セメントの月
夏のベランダで見た、少年と少女の短な邂逅
団地のベランダから月を見るのが、ぼくの日課だった。
コンクリートの手すり越しにのぞくその姿は、どこか薄ぼんやりとしていて、まるでコピー用紙に刷られた丸い印のようだった。
それが本物か偽物かなんて、小学生のぼくにはどうでもよかった。
ただ、その灰色の光が団地の壁に反射して、ぼくの部屋の隅にまで届く様子が好きだった。
母さんはその時間、まだ病院にいて、家には誰もいない。
父さんは春先に出て行った。仕事で遠くに行くことになったとか言っていたけど、もう半年以上、手紙も電話もない。
ぼくは一人で、インスタントの味噌汁をすすりながら、ベランダの椅子に座って月を見ていた。
夏休みの初日、夕立の後の蒸し暑い夜だった。
空気がねっとりと肌に貼りついて、団地の廊下はどこか得体の知れない生き物の体内みたいだった。
そのとき、隣の棟の階段下に、見慣れない女の子がしゃがみこんでいた。
彼女は顔を上げると、ぼくに向かって突然言った。
「ここからじゃ、本当の月は見えないんだよ」
その声は、団地のセメント壁よりも乾いていて、夕立のあとの熱気にまぎれて、ゆっくりとぼくの耳に届いた。
「え?」
ぼくがそう言い返す前に、彼女は立ち上がって、サンダルを引きずるようにして歩き出した。
肩までの黒髪が濡れて、Tシャツの背中に張りついていた。
団地に住んでいるはずの誰よりも、団地から遠い匂いがした。
名前も知らないその子を、ぼくは無意識に目で追っていた。
* * *
彼女の名前は沙耶だった。
次の日、団地の裏の空き地でまた会った。
ぼくは古いラジコンカーを持っていって、草むらの土で泥だらけにしながら遊んでいた。
彼女はその隅のほう、コンクリート片の山に腰かけて、アイスの棒をくわえていた。
「それ、壊れてるの?」
「うん。前に落としてから、左にしか曲がらなくなった」
「ふーん。じゃあ、左にしか行けないのか。かわいそう」
「かわいそう?」
「うん。どこへ行くのにも、同じところをぐるぐる回ってるって、ちょっと哀しいよね」
沙耶はそう言って、アイスの棒を地面に刺した。
それはまるで、印みたいだった。
「月もね、ぐるぐる回ってるんだよ。知ってた?」
ぼくはうなずいた。教科書で読んだ記憶がある。
「でも、見えるのはいつも同じ顔なんだってさ。地球からは片面しか見えないの。反対側には誰がいるんだろうね?」
そう言って笑った沙耶の目の奥は、どこかとても遠くを見ていた。
* * *
それから、ぼくと沙耶は、ほとんど毎日顔を合わせるようになった。
会う場所は決まって、団地裏の空き地だった。
そこは昔、ちょっとしたプレハブが建っていたらしいけど、今は鉄骨だけがさびついて骨組みのように残っていて、その間を野良猫が通り抜けていた。
周囲は腰の高さまである草と雑木に囲まれていて、夏の陽射しを遮るような日陰もない。けれど沙耶は、そこを「基地にしよう」と言った。
「ここなら、本当の月が見えるかも」
またそれか、と思ったけど、口には出さなかった。
ぼくは家から、いらなくなった毛布やペットボトル、懐中電灯を持ち出して、小さな“基地”の設営を手伝った。
沙耶は段ボールを何枚か並べて、「ここが寝るところ」と勝手に決めた。
「寝るの?」
「うん。夜に来て、月を見るの。そうしないと、月は本当の顔を見せてくれないから」
まるで絵本のセリフみたいだったけど、沙耶は真剣だった。
彼女は、何かにしがみつくような目で夜を見つめていることがよくあった。
その目を見ていると、なんとなく「わかったふり」をしたくなった。
自分も月の秘密を知っているような、そんなふうにふるまいたくなった。
* * *
団地に戻ると、母さんはまだ帰ってきていなかった。
台所には置き手紙と、冷蔵庫の上に小さな弁当パック。
それが夕飯だった。
「冷たいままだけど、ごめんね」と書かれた字は、母さんのくせのある丸文字だった。
ぼくは手を合わせてから、それをレンジに入れて温めた。
テレビをつけても、特に見たいものはない。
箸を動かしながら、さっき沙耶が言った「夜に来る」という言葉を思い返していた。
──夜の空き地。
行ってみたいと思った。
けれど、母さんが帰ってくるのは夜の10時過ぎ。
その前に外へ出るのは、やっぱりまずい気がした。
ぼくは弁当を食べ終えると、電気を消して、ベランダに出た。
手すりにもたれ、上を見上げると、月が出ていた。
コンクリートの壁に反射したその光は、昨日よりも白く見えた。
でも、それは“本物”なんだろうか。
──じゃあ、“本当の月”ってなんだろう?
ぼくは手すりの上に肘を乗せて、黙って考えた。
そのときだった。
隣の棟の非常階段に、何かが動く影が見えた。
──沙耶、だ。
彼女は何かを手に持って、階段を降りていた。
その姿が、一瞬、月の光を受けて白く浮かび上がった。
ぼくは慌てて室内に戻り、サンダルを履き、玄関のドアをそっと開けた。
そして、夜の団地の廊下へと、足を踏み出した。
* * *
外に出ると、空気は昼間よりもむしろ暑く感じた。
アスファルトがまだ熱を持っていて、夜風もそれを撫でるように流れている。
セミの鳴き声は遠のき、代わりにどこかで草むらを跳ねる音がした。
ぼくは隣の棟のほうへ走っていった。
沙耶は、空き地へ向かうあの道を進んでいた。手には懐中電灯。
白いTシャツの背中が、月光と街灯のあいだで揺れていた。
「沙耶!」
小さな声で呼ぶと、彼女はぴたりと立ち止まり、ゆっくり振り返った。
「……なんで来たの?」
責めるようでも、嬉しそうでもない声。
それでも、ぼくは嘘をつけなかった。
「月、見たくて……」
沙耶は少し黙ってから、手に持っていた懐中電灯を上に向けて、カチリと消した。
「じゃあ、行こっか」
彼女は踵を返すと、音もなく草むらのほうへ進んでいく。
その背中を追いながら、ぼくはようやく「夜の空き地」に立った。
日中とはまるで違う場所だった。
草は風にそよぎ、木の葉の擦れる音がやたらと大きく響く。
虫の羽音が耳元をかすめ、遠くで犬が吠えた。
「ここに、来たことあるの?」
ぼくが聞くと、沙耶は小さくうなずいた。
「夜にしか来ない。昼は嘘ばっかりだから」
「嘘?」
「だって、明るいと、見たくないものまで見えるじゃん」
その言葉に、ぼくは何も返せなかった。
彼女は草をかき分けながら、秘密基地へと入っていった。
段ボールは湿気を含んで少し柔らかくなっていたが、まだ形を保っていた。
「ここ、寝ころぶとね、月がちゃんと見えるんだよ」
そう言って、彼女は仰向けになり、手を頭の後ろに組んだ。
ぼくもその隣に寝転がった。
夜空が、静かに広がっていた。
月は、高い位置で光っていた。
まるく、やさしく、でもどこか遠い。
「……ねえ、ほんとの月って、どんなのだと思う?」
沙耶がぽつりと言った。
「え?」
「ほんとの月。本物の……ううん、“ちゃんとした”月ってさ、こんなんじゃないと思うんだ」
「でも、見えてるよ」
「見えてても、それが全部じゃないでしょ?」
その言葉に、ぼくはまた、何も言えなくなった。
彼女の声は、確かにそこにあるのに、届いてくるまでに距離があった。
夜の空気が、ぼくらの間にやわらかい膜を張っているようだった。
しばらくして、沙耶が言った。
「来年の夏には、ここにいないかもしれないな」
月を見つめたまま、まるで独り言みたいに。
* * *
「来年の夏には、ここにいないかもしれないな」
沙耶のその言葉に、ぼくはやっと顔を横に向けた。
彼女は月を見たまま、まばたきもせず、ぽつんと浮かんでいるようだった。
それはまるで、月の光が彼女の体を透かしてしまったかのようで、
手を伸ばしたら、そのまま崩れてしまうような不安を感じた。
「……どこ行くの?」
ようやくそれだけ聞くと、沙耶は肩をすくめて笑った。
「さあね。決まってない。お母さんの都合だから」
「引っ越すの?」
「多分。でも、急にって言われるかもしれない。前もそうだったから」
沙耶の声は平坦だったが、その言葉の奥には、諦めと何か固いものがあった。
ぼくはどう返せばいいか分からず、草むらの向こうに目をやった。
夜の空き地には、虫の音と、時おり遠くの車の音だけが響いていた。
「正樹くんは、どこにも行かないの?」
「うん。たぶん」
「いいな。そういうの」
沙耶はそう言って、また空を見上げた。
夜空には、月のほかに星がいくつか瞬いていたが、光は弱かった。
団地の灯りが強すぎて、星が見えにくいのだ。
「……月って、ホントは青いんだって知ってた?」
沙耶がそう言った。
「え? 白とか、黄色とかじゃないの?」
「本当の本当はね。青。うすい、青。たぶん……目を凝らせば、少し見える」
ぼくも目を凝らしてみた。けれど、やっぱり白くしか見えなかった。
「見えないな」
「正樹くんにはまだ早いんだよ、きっと」
茶化すような声だったけど、どこか優しくもあった。
しばらく黙っていると、沙耶が急に言った。
「じゃあ、月を見に行こうよ。本当の、ほんとの月を」
「……今から?」
「ううん。今じゃない。でも、夏が終わる前に」
ぼくは返事をしなかった。
心のどこかで、それが“冗談”じゃないことを知っていた。
* * *
それから数日間、沙耶は姿を見せなかった。
空き地に行っても誰もいなくて、秘密基地は草に飲まれかけていた。
ぼくは夜、ベランダから隣の棟を見ていたけど、彼女の姿はなかった。
ようやく姿を見せたのは、夏休みも半ばを過ぎた頃だった。
沙耶は、どこか疲れた顔をしていた。目の下にはうっすらと影があり、
でも、いつもと同じように笑って「久しぶり」と言った。
「……ごめんね。ちょっと、体調崩してた」
「大丈夫?」
「うん。たぶん」
「引っ越すの?」
その問いに、沙耶は少し間を置いてから、静かにうなずいた。
「うちのお母さん、転勤。今度は、もうちょっと遠くだって」
「いつ?」
「来週の火曜日」
あまりに急で、ぼくは言葉を失った。
* * *
「来週の火曜日」
沙耶がそう言ったあと、ぼくたちはしばらく何も話さなかった。
空き地には風もなく、草が寝そべったまま沈黙していた。
夕方の空は、雲が厚くなり始めていて、月はまだ現れていない。
ぼくは足元の石を、指でいじっていた。
爪のあいだから土がこぼれ落ちる。
「じゃあさ……」
沙耶がぽつりと口を開いた。
「その前に、月を見に行こう。ちゃんと、“本当の月”を見にさ」
「どこに?」
「山のほう。知ってる? 川を越えた先に小さい展望台があるんだよ。夜に行ったら、街の明かりが届かなくて、ほんとに真っ暗で……星も月も、はっきり見える」
「……でも、夜に出たら危ないよ。大人に怒られるし……」
「だから、こっそり行くの」
沙耶の声は、いつもより少し熱を帯びていた。
言葉に色がついているように感じた。
「ほんのちょっとだけでいいの。すぐ帰る。ね?」
ぼくは答えられなかった。
心のどこかが、うずいた。
良くないことだとわかっているのに、行ってみたいと思った。
月を、“本当の月”を、沙耶と一緒に見たいと──。
* * *
その晩、母さんは夜勤で帰ってこなかった。
ぼくは夕飯のあと、ランドセルから懐中電灯を取り出し、靴を履いた。
時刻は、夜の八時半。
団地の外階段を下りながら、心臓の音がいつもより大きく聞こえた。
待ち合わせは、あの空き地だった。
人の気配はなく、夜の草むらは、まるで黒い海のように波打っていた。
沙耶は、すでに来ていた。
リュックを背負い、足元にはランタン。
髪は後ろでひとつに束ねていた。いつもより、少しだけ背が高く見えた。
「……ほんとに、行くんだ」
ぼくが言うと、沙耶は笑った。
「うん。行こう。月が待ってる」
そうして、二人で空き地を抜け、川沿いの道へと歩き出した。
街灯が途切れ、虫の声が増していく。
川を渡る橋は小さく、音を立てないように渡ると、向こう側はもう木々に囲まれた暗がりだった。
道なき道を、懐中電灯で照らしながら進む。
夏の湿った草の匂いが濃く、どこか別の世界に迷い込んだような気さえした。
それでも沙耶は、迷いなく歩いていた。
この道を何度も一人で歩いてきたのかもしれない。
やがて、木々の隙間から、夜空が広がる場所にたどり着いた。
ちいさな展望台。
街の光が届かない、ほんとうに真っ暗な場所。
空には、ぽっかりと月が浮かんでいた。
白くて、遠くて、やさしい光。
団地で見るよりも、ずっと澄んで見えた。
* * *
「……ほらね、ここなら見えるでしょ」
沙耶は息を弾ませながら、展望台の縁に腰を下ろした。
月は、空のど真ん中に静かに浮かんでいた。
雲ひとつなく、周囲の星もはっきりと輝いていた。
ぼくは沙耶の隣に座り、口をつぐんだまま、その光を見上げた。
たしかに、団地から見る月とは違って見えた。
輪郭が、どこまでもはっきりとしていて、白ではなく、うっすらと青みがかっていた。
──まるで、本当に青い月だった。
「ね?」
沙耶が、隣でそっと言った。
「うん……すごい、綺麗」
ぼくは、月から目を離せずに答えた。
夜空は、どこまでも澄んでいて、
その奥に何か大きなものが広がっているような気がした。
それは、見ようとしなければ見えない。
でも、確かにそこにある。
沙耶の言っていた「本当の月」という言葉の意味が、
少しだけわかったような気がした。
「引っ越したら、きっともう会えないね」
沙耶がぽつりとつぶやいた。
「……うん」
「メールも、電話も、たぶん無理。お母さん、そういうの厳しいから」
「そうなんだ……」
ぼくの声は、風にさらわれて、小さくなった。
何かを言わなければと思うのに、何を言っても全部違うような気がして、
口の中で言葉だけがぐるぐる回っていた。
「でも、今日みたいな夜があったって、覚えててくれたら、それでいいよ」
沙耶はそう言って、リュックの中から小さな缶を取り出した。
「これ、あげる」
缶のふたを開けると、中には折りたたんだ手紙が一枚と、
小さなビーズのブレスレットが入っていた。
白と水色の、手作りのものだった。
「これ、作ったの。すごく下手だけど、よかったら」
「……いいの?」
「うん。代わりに、今日のこと、ちゃんと覚えててくれるなら」
ぼくは黙ってうなずき、缶を両手で受け取った。
ブレスレットを取り出して、そっと腕にはめる。
少しきつかったが、不思議とちょうどいい気がした。
「きっと、大人になっても、この月を見れば思い出すと思う」
そう言うと、沙耶は両腕をうしろについて、空を仰いだ。
「この月は、忘れようとしても忘れられないよ」
その言葉を聞いたとき、
この夜が、きっと終わってしまうものだとわかった。
──もうすぐ、帰らなければいけない。
──もうすぐ、沙耶はいなくなる。
そう思ったとき、胸がぎゅっと締めつけられた。
* * *
帰り道は、ほとんど言葉を交わさなかった。
展望台を出たのは、夜の十時を少し回った頃だった。
団地へ向かう道は、登ってきたときよりもずっと暗く、月明かりだけが頼りだった。
道の途中、草むらでガサガサと音がしたとき、沙耶がふっとぼくの袖をつかんだ。
その指の感触が、いまでも忘れられない。
冷たくも熱くもない、ただ少しだけ震えているような、細い指先。
「……こわくないの?」
ぼくが小さく尋ねると、沙耶はしばらく黙っていた。
そして、ぽつんと答えた。
「こわいよ。でも、置いてかれるのはもっとこわい」
「置いてかれる……?」
「誰にも見つからずに、いなくなるのって、ほんとに、怖いんだよ」
そのときの沙耶の声は、風の音よりも小さく、夜に溶けていった。
ぼくは、何も言えなかった。
ただ、握られた袖のぬくもりを感じながら、下を向いて歩いた。
* * *
団地に戻ったのは、夜の十一時近くだった。
沙耶と別れたのは、空き地の入り口だった。
「またね」と小さく手を振った沙耶に、ぼくはうまく返事ができなかった。
家に戻ると、母さんはまだ帰ってきていなかった。
居間の電気をつけず、台所の明かりだけを頼りに、洗面所で顔を洗った。
腕を見ると、さっきつけたブレスレットが月光にかすかに光っていた。
ぼくはそれを外さずに、布団に入った。
天井を見つめながら、今日のことを何度も思い出していた。
──沙耶は、本当にいなくなるのか。
──あの月の下にいた時間は、ほんとうに現実だったのか。
気づくと、涙が頬をつたっていた。
でも、それは声にならず、ただ静かに流れていた。
ぼくはそのまま眠った。
* * *
次の日、沙耶の姿はなかった。
空き地にも、隣の棟にも。
夕方になっても、夜になっても、会えなかった。
次の日も、その次の日も。
ぼくは、毎晩ベランダに立ち、月を見上げた。
でも、もう沙耶の姿が見えることはなかった。
そして、火曜日の朝。
学校へ行く途中、団地の一階の掲示板に、小さな張り紙が貼られていた。
「○○号室 ○○様 今月末をもって退去予定」
名前は読めなかったけれど、部屋番号は、沙耶の家だった。
貼り紙を見たとき、胸の奥が冷たくなった。
沙耶の言っていた「来週の火曜日」は、やっぱり本当だった。
けれど、彼女がちゃんと引っ越していったのか、それともただ──いなくなってしまったのか、それは分からなかった。
部屋の前まで行こうかと思ったけど、足が動かなかった。
ぼくには何もできない。
そう思うと、視界がにじんだ。
* * *
それから、ぼくは毎日、空き地に通った。
秘密基地は、もう草に埋もれかけていた。
段ボールは雨で溶け、毛布も湿って、誰かの気配はもうなかった。
けれど、そこに立つと、確かに沙耶の声が、匂いが、残っている気がした。
風が吹くと、耳元で彼女の言葉がかすかにささやかれるような気がした。
──「この月は、忘れようとしても忘れられないよ」
あの夜の展望台、月の光、指先の感触。
それらが時間のなかで静かに沈んでいくのを、ぼくはただ見つめていた。
* * *
夏休みが終わり、新学期が始まった。
誰も沙耶のことは話さなかった。
同じクラスでもなかった彼女の存在は、団地の中で少しずつ風化していった。
だけど、ぼくの中では、あの月の夜だけが、今でも色濃く残っていた。
腕には、まだブレスレットを巻いていた。
白と水色のビーズは、少し色あせていたけれど、
それでも、見るたびにあの夜を思い出させてくれた。
* * *
ある日の夕方、久しぶりに展望台へ行ってみた。
ひとりで、あのときと同じように、坂をのぼり、草をかきわけて。
辺りはすでに薄暗く、虫の音だけが響いていた。
展望台にたどり着くと、そこには誰もいなかった。
当たり前のことなのに、胸が少しだけ痛んだ。
ぼくは腰を下ろし、空を見上げた。
月はまだ昇っていなかった。
それでも、空の奥から、青白い光がじんわりと浮かび始めていた。
ぼくは静かに、手首を見た。
ブレスレットは、月の前の夜空のように、静かにそこにあった。
展望台の上は風が涼しくて、虫の声さえも、どこか遠くに聞こえた。
ぼくはその場に横たわり、空を見上げた。
草の匂い。土の感触。夜の湿り気。
全部、あのときと同じだった。
ただひとつだけ違うのは、隣に沙耶がいないということ。
でも、不思議と寂しくはなかった。
思い出は、確かにここにある。
彼女が言っていたとおり、忘れようとしても、忘れられなかった。
「……ちゃんと、覚えてるよ」
ぼくは空に向かってつぶやいた。
すると、まるでその声に応えるように、
空の端から、月が、ゆっくりと顔を出した。
白く、静かで、でもたしかにそこにある光。
あの夜と同じ、けれど少しだけ違う。
たぶんそれは、ぼく自身が少し変わったからかもしれない。
* * *
日が経ち、月日が流れても、ブレスレットだけは外さずにいた。
けれどある日、ふとした拍子に切れてしまった。
細くなったゴムが限界を迎えたのだ。
白と水色のビーズが、畳の上に転がった。
あわてて拾い集めながら、ふと、思った。
──この先、もう会うことはないかもしれない。
──だけど、あの夏は、たしかに存在していた。
手のひらに集めたビーズは、もうどれも少しかすれていて、
それでも陽の光を反射して、かすかに輝いていた。
ぼくはそれを、小さな缶に戻して、机の引き出しの奥にしまった。
時々、取り出しては眺めるかもしれない。
あるいは、何年も忘れてしまうかもしれない。
でも、どんなふうに時が過ぎても、
「月を見るたびに思い出す」という言葉だけは、いつまでも胸に残っていた。
* * *
それから、ずいぶんと時間が過ぎた。
団地は取り壊されて、今はもうない。
空き地だった場所には、新しいアパートが建ち、展望台も立ち入り禁止になった。
けれど、月は変わらず空にある。
毎月のように形を変えて、けれど変わらずぼくらの頭上に浮かぶ。
ベランダも、空き地も、沙耶も、今はもうどこにもない。
それでも、ぼくは思う。
──あの月は、たしかに“本物”だった、と。
夏の夜、仕事帰りにふと見上げた空に、月が浮かんでいた。
満ちて、まるくて、あのころと同じように白く、少しだけ青かった。
駅前の街灯や、ネオンや、ビルの窓明かりをかいくぐって、それでも月は見えた。
──変わらないものは、ちゃんとあるんだ。
そう思ったとき、胸の奥に、あの夜の静けさがよみがえった。
展望台で月を見上げたこと。
沙耶の声。
指先のぬくもり。
あの草の匂い、風の音。
全部が、遠くて、でも確かだった。
* * *
部屋に戻り、古い引き出しを開ける。
そこには、あの小さな缶があった。
手に取り、ふたを開ける。
中には色あせたビーズと、くしゃくしゃのままの一枚の手紙。
便箋はもう黄ばんでいて、角が丸くなっていた。
折り目をそっと開くと、短い文が一行だけ書かれていた。
「この月を、きみが見てくれますように。」
──沙耶。
ぼくは、そっとその手紙を戻した。
きみが今どこで暮らしているのか、ぼくには分からない。
大人になって、どんな顔をしているのかも想像できない。
もしかすると、もう名前すら変わってしまっているかもしれない。
でも、あの夏に見上げた月は、確かにふたりのものだった。
そして今、ぼくがこの月を見上げるたび、きみもどこかで、
同じ光を見ているような気がするんだ。
それは、子どもの頃の勘違いかもしれない。
でも──それでも、ぼくには信じられる。
月の光が、夜をこえて、誰かに届くということを。
だから今日もまた、窓を開けて、空を見上げる。
セメントに反射しなくても、
誰かが隣にいなくても、
ぼくはもう迷わずに言える。
──この月は、たしかに“本物”だ。