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「お前が好きなのは俺の顔だけだ」と言われたので、婚約破棄を受け入れました

作者: kei
掲載日:2026/08/10

 ――その人が何を考えているのか。


 顔を見れば、分かってしまう。


 だから私は、人の目を見ない。


 笑顔の裏にある悲しみも。


 優しい言葉の裏にある悪意も。


 愛情の裏にある打算も。


 知りたくないものまで、知ってしまうから。


 けれど、その日だけは違った。


 私は、彼の本心を知ることが怖かった。


「リディア・アストレア。お前との婚約を破棄する」


 王宮の大広間。


 大勢の貴族が見守る中、王太子アルベルト殿下は、私にそう告げた。


 その隣には、セシリア・ヴァレンティア侯爵令嬢が立っている。


 私は二人の目を見なかった。


 見てしまえば、分かってしまう。


 ――特に、殿下の感情だけは。


「理由をお聞かせいただけますか?」


 私は静かに尋ねた。


「お前は俺を愛していない」


 アルベルト殿下の声は冷たかった。


「お前が好きなのは、王太子という身分。そして――」


 殿下は自分の顔を指した。


「この顔だけだろう?」


 ざわめきが広がる。


 誰かが小さく笑った。


 誰かが私を哀れんだ。


 誰かが、セシリア嬢を見た。


 けれど私は、殿下の顔を見なかった。


「……そうですか」


「否定しないのか?」


「何を否定すればよいのでしょう?」


「お前は俺を愛しているのではないのか?」


 私は少しだけ黙った。


 そして、頭を下げる。


「殿下がそう思われているのでしたら、それで構いません」


「リディア……」


「婚約破棄、承知いたしました」


 広間が静まり返った。


 誰もが、私が泣くと思っていたのだろう。


 怒ると思っていたのだろう。


 けれど私は泣かなかった。


 ただ、胸の奥で一つだけ思っていた。


 ――これで、もう殿下の目を見なくて済む。


 それだけだった。



 私には、《真視の瞳》という力がある。


 相手の顔を見ると、その人が最も強く抱いている感情が分かる。


 幼い頃、父からこの力を教えられた。


「この力を他人に知られてはいけない」


「どうして?」


「人の本心を知りたいと思わない人間など、ほとんどいないからだ」


 父の言葉は正しかった。


 この力は便利だ。


 相手の言葉の裏にある感情を察することができる。


 相手が何を恐れ、何を望み、何を隠そうとしているのか。


 それを知ることができる。


 交渉では強力な武器になる。


 だからこそ、危険だった。


 もし王宮の人間に知られれば、私は人間ではなく道具として扱われる。


 だから私は、人の目を見ない。


 けれど、一人だけ例外がいた。


 アルベルト殿下。


 幼い頃から一緒に育った、私の婚約者。


 私は彼の目を何度も見てきた。


 そして、知っていた。


 殿下が私に抱いている感情を。


 だからこそ、あの日。


 私は彼の目を見ることができなかった。



 婚約破棄から三日。


 王宮では、すでに噂が広がっていた。


「リディア様は殿下の身分しか見ていなかったらしいわ」


「顔が好きだっただけなのでしょう?」


「だから婚約破棄されたのね」


 私は反論しなかった。


 けれど、一つだけおかしい。


 噂が広がるのが早すぎる。


 婚約破棄が公表されてから、まだ三日しか経っていない。


 それなのに、王都中の貴族が同じ話をしている。


 誰かが意図的に噂を流している。


 そう考えるべきだった。


「リディア様」


 廊下で声をかけられた。


 セシリア嬢だった。


「先日は、大変でしたわね」


「お気遣いありがとうございます」


「殿下もお辛かったでしょうね」


 私は一瞬だけ彼女の顔を見た。


 そして、すぐに視線を逸らした。


 ――喜び。


 ――期待。


 ――そして、強い欲望。


 彼女が欲しがっているものは、アルベルト殿下自身だけではない。


 王太子妃という地位。


 そして、その先にある何か。


「どうかなさいました?」


「いいえ」


 私は微笑んだ。


「少し考え事をしていただけです」


 セシリア嬢は優雅に微笑み返した。


「そうですか」


 彼女が去っていく。


 私は、その背中を見ながら呟いた。


「……あなたは、何を企んでいるのですか?」



 その日の夜。


 私は父の執務室を訪れた。


「父上。ヴァレンティア侯爵家について、何かご存じですか?」


「……やはり気づいたか」


 父は一冊の資料を取り出した。


 そこには、ヴァレンティア侯爵家と王宮内の役人、外交官、軍部の人間との関係が記されていた。


「ここ数年、ヴァレンティア侯爵は王宮内に自分の派閥を作っている」


「王太子妃になったセシリア嬢を通じて、王家に影響力を持つつもりですか?」


「それだけではない」


 父は私を見た。


「お前の《真視の瞳》も目的の一つだ」


 私は息を呑んだ。


「……私の力を?」


「ヴァレンティア侯爵は、お前が人の感情を見抜けることを知っている可能性が高い」


「誰から?」


「そこまでは分かっていない」


 父は続けた。


「だが、もしお前が王太子妃になれば、外交交渉でお前の力を使わせることができる」


 私は黙った。


 ようやく分かった。


 セシリア嬢が私を追い落とそうとしていた理由。


 単純な嫉妬ではない。


 王太子妃の座。


 その地位を利用して、王家の中枢へ入り込む。


 そして、私の《真視の瞳》を利用する。


「アルベルト殿下は、このことをご存じなのですか?」


「おそらくな」


「……そうですか」


 ならば、あの婚約破棄にも理由がある。


 私は立ち上がった。


「殿下に会ってきます」


「リディア。気をつけろ」


「分かっています」


 私は父を振り返った。


「でも、今回は私自身で確かめたいのです」



 翌日。


 私は王太子執務室を訪れた。


「リディア?」


 アルベルト殿下が驚いた顔をする。


「お話があります」


「……分かった」


 私は机の前に立った。


「ヴァレンティア侯爵家について調べました」


 殿下の表情が変わる。


「そうか」


「私の《真視の瞳》を利用する計画がありますね?」


「……ああ」


 殿下は否定しなかった。


「では、なぜ婚約を破棄したのですか?」


「……」


「私を王太子妃にしたくなかったからですか?」


「違う」


 殿下は立ち上がった。


「お前を王太子妃にしたくなかったんじゃない」


「では?」


「お前を王太子妃にして、失いたくなかった」


 私は言葉を失った。


「ヴァレンティア侯爵家は、すでに王宮の中に入り込んでいる。もしお前が王太子妃になれば、お前の力を利用しようとする者が必ず現れる」


「だから婚約破棄を?」


「ああ」


「私を傷つけて?」


「ああ」


「嫌われるために?」


「……そうだ」


 私は思わず額を押さえた。


「馬鹿ですね」


「……否定できない」


「本当に馬鹿です」


「そうだな」


 殿下は苦笑した。


 けれど、その表情には疲労が浮かんでいた。


「他に方法が思いつかなかった」


「ありました」


「何?」


「私に話すことです」


 殿下が黙った。


「私は守られるだけの令嬢ではありません」


「分かっている」


「なら、なぜ相談しなかったのですか?」


「……怖かったからだ」


「何が?」


 殿下は私を見た。


「お前が、俺から離れなくなることが」


 私は息を止めた。


「お前は優しい。俺が苦しんでいると知れば、絶対に俺を置いていかない」


 殿下の声が震える。


「だから、嫌われるしかないと思った」


 私は、ゆっくりと顔を上げた。


 そして――


 初めて、彼の目を見た。



 《真視の瞳》が発動する。


 見えた。


 恐怖。


 後悔。


 苦しみ。


 そして――


 愛情。


 今まで何度も見てきた感情だった。


 けれど、今までとは違う。


 私はそれを見ても、逃げなかった。


「……本当に、馬鹿ですね」


「また言うのか」


「何度でも言います」


 殿下は苦笑した。


「それでも、私は怒っています」


「ああ」


「あなたが私の人生を勝手に決めたことを、許したわけではありません」


「分かっている」


「私が危険なら、私にも戦わせてください」


 殿下は少し驚いた。


「……分かった」


「約束してください」


「ああ」


 私は頷いた。



 だが、話はそれだけでは終わらなかった。


 その夜。


 王宮で異変が起きた。


 国王陛下が予定されていた外交会談を突然中止したのだ。


 理由は、隣国から届いた書簡だった。


 そこには、


「レグナード王国が隣国との秘密条約を破棄するつもりだ」


という情報が記されていた。


 当然、そんな事実はない。


 しかし、その情報を信じた隣国は軍を国境へ動かし始めていた。


「誰かが偽情報を流した?」


 私は殿下に尋ねた。


「ああ」


 アルベルトが答える。


「しかも、隣国へ送られた情報は王宮内部の人間しか知り得ないものだった」


 つまり――


 王宮内に内通者がいる。


 そして、その人物を探すには《真視の瞳》が必要だった。


「私が調べます」


「危険だ」


「約束したでしょう?」


 私は殿下を見る。


「一人で決めない、と」


 殿下は一瞬黙った。


 そして頷いた。


「ああ。一緒にやろう」


 私たちは動き始めた。



 数日後。


 私は、怪しい役人たちを一人ずつ調べた。


 もちろん、真正面から顔を見るわけではない。


 会話の中で、さりげなく視線を合わせる。


 恐怖。


 不安。


 忠誠。


 中には罪悪感を抱いている者もいた。


 しかし、決定的な証拠には繋がらなかった。


 そんな中――


 一人の名前が浮かび上がった。


「セシリア・ヴァレンティア」


 私は呟いた。


 殿下の表情が険しくなる。


「彼女が?」


「正確には、彼女自身が全てを指示しているわけではありません」


「どういうことだ?」


「セシリア嬢は、父親が何かを企んでいることは知っています」


 私は続けた。


「でも、彼女は王太子妃になることしか考えていなかった」


「つまり?」


「侯爵が何を企んでいるのか、詳しくは知らされていない」


 私は気づいていた。


 彼女の中にある感情。


 欲望は確かにあった。


 けれど――


 王国を裏切る覚悟まではない。


 問題は、彼女の父親だった。



 その後の捜査で、ヴァレンティア侯爵の屋敷から証拠が見つかった。


 隣国への偽情報。


 王宮内の協力者の名簿。


 そして――


 私の《真視の瞳》について記された資料。


 それらは全て、侯爵が王宮の内外に手を回していたことを示していた。


 そこには、


「王太子妃となるセシリアを通じ、リディア・アストレアの能力を王家のために利用させる」


と書かれていた。


 全てが繋がった。


 婚約破棄。


 噂。


 セシリアの接近。


 そして、王宮内の内通。


 全て、ヴァレンティア侯爵が王家を掌握するための計画だった。


 アルベルトが私を遠ざけようとしたのも、その計画を知っていたからだ。


 ただ一つ。


 彼は私に相談するという選択をしなかった。


 それだけだった。



 ヴァレンティア侯爵は失脚した。


 協力していた役人たちも処分され、隣国との関係もアルベルト自らが交渉して事態を収拾した。


 国王陛下は、アルベルトに正式な王太子としての権限を与えた。


 そしてセシリア嬢は――


 王都を離れることになった。


 最後に彼女は、私に言った。


「私は、殿下の隣に立ちたかっただけです」


「分かっています」


「でも、父の計画に利用されていたことにも気づいていませんでした」


 彼女は俯いた。


「あなたが羨ましかった」


「……」


「殿下が、あなたを見るときだけ違う顔をするから」


 私は少し驚いた。


「そうだったのですか?」


「ええ」


 セシリア嬢は苦笑した。


「だから、あなたから殿下を奪えば、私も同じように見てもらえると思っていました」


 私は何も言わなかった。


「でも、違いました」


 彼女は小さく頭を下げる。


「……さようなら、リディア様」


「お元気で」


 それが、私たちの最後の会話になった。



 全てが終わったあと。


 私は王宮の庭園にいた。


 婚約は破棄されたまま。


 事件が解決したからといって、すぐ元に戻れるわけではない。


 そんなことを考えていると、


「リディア」


 アルベルト殿下がやってきた。


「殿下」


「少し話せるか?」


「はい」


 殿下は私の前に立つ。


 そして――


 跪いた。


「リディア・アストレア」


「……はい」


「もう一度、俺と婚約してほしい」


 私は黙って彼を見た。


「今度は、俺一人で決めない」


 殿下は続けた。


「お前を守るためだとしても、お前の意思を無視しない」


「……」


「お前が俺を選んでくれるなら、俺もお前を選ぶ」


 私は少しだけ笑った。


「一つ、条件があります」


「何でも言ってくれ」


「私を信じること」


「約束する」


「それから――」


 私は彼の目を見る。


「私にも、あなたを守らせてください」


 アルベルトは目を見開いた。


 そして笑った。


「ああ」


 彼は立ち上がった。


「よろしく頼む」


 私は手を差し出した。


「こちらこそ」



 それから数年。


 私は王太子妃になった。


 王宮には今でも多くの問題がある。


 政治も、外交も、簡単ではない。


 けれど、一つだけ昔とは違う。


「リディア。これについてどう思う?」


「私はこう考えます」


「分かった。その案で進めよう」


 アルベルトは、必ず私に尋ねる。


 私も、必ず自分の意見を伝える。


 どちらかが一人で決めることはない。


 それが、私たちの約束だった。


「リディア」


「何ですか?」


「最近、俺の顔をよく見るようになったな」


「そうですか?」


「昔は全然見てくれなかった」


「……昔のことは忘れてください」


「無理だ」


 私は笑った。


「なぜです?」


「お前に嫌われたと思っていた時期だからな」


「自業自得です」


「……否定できない」


 私は彼の目を見る。


 《真視の瞳》が映したものは――


 愛情。


 それは、昔から変わらなかった。


 けれど、今はもう怖くない。


 人の本心を知ることが、幸せとは限らない。


 知らない方がいいこともある。


 それでも。


 この人の本心だけは、知っていてよかったと思う。


「アルベルト」


「何だ?」


「これからも、私にちゃんと話してくださいね」


「ああ」


「一人で抱え込まないでください」


「分かった」


「勝手に私を守ろうとしないでください」


「……それは努力する」


「約束です」


 私は笑った。


 アルベルトも笑う。


 そして、私たちは手を握った。


 婚約破棄の日。


 私は、彼の目を見なかった。


 あの日の私は、


 彼の本心を知ることが怖かった。


 けれど今は違う。


 私は、自分の意思で彼を見る。


 自分の意思で彼を選ぶ。


 そして、自分の意思で彼と生きていく。


 《真視の瞳》に映る彼の感情は――


 今日も、変わらない。


 確かな愛情だった。


――おわり。


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