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いたずら青年、世にはばかる  作者: 堀尾 朗
最終章「復讐」(後編)
36/36

—4—

 日曜の午後、俺は“煤だらけ”に会うため、例の公園に足を運んでいた。

理由はもちろん、あの女――あの日の帰り道、雪音の仕業である。

彼女は思い詰めた顔をしながら、そっと矢後と真鍋から距離を取り、俺だけに伝家の宝刀を繰り出してきた。

あの、捨てられた子犬みたいな、つぶらな瞳だ。

その目に滅法弱い俺は、気がつけば頷いていた。まったく、毎度毎度こうやって丸め込まれる。

雪音からの指令はこうだ。

煤だらけを銭湯に入れて、身体を綺麗にし、さらにあの汚ならしい服を捨てさせ、新しい服を渡すこと。

……なんで俺がそこまでしなきゃいけないのか、全く理解不能だったが、「あとでなんでも言う事を聞く」という甘い言葉と、「資金は全部持つ」という約束に、俺はしぶしぶ承諾した。

煤だらけは、いつものベンチに横たわっていた。声を掛けると、いつものように無愛想な返事が返ってきて、開口一番、雪音との進展具合を訊かれた。

「まぁ、芳しくない」と正直に答えると、まるで自分のことのように肩を落として見せたのが、少し面白かった。

「……あきらめるのか?」

淀んだままの瞳――だが、その奥に、ほんの微かな光が差し込んでいるようにも見えた。

「さぁ、どうでしょうね」

俺は適当に流しつつ、本題に入った。

さすがに「あなたは汚いので風呂に入ってください」とは言えない。

だから俺は、なるべく自然な調子で切り出した。

「一緒に銭湯に行きませんか」

「なんで?」と、煤だらけは当然のように眉をひそめた。

適当な理由など思いつかず、正直に「雪音にそう頼まれた」と打ち明けたが、それでは納得しない。

「なにを企んでいるのか教えろ。まさか就職先を紹介しようとしてるんじゃないだろうな?だとしたら余計なお世話だ。そこまで落ちぶれちゃいない」

いや、十分落ちぶれていると思う。

だが俺は、雪音がなにを企んでいるかなんて知らなかったし、正直、興味もなかった。

だから肩を竦めて言った。

「知らないです。適当なのが売りなんで」

すると、煤だらけは小さく鼻で笑い、「気に入った」と呟いた。

こうして、拍子抜けするほど、すんなりと話が進んだ。


近場に小さな個人経営の銭湯があり、そこへ向かうことにした。

番頭に怪訝な目を向けられながら脱衣所に入り、衣服を脱いで浴場に足を踏み入れる。

備え付けのシャンプーとボディーソープを手に取り、泡立てる。

ちらりと隣の煤だらけを窺う――一体いつぶりの風呂なのか、怖くて聞けなかった。泡立ったシャンプーは真っ黒で、赤錆のような汚れが排水口に流れていく。

その光景はどこか悲しくもあり、妙に神聖でもあった。

煤だらけの身体がすっかり綺麗になる頃には、俺は番頭と客からの痛い視線を何度も浴びていた。

まるで親子か保護司のような構図である。雪音への“嫌味リスト”に追加決定だ。

湯気の立ちこめる湯船に肩まで浸かると、傷口がひりつき、思わず顔をしかめた。

湯船にいるのは、俺と煤だらけの二人だけ。

湯の表面が光を反射し、天井に揺らめく模様を映し出している。

「僕の聞き間違いだったかもしれませんけど、以前“俺はまだ諦めてないけどな”みたいなことを呟いてましたよね?あれって、イタリアの金髪美女のことですか?」

そう言いながら、心の中で“フランスだったか?”と首を傾げる。

「イタリアじゃない。香港だ」

一貫性がない!――矢後の冷淡なツッコミが脳裏を掠めた。

「どうだかな。もう二十年以上も前のことだからな……」

湯気のせいで、煤だらけの表情はよく見えなかった。

けれど、きっとその顔には哀しみが浮かんでいたと思う。

「それに、向こうはきっと良い男を見つけて、幸せに暮らしてるだろうしな」

その言葉に、俺は胸の奥で何かがきしむ音を聞いた。

煤だらけの弱音を聞いたのは初めてだった。

身体の汚れだけでなく、心に溜まった“煤”までも、少しは洗い流されたのかもしれない――そんな風に思ってしまう自分の性根の悪さに、軽く嫌悪する。


湯から上がり、脱衣所に出ると、雪音に渡されていた紙袋を取り出した。

中には新品のメンズスーツが二着。

「……なんだこれ。やっぱり就職面接か?」と思わず眉をひそめる。

紙袋の底には手紙が入っていた。

【今夜七時。このスーツを着て、下記の場所に二人で来てください。

グレーが天宮さん。紺が清水くんです。】

下には、手書きの地図と住所が添えられていた。

ありのままを煤だらけに伝えると、彼は苦い顔をして釘を刺してきた。

「どうせ、ここまで来たから付き合うが、就職する気はないからな」

「俺もですよ」と言いながら、心のどこかで思う。

職にありつけるのはありがたいが――俺も、働ければなんでもいいわけじゃない。

興味がなければ、きっぱり断ろう。そう胸の中で誓った。


数十年ぶりにネクタイを結ぶという煤だらけが、鏡の前でもたついていた。

指先が震え、結び目は何度も歪む。

その背中を見ながら、俺はベンチに腰掛け、首を長くして待っていた。

そのとき――ポケットの中でスマホが震えた。

画面には「真鍋」の名。嫌な予感しかしない。

「おぉ、どうした?」

「おぉ、光亮。突然だが、俺またしばらく籠るから」

開口一番、訳のわからない宣言だった。

事情を訊ねると、案の定、また何かを研究するらしい。

しかも、その内容が尋常じゃなかった。

「なんでまた!?」

「光亮、知ってるか?三百年後の女性は、あまりにも透き通りすぎて、骨が見えるらしい。それはもう、美しいらしいよ」

……そうか?

説明を聞けば聞くほど、“得体の知れないホラー”の気配しかしない。

「それ、もう人間じゃないよね?」

「だからこそ、この目で確かめたいんだ。俺は、三百年後に行くためのタイムマシーンを開発する!」

「いや、軽く言うなよ!」

思わず声が裏返る。

「時間を具現化すればいいだけだろ?仮説はある」

彼の言葉は、もはや言語ではなく呪文だった。

凡人の俺には一ミリも理解できない。

だが、こうなった真鍋を止められる者はいない。

仕方なく、「あっそう」とだけ返して、通話を切った。

画面が暗転し、ふと顔を上げると、鏡の中で煤だらけが満足げにネクタイを締め上げていた。

ぎこちないが、妙に似合っている。

かつての“煤だらけ”という異名が、今や皮肉にも“清潔さ”の象徴になっていた。

「じゃあ、行きますか!」

俺は立ち上がり、雪音が指定した場所のメモをポケットに押し込みながら言った。

煤だらけは、鏡越しに自分の姿をもう一度確かめると、小さく頷いた。

そして二人は、湯気と石鹸の匂いがまだ残る銭湯をあとにした。

夜の街に出ると、涼しい風が頬を撫でた。

新しいスーツの裾が、ほんの少しだけ誇らしげに揺れていた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――


住所を頼りに辿り着いた先は、思わず息を呑むほどの高層ホテルだった。

「ここ?」

見上げたまま、口が勝手に開く。

光沢のある外壁が、夜の街灯を反射してきらめいている。

まるで巨大な鏡が空へと伸びているようだった。

念のため、スマホを取り出して住所を再確認する。

雪音の書いた地図に記された二重丸の左右に並ぶビル名とも一致している。

間違いない。目的地は、間違いなくこの【ホテルツインクルスター】だ。

「面接か何かだと思ってたんだけどな……」

思わず独り言が漏れる。

オフィスビルを想像していた俺には、あまりに場違いすぎた。

まさか、ホテルマン?いや、雑務のアルバイト?――そんなわけない。

隣を見ると、煤だらけもまた呆然と立ち尽くしていた。

ただ、俺よりもずっと深刻そうな顔である。

驚きというより、怯えにも似た表情だった。

「清水くん!」

背後から軽やかな声が響いた。

振り返った瞬間、時間が止まったような錯覚を覚えた。

夜風がひとつ吹いたのに、頬を撫でる感触すら遅れて届く。

視界のすべてがぼやけて、ただその一点だけが鮮明に浮かび上がっていた。

そこに立っていたのは――ドレスアップした彼女。

真っ白なドレスが、ホテルのライトを受けて淡く輝いている。

滑らかな布地が夜風に揺れるたび、柔らかな光が波打ち、

淡いピンクのボレロがその上にそっと花弁のように重なっていた。

首筋から肩にかけてのラインは儚く、けれど芯の通った美しさがあった。

耳元で小さく揺れるピアスが光を拾い、

その一瞬一瞬がまるで星屑の瞬きのように散っていく。

彼女の髪はゆるく巻かれ、街灯の下で金糸のように艶めいていた。

夜の風がそっと通り抜けると、シャンプーの甘い香りが一瞬だけ漂う。

それは香水ではない、素の彼女の匂い――記憶の奥底をくすぐるような懐かしさを孕んでいた。

足元には、白いヒール。

アスファルトの上に細く影を落とし、その佇まいはまるで現実感がない。

街の喧騒が遠のき、車の走行音さえもフィルター越しに聞こえる。

その一瞬、彼女がこの世のものではないように見えた。

街の光を反射しながら、まるで星明りそのものを纏っているかのように――

心臓の鼓動が、ひとつ、ふたつと遅れて響く。

喉が渇き、言葉が出てこない。

ただ、見惚れるという感情しか残っていなかった。

脳が現実を処理しきれず、思考が停止する。

「おーい、聞こえてる?」

雪音がくすりと笑い、軽く手を振った。

その仕草でようやく我に返る。

「な、なんでホテルなんだ?いったいここでなにを――」

「まぁ、行ってからのお楽しみ♪」

雪音は小悪魔のような笑みを浮かべ、時計をちらりと見た。

「もう時間ね。行きましょう。もう先に来てるはずだから。」

“先に来てる”――誰が?

面接官?それとも、まさか別の誰か?

説明がなければ質疑応答どころか、呼吸もままならないのだが……。

俺と雪音が動き出そうとしたそのとき、煤だらけがビルの正面を見上げたまま硬直していた。

呼び掛けても返事がない。

その横顔には、動揺とも懐かしさともつかぬ影が落ちていた。

「……どうして、ここを……」

低く掠れた声で、煤だらけが呟く。

その視線の先には、ホテルの最上階。

雪音は、まるで全てを知っているように微笑んだ。

「きっと、ずっと待ってたんですよ。行きましょう。」

柔らかな声。

その響きには、確かな“約束”の気配があった。

だけど――

俺だけが、何も知らない。まるで物語の最後に、ひとりだけ取り残された観客みたいだった。


 エレベーターでホテルの最上階まで昇った。

静かな電子音とともに扉が開くと、そこには夜景を一望できる全面ガラス張りのレストランが広がっていた。

眼下には、無数の光の粒――高速道路のヘッドライト、街のネオン、ビルの明滅――が、まるで銀河のように瞬いている。

グラスの触れ合う澄んだ音と、ピアノの旋律が、夜空に溶けていった。

雪音が一歩前に出て、店員に予約の名を告げる。

その声は静かで、しかしどこか震えていた。

店員が丁寧に頷き、俺たちは案内に従って店内の奥へと進む。

赤い絨毯が柔らかく足を包み、テーブルのキャンドルがゆらゆらと道を照らした。

そして――視界の先に、見知った女性の姿があった。

それは二宮だった。

ネイビーブルーのドレスに包まれ、かつての面影を残したまま、少しだけ年輪を重ねた顔。

キャンドルの光が頬を照らし、うっすらと光る涙が、その軌跡を描いていた。

彼女は震える手で口元を押さえながら、立ち上がることもできずに座っていた。

「……晴ちゃん」

背後から、低く掠れた声が漏れた。

煤だらけ――いや、天宮が、まるで夢をなぞるようにその名を呼んだ。

彼は、一歩一歩を確かめるように歩き出した。

重たい靴音が、静まり返った店内に溶けていく。

そのたびに、天宮の肩が微かに震え、二宮の涙がまた一粒、頬を伝った。

気がつけば、俺は息をするのも忘れていた。

ただ、目の前の光景が現実とは思えなかった。

頭の中が真っ白になって、身体が言うことを聞かなかった。

気づけば、天宮さんが俺の横を通り過ぎていた。

その歩みは、長い年月を取り戻すかのように、ゆっくりと、それでいて迷いがなかった。

呆然とその背を追うことしかできず、気がつけば、俺は彼の背中に手を伸ばしていた。

その瞬間、そっと腕を掴まれた。

「清水くんは、こっちよ」

雪音の声だった。

振り返ると、彼女の瞳は真剣で、どこか祈るようでもあった。

まるで――“これは彼らの時間だから、踏み込まないで”と告げるように。


案内されたのは、二宮と天宮のテーブルから少し離れた席だった。

俺は大人しく腰を下ろす。雪音も、俺の正面に座る。

二人の間に言葉はなかった。

視線は自然と、あの二人へと吸い寄せられる。

会話の内容までは聞こえない。

だが、天宮が何度も深く頭を下げ、

二宮がそのたびに涙を拭って首を振っているのが見えた。

やがて、天宮が身振りを交えて何かを話し出すと、

二宮の頬に、かすかな笑みが戻った。

――ああ、これはもう、再会という名の赦しだ。

その光景は、胸の奥にじんわりと熱を灯した。

まるで失われた時間が、今、取り戻されたように。

「フランスでもイタリアでもなくて、浅草橋の黒髪美女が正解だったみたいね」

雪音が小さく笑いながら言う。その瞳の奥にも、光るものがあった。

「いや、香港らしいよ」

俺が茶化すと、彼女はくすっと笑った。

その笑みは、どこか安心したようで――まるで、誰かの幸せに救われた人の笑顔だった。

二人の笑い声が、静かな夜景の向こうへと溶けていった。

もうこれ以上、あの二人を覗くのは野暮だ。

だから俺たちは、ワイングラスを手に取り、いつも通りの、くだらない会話を交わした。

「今日ね。二人を再会させるってのが主な目的ではあるんだけど……清水くんへのサプライズでもあるのよ」

そう言って微笑んだ彼女の横顔を見た瞬間、胸の奥にどすんと重いものが落ちた。

――そうだ。俺は、まだ“あれ”を見つけていない。

「そういえば……指輪」

母の形見だと語っていた婚約指輪。

“見つからなかったら一生許さない”――あの言葉が頭をよぎる。

「……俺、まだ――」

「それなら、とりあえず大丈夫よ」

のんびりした声に拍子抜けする。

「えっ?」

「でもね、一つだけ気になることがあるの」

雪音の目が少しだけ陰を帯びた。

「その指輪、父が買ったのよ」

「は?」

唐突な話題に面食らう俺を見て、彼女は静かに続けた。

「盗まれてから数日後、訪問販売でその指輪が売られていたの。あまりにも似てたから手に取って確認したら、掘られてたイニシャルまで同じで……」

「それ、どこの会社だ?」

「当然――ドリームよ」

その名を聞いた瞬間、全身が粟立った。

「でも販売員は、中須とは別の人だったみたい」

「……どういうことだ?」

重大な何かが隠れている気がする。

けれど、それがなんなのか掴みきれない。

「まぁ、結果的に戻ってきたし。わたしも清水くんに色々と悪いことしちゃったから、これでお相子ってことにしよ」

雪音は、まるで過去をそっと包み込むように微笑んだ。


料理が運ばれ、しばらくは静かな時間が流れた。

ナイフとフォークが小さく鳴る。

雪音の笑顔が照明に揺れて、やけに綺麗だった。

――このまま時間が止まればいいのに、なんて思ってしまった。

そして、終盤。

周りの穏やかな空気に背中を押され、つい口が勝手に動いていた。

「雪音さん」

「ん?どうしたの?」

「俺……やっぱり君が好きなんだ。付き合ってもらえないかな?」

言葉は不思議と淀まなかった。

だけど――

「……今はちょっと無理かな」

その声は柔らかくて、どこか優しい拒絶だった。

俯いた俺に、雪音が静かに言った。

「清水くん、わたしの目を見て」

小さく、それでいて有無を言わせない響きだった。

俺は反射的に顔を上げる。

テーブル越しに、彼女の瞳がまっすぐ俺を射抜いていた。

その光には、優しさと厳しさが入り混じっている。まるで「逃げるな」と叱る母親のようで、同時に「立ってほしい」と願う恋人のようでもあった。

一瞬、時間が止まったように感じた。

店内のざわめきもピアノの旋律も遠のいて、視界には彼女だけが残る。

その瞳が微かに揺れた。

ほんの一秒ほどの沈黙のあと――

「……流石に無職は、ちょっとね」

柔らかく、それでもはっきりと区切るような声だった。

その瞬間、胸の奥で何かが砕ける音がした。

けれど、同時に――その言葉の裏に、微かに灯る“余白”のような温度を感じた。

本当に駄目なら、彼女はこんな言い方をしない。

“無理”ではなく、“ちょっとね”。そのたった一言の違いが、救いのように響いた。

「それは……条件を満たせば、ってことか?」

俺の問いに、雪音は少しだけ目を細めた。

否定もせず、ただ穏やかに微笑んだ。

その笑みは、冷たくも突き放すものではなく、

どこか“未来”を予感させる――あの頃の優しさを取り戻したような微笑みだった。

あまりにも現実的な理由に、笑うしかなかった。

でも、笑いながら俺は確かに感じていた。

――まだ、終わっていない。

「それは本当か?女に二言はないって聞いたことがあるけど、あれは迷信か?」

「……いいえ、本当よ」

その時、彼女は今まで見たことのない満面の笑みを浮かべた。

――俄然、やる気が出た。


まともに生きよう。

今は、とりあえず、それでいい。

帰宅してすぐ、テーブルに着き、今までグダグダと書きかけていた履歴書を、

白紙の状態から一気に書き上げた。

興奮冷めやらぬうちにポストまで駆け出し、息を切らしながら投函する。


――Fin.


となるのが、一番美しい結末なのだろう。

だが、一応、記しておく。

意気揚々と家に戻ると、玄関の前で二人の警官が待ち構えていた。

そう――一番大事なところを、またしても取りこぼしたままだったのだ。





完。

お読みいただきありがとうございます。

よろしければ、評価して下さるとありがたいです。

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