1: 王太子、夢を見る。
戦闘、流血描写があるためR15指定しています。
賑やかな広間に背を向けて、ロザーリエ王国の王太子レヴィネイス・アズランは暗闇に溶けるように庭へ下りた。うんざりした気分で吐き出した息は、真冬の夜気に白く濁る。魔術で適温を保たれた広間にいた身には厳しい寒さだが、息が詰まるような思いのまま、楽しくもない話に愛想笑いをし、嫌みと敵意を受け流しているよりは気が楽だ。
アヴェントン公爵家の主催する新年の祝賀会には、珍しく五人の王子が揃い踏みしていた。嫌々参加させられている自分とは違い、四人の兄は公爵に媚びを売ろうと喜んで参加しているのだろう。
ふと立ち止まって空を見上げた。夜空には満月が煌々と輝いている。せっかく暗闇に隠れた自分を明るく照らし出しているかのようだ。自意識過剰な被害妄想に吐き気を覚えた直後、不意に甘い匂いが鼻先をくすぐった。
「…?」
薔薇の匂いだと、すぐにわかった。誰かの香水の匂いかと一瞬思ったが、すぐに否定する。今まで薔薇だと思っていた花が、実はそうではなかったのだと錯覚してしまうほど、甘く馨しい匂いが香水によるものとは思えない。
この寒い時分に薔薇が咲いているのだろうか。まるで花の蜜に誘われる虫のように、レヴィネイスは覚束無い足取りで匂いを辿り――そして、一輪の薔薇を見つけた。
「…」
冴え冴えとした月光に照らされ、長い白金の髪が淡く輝いている。その繊細な輝きは、華奢な体躯や白く滑らかな肌と共に、指先が掠めただけで穢れてしまいそうな儚さを醸し出していた。それなのに、オールドローズの瞳は強い意志を感じさせる光を湛え、満月を見上げている。まるで薔薇の妖精のように美しく気高い少女の姿が、そこにあった。
動揺のあまり動けずにいるレヴィネイスを、ついと動いたオールドローズの瞳が射抜く。その瞬間、強烈な罪悪感に見舞われた。この瞳に映る資格が、自分にあるとは思えない。自分のせいで美しくも気高い一輪の薔薇が穢れてしまうのではないかという恐怖に、心臓が大きく震えた。
どちらも、何も言わない。やがて興味を失ったかのように視線を外し、少女は薔薇の芳香を残して一瞬のうちに姿を消した。
「彼女が、薔薇姫…」
アヴェントン公爵家に生まれ落ちた、薔薇色の瞳と膨大な魔力を持つアーシェ・ファレスの名は、この国において特別な意味を持つ。誰が言ったか、その薔薇を手折った者は栄光の玉座を手に入れるだろうという噂は、不思議なほどの説得力を以て貴族社会に広まった。まだデビュタントも済ませていない幼い少女は、それ以来「薔薇姫」と呼ばれ、望んだわけもない権力と王位を巡る政争に巻き込まれたのである。
以前から、ロザーリエは王位争いに揺れていた。五人の王子。正妃の長子である王太子は、末弟たるレヴィネイスだ。王位に興味がない彼だが、野心的な四人の兄は常に王位を巡って争い、唯一人傍観を続ける末弟さえも排そうとする。末弟に頭を下げねばならない未来が屈辱的なのだろう。その思いは彼にもわからないでもない。
その王位争いに嵐を起こしたのが、アーシェ・ファレスだった。
当初、レヴィネイスは彼女に同情していた。彼女はきっと、下らない争いのために人格を無視され、人形のように生かされるだけの日々を送ることになるだろうから、と。実際、四人の兄がアヴェントン公爵家の下に揃っているのも、自分こそが薔薇を手折ろうと思っているからだ。アヴェントン公爵は未だどの王子につくかを明確にしていない。説得に成功すれば、薔薇姫を娶ることが――薔薇を手折ることができるのだ。
あれほど美しくも気高い少女が、飾られるだけの人形にさせられてしまうのか。そう思うと、心が軋んで悲鳴を上げる。気付けば唇をきつく噛んでいて、口内にじわりと血の味が広がった。
「…させる、ものか」
王位など望んだことがない。自分にとって王位争いは常に傍観するものであって、保身のために火の粉を振り払うことはあっても、自らが争うものではなかった。王位になど興味がない。いつかこの下らない王城を後にして旅に出るのだと決めていたし、密かにその準備もしていた。
しかし、この瞬間、レヴィネイスは決意した。あの噂が人々の記憶から消えるよう、この国の絶対的な王者として君臨する。その先にあるのが茨の王冠だとしても、この頭上に戴くのだと。
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微かなため息を吐き出し、レヴィネイスは手に持っていた書類を投げ出す。窓からは明るい日差しが差し込み、小鳥は可愛らしく囀る。そんな朝の爽やかな空気など、彼には些末なことでしかなかった。
久々に、薔薇姫と会った時の夢を見た。最初から同じ夢を繰り返し見ているだけではないかと思えるほど幻想的な一時は、しかし紛れもない現実だ。確かにあの時、自分はあれだけ忌避していた王位を自ら望んだのだ。
「――アクアマリン」
「はい」
自分以外誰の姿もなかった執務室に、突如一人の男性が姿を現した。蜂蜜色の髪に、明るい水色の瞳。その瞳の色があまりに美しく、レヴィネイスは自身に忠誠を誓った影たる男に「アクアマリン」という名を与えた。
「例の娘の行方はまだわからないのか?」
「申し訳ございません、殿下。定期的に魔術をかけているのですが、相変わらずでございます」
「…そうか」
薔薇姫は、ある日突然失踪した。薔薇色の瞳と膨大な魔力を持ち、美しくも気高い令嬢の行方は杳として知れない。彼女の行方は、レヴィネイスにとって唯一にして最大の懸念だった。だから人探しの魔術に長けるアクアマリンに、アーシェの存在を探すように命じていた。
「ご期待に沿えず、申し訳ございません」
「…いや、彼女は規格外だからね。君が気に病むことではないよ」
人探しの魔術は不便なもので、探し人が見つかることを拒否していると、大なり小なり影響が出る。アクアマリンにはそれさえも捻じ伏せてしまえる程の実力があるが、それでもアーシェを見つけることができずにいた。この場合は相手が悪いとしか言いようがない。
「…アクアマリン、もう下がっていい。すまなかったな」
「いえ。お役に立てず、申し訳ございませんでした」
転移の魔術によって一瞬で姿を消したアクアマリンを見送って、レヴィネイスは小さくため息を吐いた。
元々王位に興味のなかった自分が王冠を求めるのは、一輪の薔薇を守りたかったからだ。美しくも気高い薔薇姫が、人形として利用されるだけの人生を歩まずに済むように。
「…もう、やめてしまおうか」
アーシェがいたからこそ王冠を望んだレヴィネイスにとって、その存在を失くした今、王位を望む理由がない。
未だに彼女を探し求めてしまうのは、王位を望む理由がほしいからではない。ただ怖いのだ。自分の与り知らない場所で、あの薔薇が傷つき、穢されてしまうことが。ただそれだけのために探し続けていたが、それが過ちであることも知っている。
見つけてしまったら、手放せなくなる。自らの意志で家を出ただろう彼女が、貴族社会に戻ることを由とするはずがない。彼女のことは忘れて、二度と行方を探さないことが彼女にとって最善であることは理解していた。それでも探し続けるのは、ただの悪足掻きか、あるいはそれよりも性質の悪いものだ。
しかしその根幹には、二度と見つからないだろうと諦めもあった。諦めきれない自分に言い聞かせるために、見つかるわけもない少女を探し続けている。いつか来るだろう諦念の日を、少しでも心穏やかに迎えられるように。
「…?」
目を伏せ、小さく吐息を漏らしたレヴィネイスは、部屋の外から聞こえた慌ただしい足音に顔を上げた。足音は部屋の前で止まり、その主がドアを叩く。癖のある叩き方は耳に馴染んだものだったので、躊躇せずに入室を促した。
「失礼致します。殿下、カルデニアの件ですが――」
続いた言葉に、レヴィネイスは眉を顰める。入室した騎士の様子を見る限り、緊急事態が起きているのは間違いない。今朝見た夢の余韻を完全に打ち払うかのような物々しい雰囲気に、思わずため息を吐き出した。
前作『薔薇と影』を読んでくださった方、ブクマ、ポイント評価、感想を下さった方、ありがとうございます。ランキングに載っているのに気づいて、リアルで(;゜Д゜)状態でした。
色々書きたい内容が思いついているので、シリーズにしてちょこちょこ書いていけたらいいなと思っています。マイペース投稿になると思いますが、よろしくお願いします。
次回はアーシェ視点になります。戦闘・流血描写があるので、苦手な方はご注意ください。