3話 猫剣士ネコムネ師範、鮭を斬る!?
「うわっ、やっば……っ!」
瑠散は炎の塔で床にぽっかり開いた穴に気づかず、足を踏み外した。
看板があったのだが、「トラップ注意!でも大丈夫だよ♪」
という千田さんらしいゆるい警告文だったので、完全に見落としていた。
油断は禁物である。
穴に吸い込まれたかと思うと空間がねじれた、彼はふわりと柔らかい何かの上に落ちていた。
ふかふかした、毛のような、でもどこか温かみのある……まるで高級なクッションのような感触。
「貴様、背中に乗るとは無礼千万な」
瑠散は慌てて飛び跳ねた。
自分が乗っていたのは、体毛を艶やかに整えた巨大な猫だった。
体格は人間の大人ほどもある立派な猫である。
「……猫、しゃべった!?」
「すみません!いや、まさか猫とは思わなくて!」
「猫ではない、剣士だ」
「えっ、猫剣士!?いやそれ猫で合ってますよね!?」
「吾輩の名は、ネコムネ・タマ次郎。
千田界毛刃流最後の継承者である」
低くて威厳のある声が響いた。
ただの猫ではない。
その背は一直線に伸び、腰には刃を収めた小太刀を帯びている。
鼻先には白ひげが威厳を持って揺れ、紫色の瞳がきらりと光った。
まるで時代劇から抜け出してきた武士のような貫禄がある。
猫が、ゆっくりと頭をもたげる。
毛並みは漆黒、紫の瞳は人間より遥かに冷静な光をたたえていた。
背には小太刀。
額には折れ耳。
目の下には、うっすらと武士道のしるしのような傷跡。
腰に差しているのは一本の細身の刃。
鞘には「毛刃流」と刻まれている。
「……け、毛刃流って、毛の刃って書いてますけど?」
「その通り。我らの流派は、毛一本すら斬り裂かぬ無刀の極致」
「焼き鮭関係ないじゃないですか!」
「焦げを恐れる心を斬る。すなわち毛刃流の本質だ」
「急に禅問答!?」
ネコムネは目を細め、静かに毛づくろいを始めた。
まるで熟練の剣士が刀を磨くような、丁寧な動作だ。
「お前、焦がすのを恐れておるな?」
「そりゃあ……焼き過ぎたら台無しですし」
「恐れは、炎を支配できぬ証。焦げを恐れる者は、旨みを掴めぬ」
「なにその名言風の暴論!?」
「ならば次の段階に進むため、吾輩のトラップ部屋、この毛刃試練を乗り越えねばなるまい」
そう言うやいなや、ネコムネはぴょん、と空中を跳んだ。
その動きは流麗で、まさに猫科の身体能力を活かした剣術だった。
そして、あらゆる角度から瑠散に木の棒を投げ始めた。
左から、右から、上から!どれも猫の毛で巻かれていてフカフカしているが、意外とスピードが早い。
「わ、わっ!何だこれ!」
瑠散は必死に木の棒を避けながら叫んだ。
猫の毛で包まれているとはいえ、当たったら結構痛そうだ。
「反射神経と、空腹時の判断力を試している。
おぬし、さきほど『焼き鮭が食べたいな〜』
と心で思ったであろう?」
「な、なんで分かるんだよ!」
「吾輩の耳は飾りではない。猫の聴覚を侮るなかれ。
…ふむ、まだまだ雑念が多い。
腹が減ったならば、斬れ」
ネコムネが華麗な前転を決めながら放った木刀の最後の一本には、小さな鮭の切り身が結びつけられていた。
なぜか美味しそうな匂いがする。
「己の空腹を断ち切る心こそ、火と鮭の調和を生むのだ」
ネコムネが前足を振ると、地面から火柱が立ち上った。
まるで地獄のコンロだ。
「これが毛刃試練!?」
「その通り。目を閉じ、炎を感じろ。焦げの香を恐れるな。炎と共にあれ」
「いや、焦げるって! 服とか!」
だが、ネコムネの金色の瞳が一閃した瞬間、瑠散は息を呑んだ。
炎が、まるで生きているかのように静まり返る。
揺らめく光が頬を撫で、熱はあるのに痛くない。
「……怖くない?」
「そうだ。それが火を信頼するということだ」
瑠散はゆっくりと手を伸ばし、炎の中の鉄板をつかんだ。
そこには、黄金色の鮭が静かに焼かれていた。
皮は香ばしく、身はしっとり。焦げもない。
完璧な焼き加減。
「こ、これ……!」
「焦げを恐れぬ心が、黄金の焼きを生む。よくやったな」
ネコムネが口の端を上げ、満足げにひげを震わせた。
瑠散は息を整えながら、ふと気づく。
「でも、これ……どこで魚焼いてたんです?」
「この塔には、鮭が棲む」
「そんなバカな——」
言い終わる前に、壁が割れた。
炎の中から、赤い瞳の巨大な鮭がぬっと姿を現す。
「出たあああああ!! 鮭だああああ!!」
「ふむ、第二試練《紅鮭の舞》の始まりだな」
「待って! そんな説明いらない!!」
鮭は大きく口を開け、熱気を帯びた息を吐く。
炎の塔が震え、床が揺れる。
ネコムネは軽やかに跳び、瑠散の肩に乗った。
「よいか、瑠散。炎を恐れるな、毛を信じろ!」
「毛!? なんで毛なんですか師範!?」
「毛とは感覚。刃よりも鋭く、心よりも柔らかい。感じ取れ!」
ネコムネの体毛が逆立ち、光を帯びた。
金色の毛先が空気を切り裂き、炎をまとい、一本の剣のように伸びる。
「それが……毛刃流の極意、毛閃!」
「名前のクセがすごい!」
ネコムネが跳ぶ。瑠散も反射的に身を翻す。
毛閃が空を裂き、炎の鮭を一閃。
鮭は光となり、静かに溶けて消えた。
「……消えた……?」
「焼き鮭として、成仏したのだ」
「成仏すんの!? てか食べられないの!?」
「修行中に食欲を出すとは、未熟の証だな」
「だって鮭だよ!? 香ばしい匂いしてたよ!?」
ネコムネは再び毛づくろいを始めた。
その姿は、修行の締めにふさわしい静けさをたたえている。
瑠散もつられて正座した。
「毛刃流……奥が深いな……」
「まだまだだ。塔には百の試練が待つ。その中に八木節の儀もある」
「なにそれ、踊るの!?」
「踊りとは呼吸。呼吸とは炎。炎とは焼き鮭——つまり修行だ」
「いや、理屈の飛躍がすごい!」
その時だった。背後から、ネコムネの尻尾がぺしぺしと顔に当たる。
何かを言いたげに見上げると——
「ペロペロペロペロ……」
「師範!? また試練ですか!?」
「いや、毛づくろいの二回目である」
「自由すぎる!!」
瑠散はため息をつきながら、ふっと上を見上げた。
炎が揺れ、どこかで太鼓が鳴る。
炎の塔の幾層にも分かれたその内部には、
修練の部屋、儀式の間、料理研究所、八木節ホールなど
多様で奇妙な空間が存在していた。
千田さんの趣味がところどころに反映されており、
三階には「踊り場」という名前の文字通り踊るための場所まであった。
壁には「八木節は心の炎をもやせ」という千田さん直筆の書が貼ってあった。
遠くから「八木節〜!」という声が響いてくる。
「……この塔、まともじゃないな」
「それを言うな。それが炎の塔だ」
そう言ってネコムネが微笑む。
その金色の瞳は、どこまでも静かで、そして熱かった。
「合格だ、炎の少年。おぬしの中に、火を恐れぬ心と、鮭への愛を見た」
その声と共に、床に浮かび上がる光の円。
トラップ部屋の出口だ。
まるでRPGゲームのワープポイントのような光る円が現れた。
瑠散が光に吸い込まれる直前、ふと後ろを振り返ると、そこには、柔らかく身体を丸め、ひたすら後ろ足の毛づくろいに没頭するネコムネの姿があった。
あの鋭さはどこへやら、まるでただの巨大で人懐っこい猫だった。
武士の魂と猫の本能が同居している不思議な存在である。
「剣も毛も、放っておくと乱れるからな……ペロペロ……ではまた会おう、少年よ」
「ありがとうございました、ネコムネ師範!」
ネコムネの声が遠ざかっていく。
光の中に吸い込まれながら、瑠散は苦笑した。
だが胸の奥では、確かな熱が灯っていた。
ネコムネの教えは単なる剣術でも料理でもない。
それは生き方そのものだった。
火を信じること。
恐れず、焦らず、心を込めて向き合うこと。
そして、焼き鮭への真摯な愛情を忘れないこと。
毛刃流の教えは、人生の哲学そのものだった。
「……毛刃流、奥が深いな」
瑠散は次の階層へと歩き出した。
また新しい師範が待っている。
きっと今度は、もっとおかしくて、もっとすごい。
だが不思議と、ワクワクしていた。
遠く、ネコムネの声が聞こえた。
「少年よ、次に会う時まで毛を整えておけよ……ペロペロ……」
——焼き鮭の道は、長くてふわふわだ。




