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「良心は働かない」
合言葉を交わし、矢後は一足先に学校へ向かった。
その数時間後、俺と真鍋も校内へと侵入する。
――PTA役員会。
眉間に皺を寄せた保護者陣と、ばつが悪そうに愛想笑いを浮かべる教師陣が、長テーブルを挟んで対峙していた。
教師側は、上座に校長が陣取り、年功序列とばかりに年寄り順に並んでいる。若手である矢後は、空席の最下座を飛ばして、下から二番目の席に着座していた。
余談だが――初々しい女教師がソワソワとお茶を配って回り、最後にその空席だった最下座に腰を下ろした。その如何にも“マドンナ”的な彼女が、頬を染め上げているのを見て、俺は愕然とした。
……まさか矢後の野郎、もう手をつけたのか?
尽く憎々しい奴だ。矢後など放って帰ってしまおうか――真剣にそう考えた。
「私は多忙な身でね。さっさと始めてくれないか」
保護者側の上座に座るブラウンスーツの男が、碇ゲンドウポーズをキメて煽ってくる。
因みに保護者陣は上座から、ゲンドウポーズの男、四十代前後のツインテール女、椅子に座っているのに腰に手を当てている女、白髪頭の男、白髪頭の女、そして眼鏡をカチャカチャとやたら持ち上げる女――と並んでいる。
あまりの仕上がりに、拍手でも送りたくなるほどだった。
そして、先日一悶着あったあのおばさんは、腰に手を当てている女性で、上座から三番目の席に位置していた。“教育ママ” → “おばさん” → “ミサト物真似”と、彼女の渾名は目まぐるしく変化している。
本名は田辺というらしいが、聞かなかったことにしよう。
矢後の先輩教師である東堂の進行により、PTAの活動報告、行事予定の確認、予算・決算の報告などが行われていく。
いずれも形式的な内容のはずだが、会議は滞りなく進行していた。
――――――――――――――――――――――――――――
先ほどからじっとりとした汗が止まらない。ハンカチで何度拭っても、額からは容赦なく汗が噴き出してくる。まるで、胸の内に渦巻く不安を体の外へ追い出そうとしているかのようだった。
これから始まるであろう“審判”が恐ろしくて、昨夜はまともに眠れなかった。その影響で寝不足、不安、ストレスが重なり、おまけに体調も最悪。お腹はきゅうきゅうと締め付けられるように痛む。
「聞こえません。もっとハキハキと喋ってくださいます?」
田辺が口角を吊り上げて言い放った。明らかにこの状況を楽しんでいる。身震いが走る。これが、いわゆる“公開処刑”というやつか。
小さく謝罪の言葉を囁くと、田辺は進行役を務める僕を指して、「進行役、代えていただけません?このままだと日が暮れてしまいますわ」と、今度は校長へ向かって声を上げた。
校長は一瞬困ったような顔をしてから、僕の体調を気遣うように「大丈夫か?」と訊ねてくれた。僕は小さく頷き、声を張って努めて平静を装う。そんな僕を、田辺は鼻で笑った。
……なんという女だ。田辺という人物は、きっと根の芯まで腐っている。
特に、先日の件は常軌を逸していた。理不尽なクレームには慣れているつもりだが、あの日の彼女の狂い方は群を抜いていた。
「消しゴムを投げつけられた」と、繰り返し主張していたが、そのような素振りを見せた生徒は誰一人いなかった。なにより、僕のクラスの生徒たちは、基本的に落ち着きがあり、他人を思いやる子ばかりだ。あの状況で、保護者に向かって消しゴムを投げるなんて非常識な行為をする子がいるとは、到底思えない。
……そんな真似をしかねないとしたら、皮肉なことに、田辺の息子くらいのものだ。
ふと、鋭い視線を感じて、思わず背筋を伸ばす。
田辺は、どうしてここまで教師を目の敵にするのだろうか。
確かに僕は、教師として威厳があるとは言い難い。これまでも生徒に舐められたがために、授業中に私語が絶えなかったり、目の前でいじめが起きたりすることさえあった。それは僕の指導力の至らなさゆえであり、そこは認めざるを得ない。
それでも僕は、黙っていたわけじゃない。教室を静かに保とうと、声が枯れるまで注意したし、いじめをした生徒には厳しく叱責した。いじめられた子には何度も頭を下げ、話を聞いて、少しでも寄り添えるように努めてきた。
教師として、未熟ではある。だが、人として逃げてきたつもりはない。僕なりに、誠実に生徒たちと向き合ってきた――そのつもりだった。
それなのに、どうしてここまで否定されなければならないのか。
最近では、田辺のあの独特な声を耳にしただけで、背筋が凍るようになった。胸の鼓動が早まり、手が震える。喉が詰まり、息すらまともに吸えなくなる。まるで、彼女の声に体のすべてが支配されているかのようだった。
電話の着信音が鳴るだけで動悸が走り、教職員室の廊下に彼女の姿がちらつくだけで胃がきしむ。睡眠も浅く、夜中に何度も目が覚めるようになった。朝の目覚めとともに、また今日も田辺と顔を合わせるのかと思うと、布団から出ることさえ億劫になってしまう。
もう、限界が近いのかもしれない。
田辺という存在そのものが、僕にとって“恐怖”となりつつあるのだ。
田辺は、どこかおかしい。
あのクラス替えの時もそうだった。評判の悪い生徒と同じクラスになったことにクレームをつけてきたが、田辺が挙げた生徒たちは、確かに素行に難がある面もあるが、根はまっすぐで、正義感のある子たちだった。一方で、陰湿ないじめを繰り返す子どもたち――つまり、田辺の息子の友人たち――には一切触れようとしない。
どう見ても、クラスを乱しているのはそちらの側なのに。
音楽の授業でも似たようなことがあった。普段は「くだらねぇ」と授業をさぼっているくせに、突然「この歌、好き」と言って歌い出した田辺の息子。思い切り音を外して、周囲が笑ってしまったのも無理はない。
体育の時間には、たかが百メートル走で転んで膝を擦りむいたくらいで、田辺からクレームが入った。「危険なことをさせた」と言わんばかりだったが、こちらとしては、ごく普通の授業をしたまでのこと。そんなに怪我をさせたくないなら、家から一歩も出さずに育てればいい――そんな暴言すら、喉元まで出かかった。
本当に理不尽だ。
中でも特に呆れたのは、田辺の息子が同級生を傷つけたときのことだ。怪我をした子の保護者は「子ども同士のことですから」と寛容に受け止めてくれたというのに、加害者側である田辺は、逆に「被害者のせいでうちの息子がグレてしまう」と怒り出した。学校もさすがにまともに取り合わなかったが、挙げ句の果てには「向こうの子を転校させろ」とまで言い出して……唖然とした。
運動会も、遠足も、その調子だった。田辺の論理は、いつも破綻している。どうしてそんな無茶な要求に、真剣に向き合わなければならないのか。やりきれない。
本音を言えば、もう限界だ。
あの女をぶん殴って、教師を辞めてしまいたい――そんな衝動に駆られる自分が、ここ最近、本気で怖い。
――――――――――――――――――――――――――――
ついに、本題である「その他の議題」に移った。
すると、ミサト物真似――田辺が意気揚々と挙手する。進行役の東堂は、引きつった笑みを浮かべながら、しぶしぶ彼女を指名した。
立ち上がった田辺は、堂々と口を開く。
「先日のことですが……」
そして、くだらぬ作戦が幕を開けた。
「おばさん、化粧濃くない?」
俺が耳元で囁くと、田辺は「なによっ!」と声を上げ、ガンッと太ももを長テーブルにぶつけて振り返った。しかし、そこには誰もいない。
「どうかしたかね、田辺さん。早く言いたまえ」
ゲンドウポーズの男は、微動だにせず言った。
「失礼しました。先日、うちの息子がいじ……」
「お前の息子はいじめっ子だ」
今度は真鍋が、反対側から囁いた。俺と真鍋は、田辺を挟むようにスタンバイしている。
「なんなのよ、さっきから! 黙りなさいよ、これは問題よ!」
田辺が騒ぎ立てる。だが、俺たちの声は彼女にしか聞こえていない。周囲からは、田辺が突然騒ぎ出したようにしか見えない。
「いやいや、田辺さん。どうかしましたか? 落ち着いてください。さぁ、どうなさいましたか。お話しください」
矢後も楽しんでいるのか、ほくそ笑みながら煽るような言葉を投げかける。
「なんですか、その態度は? あなたのクラスの問題でもあるでしょう? うちの息子が……」
「おばさん、しつこいよ。意地の悪いクソガキ」
「なんなのよ! 誰よ! 誰よ! 誰なのよぉ!」
田辺はパニックに陥り、わめきながら髪を両手で掴んで乱暴にかきむしった。バサバサと髪が乱れ、化粧は汗で崩れ、まるで般若のような形相で頭を振り回す。
そしてついには、椅子を引き倒すようにして立ち上がり、虚空に向かって叫び出した。
「ふざけるのも大概にしなさいよ!誰よ!出てきなさい!」
だが当然、そこには誰もいない。田辺は誰かに取り憑かれたかのように、目を見開き、唾を飛ばして叫び続ける。髪は乱れ、口元はひくつき、手は空をかきむしるように彷徨っている。
その異様な光景に、周囲の保護者たちは思わず顔を見合わせた。ざわざわとしたどよめきが会議室を包み、何人かは引き気味に椅子をずるずると後退させる。中には小声で「大丈夫か?」「ヒステリーか…」と囁く者もいた。
「これは大問題よ!学校が……」
「化粧くさいよ。香水のシャワーでも浴びてきたん?」
「そのヘンテコな髪型、似合ってねぇーぞ」
さらに悪口を畳みかけると、ついに田辺は、狂ったチンパンジーの物真似のように、キーキーと喚き続ける。
それでもなお、田辺はなんとか議題を提起しようと、震える唇を懸命に動かし、言葉を絞り出そうとしていた。だが――。
俺と真鍋は、その隙すら容赦なく突いた。
「我儘坊主、マザコン、弱虫、粗ちん、親の顔が見てみたい。あら、いらっしゃった。なんともしわくちゃ。眉間に皺寄せすぎて、押し潰されたもんだから、顔中に皺をばら撒いたのですか?」
「バカ親、狂人、支離滅裂、のっぺらぼう、老醜隠し、息子の顔が見てみたい。きっと他人の不幸でしか笑えない愚かな人間だ。趣味は世界中の奴隷博覧会ってか」
「きぃやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
会議室中に轟いた、絶叫の奔流。まるで火のついたサイレンのように、甲高く、途切れることなく、耳を突き刺す金切り声だった。
髪を掻きむしり、顔を真っ赤にして、歯を剥き出しにした田辺は、もはや人の形をした音響兵器だった。狂乱そのものが、肉体を得て叫んでいるかのようだ。
あまりの騒音に、周囲の保護者たちは我先にと耳を塞ぎ、椅子を引いて後退する者まで現れる始末。一部の保護者は顔をしかめ、目を伏せ、うなだれた。
まさに叫喚地獄。ここはPTA会議室のはずだった。それがいつの間にか、狂気の劇場に変貌していた。
耳栓を用意しておいて本当に良かった――そう実感するレベルだ。
だが、俺と真鍋以外にも、耳を塞いでいない者がひとりだけいた。ゲンドウポーズである。
騒然とした中でも、男はひとり沈黙を貫き、手を組んだまま、微動だにしない。もはや彼の無言は一種の芸術だった。あまりの徹底ぶりに、むしろ敬意を表したくなったほどだ。
田辺の金切り声が響き渡る中、ゲンドウポーズは静かに、しかし確かに言葉を発した。
「君はどうかしている。これでは話し合いにならない。君は役員失脚だ。もうお開きにしよう。私は忙しいのだ」
その一言で、PTA役員会は強制的に打ち切られる運びとなった。
騒然とする中、田辺――ミサト物真似――は、なおも金切り声を上げ続けていた。声を張り上げ、髪をかきむしり、頭を抱えて椅子にうずくまる姿は、もはや狂気の域に達していた。
建前上、矢後、マドンナ教師、校長、東堂らは体裁を取り繕いながら宥めにかかるも、田辺の悲鳴はまるで壊れた警報機のように鳴り止まない。
「きぃやーーーーーーーーーーっ!なんなのよこれ!!やめてよぉおお!!」
なおも俺たちは今は何も囁いていない。もう囁かずとも、田辺の精神は崩壊しきっていた。
矢後は、例のあの呆れ顔で肩をすくめ、溜息をついた。これぞ予定調和とでも言いたげに――。
こうして、PTA役員会は解散となった。
荒れ狂うミサト物真似を横目に、他の保護者たちは次々と席を立ち、白い視線を浴びせながら、部屋をあとにしていく。
役目を終えた俺と真鍋も、それに続いて学校を出た。
校門をくぐったところで、俺たちは透明マントを脱ぎ、互いの顔を見合わせる。そして、どちらからともなく――ふっと笑い合った。
ひとしきり笑ったあと、真鍋が口を開く。
「いや~、あのPTA会長のおかげで、案外すんなり終わったな」
「よっぽど急いでたんだろうな。やたら“忙しい”って繰り返してたし。きっと、会社を抜け出して来たんじゃないか。そりゃ、あんな騒動に付き合ってる暇なんてないわな」
帰り道、俺たちは近くの公園を通りかかる。
ふと目をやると、ブランコに腰掛け、ゲンドウポーズを決めているスーツ姿の男がいた。……まさか、とは思いつつも、俺たちは自然と立ち止まり、そっと頭を下げた。
男は何も言わず、こちらを見ることもなかった。ただひたすら、静かにブランコに揺られていた。
――世の中、捨てたもんじゃない。
そう思えるほどに、あの光景は、妙に微笑ましかった。
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