猫と男爵
シュタインベルグ男爵家の当主アンドレは、柔らかなベッドの上で目を覚ました。
「……はっ、わ、儂は一体どうしてベッドで寝ているのだ?」
窓から入る光の強さから、時刻は昼過ぎどころか既に夕方になろうという頃合いと分かる。カーテンが引かれた寝室は、薄暗くなっていた。
「儂とあろう者が、まさかこんな時間まで寝過ごしたのか? 馬鹿な、メイド長は儂を起こさず何をやっていたのだ…」
アンドレは自分を起こさなかったメイド長に怒りを覚え、ベッドの脇のテーブルに置かれベルを取った。ベルを鳴らせば、すぐさまメイド長が駆けつけてくる。アンドレがそうしようとした時、彼はふと奇妙な感覚にとらわれた。
「そういえば奇妙な夢を見たな。先生が、あのアーデンベル先生がこの城にやってこられたという…全く馬鹿げた夢だった。ふはははっ、そんなことあるわけ無い。儂はどうしてあんな夢を…」
自分が見た馬鹿な夢に自虐的な笑いを浮かべ、ベルを鳴らそうとしたアンドレは、ようやくそこで部屋の中に誰かが居ることに気づいた。
男爵家当主であるアンドレの寝室に入室可能な人物は多くない。彼の妻達かメイド長しかない。こんな時間に妻達の一人が寝室に来ることはあり得ない話。そうなると部屋に居るのはメイド長だけだと彼は判断した。
「そこにおるのはメイド長か? どうして朝に儂を起こさなかったのだ?」
自分を起こさなかったメイド長を叱りつけようとして、人影に視線を移したアンドレは、その人物が獣人の少女であることに気づいた。
「はっ? どうして獣人の小娘風情が儂の寝室にいるのだ」
ラフタール王国では亜人差別が無いとはいえ、実際は亜人…特に獣人の扱いは低い。当然貴族は使用人に亜人を雇うことはない。そんな亜人である獣人が貴族である自分の寝室に入り込んでいることは全くあり得ない話である。
一体全体警護の兵は何をしていたのか、まさか全員居眠りでもしていたのかと、アンドレは憤慨しながらベッドから降りたところで、少女の背後に更にもう一人人物がいることに気づいた。
「これは警護の兵どもは首にしなければならぬな。だれだ、お前達は? 一体ここを何処だと………あ、アーデンベル先生!」
ベッドから立ち上がった所で、アンドレは少女…つまりクラリッサの背後に立っているのがアーデンベル先生であることに気づいたのだった。そして彼は再び気絶し、再びベッドに倒れ込んでしまった。
「男爵様は、なぜアーデンベル先生を顔を見ると気絶するのでしょう?」
「さて? なぜアンドレが儂を見て気絶するのか…全く見当も付かぬのじゃが」
クラリッサはアンドレが気絶する原因に尋ねたのだが、彼は首をひねるばかりであった。
「兎に角これでは話が進みません。私がこの方を介抱しますので、先生は取りあえず姿を見せないようにあのカーテンの影に隠れてしばらくおとなしくしていてくれませんか」
「仕方ないの~」
さすがに何度も失神するアンドレを見て、アーデンベル先生はため息をつきながらも隠れることを了解してくれた。アーデンベル先生が隠れるのを確認して、クラリッサはベッドで気絶しているアンドレを起こしにかかった。
「男爵様、起きていただけますか」
ポケットから取り出した気付け薬の小瓶をアンドレの鼻に嗅がせた。アンモニアの異臭により、アンドレは素直に目を覚ました。
「ウッ…この臭いは何だ。儂は一体何を…はっ、先生が…先生がやってくる。あんな悪夢を見るとは儂も歳を取ったのか」
アンドレは相変わらずアーデンベル先生の存在は悪夢と思っているようだった。そして、目覚めたアンドレは、自分を介抱するクラリッサに気づいた。
「獣人の小娘よ、なぜ儂の寝室にいるのだ。いや、儂に何をしている」
「お初にお目に掛かりますシュタインベルグ男爵様。私は魔法学校から来ましたクラリッサと申します」
怒鳴り散らすアンドレから離れ、クラリッサは貴族の令嬢らしく優雅な仕草で自己紹介を行った。
「クラリッサ…魔法学校から…まさか、貴様。紫の魔女の弟子の…」
自己紹介を聞いたアンドレは、ギョッとした顔でクラリッサの姿を上から下まで見た。
「はい。私はエーリカの弟子のクラリッサです」
そしてクラリッサのこの一言で、本物であると認識したアンドレの顔は、一気に青ざめ、冷や汗が滝のように流れ始めた。
「な、なぜ貴様がこの城に、私の寝室にいるのだ。え、衛兵は、メイド達は何をやっていた。き、貴様こ、こんな事をしてただで済むと思っているのか!」
しかし、アンドレはそんな状況でありながらもクラリッサを怒鳴りつけるだけの気力は残していた。
「ええ、本当はきちんとアポイントを取り男爵様に謁見しようと思ったのです。ですが城を訪れたところ門を守っておられた兵がいきなり襲いかかってきまして。やむなく私達は抵抗したのですが、まあ、それからいろいろありましてなぜかこんな状況になってしまいました」
クラリッサはいかにも不本意だという表情でそうアンドレに告げた。
「え、門の兵が襲っただと? 馬鹿を申すな。我が男爵領の兵が理由もなくその様なことをするわけがなかろう。本当は…貴様は儂を狙ってこの城にやって来たのだろうが!」
「いえ、門の兵達がいきなり襲ってきたのは事実です。まあこちらも襲われた理由が無いわけでもありませんが、やはり暴力はいけませんよ。後、どうして私が男爵様を狙うのでしょうか? そんな理由に男爵様は心当たりがあるのでしょうか?」
クラリッサは怒鳴るアンドレに対して、人差し指を頬につけて可愛い仕草で尋ねた。
「そ、それは…い、いや知らんぞ。どうして儂がそんな事を知っているのだ。馬鹿なことを言うな」
「そうですか。…ところで、どうして男爵様は私の名前とエーリカとの関係を御存じだったのですか」
「そ、それは………魔法学校に通っている娘から、紫の魔女の弟子と名乗る魔法を使う獣人が入学したと聞いたのだ」
アンドレはそう言ったが、それを聞いたクラリッサは、その発言に内心にやりと笑った。
「魔法学校に通っておられる男爵家令嬢とは、メグ嬢の事でしょうか?」
「当たり前だ、儂の可愛い一人娘だ」
「…ということは、このお城におられるメグ嬢は男爵様の御令嬢ではないと言うことでしょうか?」
「な、何を言う。儂の娘に決まっておろ…」
其処まで言って、アンドレはクラリッサの誘導尋問に引っかかったことに気づくのだった。
「おかしいですね。男爵様は一人娘と仰っておられたのに、魔法学校とこの城に二人も御令嬢おられる。どうしてでしょうか? 私、非常に気になります」
クラリッサは意地の悪い笑みを浮かべて、アンドレに釈明を求める視線を送ると。
「ぐぬぬ…一人娘とは、儂が言い間違えたのだ。我が娘は双子なのだ」
と苦しい言い訳を返してくるのだった。
(いやいや、小学生かと言いたくなるような嘘だな。いや最近の小学生でももっとましな嘘を付くぞ)
「だ、そうですが…アーデンベル先生はどう思われますか?」
アンドレの苦しい嘘に呆れたクラリッサは、ここでようやく本命の人物に話を振ることにした。
「うむ。魔術学校に在籍して居るメグ嬢はそこに居るアンドレとは魔力波動が全く異なる。血が繋がっているとはあり得ぬ話じゃ」
ようやく出番が来たかと、アーデンベル先生がカーテンの影から出てきたのだが。
「あ、アーデンベル先生…」
アーデンベル先生の姿を見たアンドレは、再び失神することになる。
「さすがに三度も失神されるのは困ります」
素早くクラリッサはアンドレに近寄り、再び気付け薬の小瓶を彼の鼻にあてがった。
「グハッ、この臭いは何だ。…ひぃー、どうしてアーデンベル先生がここに…」
アンモニアの異臭にアンドレは失神することもできず、アーデンベル先生とようやく対面することになった。
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