表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/13

[4]


 あまりにも腹が減って、俺は目が覚めた。胃がしくしくと痛む。

 昨日ベッドに倒れたのは、まだ夕方にもなってなかった時刻だ。そして時計を見ると、現在の時刻が昼の十一時。およそ二十時間寝ている。夕飯は食べていないので、昨日映画を見る前に雪と食べたファーストフードのセットが最後の食事だ。腹が減って当たり前だ。

 部屋を出て階段を下りる。台所へ向かい冷蔵庫を開けるが、食べれるものは何も無い。

「そういえば、もう食べものが無かったんだっけ……」

 今現在、この家に住んでいるのは俺一人。去年母親が東京へ転勤となり、父親もそれについて行った。そのため、家のことは全て自分でやるので、食料の買出しもしなければならない。そして昨日、食料の在庫が切れたのだった。

「しまったな、雪の家に行くわけにもいかないし……」

 一人暮らしをしている俺を気遣って、雪の母親がときどき食事に誘ってくれる。だからと言って、自分から食事させてくださいと家に行くわけにはいかない。どうしようかと思っていると、電話がかかってきた。

「はい、もしもし。高上ですが」

「もう、渡くん。やっと出た」

「なんだ、雪か」

「なんだじゃないよ。携帯はつながらないし、家に何度も電話したんだから」

「そうなのか?」

 昨日は着替えずにベッドに倒れたので、ポケットに携帯電話は入ったままだった。取り出してみると、ボタンを押しても電源が入らない。

「悪い。電池切れてる」

「もう。坂崎さんが連絡するって言ってたの忘れたの? それでね、さっき電話があって、これから来て欲しいって。お昼ごはんも食べさせてくれるんだって」

 それは食べ物が一切ない家にいる俺にとって、またとない朗報だ。

「でも、渡くんはどうなのか……」

「行く」

 雪が全部言い終わる前に即答する。人間、空腹には耐えられないのだ。


「いらっしゃーい。どうぞ、入って」

「どうしたの、朝日先生? すごい顔だね」

「聞いてくださいよ、雪ちゃーん……坂崎さんに夜中まで、ずーっとお説教されて。あんなに怒らなくてもいいじゃないですかー」

「朝日先生。立ち話もなんですから、早く二人に上がってもらってください」

「はっ、はいっ!」

 背中にかけられた声に、背筋の伸びた気を付けの姿勢で朝日先生は返事をする。

「さ、さあ二人とも。早く上がって、上がって!」

 部屋に通され、目を見張る。昨日は足の踏み場もないほどごみが散乱していたリビングが、すっかり綺麗になっていたのだ。雪もこの光景に目を丸くして驚いている。

「すごーい! この部屋ってこんなに綺麗になるんだ!」

「ふふん。ちょっと本気を出せば、こんなもんですよ」

「何を言っているんですか。僕と夕日さんが、ほとんど片付けたようなものでしょう……」

 坂崎さんがため息混じりに言いながら、リビングへ入ってくる。その手には湯気を上げるパスタが乗った大皿と、取り分け用の小皿とフォークが乗っていた。

「とりあえず、食べながら昨日の続きを話しましょう」

「うわー! 美味しそう!」

 雪は目を輝かせてテーブルにつく。朝日先生もいそいそとその隣へ座る。俺も漂ってきた食欲を誘う香りに導かれ、座ろうとして動きを止めた。なぜならすでに座っていた夕日が、じっと俺を睨んでいたのだ。

「さあ、高上君も遠慮せずに座ってください」

 坂崎さんはそう言いながら、大皿を中央に置き食器を配る。夕日の視線に気後れしながら、席に着く。だがそこは夕日の真正面なので、まったく落ち着かない。さっきまでぐうぐう鳴っていた腹の虫も、なりを潜めてしまったようだ。

「それでは、どうぞ食べてください。私が作ったので、味は保証できませんが」

「いただきまーす!」

 雪はそう言うやいなや、すばやく自分の皿に大量のパスタを移す。朝日先生も負けじと、大量に取る。だが大皿に盛られたパスタは皿からこぼれんばかりの山盛りで、全く減ったようには見えない。この部屋にいる全員、五人分の許容量を超えているように思える。

「高上君も食べないと、すぐに無くなっちゃうよ」

 朝日先生が口いっぱいに頬張りながら言ってくる。そう言っても、ちょっとやそっとじゃ、この量のパスタが無くなるとは思えない。それに夕日からのプレッシャーで、食欲がかなり減退している。しかし一口食べた瞬間、一気に取り分けた分をかきこんだ。

 空腹は最高の調味料と言うが、それを差し引いても最高にうまい。俺は無言でしばらく食事に専念した。他の四人も同じだ。

「さて、昨日はどこまで話したのでしたか?」

 パスタの量が半分になったぐらいで、坂崎さんが口を開いた。半分といってもかなりの量があるし、俺はかなり満腹になっていたので、食べるのをやめて質問する。

「朝日先生たちが別の世界から来たって言ってましたけど、それはどういう事なんですか?」

「高上君。君はこの世界がどんなふうになっているか、分かりますか?」

「世界って言うと……日本とか、アメリカとか、いくつもの国に分かれてて……」

「そうでは無くて、この宇宙全体の外側のことです」

 そんな事を言われても、宇宙の外側があるなど聞いたことが無いので、全くわからない。黙っていると坂崎さんは紙とペンを持ってきて、その紙におおきな丸を書いた。

「ある時、神様は世界を創ろうと思い、その材料となる物を作りました。それがこの丸だと考えてください」

 突然何を言っているのかと、訝しげに坂崎さんを見る。

「とりあえず、話を聞いてください……そして神様は世界を創り始めました。だけどその材料はあまりにも大量で、世界を一つ創っただけでは余ってしまいました。そこでたくさんの世界を創ることにしました」

 坂崎さんは大きな丸の中に、いくつもの小さな丸を書き加える。

「この小さな丸一つ一つが、宇宙全体。この世界だと思ってください。そしてこの中の一つが僕たちがいる世界で、朝日先生と夕日さんは違う丸。違う世界からやって来たということです。やっぱり、信じられませんか?」

 突然そんな事を言われて、信じられるわけが無い。だからと言って、それを嘘だという根拠も無く、俺はただ黙っているしかなかった。

「すみませんが、この事について目で見てもらうことができませんから……とりあえず、魔法が使えるというところで納得してもらえませんか?」

「別の世界ってのは、まあ、分かりました。でも、その魔法って一体何ですか?」

「魔法とは、魔法陣によって世界の外へ門を開き、そこから流れてきたモノを、違うものに作り変えるということです」

「全然、理解できないんですけど……」

 坂崎さんは、さっき別の世界について説明したときの紙を見せる。

「これを見てもらうと、世界の外側にはまだ世界になっていない材料があるのが分かりますか? 僕たちの世界はこの材料の海の中に沈んでいる、小さなピンポン玉のようなものなんです。そして魔法陣は、ピンポン玉の表面に開いた穴。穴が開けば海水が流れ込んでくる。そのままにしておけば、それはただの海水です。でも魔法陣に描かれた記号が、その海水を全く別のものに変える。例えば、昨日高上君が見た、朝日先生が電気を出したように」

「そういえば、どうして雪は魔法を使えるんだ? 別の世界からやって来たわけじゃないのに。誰でも簡単にできるものなのか?」

「確かに勉強と訓練をすれば使えるようになるけど、簡単にはいきませんね。こちらの世界の人たちは見えませんから」

「見えない? 何がですか」

「高上君。この部屋を見て、どう思いますか?」

 俺は部屋を見回してみる。けれど別に変わったところの無い、普通の部屋だ。

「別に変わったところはありませんけど」

「でも朝日先生や夕日さんは、意識を集中すればこの部屋にあるものや、僕たちの体が光って見えます。それはその存在を形にしている、それ自身の意志の力が見えているからなんです」

「意志の力?」

「そう。神様は世界を創った。でも、自分の力だけでその形にとどめておく事はできなかった。なにしろ、世界は複雑ですから。そのため、世界の中に形作られた存在たち自身の力で存在できるようにしました。それが、意志の力。意志の力といっても、人間や動物だけじゃなく、無機物にもそれはあります。正確には、無意識の力と言ったほうがいいでしょう」

「その意志の力が、魔法にどう関係するんですか?」

「魔法を使うには、魔法陣に意志の力を注がなければなりません」

 坂崎さんは一枚の紙を取り出した。それには円形の絵、魔法陣が描かれていた。

「高上君。この魔法陣に、自分の意志の力が流れ込んで行くところが想像できますか?」

「それは、ちょっと……」

「そう。意志の力を見たことの無いこの世界の人間には、それができない。だから魔法を使うことはできません」

「でも、待ってください。雪は俺と同じこちら側の人間だけど、魔法が使えるじゃないですか」

「それはさっき言ったように、勉強と訓練でできるようになります。こんな風に……」

 坂崎さんがそう言うと、手に持っていた紙に描かれた魔方陣が光り、その瞬間、紙が燃えた。俺は驚いて、後ろにのけぞる。

「すいません。驚きましたか?」

「……坂崎さんも、別の世界の人なんですか?」

「いいえ。高上君と同じ、こちらの人間です」

「なるほど……訓練すれば、誰でも使えるわけなんですね」

「そう言うわけでも無いんです。僕はさっきのように、実際に見える魔方陣が無いと魔法は使えませんからね。朝日先生は何も使わず、魔法を使っていたでしょう?」

 そういえば、昨日見たときは、何も無い空中に突然魔法陣が現れた。

「魔法は、それぞれの魔法陣によって使えるものが決まっています。魔法陣が少しでも違っていたら別の魔法に、または魔法を発動することができません。高上君、この魔法陣を完璧におぼえる事ができますか?」

 坂崎さんは魔方陣の描かれた紙を見せる。円の中は見たことも無い記号がびっしりと書き込まれていて、とてもじゃないが覚えることはできなさそうだ。

「ちょっと無理ですね」

「だから何も無い状態で魔法を使おうと思ったら、長い時間をかけて正確に魔法陣を覚えなくてはなりません。これが簡単に魔法が使えない理由です」

「でも、雪も何も使わず魔法を使っていたような……」

 俺が視線を向けると、それに気がついた雪もこちらを見る。口から食べかけのパスタをはみ出させながら、こちらを不思議そうに見ている。

「それは、魔法で朝日さんと川里さんの脳をつなぎ、記憶を共有したからです」

「記憶を共有?」

「そうです。朝日さんの持つ魔方陣の記憶を川里さんと共有することで、川里さんは魔法を使うことができるようになったのです」

「それは、便利だな」

「そう、とても便利なのです。高上君とつなげたことによって、夕日さんも日本語が喋れるようになりましたから」

「ええっ? それは、どういうことですか?」

 夕日は俺をちらりと見ると、ものすごい不愉快そうな顔をする。

「夕日さんは別の世界の人ですから。もちろん、日本語は全く分かりません。ですから、高上君と夕日さんの脳をつないで、言語に関する記憶を共有したのです」

「いつの間に……」

「昨日、高上君に魔法人の描かれた紙を見せましたよね」

 そういえば昨日、たしかに魔方陣が描かれた紙を診る様に言われた。そして夕日が目を閉じると魔方陣が光ったのだ。紙を渡される前に、夕日と坂崎さんが日本語では無い言葉で何やら話していたことも思い出した。

「あの時か……」

「……別にあなたなんかと、つなぎたく無かったわ」

 ここへ来てから一度も口を開いていない夕日が、初めて喋った。その声は、俺に対する嫌悪感が詰まった苦々しいものだった。

「なんだって」

 そこまで嫌われる理由が分からない俺は、つい強い声を出してしまう。夕日は何も言い返さず、挑むような目つきで睨んでくる。こちらも負けずに睨み返す。

「夕日さん、高上君と喧嘩をしないでください。その事を、高上君に頼みたかったのですから」

「どういう事ですか?」

「高上君にこれからも、夕日さんと魔法で脳をつないでもらいたいのです」

「嫌です! つなぐ相手なら、他のスタッフがいるのでしょう!」

 「ですが、ここまで知られたからには、こちらの協力者になってもらうしかありませんし……」

「あの、もしそれを断ったら、どうなるんですか?」

 質問すると、坂崎さんは向きを変えて俺と目を合わせると、突然背筋に寒気が走った。

「……そうですね。そうなると、魔法や別の世界についての記憶を消すことになります。別に他の記憶が無くなる訳ではないので、高上君がよければそうしますが……」

 顔は笑顔なのに、こちらを見つめる瞳は笑っていなくて、それを見た俺は言いようの無い恐怖を感じた。少し引きつった笑顔で首を縦に振る。

「よ、喜んで協力させてもらいます……」

 俺がそう言うと、坂崎さんは嬉しそうに頷く。夕日のほうは眉間にしわを寄せて、思いっきり不満そうだ。

「私は嫌です」

 夕日は抗議するが、坂崎さんが顔を向けると何も言えなくなった。おそらく俺と同じ恐怖を感じたのだろう。結局夕日は、「わかりました……」と承諾した。その声は限りなく不満そうだったが。

「でも、協力って言っても、一体何をすればいいんですか?」

「そうですね。まずは、別の世界の人たちが、こちらにいる理由を説明しましょう」

 坂崎さんの話によれば、数百年前にあちらの世界からこちらの世界へ来ることができる魔法陣が発見され、それから少しずつ互いの世界交流が始まったらしい。現在では結構な数の人間たちが、二つの世界を行き来している。ただし誰でも、というわけではなく、それぞれの世界の政治家たちや、限定的に貿易を許された少数の企業だけだった。

 しかしある時、厳重に管理されていたはずの魔法陣の詳細が、外部へ漏れる。その情報は日の当たらない、裏社会の犯罪者たちに変化をもたらした。それは二つの世界同士の密貿易、犯罪組織の流出と拡大、そして犯罪者の別世界への逃亡といったものだ。二つの世界の警察は手を組み、お互いの犯罪者たちを取り締まることとなった。そうすると、その世界の警察官たちは別の世界へと行くことになる。だが、別の世界から来た人間は、こちらの世界のことなど何も分からない。

「そんな人たちをサポートするのが、私たちスタッフなのです」

「つまり、坂崎さんと朝日先生は、二つの世界を股にかける警察官なんですか?」

「そういうことになりますかね。ですけど、僕はこちらの世界の人間で、こちら側のスタッフなので、あちらの世界へ行ったことはありません」

「へー、朝日先生って、警察官だったんだ。知らなかった」

 「……朝日先生。きちんと雪さんには、全て説明していると言っていましたよね、確か……?」

「も、もちろんです! 雪ちゃんが覚えていないだけなんですって……!」

 朝日先生は必死で抗弁するが、それが真実だとは思えない。

「あ、でも、こっちの夕日……さんも警察官なのか? そうは見えないけど」

 たしか、今度から同じ穂高学園の高等部へ通うと言っていた気がする。つまり俺達と同じ学生なんじゃないのか。そう思い夕日を見ると、恐ろしく敵意に満ちた目で睨んでくる。

「何? 私に警察官は無理だとか思ってるの! 馬鹿にしないで!」

「そんなことは、一言も言っていないだろ! ただその歳で、警察官だなんて変だと思っただけだ!」

「嘘ばっかり! その目は私を馬鹿にしてるわ!」

「して無えっ!」

 またもや俺と夕日は顔を突き合せて、にらみ合いに突入する。見かねた坂崎さんが仲裁に入った。顔を離した夕日は思いっきり目をそらして、俺と目を合わそうとしない。

「夕日さんは、向こうの世界の警察学校みたいなところへ通っています。その研修で、一年間こちらの学校へ通うことになったのです」

「研修?」

「はい。夕日さんは。卒業すれば警察官になりますからね。もしかしたら、こちらの世界へ配属されることがあるかもしれません。その時になってこちらの世界について勉強しても遅いですし、全く違う世界に慣れるのは簡単ではありません。そのため、学生のうちにこちらの世界へ慣れてもらおうと、そういうことです」

「なるほど……でも、どうして穂高学園なんですか?」

「それは穂高学園が、お互いの世界が共同で情報収集と、その研修のために作った学校だからです。学校の職員の中に僕と同じスタッフが紛れていますし、生徒の中にも夕日さんと同じ研修に来た人が、何人かいます」

 雪が「へー」と驚いた声を出す。俺は声こそ出さなかったが、内心はかなり驚いていた。ただ家から近くて、教室が冷暖房完備で快適だというだけで選んだ学校に、まさかそんな秘密が隠されているとは思わない。

「それで高上君と川里さんには、僕たちスタッフの手伝いをお願いしたいのです」

「え、私も?」

「はい。川里さんも、別の世界や魔法について知ってしまいましたからね。本来なら、もっと早くに頼んでいるはずなんですがね……朝日先生」

 坂崎さんは言葉の後半、声を低くしながら朝日先生を見やる。テーブルに額がつかんばかりに頭を下げて、朝日先生は謝る。

「す、すいませーん……」

「でも、手伝いって何をすればいいんですか? 俺は雪と違って、魔法も使えないし」

「別に魔法を使って、犯人を捕まえて欲しいなんて言いません。ただ、情報を集めてほしいのです」

「情報ですか?」

「はい。魔法使いたちはこちらの社会に巧妙に隠れています。僕たちが学校を作り、その中にスタッフたちが紛れているのは、そこでしか手に入らない情報があったりするからです。同じように、学生には学生にしか知らない情報があるのでそれを教えて欲しいのです」

「情報っていっても……」

「難しく考えないでください。学校や友達から聞いた噂話などに、不思議なもしかしたら魔法が使われていかもしれないものがあったら、それを僕たちに教えてくれればいいだけですから」

 魔法が使われているような、と考えたところで思い出した。

「おい、雪」

「何、渡くん?」

 雪はパスタを食べながらこちらを向く。見ればあれだけ残っていたパスタが消えている。

「おまえ、よくこれだけ食べたな」

「違うよ。ほとんど食べたのは、朝日先生」

 雪に言われて見ると、朝日先生はパンパンに膨れた腹を押さえて寝転んでいる。

「すごいな……じゃなくて、昨日おまえが倒したやつら!」

「それがどうかした?」

「覚えてないのか? あいつらの一人が魔法を使ってただろう」

「あー。そういえば、そうだったかも」

「? それは一体、何のことです」

 坂崎さんに、オヤジ狩りをしていた少年たちを、雪が追い払った時のことを説明する。

「……で、そいつの指先に光が、魔法陣でしたっけ? それが現れて、そこから何かがとんでもないスピードで飛んできたんです」

「その飛んできた物は、何か分からなかったんですか?」

「コンクリートにめり込むようなスピードですよ。見えるわけ無いです。雪が防いだのが地面に落ちたときも、遠くて分からなかったし。雪はそのとき見てないのか?」

「んー、よく覚えてない」

「……それだけの威力となると、かなりの使い手。しかしそれだけの実力を持った子供の魔法使いが、こちらへやって来たという報告は聞いていない。しかも逃亡してきたのなら、そんな簡単に魔法使いだと知られるような真似はしないはず。しかし仲間の様子では、その少年が魔法使いだと知っているような……」

 話しかけることをためらう様な雰囲気に黙っていると、不意に坂崎さんは顔を上げた。

「すいませんが、ちょっと用事が出来てしまったようです。そこでお願いなんですが、高上君と雪さんにこのあたりを案内して欲しいのです。夕日さんはこちらの世界へ来たばかりで、一般的な知識は向こうで予習していますが、実際にとなるとちょっと不安ですので。どうです、引き受けてくれませんか?」

「は、はい。別にいいですけど」

「私は嫌です、絶対に!」

 夕日はまたも抗議するが、坂崎さんはあの目だけが笑っていない笑顔で黙らせる。

「では、高上君と雪さん、お願いします」

 寝転んでいた朝日先生が体を起こし、右手を上げた。

「はい、はい。私も一緒に行きます」

「朝日先生には、お話があるので駄目です」

 俺たちは坂崎さんと朝日先生の見送りを受けてアパートを出る。そのとき坂崎さんに、昨日少年たちがオヤジ狩りをしていた近くには絶対行かないように強く言われた。

「ねえねえ、どこか行きたい所ってある? 無いんだったら、駅に行こうよ。この道を真っ直ぐ行けばいいし、駅前のビルならお店もたくさんあるから」

 雪が話しかけるが、夕日は無視。アパートを出てから数分間、雪は夕日の隣を歩きながらいろいろ話しかけてみるが、ずっと無視されている。夕日の顔は眉間に皺こそ無いが、凶悪な不機嫌顔で前から歩いてきた人なら、必ず道を開けてしまうだろう。二人の後ろを歩いている俺は、その不機嫌なオーラが全てこっちに向いているのが、見える夕日の背中から伝わってくる。

 歩いている横を、一台のバイクが走っていく。すると、それを見た夕日が足を止めた。

「あれが、バイク……」

「バイクがどうかしたか?」

 俺が言うと、夕日はすごい勢いでこちらを振り向く。その顔は、それが素顔なのかと思うくらい見慣れてしまった、目も眉毛も吊り上った怒り顔だ。

「うるさいわね。何なの」

「いや、急に止まるから、何かあったのかなって」

「別に、なんでもないわ!」

 夕日は前を向いて、再び歩き出す。俺は慌てて追いかけて話しかける。

「バイクが好きなのか?」

「違うわ」

「じゃあ何だ?」

「どうでもいいでしょ!」

「教えてくれたって、いいだろ!」

「嫌よ! あなた、また馬鹿にする気でしょ!」

「俺がいつ馬鹿にしたって言うんだよ!」

「したわ!」

「絶対にしてない!」

 夕日は地面を力強く踏みつけ、急停止して俺を振り向く。

「それじゃあ言うけど、バイクの実物を見るのはさっきが初めてだったの!」

「初めて?」

 俺が驚いた顔をすると、夕日の眉毛がさらに吊り上り憤怒の表情を形作る。

「その顔が、馬鹿にしてるって言うの!」

「いや、ちょっと待て! 初めてって、そんな事は無いだろう?」

「いつもこっちの世界の人間は、そうやって馬鹿にする! 本当なんだから仕方ないでしょ!」

 夕日は背を向けて、かなりの早歩きで歩いて行く。追いかけるが、小走りでも離されてゆく。だが前方の交差点が赤信号だったので、追いつけると思ってスピードを落とす。だがなんと、夕日は赤信号を無視して渡ろうとした。

「おい!」

 俺は慌てて全速力で走る。追いついた時は、夕日と車が衝突寸前のところだった。夕日の腕をつかみ、全力で歩道へと引っ張る。勢いあまって二人で倒れこむ。車はクラクションを鳴らしながら走り去っていった。

「痛いわね! 何を……」

「うるさい! あんたこそ、何してんだ、ふざけんな!」

 俺は夕日の肩を掴んで大声で叫ぶ。夕日はその剣幕に驚いたのか、言葉が止まる。

「赤信号なんだ! あのままじゃ、ひき殺されてたんだぞ!」

 俺が信号を指さすと、ゆっくりと夕日もそちらを向く。

「ああ、そうね。あれは信号機だったわ……」

「なんだって?」

「どうしたの?」

 今更雪がやってきて、心配そうに倒れたままの俺たちへ声をかけてくる。だが夕日は、どこかぼうっとした顔で信号機を見つめるだけだった。

 俺は先に立って夕日の手を取り、立ち上がらせた。ちょうど信号が青になったので道路を渡る。

「……」

 夕日は黙り込んだまま歩いている。表情はいくらか柔らかになっているが、さっきのこともあるので、俺からは話しかけ辛い。雪はどうしたの、といった顔で俺と夕日の顔を見比べるだけで、自分から話しかける気はないらしい。仕方なく、俺から前を行く背中に話しかける。

「なあ……さっきの、バイクを初めて見たってのは本当なのか?」

「……今度馬鹿にしたら、絶対に許さないわよ」

「しないって」

 夕日はこれから真剣勝負を行うように、真剣な表情になって言った。

「じゃあ言うけど、私の世界には車やバイクなんか無いし、車に乗ったのも昨日が初めて! 知識としては知っているけど、写真や映像じゃなくて実際に信号機を見たのもさっきが初めてだったの! 分かった!」

 夕日は早口で叫ぶようにして、一息に言った。俺はその勢いにひるむ。

「また、馬鹿にしたでしょ!」

「違うって! そんなに俺たちの世界とは違うのか?」

「……ええ。こっちでは主な移動手段は、馬車か馬よ。道もアスファルトなんかじゃなくて、ほとんど未舗装の土のままだし、大きな街でも石畳でできてる。家も木材や土壁やレンガで、コンクリート製のビルなんて一つもないわ。水道も無くて、みんな井戸で生活してる」

「それは、ちょっと……」

 文明が遅れすぎなんじゃないかと、言葉を失う。すると夕日は眉を吊り上げる。

「私たちの世界が、遅れてるって思ってるわね……いつもそうだわ! こっちの人間は誰も彼も、そうやって馬鹿にする! 車や飛行機がそんなに偉いっていうの! だいたいその進んだ文明とやらで自然を汚して、自分たちの世界を滅ぼそうとしているくせに、何考えてるのよ!」

「全くもって、その通りです! この通り、謝ります」

 夕日の怒りを静めるには、へたに何か言うよりとにかく謝った方がいいと思い、平身低頭卑屈なまでに頭を下げる。

「なんなの、全く……」

 なんとか夕日の怒りは納まったらしい。俺は胸を撫で下ろす。

「それで……夕日、さんの世界ってのは、こっちとどのぐらい違っているのか、教えて欲しいんだけど」

「……その、夕日さんはやめて。馬鹿にされている気がするの」

「じゃあ、山田さん」

 そう言うと、夕日は目を吊り上げる。

「その、さん付けが馬鹿にしているように聞こえるの! それに苗字で呼ぶのもやめて!」

「なら、どうすればいいんだよ」

「夕日でいいわ。そもそも、私に苗字なんて無いし」

 夕日の話によると、あちらの世界では一般人は苗字は無く、名前だけだという。苗字があるのは王族や、昔からの貴族たちだけらしい。

「あー。だから朝日先生も、名前で呼んでって言ったのかー」

 雪が感心した声を出す。

「知らなかったの?」

 夕日が驚いた顔で、雪にたずねる。

 雪が大きく頷くと、夕日は頭を抑えてため息をつく。

「まったく、あの人は……」

 「そういえばさ、夕日はこっちの言葉を、全然知らないんだろ」

「そうだけど」

「なら、夕日って本名じゃないんだな」

「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるわ」

「どういうことだ?」

「私たちの世界では、意味のある言葉を名前にするわ。そして私の名前は、夕日という意味を持つ。つまり、そういうこと」

「なるほどね」

 ということは、朝日先生の名前も向こうの言葉で、朝日という意味の言葉だと分かる。

「ねえねえ。もうすぐ駅だよ」

 雪の声に前を見ると、確かに駅が見えてきた。最近改装したばかりなのでかなり綺麗だ。それと一緒に隣接する駅ビルも改装され、それを記念してセールをやっているのでかなり人が多い。春休みとあって、俺たちと同じ学生らしき人がほとんどだ。夕日は目を細めて、あたりを見回している。

「ここが駅なんだけど、駅って何か分かるよな。ここで電車に乗って……」

「駅ぐらい、こちらにもあるわ!」

「……じゃあ、電車もあるんだな」

 そう言うと、夕日は苦虫を噛み潰したような顔になる。

「……電車じゃなくて、蒸気機関車よ……だからって馬鹿にしないで!」

「だから、何で俺が馬鹿にしてるって思うんだよ……じゃあ電車を見たことは無いんだな。とりあえず、見に行くか」

 俺たちは夕日を連れて、券売機へ向かう。

「この機械で切符を買うんだ。ここから金を入れて、ボタンを押す。今日は電車には乗らないから、この入場券のボタンを押せばいい」

 俺が先にやってみせる。その後夕日を券売機の前に立たせた。しかし、

「私、こちらの通貨を持っていないわ……」

「そうなのか? まあこのぐらいなら、俺が出すよ」

 硬貨を夕日へ渡す。すると夕日は手に乗せた硬貨を、険しい顔でじっとみる。

「あなたに、借りは作りたくないわ……」

「はあ……いいから、入場券を買えって。後で返してくれればいいから……」

 夕日は唇を噛みしめながら、悔しそうに硬貨を投入する。その後雪も入場券を購入し、駅のプラットホームへ向かう。ちょうど電車が停車するところだった。電車が止まり、ドアが開いて人が乗車する様子を真剣に夕日は見ている。

「本当に煙を出さずに走ってるし、ドアも勝手に開いてる……これが電気の力……」

「そっちには電気も無いのか?」

 言った後、しまったと思う。こんなことを聞けばまた馬鹿にしていると怒るに違いない。

 だが今度は怒りの声を出すことは無く、電車が走り去るのを見た後、プラットホームを観察している。

「ええ。こっちみたいに電灯なんか無いから、明かりといえばランプか蝋燭よ。それに言ったと思うけど、建物といえば木か石でできているわ。鉄とコンクリートでできているものなんて一つも無い。それに私たちの世界の鉄製品といえば、剣や鎧、ナイフやフォークといった食器しか無いもの」

「剣と鎧って、そんなもの何に使うんだ?」

「それは国に仕える騎士たちが身につけるわ。あとは戦争ね」

「……そっちの世界について、詳しく教えてくれないか?」

 説明によると、夕日たちの世界はこっちでいう中世ヨーロッパぐらいの世界らしい。王様を頂点にした国がいくつもあり、それを守る軍隊として騎士たちがいる。その騎士団は警察の役割を果たし、その中に魔法使いたちも組み込まれているようだ。

「まるで、RPGのゲームみたいだな」

「何、それ?」

「いや、何でもない」

「ねえねえ。この後どうするの?」

 雪がそう聞いてくるが、夕日を連れて街を案内することは突然に言われた事なので、予定など無いに等しい。次に行く場所など考えていなかった。

「そう言ったってなあ……」

「じゃあさ、新しくなった駅ビルに行こうよ。セールしてるし、新しいお店も増えてるから。夕日さんも買い物好きだよね」

「私は別に……」

「レッツゴ-」

 夕日の言葉を無視して手を引っ張って、雪は走って行く。夕日は抗議の声を出すが、そんなのお構いなしだ。俺は何度目か分からないため息をつき、二人の後を追った。

「うわー。人が多いねえ」

 確かに雪が言う通り、駅ビルの中は混雑していた。ちょっと目を離したら二人の姿を見失ってしまいそうだったので、俺はずんずん進んでいく背中を必死で追いかける。

「おい、雪。なんでこんな人ごみの中を、そんなに速く歩けるんだよ……」

「あっ。私、この店好きなんだー」

 そう言うと急に雪は、夕日を強引に引っ張って店に入る。

「ちょっ……!」

「わーっ! これいいなー」

 店内に入ると雪はさっさと手を放し、一人で商品に見入っていた。店は雑貨屋で様々な商品が並んでいる。その中で、俺から見たらちょっと気持ち悪いキャラクターの顔を模した大きいクッションを手にとって、雪は頬ずりをしていた。

「はあ……」

「大丈夫か?」

「大丈夫よ。それにしても、人が多いわね……」

「人ごみは苦手か?」

「そういう訳じゃないけど、まだ慣れていないから」

 そう言って夕日は、建物の様子や人々を見回す。

「ビルっていうの? こんなに大きな建物に入ったのは、こっちの世界に来て手続きをした時が初めてだったし。それに着ている服が見慣れなくて……」

 夕日は不思議そうに歩く人たちを見ている。街中を鎧を着た騎士たちが歩いているような世界とは、服装が違っていて当たり前なのだろう。

「そうなのか。じゃあ、その服はどうしたんだ?」

 夕日が着ているのは、どこにでもありそうなシャツとスカート姿。それはデザイン的に、こちらの世界のもので間違いないだろう。

「これ? これはこっちに来たときに渡されたものよ」

「それ例外の服は無いのか?」

「向こうから持ってきた服はいくつかあるけど、こっちの世界の服は学校の制服と、それと一緒に渡されたものが何着かあるだけね」

「……それは聞き捨てなりませんな……」

 急に背後から声をかけられて、俺たちは驚いて振り向く。そこにいたのは、大きな袋を持った雪だった。どうやら、あのクッションを買ったらしい。

「その、その衣服以外の服って、どんなの?」

「どうって、今着ているのとあまり変わらない……」

「なんてことっ! ダメだよ、夕日ちゃん! 女の子はファッションこそが命なの! いつでも美しく着飾っていなきゃ!」

「私は別に、これでもいいわ……それと夕日ちゃんって呼ばれるのは、ちょっと……」

「問答無用! さあ、行くよ!」

 そう言って雪は夕日を無理矢理引っ張って行く。俺は見失わないように後を追った。

「わー、すごく似合ってるよ、夕日ちゃん!」

「……」

 店に入るやいなや試着室に連行された夕日は、まるで着せ替え人形のように、雪が選んだ服を次々と着せられていく。もうこれで五着目だ。

「似合ってるよねー、渡くん」

「ああ、似合ってる……」

 最初はよくわからないなりに一応感想は言っていたが、今ではおざなりに答えるだけだ。

「もう! ちゃんと見て言ってよ」

「俺は女の服のことなんて分からないし、どれも似合っているからいいだろ」

 夕日はいつも、目と眉毛の吊り上った怒った表情をしているが、間違いなく美人だ。どの服もよく似合って見えたが夕日はそうは思わなかったようで、俺をきつい表情で睨む。

「イヤミだわ……」

「そうじゃないって……」

「それじゃあ、次は違うお店に行こうねっ!」

「ああ? 似合ってるんだから、これでいいだろ」

「ここの服は、ちょっと可愛いすぎると思うんだよね。夕日ちゃんはもっと大人っぽい服のほうが似合うよ、きっと。夕日ちゃんもそう思うよね?」

「……どうでもいいわ……」

 次から次へ着替えさせられて、すっかり疲れきっていて答える気力も無いようだった。

「よし、行こう!」

「人の話、聞いてるの……?」

 どうやら聞いていないみたいだ。雪は夕日の手を引っ張って、次の店へと走っていく。俺は雪の楽しそうな笑い声と、夕日の悲鳴が遠ざかっていくのをしばらく見届けた後、重いため息を吐いて後を追いかけていった。

「あー、楽しかったね!」

 雪の声に答える者はいない。俺も夕日も疲れきっているからだ。

 今いる場所は駅ビルの中にある喫茶店。テーブルを挟んで二人がけのソファー型の椅子が置いてある席に俺たちは座っている。座っている位置は夕日の正面に雪が座り、その横に俺だ。夕日はテーブルに組んだ腕を乗せ、頭をうなだれるように下に向けてぐったりしている。俺もだらしなくソファーに体を預け、口を半開きにして天井をうつろに見上げるだけだ。

「今日買った服のお金はいいからね、夕日ちゃん。私と渡くんからの、お近づきのしるしだから」

 夕日はこちらの世界の金を持っていないので、俺と雪が服の代金を出した。それはまあ、いいのだが、俺の方が多く金を払っている気がする。さらには荷物持ちまでやらされた。

「けっこう時間が経つちゃったね」

 雪が窓の外を見ながら言う。この喫茶店はビルの一階にあり、通りに面しているので外の様子がよく見える。確かに暗くなり看板にはネオンが光って、街灯もつき始めていた。

「これじゃあ、これ以上この街を案内できないね」

「そもそも、今日のが案内になってたのか? 駅と駅ビルしか見てないし」

「でも楽しかったよね、夕日ちゃん」

「そうね……ありがとう」

 夕日の口調からはどこからも感謝の気持ちは感じられず、口元が皮肉げに歪められた自嘲気味な笑顔を浮かべていた。だが雪はそんな様子にはまったく気付かず、その言葉を聴いて嬉しそうにしている。

「……それじゃあ、帰るか」

「そうだね。夕日ちゃんを家まで送っていこう」

「……別にいいわよ。一人で帰れるから」

「ダメだよ。もうすぐ暗くなるから、女の子の一人歩きは危険だよ。それに荷物持ちも必要でしょ?」

 二人は俺の横の置いてある荷物を見る。大きめの紙袋が六つと、女の子がもつにはちょっと大変な量だ。

「また、どうせ俺が全部持つんだろ……」

 俺は心の底から、疲れたため息を吐いた。

「それで、夕日ちゃんの家ってどこなの?」

「今日あなたたちが来たアパートよ。姉と一緒に住むことになってるの」

「そうなんだ。でも人が住めるような部屋があったかな? どこもゴミで溢れてたと思うんだけど」

「……昨日、必死で掃除をしたのよ」

 確かに今日部屋に入ったときは、綺麗になっていた。しかしあれだけのゴミを片付けるのは、大変だっただろうと同情する。

「私、朝日先生とよく遊んでるんだ。今度は夕日ちゃんも一緒に、三人で遊ぼうよ。近いうちにおじゃまするから」

「……来なくていいわ」

「それじゃ、出ようか」

 アパートへ帰る道すがら、雪は何かと夕日に話しかけているが、無視されるか、そっけない一言しか返ってこない。しかし雪は、そんなことは全く気にせず途切れる暇なく話しかける。そんな二人の背中を見ながら、俺は両手に紙袋を持って歩いていた。

「ねえ。夕日ちゃんは、どうしてこっちの世界へ来ようと思ったの?」

「……べつに、来たくて来たわけじゃないわ。仕方なくよ……」

 それまで二人の会話を聞き流していたが、初めて夕日がまともに答えたので、俺はそちらへ注意を向けた。

「そもそもこちらの世界へ研修に来るのは、この世界で仕事がしたい人だけ。私はそんな気は無いから、こっちへ来る必要は無いわ」

「なら、なんで来たんだ?」

 俺が質問すると、夕日は振り返って睨みつけてきた。その怒った顔にはすでに慣れてしまったので怯むことは無いが、なぜ俺にばかりつっかかって来るのかと、ため息が出る。

「私は来たくなかったのに、教官が勝手に研修を申請してて。嫌だって言ったら、お前はもっと広い世界を見た方がいいとか言って。最後には行かないと単位をやらないって脅迫されて、無理矢理にこの世界へ来させられたの」

(つまりはそれが不満で、イライラしてるってことか……だからって俺に当たらないでほしいんだがなあ)

「何か言った」

 声には出していないはずなのだが、俺の心を読んだかのように夕日はそう言った。俺は肩をすくめて、何も言っていないとアピールする。夕日は疑わしげに見ていたが、ふん、と鼻を鳴らすと前を向き歩き出す。両手に持つ紙袋が、心なしか重たくなった気がした。

「お帰りなさーい」

 アパートに着いて出迎えてくれたのは、朝日先生だけだった。

「あれ、坂崎さんは?」

「坂崎さんはもう帰りましたよ。詳しい話はまた今度、ってことになったので」

「そうですか」

「こんなに何を買ったんですか?」

「あのね、夕日ちゃんの服を買ったの。全然持ってないって言ってたから」

「そうなんですかー。あっ、でもこちらの世界のお金を、夕日ちゃんに渡してなかったような……」

「私と渡くんが出しましたー」

「そ、そんな。すいません、お金払いますよ。いくらでしたか?」

 財布を取り出そうとする朝日先生を、雪は止める。

「別にいいよ。お近づきのしるしだから。ね、渡くん」

「そうですか? それなら……あっ夕日ちゃん。ちゃんとお礼を言わなきゃ」

 見るといつの間にか靴を脱いで室内に上がっている夕日は、部屋の奥へと向かっている。

「……疲れたから、寝るわ……」

「ちょ、ちょっと……すいません。悪い子じゃないんですけど……」

「……いいですよ。こっちがずいぶん引っ張りまわしちゃったし、それに、もう慣れましたから……聞きましたよ。こっちへ来るのは不本意だったらしいですね。ただ……俺に八つ当たりされるのは、ちょっとやめて欲しいですね」

 俺が苦笑しながらそう言うと、朝日先生は急に真顔になり手招きをする。何だろうと首をかしげながら近づく。朝日先生は俺の耳元へ口を近づけて、内緒話をするように小さな声で語りかける。

「それなんですけど、私は驚いているんです。夕日ちゃんがあんなに大声で話すことは、とっても珍しいんですよ」

 その言葉に俺の方が驚く。最初に会ったときから、夕日から怒鳴られっぱなしなのだが。

「あの子、怒るとこーんな顔になるでしょ」

 朝日先生は、両手で眉毛と目を引っ張り上げる。それは夕日とは違って迫力は全く感じられないが、言いたいことは分かる。夕日の怒った顔は、まさに鬼の形相だ。

「普通はそのまま無言で、じーっと睨むだけなんだ。でも、渡君のときは違った。ちゃんと会話ができてる」

「あれを会話と呼んでいいものなのか……」

「想像してみて。夕日ちゃんにあの顔で、無言で睨みつけられているところを」

 朝日先生が真剣な顔で言うのでやってみる。脳裏に夕日の激怒する姿を浮かべる。

「これは……かなりキツイですね」

「そうでしょう。これをやられると、たいていの人間は何も言えなくなってしまいます。夕日ちゃんは怒ると何も喋りません。でも、渡君は別です。怒った状態の夕日ちゃんとコミュニケーションが取れることは、本当にすごいことなんですよ!」

「そんなことに感動されても……それがどうかしたんですか?」

「あんな性格だから、友達もなかなかできなくて……この世界に来たばかりですし、だからお願いします。どうか夕日ちゃんを助けてあげてください!」

 朝日先生の真剣な表情と声に、俺は気圧される。

「そ、それはいいですけど、あっちの方がどう思うか……」

「絶対仲良くなれるから、大丈夫」

「どうしてそんな事がわかるんですか?」

 朝日先生はにっこり笑う。

「私たち魔法使いが意識を集中すると、その物を形作っている意志の力が見えるって言ったよね。それは光って見えるんだけど、それぞれ違った色に見えるの。例えばそのドアは黄色だし、この靴は紫だね。それと人間も、一人ひとり違った色をしてる。そしてその色が同じ人は、お互いの相性が良いって言われてるの。渡君と夕日ちゃんは赤色同士だから、相性はバッチリ!」

 朝日先生は自信ありげだが、そんな血液型占いみたいなことで仲良くなれると確信されても、こっちは困る。

「……まあ、がんばってみます」

「ねえ、何話してるの?」

 さっきから放置されていた雪が、つまらなさそうにこちらを見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ