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それを「奇跡」と呼ぶ人もいれば、「運命」と捉える人もいる。
ただの偶然と済ませる人もいれば、「都合が良すぎる」と冷めた目で見る人もいるだろう。
——でも、俺ならこう言う。
「効率的だ。」
雪音と、街でばったり再会したのである。
多恵子が浮気相手との関係を解消したのを見届け、軽く祝杯でも上げようと上野駅に降り立ったところでのことだった。
雑踏の中、ふとした拍子に見覚えのある顔を見つけ、大声で呼びかけると、向こうもこちらに気づいた。俺は「ここで手放すのはもったいない」と直感的に思い、手招きする。
駅へなだれ込む人々をかき分けて、彼女は乱れた髪とタイトスカートを整えながら、俺のもとへやってきた。
グレーのスーツに身を包んだその姿は、仕事帰りらしい落ち着いた雰囲気をまとっていた。タイトなスカートから伸びる足は、疲れを感じさせるどころか、むしろ一日の終わりにこそ際立つ美しさがあった。そう、彼女の名は——雪音。
「清水さん、お久しぶりです」
柔らかい声で挨拶をしてくる。どこか懐かしい響きだった。
その直後、横にいた真鍋が俺の腕をツンツンと突っついてきた。
「誰?」
問いに応じて軽く紹介すると、雪音は丁寧に頭を下げて、「はじめまして」とにっこり微笑んだ。……なんと愛らしいことか。
軽く咳払いをしてから、訊ねてみる。
「こんなところでどうしたの?」
——男とは、なぜこうも女性の前で優位に立とうとするのか。まるで条件反射だ。
真鍋がいる手前、俺が雪音に対して唐突にタメ口を利いたのも、まさにそんな哀れな本能の発露だった。
だが、彼女はそんな浅ましい自尊心を咎めることもなく、「この近くが職場なの」と、すんなり歩調をこちらに合わせてくれた。
なんと、寛大なお人柄であることか。
その後は、取り留めのない話題で場を繋ぐ。ふと横を見ると、真鍋が妙にそわそわしていた。口をパクパクと動かしながら、どうにか会話に混ざろうと模索している様子だが、残念ながらタイミングが掴めないらしい。
しかし、そんな彼に助け船を出してやるほどの余裕を、俺は持ち合わせていない。正直に言えば、今この瞬間は雪音との会話に全集中していたいのだ。
そんな俺を見かねたのか、雪音がふと真鍋に視線を向け、「清水さんとは、どういう知り合いなの?」と優しく問いかけた。
真鍋は思わぬチャンスの到来に、顔をこわばらせながらもなんとか返答しようとする。しかし、緊張のあまり言葉が出ない。雪音は辛抱強く返事を待ってくれたが、沈黙が続くと、やや困惑した表情で俺を見た。
「中学時代からの旧友兼、ニート仲間」
そう答えると、雪音はありがたくも苦笑いで応じてくれた。
さて、これからが本題である。
雪音との交遊関係をより親密にするため、まずはお酒を酌み交わそうではないか。
「ところで、これから飲みに行こうと思ってるんだけど、一緒にどう?」
気軽さを意識して誘い文句を投げかけたが、雪音はまるで用意していたかのように、申し訳なさそうな表情に切り替えた。
翌日も仕事で朝が早いという理由で、丁重に断られる。
ニート生活により曜日感覚を喪失して久しい俺としては、金曜の朝など知ったこっちゃない。だが、ここは仕方ないと割り切って、すかさず次の一手を繰り出す。
「俺らニートだから明日も暇なんだが……明日ならどう?」
「ごめんなさい」――即答。
頭に隕石が落下したような衝撃を受けつつ、雪音の言い分に耳を傾ける。どうやら明日は、同僚との飲み会があるという。
まぁ……良しとしよう。
「じゃ、じゃあ……その次の日は?」
情けないことに、声が震えてしまった。
雪音は申し訳なさで押し潰されそうな顔をして、
「父の病院に付き添わなきゃいけないの」と答えた。
その次の日は大学時代の友人との会食、
またその次の日は父の誕生日祝い、
そのまた次の日は祖父のお葬式、
そのまたまた次の日は母の一回忌……
そしてまた次の日は見たいテレビ番組があって、
さらにその次の日は母の三回忌、
極めつけにそのまた次の日には二度目の祖父のお葬式。
……撃沈である。
当然、途中からは俺の被害妄想が混ざっていたが、そう思わずにはいられないほどの連続拒否攻撃。
そんなことで怖気づく――いや、怖気づくに決まっている。俺は気が小さいのだ。
「そうなんだ。じゃあ、またの機会に……」
分かりやすく落胆を滲ませながら、そう締めくくった。
無慈悲な雪音は、そんな哀れな男に対して「そうね。じゃあ、また今度」と社交辞令を口にしながら、スタスタと駅へ向かって行き、やがて雑踏に紛れて姿を消した。
終始口をパクパクさせていただけの真鍋も、やはりどこかで期待していたのだろう。
膝を叩いて、悔しそうに「チッ」と舌打ちする。
「……やけ酒に変更だな」
都会のネオンが、少し滲んで見えた。
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真鍋と上野の居酒屋で、雪音のいない“しみったれた”酒を交わしていると、
さらにむさくるしい男が合流してきた―――矢後だ。
……あいかわらず、嫌な男である。
身を投げ出すことすら考えるほどに気が滅入っていた俺に向かって、開口一番、豪快な笑い声を浴びせてきやがった。
しかもだ。
透明マントを駆使して成し遂げた、俺たち渾身の武勇伝を「くだらねぇ」と一蹴した挙句、「なんなら教師なんて辞めて、一緒に探偵でもやるか?」という俺の提案にも、「やるわけねぇだろ、馬鹿」――この一言で即答する始末である。
業を煮やした俺と真鍋は、その場で宣言した。
「お前の勤める小学校にイタズラを仕掛けてやるからな!」
それを聞いた矢後は、ふん、と鼻で笑い、グラスを傾けながら余裕綽々に言い放った。
「勝手にすれば〜。どうせしょーもないことしか思いつかないだろ」
その余裕ぶった面が、また腹立たしい。
「絶対にやってやるからな!」
真鍋が声を荒らげると、俺は力強く頷いた。
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履歴書の現住所、電話番号、緊急連絡先までを書き終え、レターボックスにそっと仕舞った。
──さて。
宣言通り、今日は矢後の勤める【港区立河和第二小学校】に、真鍋とともに向かうことになっていた。
もちろん、例の“透明マント”を羽織っての潜入である。
姿を消せる俺たちにとって、そんなものは造作もないことだった。
潜入したのは、十時を少し回った頃だった。
授業中らしく、校内は独特な静けさに包まれている。
矢後の所在が分からなかったため、とりあえず意味もなく――職員室の扉を、ガンッ!――と派手に開け放ってやった。
「うるさいぞ。静かに開けなさい……誰だ? 出てきなさい!」
声を荒らげて反応したのは、頭頂部の面積が寂しげな、いかにも“ハゲ親父”と呼びたくなる容姿の校長だった。もちろん、俺に悪意があるわけではない。ただ、固有名詞が分からない以上、特徴的な外見で表現するしかないのだ。
「校長先生、こんな悪戯をする生徒がいるなんて……大問題ですわ!」
続いて、絵に描いたような教育ママ風の服装に身を包んだ中年女性が、憎たらしげに口を開いた。
「い、いえ……きっと、風が……」
校長は明らかに無理のある言い訳を口走り、教育ママ風貌に追及されて困惑していた。
だが、そんなことはどうでもいい。
肝心の矢後の姿が見当たらなかったため、職員室をあとにして、俺と真鍋は各教室をしらみつぶしに覗いていくことにした。
そして、ようやく――六年一組の教壇に立つ矢後を発見した。
授業中のようで、どうやら歴史の時間らしい。徳川家康について、いかにも真面目な教師然とした口調で語っている。
俺たちは教室の奥側の扉から静かに侵入し、そろりと教壇の裏に近づくと、対面の黒板にチョークで大きく書き込んだ。
《きたぞ》
生徒たちは一様に教壇を見つめていたため、この不可思議な黒板文字に気づいたのは、矢後ただ一人。
矢後は目を見開き、動揺を隠し切れない。俺と真鍋は笑いを堪えるのに必死だった。
「くくく……」
――と、別の場所からも笑いを噛み殺すような声が聞こえた。そちらに目をやると、一人の男子生徒が、二つ前の生徒に向かって、紙を丸めたものやちぎった消しゴムの破片を後頭部にぶつけて遊んでいた。
実に意地の悪いガキだ。
一方で、攻撃を受けている生徒は、何度も後頭部に直撃を食らっているというのに、微動だにせず、ひたすら堪えている様子だった。
そして矢後も、その光景に気づいているはずなのに――教師として注意を促すこともなく、ただ見て見ぬふりを決め込んでいる。
あの正義感気取りの矢後雄司も、ずいぶんと堕ちたものだ。
冷ややかな視線を向けた――が、透明マントを纏っている以上、その皮肉が届くはずもない。
と、突然――その意地の悪いガキの後頭部に向かって、宙を舞う消しゴムの破片が飛んだ。
真鍋だ!
どこからか拾ってきた消しゴムを、ちぎっては投げ、ちぎっては投げている。
視覚的には――“空中に浮かんだ消しゴムが分裂して飛んでいく”という、そんな感じだ。
……2投目……3投目……
そして4投目にして、ついにガキの後頭部に――コツン、と命中した。
ガキはハッと後ろを振り返ったが、もちろん誰の姿もない。気のせいだと納得したのか、再び前を向くと、懲りもせず再び紙を丸め始めた。
それと同時に、ガキに向けた消しゴムの投げ込みも再開された。
コツン――どこか間抜けな音とともに、消しゴムがまたも見事にガキの後頭部へクリーンヒットした。
「誰だぁっ!」
怒声とともに机を叩いて立ち上がった。
教室は一瞬にして静まり返り、矢後は小さくため息をついて押し黙った。
「誰だ!僕に消しゴムを投げたのは!出てこいよ!誰だ誰だ誰だ!」
ガキの怒鳴り声が、うるさいくらいに教室中に響き渡る。
堪らず矢後が「静かにしなさい」と注意を促すが、ガキはまったく聞く耳を持たない。
しばらくして、四十代ほどの男性教師が慌てて現れ、矢後とともに生徒を宥めにかかるが――当然、収まるはずもない。
そのときだった。
事態に追い打ちをかけるように――甲高い金切り声が、教室の外から響いてきた。
「きぃゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
教壇側の扉から、先ほど職員室で見かけたあの“教育ママ風貌”のおばさんが、頭を抱えて絶叫していた。背後には、顔をひきつらせた校長の姿もある。
おばさんはドカドカと教室に乗り込むと、ガキの元へ駆け寄り、途端に甘ったるい声で事情を尋ねた。ガキもガキで、急に甘えた口調になり、大袈裟に状況を説明し始める。
事情を把握したおばさんは、すぐさま校長に向き直って詰め寄る。
「これは大問題ですよ!」
「このクラスにはいじめがあります!」
「可哀想に、息子は被害者です!」
「学校側はこの問題を隠蔽するつもりなんですか!?」
おばさんの金切り声がクラス中――いや、校内中に響き渡った。
耳を塞ぎながら耐えていると、目の前を白い物体がヒュッと横切った。
……真鍋だ。
恐ろしいことに、今度はおばさんに向けて消しゴムを投げ込み始めたのだ。怖いもの知らずにもほどがある。
万が一、当たりでもしたら……。
二投目、三投目と外れ、そして――
コツン。
間抜けな音を立てて、消しゴムの破片が、おばさんの後頭部についに命中した。
……静寂。
嵐の前の静けさ、というやつだ。誰もが固唾を呑み、息をひそめる。
そして――次の瞬間。
「きぃやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
そこにいた全員がビクリと肩を震わせた。
「誰よっ! 今、私に投げたのはッ!」
教室中に響き渡る甲高い声。おばさんは肩を怒らせ、目を剥き、血走った視線でクラス中を見渡す。
「お前か!白状しなさい!」
標的を見つけようと、机と机の間をバシバシと踏み鳴らしながら、怒涛の勢いで詰め寄っていく。
髪は乱れ、顔は真っ赤。指を突き立てるその手は、わずかに震えている。息は荒く、怒りと混乱が入り交じったその表情は、もはや“理性的な大人”とは呼べない。その異様な迫力に、生徒たちは誰一人声を出さず、息を潜めてその場に固まっていた。
「落ち着いてください!」
ようやく矢後の先輩教師が割って入り、必死に宥めようとする。だが――
「見てたんでしょ!?なんで止めなかったの!?」
おばさんはぴたりと立ち止まり、今度はその先輩教師に怒りの照準を合わせた。
「あんたもグルなの!? 教師がこれじゃあ、子どもが可哀想だわ!」
次の瞬間、怒鳴り声が矢継ぎ早に浴びせられ、先輩教師は思わずたじろいだ。
「あなた、本当に教員免許持ってるんですか?」
「その程度の対応力で、よく今までクビにならなかったわね」
「うちの子は優秀なんです。こんな無能に預けてたらバカになります!」
「人に教える以前に、社会人としての常識が欠けてるんじゃないかしら?」
「教育現場のレベルが落ちてるって言われる理由、あんた見てるとよくわかるわ〜」
教室中に響く罵声の中、先輩教師は「すみません」の虫と化していた。やがて「すみません」すら言えなくなり、俯いたまま沈黙する。
「この学校、教師と生徒が揃いも揃ってイカれてますわ!」
一つ訂正しておこう。
校内でイカれているのは、このおばさんと、部外者である真鍋だけである。
そして、その根源たる真鍋はというと――おばさんの頭がガクンと垂れた。
どうやら透明マント越しに、真鍋が張り扇よろしく後頭部を小突いたらしい。
……おいおい、さすがにやりすぎだろ。
俺は呆れて溜息をついた。
「きぃやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
……もうしつこい。
矢後には悪いが、これ以上この場にとどまる理由はない。おばさんの絶叫に限界を迎えた俺たちは、そそくさと教室をあとにした。
出際、先輩教師をちらりと見ると、痙攣しているかのように肩を震わせていた。
校門を抜け、透明マントを脱ぐ。
「しっかし、あのおばさんムカつくな」
真鍋の感想に、俺も深く頷いた。
足元で乾いた落ち葉がカサリと音を立て、色褪せた並木道が静かに揺れていた。
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翌日、俺は板橋区の街に降り立った。目的は――佐伯家への訪問。
こうも頻繁に顔を出していれば、いよいよストーカーと勘違いされかねないが、決して結論を急いではいけない。今日の目的は、あくまでも“佐伯さん”である。
……そう、“雪音”ではなく、“佐伯さん”。以前お借りしていた資格の参考書を返すという、実にまっとうな用件があるのだ。これはもう、やむを得ない義務である。
もちろん、雪音には誤解されないように、ちゃんと事情を説明しておかねばならない。つまり、またしても面と向かって話さなければならないわけで
――そんな都合のいい理屈を自分に言い聞かせながら、俺は最寄り駅から佐伯家へと向かった。
涼しげな風が、足元の落ち葉をさらりと舞い上げる。高く澄んだ空の下、陽射しのぬくもりに助けられて、散歩にはうってつけの気候だった。
その心地よさに紛れて、俺の脳裏には、昨日の出来事がじわりとよみがえってくるのだった。
帰宅してしばらく経った頃、矢後から呼び出しがあり、北千住の居酒屋で真鍋も交えて合流することになった。
矢後は、いつものように柔らかな口調ではあったが、その内容は穏やかではなかった。校長、そしてあの場にいた四十前後の先輩教師が、今回の騒動の責任問題で窮地に立たされているというのだ。
近々開かれるPTA役員会で、正式に取り沙汰される予定らしい。
「そんなの、知ったこっちゃない」と突っぱねたが、「関係のない人間を巻き込んでおいて、それは無責任すぎる」と矢後に言いくるめられてしまった。
結局、俺たちはどうにか現状を打開できないかと、三人で頭を突き合わせて話し合うことにした。
議論の末、ある一つの作戦にたどり着く。
作戦の実行は、PTA総会当日。
針が固まったところで、俺たちはその晩、静かに店をあとにした。
――佐伯家の近くまで来ると、先日、憎まれ口を叩いてきたストーカー青年の後ろ姿が見えた。
どうも、また会ったね」
背後から声をかけてやると、案の定、ビクッと肩を跳ねさせて振り返る。
青年は、あの日と同じように睨みつけてきて、「ここに何しに来た」と問いただしてくる。
俺はにやりと笑って、「雪音に会いに来た」と答えてやった。
先日の仕返しである。
青年は舌打ちし、歯ぎしりまでして、全身から敵意を噴出させていた。よほど悔しいのか、言葉は出てこない。
――あの日、なにも言い返せなかった自分に、どれだけ嫌悪感を抱いたことか。あの惨めさを、今度はお前に味わってもらおう。言いたいことは山ほどある。
(ストーカーの分際で偉そうにしやがって。お前みたいな奴、友達の一人もいないに決まってる。ましてや恋人なんて百年早ぇんだよ。こんな真っ昼間から毎回ウロつきやがって……暇人! ニート!)
……が、次の瞬間、自分の胸にも突き刺さるワードであることに気づき、急にげんなりした。――命拾いしたな。
哀れな青年を置き去りにし、玄関へと足を進める。
インターホンを押し、しばらく応答を待つが――出ない。
……ここで思い出す。
雪音が「父の病院に付き添う」と言っていたことを、すっかり忘れていたのだ。
なんたるうっかり。完全な無駄足ではないか。
いや、それどころか――あの青年に嘘がバレてしまうではないか。
顔を合わせるのが気まずすぎる。……しかし、それは杞憂に終わる。
引き返してみると、青年の姿はすでに消えていた。
ホッと、心底から安堵の息を漏らす。
それに、まあ、気を落とすようなことでもない。雪音は嘘をついて俺の誘いを断ったわけじゃなかった――それが確認できただけでも、今日の訪問には意味があった。
……そう思うことにしよう。
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