「お前が好きなのは俺の顔だけだ」と言われたので、婚約破棄を受け入れました
――その人が何を考えているのか。
顔を見れば、分かってしまう。
だから私は、人の目を見ない。
笑顔の裏にある悲しみも。
優しい言葉の裏にある悪意も。
愛情の裏にある打算も。
知りたくないものまで、知ってしまうから。
けれど、その日だけは違った。
私は、彼の本心を知ることが怖かった。
「リディア・アストレア。お前との婚約を破棄する」
王宮の大広間。
大勢の貴族が見守る中、王太子アルベルト殿下は、私にそう告げた。
その隣には、セシリア・ヴァレンティア侯爵令嬢が立っている。
私は二人の目を見なかった。
見てしまえば、分かってしまう。
――特に、殿下の感情だけは。
「理由をお聞かせいただけますか?」
私は静かに尋ねた。
「お前は俺を愛していない」
アルベルト殿下の声は冷たかった。
「お前が好きなのは、王太子という身分。そして――」
殿下は自分の顔を指した。
「この顔だけだろう?」
ざわめきが広がる。
誰かが小さく笑った。
誰かが私を哀れんだ。
誰かが、セシリア嬢を見た。
けれど私は、殿下の顔を見なかった。
「……そうですか」
「否定しないのか?」
「何を否定すればよいのでしょう?」
「お前は俺を愛しているのではないのか?」
私は少しだけ黙った。
そして、頭を下げる。
「殿下がそう思われているのでしたら、それで構いません」
「リディア……」
「婚約破棄、承知いたしました」
広間が静まり返った。
誰もが、私が泣くと思っていたのだろう。
怒ると思っていたのだろう。
けれど私は泣かなかった。
ただ、胸の奥で一つだけ思っていた。
――これで、もう殿下の目を見なくて済む。
それだけだった。
◆
私には、《真視の瞳》という力がある。
相手の顔を見ると、その人が最も強く抱いている感情が分かる。
幼い頃、父からこの力を教えられた。
「この力を他人に知られてはいけない」
「どうして?」
「人の本心を知りたいと思わない人間など、ほとんどいないからだ」
父の言葉は正しかった。
この力は便利だ。
相手の言葉の裏にある感情を察することができる。
相手が何を恐れ、何を望み、何を隠そうとしているのか。
それを知ることができる。
交渉では強力な武器になる。
だからこそ、危険だった。
もし王宮の人間に知られれば、私は人間ではなく道具として扱われる。
だから私は、人の目を見ない。
けれど、一人だけ例外がいた。
アルベルト殿下。
幼い頃から一緒に育った、私の婚約者。
私は彼の目を何度も見てきた。
そして、知っていた。
殿下が私に抱いている感情を。
だからこそ、あの日。
私は彼の目を見ることができなかった。
◆
婚約破棄から三日。
王宮では、すでに噂が広がっていた。
「リディア様は殿下の身分しか見ていなかったらしいわ」
「顔が好きだっただけなのでしょう?」
「だから婚約破棄されたのね」
私は反論しなかった。
けれど、一つだけおかしい。
噂が広がるのが早すぎる。
婚約破棄が公表されてから、まだ三日しか経っていない。
それなのに、王都中の貴族が同じ話をしている。
誰かが意図的に噂を流している。
そう考えるべきだった。
「リディア様」
廊下で声をかけられた。
セシリア嬢だった。
「先日は、大変でしたわね」
「お気遣いありがとうございます」
「殿下もお辛かったでしょうね」
私は一瞬だけ彼女の顔を見た。
そして、すぐに視線を逸らした。
――喜び。
――期待。
――そして、強い欲望。
彼女が欲しがっているものは、アルベルト殿下自身だけではない。
王太子妃という地位。
そして、その先にある何か。
「どうかなさいました?」
「いいえ」
私は微笑んだ。
「少し考え事をしていただけです」
セシリア嬢は優雅に微笑み返した。
「そうですか」
彼女が去っていく。
私は、その背中を見ながら呟いた。
「……あなたは、何を企んでいるのですか?」
◆
その日の夜。
私は父の執務室を訪れた。
「父上。ヴァレンティア侯爵家について、何かご存じですか?」
「……やはり気づいたか」
父は一冊の資料を取り出した。
そこには、ヴァレンティア侯爵家と王宮内の役人、外交官、軍部の人間との関係が記されていた。
「ここ数年、ヴァレンティア侯爵は王宮内に自分の派閥を作っている」
「王太子妃になったセシリア嬢を通じて、王家に影響力を持つつもりですか?」
「それだけではない」
父は私を見た。
「お前の《真視の瞳》も目的の一つだ」
私は息を呑んだ。
「……私の力を?」
「ヴァレンティア侯爵は、お前が人の感情を見抜けることを知っている可能性が高い」
「誰から?」
「そこまでは分かっていない」
父は続けた。
「だが、もしお前が王太子妃になれば、外交交渉でお前の力を使わせることができる」
私は黙った。
ようやく分かった。
セシリア嬢が私を追い落とそうとしていた理由。
単純な嫉妬ではない。
王太子妃の座。
その地位を利用して、王家の中枢へ入り込む。
そして、私の《真視の瞳》を利用する。
「アルベルト殿下は、このことをご存じなのですか?」
「おそらくな」
「……そうですか」
ならば、あの婚約破棄にも理由がある。
私は立ち上がった。
「殿下に会ってきます」
「リディア。気をつけろ」
「分かっています」
私は父を振り返った。
「でも、今回は私自身で確かめたいのです」
◆
翌日。
私は王太子執務室を訪れた。
「リディア?」
アルベルト殿下が驚いた顔をする。
「お話があります」
「……分かった」
私は机の前に立った。
「ヴァレンティア侯爵家について調べました」
殿下の表情が変わる。
「そうか」
「私の《真視の瞳》を利用する計画がありますね?」
「……ああ」
殿下は否定しなかった。
「では、なぜ婚約を破棄したのですか?」
「……」
「私を王太子妃にしたくなかったからですか?」
「違う」
殿下は立ち上がった。
「お前を王太子妃にしたくなかったんじゃない」
「では?」
「お前を王太子妃にして、失いたくなかった」
私は言葉を失った。
「ヴァレンティア侯爵家は、すでに王宮の中に入り込んでいる。もしお前が王太子妃になれば、お前の力を利用しようとする者が必ず現れる」
「だから婚約破棄を?」
「ああ」
「私を傷つけて?」
「ああ」
「嫌われるために?」
「……そうだ」
私は思わず額を押さえた。
「馬鹿ですね」
「……否定できない」
「本当に馬鹿です」
「そうだな」
殿下は苦笑した。
けれど、その表情には疲労が浮かんでいた。
「他に方法が思いつかなかった」
「ありました」
「何?」
「私に話すことです」
殿下が黙った。
「私は守られるだけの令嬢ではありません」
「分かっている」
「なら、なぜ相談しなかったのですか?」
「……怖かったからだ」
「何が?」
殿下は私を見た。
「お前が、俺から離れなくなることが」
私は息を止めた。
「お前は優しい。俺が苦しんでいると知れば、絶対に俺を置いていかない」
殿下の声が震える。
「だから、嫌われるしかないと思った」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
そして――
初めて、彼の目を見た。
◆
《真視の瞳》が発動する。
見えた。
恐怖。
後悔。
苦しみ。
そして――
愛情。
今まで何度も見てきた感情だった。
けれど、今までとは違う。
私はそれを見ても、逃げなかった。
「……本当に、馬鹿ですね」
「また言うのか」
「何度でも言います」
殿下は苦笑した。
「それでも、私は怒っています」
「ああ」
「あなたが私の人生を勝手に決めたことを、許したわけではありません」
「分かっている」
「私が危険なら、私にも戦わせてください」
殿下は少し驚いた。
「……分かった」
「約束してください」
「ああ」
私は頷いた。
◆
だが、話はそれだけでは終わらなかった。
その夜。
王宮で異変が起きた。
国王陛下が予定されていた外交会談を突然中止したのだ。
理由は、隣国から届いた書簡だった。
そこには、
「レグナード王国が隣国との秘密条約を破棄するつもりだ」
という情報が記されていた。
当然、そんな事実はない。
しかし、その情報を信じた隣国は軍を国境へ動かし始めていた。
「誰かが偽情報を流した?」
私は殿下に尋ねた。
「ああ」
アルベルトが答える。
「しかも、隣国へ送られた情報は王宮内部の人間しか知り得ないものだった」
つまり――
王宮内に内通者がいる。
そして、その人物を探すには《真視の瞳》が必要だった。
「私が調べます」
「危険だ」
「約束したでしょう?」
私は殿下を見る。
「一人で決めない、と」
殿下は一瞬黙った。
そして頷いた。
「ああ。一緒にやろう」
私たちは動き始めた。
◆
数日後。
私は、怪しい役人たちを一人ずつ調べた。
もちろん、真正面から顔を見るわけではない。
会話の中で、さりげなく視線を合わせる。
恐怖。
不安。
忠誠。
中には罪悪感を抱いている者もいた。
しかし、決定的な証拠には繋がらなかった。
そんな中――
一人の名前が浮かび上がった。
「セシリア・ヴァレンティア」
私は呟いた。
殿下の表情が険しくなる。
「彼女が?」
「正確には、彼女自身が全てを指示しているわけではありません」
「どういうことだ?」
「セシリア嬢は、父親が何かを企んでいることは知っています」
私は続けた。
「でも、彼女は王太子妃になることしか考えていなかった」
「つまり?」
「侯爵が何を企んでいるのか、詳しくは知らされていない」
私は気づいていた。
彼女の中にある感情。
欲望は確かにあった。
けれど――
王国を裏切る覚悟まではない。
問題は、彼女の父親だった。
◆
その後の捜査で、ヴァレンティア侯爵の屋敷から証拠が見つかった。
隣国への偽情報。
王宮内の協力者の名簿。
そして――
私の《真視の瞳》について記された資料。
それらは全て、侯爵が王宮の内外に手を回していたことを示していた。
そこには、
「王太子妃となるセシリアを通じ、リディア・アストレアの能力を王家のために利用させる」
と書かれていた。
全てが繋がった。
婚約破棄。
噂。
セシリアの接近。
そして、王宮内の内通。
全て、ヴァレンティア侯爵が王家を掌握するための計画だった。
アルベルトが私を遠ざけようとしたのも、その計画を知っていたからだ。
ただ一つ。
彼は私に相談するという選択をしなかった。
それだけだった。
◆
ヴァレンティア侯爵は失脚した。
協力していた役人たちも処分され、隣国との関係もアルベルト自らが交渉して事態を収拾した。
国王陛下は、アルベルトに正式な王太子としての権限を与えた。
そしてセシリア嬢は――
王都を離れることになった。
最後に彼女は、私に言った。
「私は、殿下の隣に立ちたかっただけです」
「分かっています」
「でも、父の計画に利用されていたことにも気づいていませんでした」
彼女は俯いた。
「あなたが羨ましかった」
「……」
「殿下が、あなたを見るときだけ違う顔をするから」
私は少し驚いた。
「そうだったのですか?」
「ええ」
セシリア嬢は苦笑した。
「だから、あなたから殿下を奪えば、私も同じように見てもらえると思っていました」
私は何も言わなかった。
「でも、違いました」
彼女は小さく頭を下げる。
「……さようなら、リディア様」
「お元気で」
それが、私たちの最後の会話になった。
◆
全てが終わったあと。
私は王宮の庭園にいた。
婚約は破棄されたまま。
事件が解決したからといって、すぐ元に戻れるわけではない。
そんなことを考えていると、
「リディア」
アルベルト殿下がやってきた。
「殿下」
「少し話せるか?」
「はい」
殿下は私の前に立つ。
そして――
跪いた。
「リディア・アストレア」
「……はい」
「もう一度、俺と婚約してほしい」
私は黙って彼を見た。
「今度は、俺一人で決めない」
殿下は続けた。
「お前を守るためだとしても、お前の意思を無視しない」
「……」
「お前が俺を選んでくれるなら、俺もお前を選ぶ」
私は少しだけ笑った。
「一つ、条件があります」
「何でも言ってくれ」
「私を信じること」
「約束する」
「それから――」
私は彼の目を見る。
「私にも、あなたを守らせてください」
アルベルトは目を見開いた。
そして笑った。
「ああ」
彼は立ち上がった。
「よろしく頼む」
私は手を差し出した。
「こちらこそ」
◆
それから数年。
私は王太子妃になった。
王宮には今でも多くの問題がある。
政治も、外交も、簡単ではない。
けれど、一つだけ昔とは違う。
「リディア。これについてどう思う?」
「私はこう考えます」
「分かった。その案で進めよう」
アルベルトは、必ず私に尋ねる。
私も、必ず自分の意見を伝える。
どちらかが一人で決めることはない。
それが、私たちの約束だった。
「リディア」
「何ですか?」
「最近、俺の顔をよく見るようになったな」
「そうですか?」
「昔は全然見てくれなかった」
「……昔のことは忘れてください」
「無理だ」
私は笑った。
「なぜです?」
「お前に嫌われたと思っていた時期だからな」
「自業自得です」
「……否定できない」
私は彼の目を見る。
《真視の瞳》が映したものは――
愛情。
それは、昔から変わらなかった。
けれど、今はもう怖くない。
人の本心を知ることが、幸せとは限らない。
知らない方がいいこともある。
それでも。
この人の本心だけは、知っていてよかったと思う。
「アルベルト」
「何だ?」
「これからも、私にちゃんと話してくださいね」
「ああ」
「一人で抱え込まないでください」
「分かった」
「勝手に私を守ろうとしないでください」
「……それは努力する」
「約束です」
私は笑った。
アルベルトも笑う。
そして、私たちは手を握った。
婚約破棄の日。
私は、彼の目を見なかった。
あの日の私は、
彼の本心を知ることが怖かった。
けれど今は違う。
私は、自分の意思で彼を見る。
自分の意思で彼を選ぶ。
そして、自分の意思で彼と生きていく。
《真視の瞳》に映る彼の感情は――
今日も、変わらない。
確かな愛情だった。
――おわり。




