婚約破棄されて自由になった令嬢は、森で出会った竜に嫁ぎます
「イリーナ・セリュア。君との婚約を、ここに破棄する」
その瞬間、耳鳴りのようなざわめきが広間に満ちた。
私が王太子アレン様の婚約者になったのは、十歳の頃だった。
それは、王家と公爵家の政略にすぎなかったけれど、私はずっと、あの人を愛していた。
けれど、もうその必要もないのだ。
「……承知いたしました。どうぞ、お幸せに」
私は礼をし、口元に微笑を浮かべてその場を去った。
周囲がひそひそと騒いでいるのが聞こえたけれど、気にならなかった。
だって、もう自由なのだから。
けれど胸の奥には、どうしようもない空洞があった。
それが、愛の残骸だったと気づくのは、ずっと後のことだった。
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王都を離れ、北の山岳地帯にある別荘――という名の廃館に移り住んだ。
父が世間体を気にして送ってきた古びた屋敷。
けれど、私はその静けさが好きだった。
もう誰にも見られなくていい。
もう、誰の期待にも応えなくていい。
そう思って、私は日々を淡々と過ごしていた。
ある日、森の奥で薬草を摘んでいた私は、ふと不思議な“気配”に気づいた。
風が止まり、空気が震えていた。
そして――
「……人間、か」
目の前に現れたのは、銀の瞳と黒のうろこをもつ青年だった。
けれど、その背には――巨大な翼があった。
「……竜?」
「この姿ではそう見えないか。まあ、どちらでも構わん」
その青年は、自らをこう名乗った。
「リュカ。人の姿を借りる竜だ」
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「なぜ、そんなところに?」
「……さあな。傷を癒していただけだ。……お前こそ、人間の街を捨てて森に来るとは」
「……似たようなものですわ」
それが、リュカとの最初の会話だった。
彼は寡黙で、人間の社会には興味がなさそうだった。
それでも私は、彼のそばにいる時間に安らぎを覚えた。
人ではない彼には、私の過去も、婚約破棄も、何の意味もなかった。
だから私は、ありのままの私でいられた。
私は日々、森で薬草を集め、竜の彼と静かな会話を交わすようになった。
言葉は少ないけれど、彼の瞳は嘘をつかない。
そのまっすぐさに、私は少しずつ――惹かれていった。
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「人間と竜は、交わってはならぬ。それが、我らの掟だ」
ある晩、焚き火の明かりの下で、彼がぽつりとつぶやいた。
「竜の寿命は人間の十倍以上。心を交わせば、必ず別れが来る。
だからこそ、竜は人に恋してはならぬと……そう教わって育った」
「でも、そんなの……悲しい掟ね」
「そう思うのなら、私から離れろ。今なら間に合う」
彼は本気でそう言っていた。
それが、彼なりの優しさだと分かっていた。
でも、私は――もう、彼から離れることなんて、できなかった。
「……遅いですわ。とっくに、あなたに恋をしてしまいました」
私は微笑みながらそう言った。
彼は目を見開き、そして目を伏せた。
「……愚かだな、お前は」
「ええ。でも、おそらくあなたも、同じくらい愚かですわ」
焚き火の音だけが、森に響いていた。
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季節は巡り、春の芽吹きが訪れた。
私は森で、小さな花を摘んでいた。
それは白く可憐な花で、婚約者だったあの人の好きだったものによく似ていた。
でも、今の私はそれを見て悲しむことはなかった。
それよりも、今夜リュカに夕食で出す煮込みの材料を考えていた。
リュカは人の食事に興味があり、私の作る料理を静かに褒めてくれる。
不器用な愛情。
けれど、それが嬉しくて、私は毎日少しずつ幸せになっていた。
そんな日々がずっと続けばいいと、心から願った。
そして、ある日、彼は言った。
「イリーナ。人の掟も、竜の掟も、どちらも破ればよい。
――私と、共に生きてくれ」
私は、泣いた。
あの婚約破棄の夜に流せなかった涙が、今、ようやく流れた。
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数年後――
森の奥に、一軒の小さな家が建っていた。
そこには、美しい娘と、銀の瞳をもつ男が住んでいた。
娘はかつて公爵令嬢と呼ばれ、男は竜と呼ばれていた。
今はただ、互いの名を呼び合うふたりである。
「リュカ、お湯を沸かしておいて」
「火を吐いてもよいか?」
「やめなさい、薪が焦げるでしょ!」
そんな何気ないやりとりが、世界でいちばん愛おしい。
王都では今でも、破棄された令嬢の噂が絶えない。
でも彼女はもう、それを聞くことも、思い出すこともない。
彼女は今、愛する竜とともに――
ただ、森の奥で静かに幸せに、生きている。