感心しつつも内心で嘆息したレヴィネイスは、絶えず周囲を警戒していた。
闇オークションの開始時刻が迫り、席も埋まりつつある。狂おしいほどの熱気が、まるで自らの意志を持つかのようにうねり、渦を巻いている。あまりに息苦しく、首元をくつろげたレヴィネイスは、ふと鼻先を掠めた匂いに思わず顔を上げた。
「…どうしたの?」
不審に思ったらしいラベンダーが、こちらの様子を窺う。首を横に振って、レヴィネイスは仮面に隠された顔を強張らせた。甘く芳しい薔薇の匂いには覚えがある。
――どうして。
狂気と欲望の坩堝のようなこの場所に【彼女】がいる。その確信があまりに恐ろしく、レヴィネイスは爪が掌に突き刺さるほどにきつく手を握り締める。その痛みで、少しだけ頭が冷えた。
ハンターとして第一線で活躍する【彼女】が誘拐されるとは思えない。依頼を受けたのか、それとも。そこまで考えて、レヴィネイスは目を閉じた。【彼女】が自らの意志で客として参加しているのではないかと、一瞬でも疑ってしまった自分に嫌悪感と罪悪感が募る。
相手が【彼女】でさえなければ、疑ってかかっただろう。しかし、どうしても【彼女】を疑うことができなかった。
***
アーシェは暗い室内をぐるりと見回した。自分と年頃の近い少女が七名いる。彼女たちは一様に啜り泣き、自分たちの未来を嘆いていた。その中にエレンもいたが、あえて声はかけなかった。自分がこの場にいることは誰にも知られたくない。
オークションが始まったのか、遠くから喧騒が聞こえる。油断しきっているのか、それとも人手の多くをオークションの運営に割いているのか、自分たちへの監視は手薄だ。逃げ出すなら今だと判断し、両手と両足を拘束する縄を引き裂いた。
「ひっ…!」
突然の音に驚いた何人かの少女が息を呑み、怯えたようにアーシェを見上げた。
「今なら監視が緩いから逃げ出せる。まず、深呼吸して。落ち着いた人から縄を解く」
逃げる途中で恐慌状態に陥られても困る。落ち着きを取り戻した少女から手足を自由にしていくが、最後となったエレンがなかなか落ち着かない。浅い呼吸を繰り返すばかりだ。
「落ち着いて」
できる限り柔らかく声をかけるが、効果はない。ここで時間をかけてもいられない。できれば使わずにいたかった手段だが、アーシェは魔力を乗せて同じ言葉を囁いた。
「――落ち着いて」
その瞬間、先ほどまでの様子が嘘のように、エレンは平静を取り戻した。人間の精神はあまりに脆く、下手に触れると崩壊しかねない。だから、精神に干渉する類の魔術は外法という風潮がある。
幸い、魔術に関する詳しい知識を持つ少女はいなかったようで、誰もが唐突に落ち着きを取り戻したエレンを不思議そうに見ている。
「さ、行こう」
エレンの縄を解き、手を取って立ち上がらせる。彼女が自力で行動できることを確認したアーシェは、自分の髪を一本だけ抜いて、床に落とした。毛髪は徐々に肥大化し、やがて今のアーシェによく似た姿へ変わった。
「ど、どうなってるの…?」
「魔術だよ。とにかく、必ず家に帰すから、協力してほしい」
アーシェが魔術師だと知って、多少は希望が見えたようだ。表情を僅かに明るくした少女たちを見回して、アーシェは扉に向き合う。そして、周囲の気配を窺ってから、鍵のかかった扉を難なく開けた。
「大丈夫なの…?」
「なるべく離れないで。声も出さないように」
いくら落ち着いたといっても、不安は消せない。なるべく柔らかく声をかけ、アーシェは歩き出した。殿を分身に任せてしまえば、背後に常に気を配らなくて済む。
遠くのざわめきに反し、この周辺は静まり返っている。そういうルートを選んでいるとはいえ、静かすぎるのではないだろうか。そう思った瞬間、アーシェはぴたりと足を止めた。
「な、なに?」
「…この先に見張りがいるみたいだね」
傍らの扉を開け、中の様子を窺う。倉庫のようだ。普段から使っていないらしく、埃が薄らと積もっている。
「片付けてくるからここで待っていて。私が戻るまで、絶対にここを出ないように」
分身と一緒に少女たちを押し込み、自分の許可なく扉が開かないように魔術をかけながら、決して少女たちには見せなかった険しい顔つきで周囲を窺う。距離が遠ざかったせいでわかりにくいが、喧騒に悲鳴のような声が混じっている。想定外の出来事が起こっているのは確かだが、アーシェにとって問題なのはそこではない。
「…結界」
何人たりとも逃すまいという強固な意志を以て創り出された堅牢な結界が、この屋敷を包んでいる。芸術品のように精緻な作りで、アーシェでも突破には手間と時間がかかりそうだ。自分一人だけならまだしも、少女たちを守りながら強行突破をするのは現実的ではない。
「…大本を断つか」
誰だか知らないが、自分の邪魔をする者は全て、叩き潰すべき敵だ。そしてアーシェは結界を構築する魔術師の下へ向かうべく、歩き出した。
なかなか進展しないなーと思いつつ5話目投稿。
アーシェは弱者に対しては甲斐甲斐しく面倒を見るタイプですが、本人が一般人枠から大きく外れているせいか、気遣いとかはあまり上手くない設定です。
物言いや態度が雑というか、配慮に欠けるのはそのせいです。
それではここまで読んでくださりありがとうございました。




