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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第十話 信長様の裁きと、腐った米の始末

 信長様への報告に向かう道すがら、俺はずっと自分の手を見ていた。


 掌には、米俵の藁くずが刺さっている。


 爪の間には味噌が入り、指先には鼠の糞を避けて俵を動かした時の嫌な感触が残っていた。


 昨日は握り飯を作って、手が赤く腫れた。


 今日は米と味噌を調べて、手が汚れた。


 どちらも飯に関わる手だ。


 だが、胸の重さはまるで違った。


 飯場で握り飯を作っていた時は、怖くても前を見ていられた。

 誰かが食べる。

 誰かが走る。

 誰かが戻ってくる。


 そのための飯だった。


 けれど、兵糧蔵で見つけたものは違う。


 抜かれた味噌。


 藁を詰めた樽。


 くず米と小石を混ぜた俵。


 湿気を吸って黒ずみ始めた米。


 鼠に食われた跡。


 飯を作る前に、もう飯が傷つけられていた。


 それが、腹の底に重かった。


「清吉」


 隣を歩くかやが、小声で言った。


「また顔に出てる」


「何が」


「怒ってるのと、怖がってるのが半分ずつ」


「……そんなに分かるか」


「分かる。あんたは腹だけじゃなくて顔にも出る」


 かやはそう言ってから、少しだけ声を落とした。


「でも、怒っていいと思うよ」


「怒っても、米は戻らない」


「戻らないけど、怒らないとまた抜かれる」


 俺は返事に詰まった。


 その通りだった。


 ただ、俺には怒り方が分からない。


 怒鳴るのは弥助殿のほうが上手い。

 睨むのは五郎兵衛殿のほうが怖い。

 信長様のように、人の腹の奥まで見抜くような目も持っていない。


 俺にできるのは、米の匂いを嗅ぐことくらいだ。


 だが、そのくらいしかできない俺が見つけてしまった。


 なら、もう黙ってはいられない。


「清吉」


 今度は五郎兵衛殿が言った。


「上様の前では、見たものだけ申せ」


「見たものだけ、ですか」


「ああ。余計に飾るな。怒りも混ぜるな。おまえが見た米、味噌、塩、鼠。それをそのまま言え」


「でも、善右衛門殿が何をしたかは」


「そこは上様が見る」


 五郎兵衛殿は前を向いたまま続けた。


「おまえは裁く役じゃない。飯を守る役だ」


 飯を守る役。


 その言葉が、胸に落ちた。


 飯を炊く役ではなく、飯を守る役。


 いつの間に、そんなところまで来てしまったのだろう。


 少し前まで、俺は槍場で転び、笑われ、飯場に回された貧乏足軽だった。


 それが今、清洲の兵糧蔵の腐りを信長様に報告しに行く。


 足元がふわふわした。


 泥道ではないのに、また転びそうだった。


 信長様は、清洲城内の一室にいた。


 戦の後始末で忙しいはずなのに、こちらが通されるまでそう長くは待たされなかった。


 部屋の中には、何人かの家臣がいた。


 俺には名の分からぬ者もいる。


 ただ、空気だけで分かった。


 飯場や蔵とは違う。


 ここでは一言が人の命を動かす。


 善右衛門は、俺たちの少し後ろに立たされた。

 顔色は悪い。

 だが、まだ完全には折れていない。


 佐助は別の小者に付き添われ、部屋の端で震えていた。


 証拠として持ってきた味噌樽と、混ぜ物のある米袋が置かれる。


 その瞬間、部屋の空気が少し変わった。


 信長様は、まず味噌樽を見た。


「開けよ」


 弥助殿が蓋を開ける。


 上には味噌。


 その下には、藁と布。


 信長様は立ち上がり、樽の中を覗いた。


 何も言わない。


 怒鳴りもしない。


 それがかえって怖かった。


「米は」


 今度は米袋が開かれる。


 白い米に混じって、籾殻、小石、くず米がこぼれた。


 床に落ちる音が、妙にはっきり聞こえた。


 から、ころ、と小さな石が転がる。


 信長様の目が、わずかに細くなった。


「清吉」


「は、はい」


「申せ」


 俺は膝をついたまま、両手を握った。


 五郎兵衛殿の言葉を思い出す。


 見たものだけ申せ。


「兵糧蔵の米俵の下段に、湿りがありました。床から湿気を吸っているようで、藁の色が黒くなっているものがございます。風が通らず、このままでは下から悪くなります」


 自分の声が少し震えている。


 だが、途切れなかった。


「味噌樽は、蓋の甘いものがいくつか。縄の新しい樽の中に、味噌を抜いて藁や布を詰めたものが三つ見つかりました。米俵には、くず米や小石を混ぜたものがございました」


 信長様は黙って聞いている。


 俺は続けた。


「塩袋にも、縄の緩いものがありました。鼠の穴も多く……蔵の置き方、見回り、人の出入り、どれも直さねば、次の飯場でも兵が腹を壊します」


 言い終えると、部屋は静かだった。


 信長様は俺から視線を外し、善右衛門を見た。


「善右衛門」


「は、はっ」


 善右衛門は平伏した。


「これは何だ」


「お、おそれながら、私も今知りましてございます。小者どもが勝手に――」


「勝手に」


 信長様の声は低かった。


「小者が勝手に味噌を抜き、藁を詰め、縄を締め直し、荷車を手配し、帳面を通さず外へ出すか」


「そ、それは……」


「便利な小者だな」


 皮肉なのだろう。


 だが、誰も笑わなかった。


 善右衛門の額から汗が落ちる。


「申し開きは」


「私は、蔵を預かる身として、日々努めておりました。しかし戦の前後で混乱もあり、下の者が不心得を――」


 信長様は善右衛門の言葉を遮らなかった。


 最後まで聞いた。


 それが怖かった。


 言い訳が部屋の中に積もっていく。


 だが、どれも飯にはならない。


 俺は床に落ちた小石を見ていた。


 あれが飯に混じれば、兵は噛む。


 歯を痛めるかもしれない。


 砂を噛んだような飯を食って、雨の中を走る。


 そう考えると、腹の底が煮えるようだった。


「佐助」


 信長様が呼んだ。


 佐助は跳ねるように頭を下げた。


「は、はい!」


「誰に命じられた」


 佐助は震えた。


 善右衛門のほうを見そうになり、すぐに床を見た。


 俺は思わず口を開きかけた。


 食べろ、と言いそうになった。


 だが、ここは飯場ではない。


 信長様の前だ。


 俺が口を挟む場所ではなかった。


 佐助はしばらく黙った。


 そして、絞り出すように言った。


「善右衛門様に、夜に樽を出せと……言われました」


 善右衛門が顔を上げた。


「嘘を申すな!」


 佐助はびくりと震えたが、今度は止まらなかった。


「味噌は城下の商人へ。米も、良い米を抜いて、くず米を混ぜろと。俺だけじゃありません。他にも……」


 そこまで言って、佐助は泣きそうな顔になった。


「言わねば、蔵から追い出すと。母が病で、俺はここを追い出されたら……」


 部屋の中に、湿った沈黙が落ちた。


 善右衛門は、もう佐助を怒鳴れなかった。


 信長様は佐助を見たあと、善右衛門へ視線を戻した。


「善右衛門。兵糧を抜くとは、何を抜いたか分かるか」


「……味噌と米にございます」


「違う」


 信長様の声が鋭くなった。


「兵の足を抜いたのだ」


 その言葉に、俺は息を止めた。


「腹がもたぬ兵は走れぬ。走れぬ兵は戦えぬ。戦えぬ兵は死ぬ。貴様は味噌を抜いたのではない。織田の兵の命を抜いた」


 善右衛門は床に額を擦りつけた。


「お、お慈悲を……!」


「慈悲か」


 信長様は笑わなかった。


「腹を空かせた兵に、小石混じりの飯を食わせる者が、己の腹だけは満たして慈悲を乞うか」


 誰も動かなかった。


 俺も、動けなかった。


 怒っていいと思っていた。


 でも、信長様の怒りは、俺のものとは違った。


 熱く叫ぶ怒りではない。


 もっと冷たく、もっと深い。


 米俵の下で進む湿りのように、静かに、確実に相手を逃がさない怒りだった。


「善右衛門を捕らえよ。関わった商人も調べ上げろ。荷印は」


 信長様の視線がかやへ向いた。


 かやは一瞬驚いたが、すぐに頭を下げた。


「丸に三本線、と佐助が申しておりました。川沿いの荷商いに似た印を見た覚えがあります」


「案内できるか」


「人を辿れば、できるかと」


「よし。弥助、かやを使え。ただし無理はさせるな。川筋の者は川筋の目を持つ」


「はっ」


 かやが、ほんの少し目を丸くした。


 信長様はそれ以上かやを見ず、佐助へ視線を移した。


「佐助」


「はっ」


「おまえは罪を犯した。だが、言った。母が病と申したな」


「……はい」


「しばらく蔵からは外す。弥助の下で働け。逃げれば斬る。働けば飯は食わせる」


 佐助の肩が震えた。


「ありがたき……」


「礼は働いてから申せ」


「はい!」


 俺は胸の奥で、少しだけ息を吐いた。


 佐助が許されたわけではない。


 でも、いきなり切り捨てられなかった。


 それだけで、粥を一口飲ませた時のように、少しだけ腹が温かくなった。


 次に、信長様は俺を見た。


「清吉」


「はい」


「蔵を直せ」


 短い命だった。


 だが、重かった。


「俺が、ですか」


「そうだ」


「しかし、俺は字も満足に読めません」


「なら読める者を付ける」


「蔵の作法も知りません」


「知る者に聞け」


「役人でもありません」


「今から役を与える」


 俺は言葉を失った。


 信長様は、こちらの迷いなど気にしていない。


「兵糧蔵見廻り役。まずは仮だ。弥助の下につき、五郎兵衛を目付とする。かやは荷の目として使え。帳面役も一人付ける」


 見廻り役。


 仮とはいえ、役。


 俺に。


 飯炊き足軽の俺に。


「上様」


 俺は思わず頭を下げた。


「俺には、荷が重すぎます」


「米俵より重いか」


 信長様が言った。


 一瞬、意味が分からなかった。


 周りも黙っている。


 信長様は続けた。


「重いなら、担ぎ方を覚えろ。おまえは飯を知っている。腹を知っている。ならば、蔵も腹として見ればよい」


「蔵を、腹として」


「そうだ。食えぬものを入れるな。腐ったものを溜めるな。穴を塞げ。流れを止めるな。腹と同じだ」


 あまりに信長様らしい言い方で、俺は変なところで納得してしまった。


 蔵は腹。


 米も味噌も塩も、ただ積むものではない。


 入れ、保ち、出し、兵の身体へ届ける。


 詰まれば腐る。


 穴があれば抜ける。


 悪いものが混ざれば腹を壊す。


 確かに、腹と同じだった。


「できますかどうかは、分かりません」


 俺は正直に言った。


「ですが、見ます。匂いを嗅ぎます。触ります。変なものは変だと申します」


「それでよい」


 信長様は頷いた。


「ただし、清吉」


「はい」


「情だけで飯を配るな。怒りだけで人を裁くな。飯は人を生かすが、飯を握る者が目を曇らせれば、同じ飯で人を殺す」


 背筋が伸びた。


「はい」


「火は消すな。だが、火を広げすぎるな」


 その言葉の意味は、すぐには分からなかった。


 けれど、今は分からないまま覚えておくしかないと思った。


 信長様は家臣たちへ命じた。


「善右衛門の家と関わる商人を調べよ。蔵の帳面を押さえろ。米と味噌は清吉の見分を通してから飯場へ出せ。急ぐものは弥助が決めよ」


 命が次々と飛ぶ。


 人が動く。


 善右衛門は連れていかれた。


 最後にこちらを睨んだ。


 その目に、俺は思わず息を呑んだ。


 恨まれている。


 当然だ。


 俺は彼を裁いたわけではない。


 だが、俺が見つけなければ、彼はまだ蔵の中にいただろう。


 これから、こういう目を向けられるのか。


 飯を守るとは、こういうことなのか。


 手が冷たくなった。


 部屋を下がると、廊下でかやが大きく息を吐いた。


「ああ、怖かった」


「かやでも怖いのか」


「あんた、あたしを何だと思ってるの」


「強い人」


「強そうにしてる人、だよ」


 かやはそう言ってから、少しだけ笑った。


「でも、上様はもっと怖いね」


「うん」


「人の使い方が早い。あたしまで巻き込まれた」


「ごめん」


「また謝る」


「でも」


「いいよ。荷の目って言われたの、嫌じゃなかった」


 かやは自分の手を見た。


 水桶や竹皮や樽を運んだ手。


「川筋の者なんて、武士から見れば便利な足くらいにしか思われない。でも、目だって言われたのは初めてだ」


 俺は少し驚いた。


 かやの声が、ほんの少しだけ柔らかかったからだ。


「かやは、実際によく見てる」


「褒めても何も出ないよ」


「褒めたというか、助かったから」


「そういうのを褒めるって言うんだよ」


 かやは照れ隠しのように早足になった。


 五郎兵衛殿が後ろで笑っている。


「若いな」


「五郎兵衛殿、またそれですか」


「便利な言葉だ」


 弥助殿は、佐助を連れて少し後ろを歩いていた。


 佐助はまだ顔色が悪い。


 俺は足を止め、彼を待った。


「佐助」


「……はい」


「飯は、あとでちゃんと食べろ」


 佐助は目を瞬かせた。


 弥助殿が呆れた顔をする。


「この流れで言うことがそれか」


「腹が減っていたら、明日働けません」


「まあ、間違ってはいないが」


 佐助は小さく頭を下げた。


「清吉さん」


「さんはいらない」


「でも、俺は……」


「俺も足軽だ」


 そう言ってから、自分で少し迷った。


 今は、足軽なのだろうか。


 見廻り役。


 仮とはいえ、役を与えられた。


 だが、急に偉くなった気はしない。


 むしろ、背中に米俵を二つも三つも乗せられたような気分だった。


「明日から蔵を直す」


 俺は佐助に言った。


「知っていることがあれば教えてほしい。誰がどこを動かしていたか。鼠が多い場所。湿る場所。人が嫌がる仕事。俺は知らないことばかりだから」


 佐助は驚いたようだった。


「俺に、聞くんですか」


「うん」


「俺、悪いことを」


「した。だから、知っていることを使って直してほしい」


 佐助は俯いた。


 しばらくして、小さく頷いた。


「……はい」


 弥助殿が、俺を横目で見た。


「甘いな」


「そうでしょうか」


「甘い」


「でも、蔵を知っている人が必要です」


「そういう理屈を後から付けるから、おまえは面倒なんだ」


「すみません」


「謝るな。……まあ、今回はそれでいい」


 弥助殿はそう言って、佐助の背中を軽く押した。


「働け。清吉は飯にはしつこいぞ」


「はい」


 佐助が少しだけ笑った。


 その笑いを見て、俺はようやく息を吐いた。


 夕暮れの清洲は、桶狭間のあととは別の慌ただしさに包まれていた。


 勝利の報せに沸く者。


 今川方から逃げてきた者。


 商いの機を狙う者。


 荷を運ぶ者。


 首を運ぶ者。


 米を運ぶ者。


 人が多い。


 飯を食う口も多い。


 この町の腹を満たすには、どれほどの米がいるのだろう。


 考えただけで、眩暈がした。


 兵糧蔵へ戻る前に、俺は一度足を止めた。


 空は赤くなりかけている。


 雨上がりの雲が、薄く光っていた。


 俺は自分の手を見た。


 汚れた手。


 震える手。


 でも、まだ動く手。


「清吉」


 かやが振り返る。


「行くよ。蔵の腹、放っておくとまた腐るんだろ」


「うん」


 俺は頷いた。


 飯場の火を消すな。


 信長様はそう言った。


 だが今、俺の前にある火は鍋の火だけではない。


 蔵を直す火。


 米を守る火。


 人の欲で腐りかけた腹を、もう一度動かす火。


 俺にできるかは分からない。


 でも、やるしかない。


 腹を空かせた兵に、小石入りの飯を食わせるわけにはいかない。


 俺は清洲の兵糧蔵へ向かって歩き出した。


 足は重かった。


 けれど、昨日の泥道よりは、少しだけ前へ出た。

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