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朝、教室に入るなり、ぼくは脇腹に強烈な飛び蹴りを喰らった。
息が詰まり、床に蹲る。そのぼくに向かって、容赦のない笑い声が浴びせられる。それは、クラスの日常風景だった。誰も異常とは思わない。誰も注視しない。
せいぜい、ぼくが倒れ込んだ拍子に近くの机に手をぶつけてしまい、その机の持ち主が迷惑そうに筆箱を拾い上げた程度だ。
毎度のことながら、そのクラスメイトは、ぼくを睨みつける。
こんなところで倒れて、無関係な人間にまで迷惑をかけるぼくが悪いとでも言うように。
目の前が霞んだ。涙のせいか、気が遠のいているのか。
――どうして、これだけ毎日のことなのに、慣れてくれないのだろう。
いい加減、もう少し寛容になってもいいじゃないか。
格闘家だって毎日痛い思いをしている。自衛隊員だって過酷な任務に身を置いている。田舎の祖母だって、夫に先立たれてずっと一人ぼっちで生きているじゃないか。
ウジウジしているのは、きっと世界でぼく一人だけだ。
髪を引っ張られて、強引に顔を上げさせられる。その衝撃で、頬を涙が伝った。
「虫汁」
誰かが嘲るように口にする。ぼくの涙は、虫を潰したときに出る汁に似ているらしい。見たことはないけれど、クラス全員がそう言うのだから、きっとよく似ているのだろう。
席に着くと、背後にいる女子たちが、シャープペンの先でぼくの背中を何度もつついた。
思わず、小さな悲鳴を漏らす。
「キッショ」
席に着くとすぐ、背後からツン、ツン、とシャープペンの先が背中に突き刺さる。反射的に小さな悲鳴が漏れた。
「キッショ」
甲高い声が耳元で弾けた。続けざまに、別の女子がくぐもった笑い声を上げる。
「うけるんだけど、こいつ、マジで反応すんじゃん」
「ねえ、次はどこ刺す?」
「つーかさ、動きがキモすぎ。芋虫かっての」
シャープペンをつつく手に力が入っているというよりは、むしろ遊びの延長だった。
まるで猫が虫を弄ぶような無邪気さで、彼女たちは笑いながら、ぼくの体をターゲットにしていた。
何がそんなに楽しいのか、目を輝かせてほくそ笑むその顔が、ぼくには異様に思えた。笑い声に混じって、舌打ちや、鼻で笑う音、机を軽く叩く音、いくつもの嘲笑が交錯する。
彼女たちは誰一人、罪悪感など持っていなかった。これは日常で、悪ふざけで、ただの「遊び」で――だから、ぼくだけが、痛がることが悪なのだ。
「ねぇ、昨日一緒にいた男の人って誰?」
俯いていたぼくの目の前に、雑じり気のない穏やかな声が降りてきた。顔を上げると、そこには橋川くんがいた。
ぼくが戸惑って言葉に詰まっていると、彼はにこりと笑った。
「なんか、優しそうな人だったね」
その屈託のない言葉が、かえって恐ろしかった。
どこまで聞かれていたのだろう?会話を?名前を?関係を?
不安が頭をよぎる。
「橋川! キモいんだよ。ゆずると話すな!」
背後から、女子の一人がドスの利いた声で怒鳴った。
「ご……ごめん」
橋川くんは怯えたように頭を下げ、自分の席へ戻っていった。
そして再び、シャープペンの先がぼくの背中に突き刺さる。
――――――――――――――—————
昼時。
具の一切入っていない豚汁に、大量のミニトマトと白いご飯。三パックもある牛乳を、ひたすら胃に流し込む。味なんて、最初から求めていない。
奴らに捕まらないための唯一の手段――早食い。その腕前だけは、自然と上達してしまった。
食べ終えると、そそくさと教室を抜け出す。向かう先は、校舎の裏。風が吹きつける場所だけど、人目を避けられる貴重な避難所だ。
壁際に腰を下ろし、学ランのポケットに手を突っ込み、身体を小さく丸める。寒さと、孤独と、見つかるかもしれないという不安が、ずっと心を覆っていた。
……気が重い。
今日、奴らにこれを渡さなければならない。ポケットの中にある小さな封筒を握るたび、ため息が止まらなかった。そのとき――
「みぃーつけた」
背後から聞こえた、あの特徴的なダミ声。
その瞬間、全身の血が凍りつく。思わず肩が跳ね、心臓が嫌な音を立てた。
……終わった。
やっとの思いで探し出した安息の場所。そこもついに、見つかってしまったのだ。
ゲームが始まる。
ぼくは、リングコーナーに見立てられた奴らの輪の中へと追いやられた。四方を囲まれ、逃げ場はない。そこからは、地獄のラウンドが幕を開ける。
一人が仕掛けてきたかと思えば、すぐさま別の誰かが背後から蹴りを入れる。代わる代わる、順番に。まるでプロレスごっこをしているつもりなのだろう。だが、演技も加減もない。ぼくは本当に殴られ、蹴られ、倒されるだけだ。
リングコーナー役の奴らは、抑えるどころかむしろ加勢してくる。ぼくを突き飛ばし、無理やり立たせては、また新たな攻撃の的に差し出す。
繰り返される乱暴な手つきに、息も絶え絶えになる。痛みは日ごとに増していき、すでに癒える暇もない。傷口が塞がるより早く、次のゲームが始まる。
慣れっこ、なんてものは存在しない。ただただ痛みが積み重なっていくだけだ。
それでも奴らは、腹を抱えて笑っている。
ぼくが蹴られて倒れるたび、鼻血を垂らすたび、うずくまって苦しむたびに――声を揃えて、ゲラゲラと下品に笑い転げていた。
その異様な光景の中で、ただひとつ変わらないものがある。
それは、ぼくの苦しみが"笑い"として消費され続けているということ。マンネリ? 飽きた?そんなものとは無縁なのだろう。奴らの笑いのツボは底抜けに浅く、ぼくの痛みは、何度繰り返されても、飽きることのない"娯楽"らしい。
授業のチャイムが鳴ると、奴らは笑いながら慌てて教室へと戻っていった。
ぼくは仰向けに倒れ込んだまま、あまりの疲労に体を動かす気にもなれず、ただ空を見つめていた。鼻の奥がツンとし、またしても虫汁が頬を伝う。
――悔しかった。
ぼくは嗚咽を堪えきれず、しばらく声を上げて泣いた。
惨めで、情けなくて、どうしようもなく、もう限界だった。なにもかもが嫌になった。奴らからも、学校からも、この街からも、いや、生きることから逃げ出したくなっていた。
「……ねぇ、大丈夫?」
不意に、優しい声が降ってきた。
いつの間にか橋川くんが、ぼくのすぐそばに立っていた。
ぼくはとっさに体を起こし、袖で虫汁を拭って身構える。今のぼくは、あまりに無防備だった。
あの状態で頭を蹴られでもしたら、洒落にならない。けれど橋川くんは、そんなぼくの警戒心にも構わず、ただうっすらと笑っていた。
「ねぇ、さっきも聞いたけど……昨日一緒にいた男の人って、誰?」
ぼくはその問いには答えず、小さく「どうして」とだけ呟いた。
橋川くんは言った。昨日、荒川に釣りに行った帰り道、たまたまぼくを見掛けたのだという。そして、また同じ質問を繰り返してきた。どうして、そこまで気になるのだろう。
「……とっ、友達」
なにか答えなきゃ、という焦りから出た言葉だった。ぼくに、そんな存在がいるはずがないのに。
「いいなぁ。あんな大きい友達がいるなんて」
橋川くんの瞳は、曇りのない真っすぐな光を宿していた。根暗で、いつもうつむいてばかりのぼくとは、正反対だった。
「そっ、それより授業は……」
「いいよ、そんなのどうでもいい。……ゆずるくんが、いつもここにいるの、知ってたし。……あの人たちを連れてきちゃったの、たぶん、僕だから……ごめん」
彼は、深く頭を下げた。
……頭を下げられたのなんて、もしかしたら人生で初めてだったかもしれない。
「い、いや……いいよ」
不思議と、彼を責める気持ちはまるで湧いてこなかった。
むしろ、こうして当たり前のように話しかけてくれることが、ただただ嬉しかった。
そのとき、ふいに頭の中に流れてきた。
THE BLUE HEARTSの【TRAIN-TRAIN】の一節が、ぼくの胸を貫いた。
♪良い奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない♪
♪見えない自由が欲しくて、見えない銃を撃ちまくる。本当の声を聞かせておくれよ♪
……何かが弾けた。
心の奥で凍りついていた何かが、少しだけ、熱を取り戻した気がした。
ぼくは橋川くんに小さくお礼を言うと、大きく一歩を踏み出した。背筋を伸ばし、眉間に皺を寄せ、不敵な笑みを浮かべる。
ポケットから取り出した一枚の紙を広げ、奴らの靴箱へ向かう。
躊躇わずに、それを一つひとつ貼り付けていった。そして、何事もなかったかのように――ぼくは、学校をあとにした。
――――――――――――――—————
夕刻、荒川の河川敷。
俺は草の上に腰を下ろし、手のひらに顎を乗せて、不貞腐れていた。
背後では、雪音が真鍋に向かって目を輝かせながら、矢継ぎ早に質問を浴びせていた。
先日、例の透明マントの秘密を彼女に明かしたのだ。真鍋がその開発者であると知った瞬間、彼女はまるで宝物を見つけたかのように顔を輝かせた。
「すごい!どうして作ったの?」
「なんでそんなこと思いついたの?」
「どんなきっかけ? 実験はどうやったの?」
興味津々に前のめりで詰め寄る彼女に、真鍋はすっかりタジタジになっていた。
けれどその顔は、まんざらでもない様子で、鼻の下を思い切り伸ばして受け答えしている。
「光亮が人助けなんて、珍しいこともあるもんだな」
不意に、隣に矢後が腰を下ろした。
「そんなわけないだろ。仕事だよ、仕事」
「子供から金取るのかよ」
「当たり前だ。俺が人助けなんてしたら、翌日に季節外れの大雪が降って交通機関が麻痺するぞ。お前の通勤にも支障が出る。つまり、俺は人様に迷惑をかけないために善行を慎んでるのだよ」
「どういう理屈だ、それは……」
呆れたように眉を下げる矢後に、しまった、こいつに話すんじゃなかったと内心舌打ちする。まさか本当に仕事終わりにここまで来るとは思わなかったのだ。
「あっ、来た」
雪音の声に、ぼくらは視線を橋の向こうへと向けた。
西新井橋の下。
ゆずるをいじめていた連中が、ついに姿を現した。
この距離では声までは届かないが、肩で風を切るように歩くその様子からして、相変わらず下品な罵声を撒き散らしているのだろう。見ているだけで不快になる。
これから――決闘が始まる。
河川敷の奥、待ち受けていたゆずるは、遠目にも震えているのがわかった。
けれど、彼は今日、間違いなく英雄になる。
親の財布からこっそりと金をくすね少年が、今、人生で初めて「悪」と対峙しようとしているのだ。
校内一の弱者と、ならず者どもの直接対決。
これは実に見物だった。あの付き合いの悪い雪音ですら、「どうしても観たい」と言って譲らなかったほどに。
ゆずるは当初、この計画を躊躇った。自信のなさに加え、それが卑劣な行為であり、相手に痛みを与えてしまうことを嫌ったからだ。
だから俺は、こう説いた。
『ゆずるよ。優しさなんてものは、なんの役にも立たない。悲しきことだが、悪まれ者世に憚り、正直者が馬鹿を見る世なのだ。理想を口にするのは、己を救い出してからにしなさい』
その上で、果たし状を出すように指示した。
連中は、ゆずる相手ならタイマンでも問題ないと考えたのだろう。高身長で細身のノッポが一歩前に出て、手招きで挑発してくる。
「わぁーーーっ!!」
この距離でもはっきりと聞こえる。ゆずるは雄叫びを上げながらノッポに向かって突進し、その拳を思い切り振り下ろした。
カァーン――乾いた金属音が河川敷に響き渡る。
見事にノッポの顔面にクリーンヒット。尻餅をついた彼は、激痛に顔を歪め、全身をばたつかせた。
「ホント清水さんって野蛮なこと考えるよね」
隣に座る雪音が呆れたように言う。が、その口元は笑っていた。案外こういうのが好みなのかもしれない。底が知れない女だ。
「テメェ、なにしやがった!!」
想定外の展開に混乱した連中は、怒鳴り声で気圧そうとするが、明らかに動揺していた。倒れたノッポを放ったらかしに、今度は三人がかりで飛びかかる。ゆずるは我武者羅に拳を振るった。
――しかしその光景は、どこか異様だった。
ゆずるの拳はしっかり握られておらず、ぽっかりと空間がある。まるでヒーローショーのように、拳は直接相手を捉えていないのに、連中は大袈裟に吹っ飛んでいく。———そして断続的に響く、金属音。
そう、ゆずるの拳には、透明マント越しに金属バットが巻きつけられているのだ。
彼は必死だった。
今まで受けてきたすべての屈辱を、拳に込めて晴らしていたのだろう。
笑われ、蔑まれ、殴られ、蹴られ、玩ばれ、醜態を晒され――その傷だらけの心で、貴重な青春を台無しにされてきた少年の、初めての叫びだった。
確かに卑劣な手段かもしれない。
極めて非人道的で、下衆なやり方かもしれない。
けれど、それでも。
これは金に物を言わせて、己の存在を庇護した少年の――生きたいと願う意志の証明だった。
ただひとつ残念だったのは、ゆずる自身が“痛み”を感じられなかったことだ。拳に巻かれた金属バットがすべてを肩代わりしてしまった。本来なら、拳に伝わる鈍い衝撃や熱が、そのまま心の傷に蓋をしてくれるというのに。
それも仕方がない。全ては詭弁なのだから……。
やがて連中は完全に戦意を喪失し、興奮で我を忘れて暴れ続けるゆずるに、土下座して許しを乞うた。
ゆずるは全身を震わせながら、喉が張り裂けるような声で何ごとかを叫んでいた。
顔は火照り、目には涙を溜め、拳はまだ力強く握られたまま。その声が歓喜なのか怒号なのか、自分でもわからなくなっているようだった。
肩で息をし、膝はわずかに崩れている。けれど、その身体は確かに立っていた。
雪音が「やった!」と声を上げて、こちらに振り返る。
ゆずるも振り返り、涙と汗に濡れた顔で、不器用に、それでもはっきりと笑った。
その笑みは、勝利の誇りと、どこか幼い安堵が混ざったような、眩しいものだった。
俺は立ち上がり、大きく背伸びをした。これはボランティアじゃない。けれど、ビジネスと呼ぶには少しばかり、おこがましい。
それでも、妙な達成感が胸の奥に残っていた。
「よっしゃ! じゃあ、これから飲みに行くか!」
勢いよくそう叫ぶと、矢後と真鍋が即座に同意した。
俺は雪音の方に視線を向け、あらかじめ断られることを想定し、予防線を張る。
「明日、仕事だから無理だよね?」
「まぁ今日は、なんだか気分が良いし……行こうかな」
上機嫌な声に、思わず有頂天になる。
よし、今日のところは――ツケってことで、ゆずるには勘弁してやるか。
……なんせ、いいもん見せてもらったからな。
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