忘却の王の願い
タクトたちの前に、忘却の王が静かに立っていた。
もはや、濃霧に覆われた姿ではない。
──少年だった。
まだ幼さを残す、儚い少年の姿。
リアが、戸惑ったように剣を下ろした。
「……こんな、子どもが……?」
アリアも、そっと声を落とす。
「でも、ただの子どもじゃない。
この世界で、誰よりも──孤独な存在」
タクトは、少年の中に、かつての自分を見た。
──何も届かず、誰にも読まれず、
それでも、ただ物語を紡ぎ続けた、
あの日の自分を。
忘却の王は、静かに口を開いた。
「昔、俺も、物語を書いていた。
誰にも読まれない物語を、ずっと、ずっと──」
少年の手の中には、ボロボロになった一冊のノートがあった。
「最初は、楽しかった。
世界を創って、登場人物たちが笑って、
小さな物語が、毎日、俺を救ってくれた」
だが──
少年の目が、陰る。
「でも、誰にも読まれなかった。
誰も、俺の世界を知らなかった。
俺が死んだら、この物語たちも、何もかも、消えてしまうと思った」
リアが、ぎゅっとタクトの袖を掴んだ。
アリアも、苦しげに眉をひそめる。
少年──忘却の王は、声を震わせた。
「だったら、最初から、無いほうがよかった。
痛くないから。
悲しくないから。
……消えたほうが、楽だから!」
叫ぶ声が、海に木霊した。
黒い霧が再び吹き荒れ、亡霊たちが唸りを上げる。
だが、タクトは、一歩、踏み出した。
「……たしかに、君の気持ちは、わかる」
ペンを、ぎゅっと握りしめる。
「俺も、何度も思った。
こんなもの、書いても意味ないって。
誰にも読まれないって。
だったら、やめたほうがいいって……!」
タクトの声が震える。
けれど──
「でも、それでも──俺は、信じたいんだ」
リアが、涙を浮かべながら頷く。
アリアが、そっとタクトに手を重ねる。
オルディアが、静かに微笑む。
タクトは、少年に向かって、まっすぐ言った。
「たとえ誰にも読まれなくても。
たとえ誰にも覚えられなくても。
生まれた物語は、絶対に無駄なんかじゃない!」
少年の目が、わずかに揺れた。
「物語は、生きてる。
たった一人でも、覚えていれば。
たった一行でも、心に残っていれば。
──それは、生きてるんだ!」
海が、静かに、震えた。
亡霊たちの呻き声が、静まっていく。
少年の手の中のノートが、光を放った。
タクトは、そっと手を伸ばした。
「君の物語、俺に読ませてくれないか?」
少年は──
しばらく黙って、
そして、小さく頷いた。
光が、海全体に広がった。
亡霊たちが、安らかに空へ還っていく。
タクトは、少年と共に、一冊の物語を開いた。
そこには、誰にも知られなかった、
けれど確かに輝いていた、小さな世界が広がっていた。