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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編小説

短編『竜の鱗』

 アベルがリューベクの街に来てから数日が経っていた。季節は夏至を迎えており、ハンブルグの北西、トラーベ川の中洲に造られたばかりの都市リューベク。その真新しい城壁を彼が潜り抜けた晩は、丁度、聖ヨハネ降誕祭の前夜であった。あちこちに篝火(かがりび)が並んでいるのを、そして裸の女が庭で弟切草を摘んでいるのを度々見掛けた。そうすると来年の夏至までに子供が出来るのだそうだ。

 しかし、それらも今は見えず、代わりに定期市が立ち、各地から集まった商人達で溢れ返っていた。昼の間は、イスラム商人の持ってきた鬱金(ターメリック)丁子(クローヴ)などの香辛料、絹織物、宝石、リヨンからの塩や葡萄酒、イングランドから来た刈ったばかりの羊毛など、道に張り出した店から溢れんばかりの品物に、少しばかり興味を覚えたが、夜ともなれば居酒屋ぐらいしか行く場所も無い。

 アベルと同様の過ごし方をする者も市のために数多くいて安居酒屋ニドヘッグは、いつもより、ごった返していた。

 アベルが居酒屋の扉を開けると給仕の少女が、薄っぺらのスカートの裾をつまんで膝を曲げる…つまり貴族のするようなお辞儀(カーツィ)で出迎えたので思いがけず気恥ずかしい思いをさせられたが、それもすぐに忘れた。

 北欧神話の黒い絶望の巨龍ニドヘッグは、絶えず生命の樹(イグドラシル)をかじり続けている。アベルもまた、その魂霊を酒によって削られていくのだ。卓子(テーブル)ごとに置かれた燭台の灯りさえも熱気で曇っている。天井の梁からは十字架の代わりに玉葱や薬草がぶらさがり、酔いの回った客達は、詩篇を読む代わりに思い思いの下らない話をするのだった。

「あんた、傭兵かい?」

 向かいに座り、話し掛けて来た男は、アベルの剣を指差しながら言った。どうやら商人のようだ。何か良からぬ企みでも詰めてあるような袋と眼を持っている。だが見立ては正確で、如何にもアベルは傭兵だった。フリードリヒ1世のイタリア遠征に参加した後、しばしの休暇を与えられ、その時間をリューベクで過ごしていたのだ。何故、ここに決めたのかと言えば、来たことがなかったからである。新しい都市を見たがる好奇心が彼にはあった。街の建築様式は見慣れたロマネスクだったのだが。

「だったら、どうした」アベルは商人に答えた。

「そんな言い方をするなよ。せっかく良い事を教えてやろうと思ったのに。うまくいけば騎士にもなれるってもんだぜ」

「……言ってみろ」アベルは間を置いて答えた。

「教えてやるから、あんた、酒を(おご)ってくれよ」

 商人の持っている袋の口から蜜蝋が見えている。売れ残りだろうが、その中には折り畳んだ頭陀袋(ズダブクロ)が二、三枚は入っていたから、その分は売れたのだ。金は十分にある筈だ。

 アベルは少々頭に来ていたが、それよりも騎士になれる話とやらの方に関心を示した。彼には、第二回十字軍の際、諸侯に兵として召集され、アンチオキアまで行ったが、軍が内部分裂を起こしたため、成果を上げる事が出来ずに帰るはめになったという過去がある。そして、その諸侯は散財が祟って没落した。同時にアベルも他の諸侯に傭兵として使われることとなってから十数年を生きて来たが、あの時、もしも大量の財宝を奪取出来ていたならば、騎士になることも叶ったのではないか。自らの領地を得ていたのではないか。などと常々、思っていたのである。

「分かった。どんな話だ。言ってみろ」

 アベルの言葉を聞くと、男は給仕女を呼びつけた。給仕は女ばかり五、六人いる。彼女らは客が付けば二階に上がり春を(ひさ)ぐ。少し待つと先程お辞儀をしてきた少女が卓子の間を縫い、近寄って来た。そして男の(カップ)に葡萄酒を注ぐ。少女の白くなめらかな肌が視界をよぎる。淡い金髪に碧眼。多分、アングル人だろう。

 男は一気に葡萄酒を煽った。そして、他の客に呼ばれ離れようとする少女の手首を捕まえると、言った。

「可愛い天使(アンゲリ)まだ行くな。ほら、注いでくれ」

 少女の持った酒瓶の口からアニスの薫りが漂う。中に薬草を浸けてあるようだ。少女はアベルにも愛想良く微笑んでいる。男は注がれた葡萄酒をまた飲み干した。そして、少女の手首は放さないまま、声を潜めて言った。

「……俺は見たんだよ……」

「何を」

「……ドラゴンだ…」

「ドラゴンだと?」

「おっと、声がでかいぜ」

 少女がぴくりと眉を動かしたことに、アベルは気付いたが、それには触れず、男に言われるまま小声で聞き返した。

「ドラゴンが何だってんだ?」

「鈍いな、あんた。竜を倒せば英雄だぜ。皇帝の方から騎士になって下さいませって使いが来るぜ。その時には麝香草(タイム)の匂いをぷんぷんさせておきなよ」

「何でだ」

「麝香草は英雄の匂いなんだよ。知らないのかい? それに、もうひとつ……」

「なんだ?」

「鱗さ」

「うろこ?竜のか?」

「ますます鈍いな。カタツムリだってもう少し聡明だぜ。いいか、竜の鱗は高く売れるんだ。貧しい孤児の俺が今は商人として毎日を食えてる。何故だか分かるかい?それはだな、竜の鱗を拾ったからなのさ」

「そんなものどこで拾ったんだ?まさか竜の巣でも知ってるのか?」

「落ち着きなよ。俺はね、ダンチヒの生まれでガキの頃は浜辺で拾い屋をしていたのさ。打ち上げられる漂流物を売って生計を立てていたんだ。まあ、ほとんどロクなもんは無いね。たまに大きな貝殻が売れるくらいだ。それがだ、ある日、キラキラと輝く小さな銀色の欠片を見付けたのさ。バルト海が俺に幸運をもたらしたんだ。始めはデンマーク王国の貨幣かなんかだろうと思っていたのさ。ところがどうだ、市に持っていったら大騒ぎだぜ。そして俺は今じゃ、自分の立派な家を持ってるし、いっぱしの商人さ。俺が拾ったのは極小さな鱗だったが、かなりの値で売れたんだぜ」

 男は一息に喋ると、また葡萄酒を煽り、そしてまた、少女に注がせた。バルト沿岸の生まれなのにアニスを浸けた酒などを飲むのは、きっと地中海の方にでも商売に行ったその時に、よほど気に入ったというところだろうか。アベルは嵩んでゆく酒代を抑えようとして早口で聞いた。

「おまえ、どこで竜を見た」

「俺は東のビスマールを経由して、ここに来たんだが、途中に洞窟があってな。そこに巣食ってやがったんだ。干し草作りの農民達が遠くに見えたが、そいつらは近くに竜がいるとは知らないらしい。気付いたのは俺だけさ。これは極秘の情報だぜ」

 男は知らぬうちにアベルの食べていたチーズの切れ端にも手を出している。

「その竜はどのくらいの大きさだ」

「そんな、城みたいにでかくはないぜ。だが、もっと重要なことがある」

 男は、蜜蝋の入った頭陀袋に手を入れ、中から古びた一冊の写本を取り出し、(ページ)を捲った。

「何の本だ?」

 アベルの問いに勿体ぶって男は答えた。

「……俺が見た竜は……多分、紅玉龍だ」

「聞いたことのない竜だな」

「そら、この本を読んでみな」

 羊皮紙の粗末な写本を目の前に突き出されたが、アベルには、それが何語で書かれているのかさえ分からなかった。アベルが男に内容を説明するように言うと、男はにやりと笑い、少女の手首をぐいと引っ張った。少女は酒瓶を傾けながら、アベルと同じようにして男の話に耳を傾けていた。

「いいか。この本は大博物学者オデリコ・サックスによる旅行記だ。このなかに竜に関する記述がある。それによるとだな……この世界には美しい竜が棲む。それは次の三種だというんだ……」

 男は両手を振り回しながら本を読み出した。最早、その声は轟く大水。店中に響き渡っていたが、アベルも夢中になっていたので細かいことには気が回らないでいた。もちろん、酔いのせいもあっただろう。

 世界には宝石のように美しい鱗を持つ竜がいる。まずアビシニアに棲む緑石英(プレイズ)の如き緑色の鱗を持つ竜。ドラゴンというよりはワイバーンの類いであり、細身で翼が大きく長時間飛行出来る。アフリカ大陸の抜けるような青空を飛ぶその姿は神々しいほどだ。次にアナトリア地方、トゥズ湖に棲息する黄水晶(シトリン)の如き黄色の鱗を持つ竜。体長は三百ヤードもあり、生涯、湖から動かない。澄んだ湖底に沈む異教徒の財宝を拾い上げることは叶わないだろう。

 そして、最も美しく優雅なのは、中華国(シナ)で僅かに見ることが出来る、紅玉(ルビー)の如き龍。鮮紅色の輝く鱗を纏った龍である。大きさは十ヤード程度だが、その咽頭に一フィートに渡って逆さに生えている鱗の美しさは、この世に比類するものがない。それは血のように紅く、それでいて果てしなく透き通っている。中華人に聞いてみると、その鱗は剥がした後でも生きているかのように温かいのだという。そして、その逆鱗に触れると龍は怒り、人間を殺すのだとも言った。

「分かるだろう? その鱗にはとてつもなく価値があるんだってことが」

 男は写本を閉じ、急に声を落とし、言葉を続けた。

「いいか。俺は見た。血のように赤い竜だった。この目で確かに見たんだ」

 いつの間にか、スラヴの音楽が店の奥から流れていた。旅の楽団だろうか。三人の男達が楽器を演奏していた。アベルは男の目をじっと見た。それは酒のせいで充血し、濁っている。男に手首を引かれた少女は、男の杯(カップ)に葡萄酒を注いだ。音楽と人の声が混ざり合う店内に酒瓶と杯の触れる音が、やけに明瞭に響き、アベルの耳に飛び込んで来た。

「……なんだってシナの竜が、こんな所まで来るんだ?」アベルは男に聞いた。

「飛んで来たのさ」

 男は鼻で笑いながら葡萄酒を煽った。

「鱗は硬いのだろう? どうやれば殺せるんだ?」

「目と口と尻の穴を突けば何とかなるさ」

「そうなると槍のほうが良いのだろうな」

「なんなら、ピッチと脂肪と髪の毛で菓子を作れよ。食わせれば破裂するんじゃないか」男はダニエル書の挿話から言葉を引いた。

 次の瞬間、男の首には剣が突き付けられていた。

「おい、デタラメをぬかすと、おまえから殺るぞ」

 アベルは(すご)んだ後、次第に剣を持つ手に力を加えた。アニスを浸けた葡萄酒などを飲んでいる奴は地中海沿岸の出身に決まっている。信用出来るか。中華国の龍にしても、この辺りは気候が違うし、食するものも合わないだろう。人を食うなら別だが。とにかく、この男の話は信用出来ない。アベルは、そう思った。それに竜など生まれてこの方見たことが無いのだ。

 店内は相変わらず、ざわついていて誰もアベルの行動に気付いていないようだった。

「ま…待ってくれよ…本気かよ…」

 アベルの剣の切っ先が男の喉元から滲み出た血を吸っている。男の目玉は左右に泳いでいた。誰かが気付いて止めてくれるのを期待しているのだ。

 給仕の少女は驚いた様子で、自分の口に手を当て、おろおろしていたが、男の服に血がぼたぼたと(こぼ)れ出したのを見ると、意を決したらしく目をぎゅっと瞑って言い放った。

「ま、待って下さい」

 そして震える指先で自分の首に掛けてある革紐(かわひも)を引っ張り上げた。胸元から現れたその先には紅く光る欠片。ルビー色の透き通る破片。それはまさしく純化された血の結晶。

「こ、これだっ! これ! これが紅玉龍の逆鱗だ!」

 男が、そう叫ぶと、ようやく喉から剣が離れた。その声に一瞬、音楽が止まり、静寂が襲ったが、すぐに何事も無く喧騒が戻ったのは、竜への関心の薄さからだろうか。

 アベルは、その紅い破片に触れてみた。なんと、温かいではないか。本の記述と一致する。少女の胸から体温が移っているのではないか、などとは思いもしなかった。アベルは今しがた、竜などいないと思っていたのに、目の前に竜の鱗を出されて、しかも世界で最も美しいと言われる紅玉龍の逆鱗に触れて、完全に圧倒されていたのだ。アベルは少女に聞いた。

「……これを、いったいどこで手に入れた……」

「はい。この鱗は曾祖父がシナの国へ冒険旅行へ行った時に竜を倒して手に入れたものなのだと母に聞きました。でも曾祖父は帰ってくるとすぐに亡くなってしまったそうです。竜の呪いだって言われていて……」

「そうだろ、そうだろ。そんなもの早く捨てちまいなよ。何なら俺が処分してやろうか?」

 商人である男は顔をしかめ、傷付いた喉を押さえながらも商売気を失わなかった。押さえている手は赤く染まっている。

「だめです。大事なものなんです」

「リーア! 無駄話してんじゃないよ! 行って! 二階!」

 他の給仕女から怒鳴られると少女は鱗を胸にしまい、本来の仕事に戻った。

「おい、本当に洞窟に紅玉龍とやらがいるんだな?」

 アベルは男に聞いた。竜を殺すことは出来ないとしても、一枚くらい、鱗が落ちているかも知れない。それを諸侯か司教に献上しよう。そうすれば召し抱えられるようになるだろう。そう思った。騎士になるのだ。自分の領地を持てるのだ。

「あ、ああ。もちろん、この目でしかと…」

 男は身体を引き、両手を前に出して恐る恐る言った。酔いはすっかりさめてしまったらしい。

 その時、脇から老人が口を挟んだ。白髪頭の貧相な顔を二人の間に差し入れて来る。

「おまえさん達、それは聖ヨハネ降誕祭の日のことだろう?」

「そ、そうだった…いや、違うような気も…」男はしどろもどろになって答えた。

 男は言いながらも忙しなく帰り支度を始めている。老人はそれを気にする様子も無く、蝋燭の炎を見詰めながら言葉を次いだ。

「あれはなぁ、篝火(かがりび)を焚いていたんだぞ。村の火祭りがあったんだわい。よそ者のおまえさん達は知らなくて当然じゃが、祭りが最高頂に達する頃には、竜を(かたど)った大きな張り子に火を放って燃やすんじゃ」

 老人がそこまで言うと、商人の男はいきなり立ち上がり、自分の荷物を引っ掴むと、転げるように店を飛び出した。アベルも立ち上がり、剣を振ったが商人の逃げ足の方が速かったので、剣の先は床板に食い込んだ形になった。アベルが剣を引き抜いている姿はアーサー王とは似ても似つかない。

 老人は枯れた声で笑いながら言った。

「騙されたのぉ。竜など御伽噺(オトギバナシ)の中でしか生きてはおれんわい」

 アベルは苛立たし気に剣を鞘に収めたが、竜の鱗の方は諦めることが出来ないでいた。何とかして手に入らないものだろうか。自分自身が竜を見たことが無くても、鱗の方は確かに一枚、この世に存在しているのだ。しかもそれは、あの紅玉龍の逆鱗なのである。

「……腹の中には子羊が入れてあってな。その心臓を食べると疫病にかからないと言われていてな。毎年、奪い合いでの。命を落とす者もいるんじゃよ」

 老人が引っ切り無しに話し掛けて来る。だが、アベルの耳には届いていなかった。彼の指先は(しき)りに卓上を叩いている。何か考えている様子だった。

 しばらくすると、竜の鱗を持っている少女が二階から降りて来た。アベルは目でその姿を追った。燭台の明かりに浮かぶ卓子の間、白い飾り布で束ねた髪を揺らし忙しく行き来する彼女。その曾祖父とは、いったい何者なのだろう。よほどの勇者か。それにしては、彼女に勇壮さは感じられず、あえかなる百合の如くである。血を引いているのかどうかさえ怪しいところだ。(もっと)も、勇壮な給仕女など見たくもないが。店に入った時にされたお辞儀、あれは高貴な家の出身だから、それで身についていて自然に出たのだろうか。少女の曾祖父は竜の鱗のお陰で騎士になったのやも知れぬ。だが、今は没落。

 しかし、兎にも角にも、あの細い首に頼り無く掛かっている革紐の先に、服に隠れたその部分に、紅玉龍の逆鱗があるのだ。

 アベルが無視を続けたため、老人は席を変えて奥の楽団の側に座った。知らぬ間に席を移った老人を後目(しりめ)に、アベルは手招きして少女を呼んだ。こちらに近付いて来る。少女は葡萄酒の瓶を抱え、疲れた笑みをアベルに向けた。

「娘。さっきの鱗をもう一度見せてくれ」

 少女は少し迷った素振りをしたが、胸元からそれを引き出して見せた。斜方形に近い一インチ程の鱗。アベルは透き通る真紅に目を奪われた。手を伸ばし、そっと触れてみる。やはり、温かい。彼は思わず本心を口にした。

「……この鱗を譲ってはもらえないだろうか…」

「いえ、あの、たとえ騎士様の頼みであったとしても、こればかりはだめです……」

 騎士……その語にアベルは自制を無くし、少女の胸から紅い破片を掴み取ろうとしたが、彼女はひらりと身をかわし、卓子から離れて行った。時折、アベルへと向けて不安気な視線を送っている。

 アベルは立ち上がった。少女は畏縮したが、彼が貨幣を何枚か置いて、そのまま黙って店を出るのを見ると安心したようだった。彼女はアベルの背中を見送り、深く息をついて胸を撫で下ろした。

「リーア! あんた、いい加減にしなさいよ」

 再び怒鳴られた少女は、それから給仕女達と何か言葉を交わしていたが、彼女の他は皆、呆れたような、批判めいたような表情だった。


 やがて明け方近くになり、ここ、居酒屋ニドヘッグにも空席が目立ち、客も数えるほどしかいない。少女は酒を注ぎ、二階へ上がり、また降りて来ては酒を注いでいた。

 そのうちに酷く酔った客が帰ろうとして席を立った。しかし、あろうことか、入口の所まで来た途端に倒れ込んで眠ってしまった。客の足の付け根は少々濡れているようでもある。

「リーア、そいつ外に出しちゃってよ」

「あ、はい」

 少女は言われた通りにした。歯を噛みしめて、細い腕と両足を突っ張って、客の体を引きずっている。かなり重たいようだ。

 それでも何とか、店に面した路地まで客を出してしまうと、もともと立て付けの悪かった店の扉が、ひとりでに音も無く、閉まった。店内では少女を呼びつける声が響いていた。

「リーア! どこだい?! 二階へ行きな!」

 店の外からリーアと呼ばれた少女の声が微かに聞こえてくる。何を言っているかは分からないが、誰かと話しているようだ。給仕女は再び大声で言った。

「リーア! どこだい?! 二階へ行きなって言ってんだろ!」






 その日を最後にして居酒屋ニドヘッグに、あの気取ったお辞儀をする少女はいない。


 あの時に扉がしまり、ほんの少しだけ時間が経ってからのことだ。店に面した薄暗い路地で少女が殺されているのが見付かった。剣で斬殺されていたのだ。彼女自身の血で白い肌は真っ赤に染まり、切り刻まれて滑らかではなくなっていた。そして、やはり、真紅の破片も、首からもぎ取られていた。白んだ空の下、少女の死体を囲む見物人達に混ざり、遺された給仕女達は憐れむように言葉をこぼした。

「……この娘も馬鹿よ。見せびらかしたりして…」

「……ほんとよ…ただの色硝子なのにね…」




 アベルは馬に跨がり、陽光に満ちた丘を駈け抜けていた。時折、雄叫びを上げた。その手に強く握られているのは、血まみれの剣と紅玉龍の逆鱗。


 さあ、諸侯に誇れ! 司教に誇れ!

 稀代(きたい)のドラゴン・スレイヤーよ!

 おまえは 騎士になるのだ!



          [了]







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