②最終調整――宮内庁・警察・SPの接続
丸の内支社の社内の昼休憩の12時のチャイムが鳴る頃、昼を過ぎても、空気の冷たさはあまりゆるまなかった。
雪の気配はないが、街路樹の枝はすでに軽く乾き、丸の内仲通りの飾り灯は、まだ明るい時間の中で点くには早すぎる色を薄く抱えていた。
夜になれば光るはずのそれが、昼の中ではただ静かに並んでいるだけに見える。ガラス越しの店内には赤や金の装飾が見え、入口の近くにはすでに小さなツリーが置かれている。まだ本格的な季節ではないはずなのに、飾りだけは先に整っている。
少し歩くと、別の店でも同じように色が揃っていることに気づく。通りのあちこちで、似たような光と装飾が並び始めている。いつから始まっていたのか分からないが、気づいたときにはもう街の中に入り込んでいた。
だが外に出ると、その浮いた明るさのすぐ下を、別の緊張が静かに流れていた。皇居の側へ向かう警備車両の流れは、朝よりもはっきりと選り分けられている。警視庁の車両が一定の間隔で止まり、白バイが低い音を残して角を曲がる。その間に、黒い車が静かに混じっている。最初はただの送迎車に見えるが、近づくとドアの隅に同じ紋章が揃っていることに気づく。さらにボンネットの先には、小さな星条旗が揺れている。それがアダソン家のSP警備部の車両だと分かる。
丸の内支社の前でも、朝には見えなかった位置にアダソン家のSPや現地のSP、警視庁の人間が立っている。入口のそば、車寄せの手前、交差点の角。数人が短く言葉を交わしているように見えるが、視線だけは切れていない。何語で話しているのかははっきりしないが、近くを通ると英語と日本語が混じった短い無線音が耳に入る。言葉はすぐに途切れ、必要な分だけが残る。
皇居周辺では、規制がさらに先まで伸びていた。歩道の端に立つ警察官が手のひらを軽く上げるだけで、人の流れが止まり、次の瞬間にはまた動き出す。その動きに無理はない。押し返される感じも、怒鳴られる感じもない。なのに、進む方向だけはきれいに揃っていく。誘導されているというより、いつの間にかそこしか通れなくなっているようだった。少し離れた交差点の方から、拡声器の声が流れてくる。普段の注意喚起とは少し違う言い回しで、明日の規制への協力を求めているように聞こえる。言葉の中に、企業名と面会という単語が混じる。はっきりとは聞き取れないが、それだけで十分だった。門の近くまでは見えない。だが見えない場所のために、見える場所が先に整えられていることは分かる。
離れたところでは、背広姿の男たちが二、三人ずつ立ち、紙を開いてすぐ閉じる。時計を見る。何かを一つ確認し、うなずいて別れる。廊下でも、歩道でも、車寄せでも、やっていることは似ていた。長く話さない。立ち止まりすぎない。だが同じ確認が、場所を変えて何度も繰り返されている。誰の所属かははっきりしないが、同じ種類の動きだけが揃っている。宮内庁の人間なのだろうと分かるのは、身のこなしの静かさだった。急いでいるようには見えない。だが、誰も迷っていない。皇居側の担当と、警察の幹部と、アダソン家の警備責任者らしいアメリカ人の男が、建物の陰で短く言葉を交わしているのが見える。通りの流れからわずかに外れた位置で、意識しなければ見過ごしてしまいそうな場所だった。手元の紙には細い線が何本も引かれ、指先がその上を少し動く。どこで止まるのか。どこで開けるのか。誰が先に立ち、誰が半歩下がるのか。そういうことを話しているのだと、見ているだけで伝わってくる。だが説明は聞こえない。
聞こえるのは、時間を告げる短い言葉と、了承の返事だけだった。
「こちらで三十秒」
「了解しました」
「停止位置はそのままで」
「動線、もう一度だけ確認します」
それだけで終わる。
守っているものは同じではないはずだった。宮内庁はその場の意味を崩さないことを見ている。警察は道の広さと人の流れと、外から入り込む偶然を見ている。
アダソン家のSPは、夫妻の体と、その一歩先の危険だけを見ている。見ているものは違うのに、ずれがない。
そのことの方が、かえって落ち着かなかった。近くの歩道では、足を止めた人たちが小さな声で話している。
「昨日より多くない?」「明日なんだって」「でも、ここまでやる?」「相手、そんなにすごい人たちなの」言葉はすぐに途切れる。誰も大声では言わない。
けれど、同じ疑問はあちこちで繰り返されていた。いくら世界的な企業の創業者夫妻でも、ここまで必要なのか。そこまで厳重にすることなのか。
その気持ちは、顔に出さないまま足をゆるめる人たちの歩き方ににじんでいた。
少し先では、制服警官が年配の男に道を尋ねられている。警官は穏やかな声で回り道を伝え、男は礼を言って去っていく。
去り際、小さく「大変だね」と言う。
その声に、警官はほんの少しだけ笑った。「明日に向けて、今のうちに整えております」それ以上は言わない。
だが、その言葉だけで十分だった。
まだ本番ではない。だからこそ、今のうちに整えている。丸の内支社の前でも、同じような確認が続いていた。
車寄せの位置が見直され、出入りの順番が少しだけ変わる。警備バイクが二台、丸の内支社のビルの前を、そのまま通り過ぎていく。入口付近では、社員らしい人々が足を止め、何事かと一瞬だけ見る。だがすぐに建物の中へ吸い込まれていく。
入口は一つではなかった。普段使っているはずの導線とは別に、奥へ回る人の流れができている。迷う様子はない。案内を探すでもなく、それぞれが決められた方向へ進んでいく。車寄せの側には、誰も近づかない。自然と距離が空き、そこだけが別の動きとして切り分けられている。日常の側も、完全には止まっていない。その止まらなさの中に、非日常だけが薄く差し込まれている。
誰かがひそひそと、「天皇皇后と、一企業のトップでしょう」と言う声が聞こえる。「普通は、こんなことないよね」と返す声もある。「だからじゃないの」と、さらに別の声が重なる。「普通じゃないから、こんなに人が動いてるんでしょ」その会話はすぐに終わる。
だが、その短さの中に、街の実感がそのまま入っていた。異例なのだ、と誰もがうすうす分かっている。ただ、それを大げさに言い切るほどの言葉は、まだ持っていない。歴史に残る出来事なのかもしれない、と感じてはいても、それを口にすると何かが行き過ぎる気がする。
だから人々は、ただ少しだけ声をひそめる。そのひそめ方が、かえって現実味を強くしていた。
時間が夕方に寄るころには、光の色も変わっていた。白かった歩道は少し青みを帯び、ビルの窓に映る空が早く暮れ始める。
街路の飾り灯が今度ははっきりと見え、店先の赤や金も朝より濃くなる。華やかな季節の色が出てくるほど、警備の色は逆に目立たなくなっていく。暗くなる前に配置はさらに整い、立つ人は立つべき場所に収まり、動く車は迷わず同じ線をたどる。誰かが全体を大きな声で指揮しているわけではない。
それでも、同じ時刻へ向かっていることだけは分かる。翌日の数十分のために、今日の午後が静かに削られていく。余分な動きが取り除かれ、通る人の歩幅まで少しずつ揃っていく。そのずれなさが、寒さよりも先に肌へ残る。見ているうちに、厳重だと思う気持ちと、ここまでしなければならないのだろうという気持ちが、どちらも消えずに同時に残る。
やりすぎに見える。だが、やりすぎに見えること自体が、守ろうとしているものの大きさを示しているようでもあった。歴史に残るかどうかは、まだ誰にも分からない。
ただ、この街がここまで先回りして整えられているのを見ると、明日の面会はもう一つの予定ではなく、東京そのものの呼吸を少し変える出来事なのだと分かってくる。
まだ誰も会っていない。まだ何も始まっていない。それでも、時間だけはもう同じ一点へ向かってそろい始めていた。




