第9話 彼女は先を急ぎました
彼女が会社の敷地から抜け出すと、目の前に大きな河川が横たわっていた。
「さて、序盤の即死ポイントを抜けましたので、ここからは本格的なスニーキングミッションが始まります。ここからしばらくですが、慎重に行動すればまず見つかることはありません。タイムアタックするなら結構な難所なんですが、普通に通り過ぎるだけなら簡単ですね!」
彼女の立つ河川堤防は幅が広く、その上の道路は2車線幅で整備されている。
「とはいえ、こんな開けたところで立ちすくんでいれば、すぐにゾンビに見つかってしまいますので……」
彼女――『ZOMBIE - ゾンビ』の主人公である茜、その中に入り込んだ彼は、解説系動画配信者の手癖として相変わらず実況を続けながら、左右を見渡した。
「この場所、今は安全なのですが、しばらくするとあそこの橋の向こうから歩いてくるおじいちゃんゾンビに見つかっちゃいます。なので、次に向かうのは河川敷公園です」
ゾンビパンデミックによって文明崩壊したこの世界では、当然ながら車が走って来ることは無い。彼女はスタスタと歩いて道路を渡り、河川敷公園へ続く階段を下り始めた。
「このゲーム、普通に走ることもできるんですが、結構細かくトラップがあるんですよね。RTA走者泣かせの構造になっています。この階段も、走って下りると途中で足を滑らせてしまうというギミックがあるので、絶対に焦らず走らず、ゆっくり歩きましょう」
その解説の通りに階段を改めて観察すると、なるほど、確かに足を滑らせやすい状況になっていることが分かるだろう。
方角的に、日陰になりやすいのか。
階段は苔むしており、間違ってそんな箇所を踏めば、簡単に足を滑らせてしまうのは容易に想像が付いた。
そんな階段を、茜は普通に『走って』下り始めた。
「おっと」
そして当然、茜は足を滑らせる。その瞬間、彼女は『前転』で受け身を取りつつ階段を転がり、その既定動作通りに立ち上がった。だが、身体が不安定な状態であることは変わりが無い。更にそのまま足を滑らせるが――
「はい!」
茜は再び『前転』する。くるりと回り、何事も無く階段を下りきり地面に降り立った。
「前転は連続使用できないんですが、間に『足を滑らせる』という強制イベントを挟むことで、クールタイムをキャンセルできます。ほぼほぼ、ここでしか使えない小技ですけども。はい」
彼女はぱんぱんとジャージをはたき、何事も無かったように遊歩道を歩き始めた。
「さて、右に行くと川下です。が、あっちに行っても何も無いどころか、上からゾンビが降ってきて詰むので、ゾンビオールコンプとか狙っていない限りは左に進みましょう」
彼女は歩きながら、ちらりと上の橋に目を向ける。
「ちなみに、ここでも『走る』を選択すると、あの……真上の橋を歩いているおじいちゃんゾンビが足音に気が付いて上から降ってきます。普通に死ねるので、ここも歩くようにしましょう。一応振り切ることはできるんですが、……あ、見えましたね、はい。前をゾンビが歩いているのですが、今度はそいつに見つかりますので」
そのまま橋の下、暗がりに入ると、茜は足を止めた。
数秒後、ふらふらと歩くゾンビが、彼女の視界に入る。
ゾンビが暗い橋の下から外に出たことで、その存在に気付けたのである。
何も知らずに橋の下に突っ込むと、暗がりのゾンビに気付かずぶつかってしまうという、悪辣な罠があるのだ。
「この人、たぶん犬の散歩中なんですけども」
ふらふらと歩くゾンビの後ろ姿を眺めつつ、彼女は解説を続ける。
「犬はどこに行ったんでしょうねえ……」
確かに彼女の言うとおり、前を歩くゾンビの右手には、犬のリードと思われる紐がぶら下がっていた。だが、リードは地面に垂れており、当然ながらその先に犬が繋がっている様子はない。
北向きの河川敷のため、日陰になったこの場所では、あまり明るくない。
草が伸び放題になっていることもあり、それ以上ゾンビの様子は確認できなかった。
「ちなみに、あのゾンビはそのまま……ああ、見えましたね。あそこの階段を上っていきますので、ほっとけばいなくなります」
さて、と彼女は深呼吸をする。そして、『中腰』になって歩き始めた。
歩く速度は、前のゾンビよりも速い。そのまま、彼女は当然のようにゾンビの背後に張り付いた。
「うわぁ……」
彼女の視線の先。
そこには、歩くゾンビが握るリードがぶら下がっている。
「多分、それこそ散歩中にゾンビになっちゃったんだと思いますがねぇ……」
そして、リードの先には毛むくじゃらの塊が繋がっていた。
散歩途中に飼い主がゾンビ化した場合、首輪に繋がれたままの犬は、どうなるのか。
それをまざまざと見せつけられるようなこの光景は、当時、大変な炎上騒ぎになったものである。
「まあ、よく見ると分かるんですが、これ、ただのボロ雑巾なんですよね」
――彼女の言うとおり。
その毛むくじゃらの塊は、単なるゴミであった。
ゲーム制作者の温情なのか、あるいは単に犬好きなのかはわからないが、酷い目にあった犬は存在しないのだ。
リードの先に、たまたま雑巾かタオルかが引っかかり、地面の汚れや枯れ草を巻き込んでボサボサの塊になっているだけなのだ。
「夜になると野犬が襲ってくるので、犬好きかどうかの議論はありますがねぇ」
それはそれ、と言うことだろう。
市街地にいる野生動物の代表格は、やはり野犬だ。
それは外せなかったらしい。
「というわけで、そろそろこのゾンビ、階段を登り始めると思いますが。みなさんそろそろお気づきでしょうが、大体こういうタイミングは危険なんですよね」




