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いたずら青年、世にはばかる  作者: 堀尾 朗
最終章「復讐」(後編)
35/36

—3—

 代わり映えのしない低層ビルが、大通りを挟んで無機質に並んでいる。

昼間は観光客で賑わうはずの通りも、今は息を潜めたように沈黙していた。地上階のほとんどは商店だが、看板の灯りは落ち、シャッターが規則正しく閉ざされ、まるで墓標の列のようにも見える。

ひんやりとした夜気が肌を刺す。ネオンが消えた街並みは、まるで色彩を奪われたかのように灰色がかっており、遠くでトラックのエンジン音だけが、時折くぐもった唸りをあげて通り過ぎていく。

アスファルトに響く自分の足音がやけに大きい。革靴の底が地面を叩くたびに、音がビルの壁面に反射して何倍にも膨らみ、まるで誰かが後ろからついてきているような錯覚を覚える。

助けなど期待できない。

この時間、この場所で、自分がどんな目に遭っていようと、誰も気に留めはしない。街灯の下を駆け抜ける自分の影だけが、唯一の同行者だった。

息が苦しい。肺が焼けつくようだ。

だが止まることはできない。止まった瞬間、追いつかれ、中須に殺される。恐怖と焦燥が入り混じり、心臓の鼓動が耳の奥でドクドクと鳴り続ける。

行く宛のない逃避行――それが、果たしていつまで続くのか。

この夜の街は、まるで終わりのない迷路のようだった。

その時、幻聴が聞こえた。

「……清水くん」

柔らかく艶のある声が、夜風に溶けるようにして耳を撫でた。

同時に、ふわりとフローラルの香りが鼻先をかすめる。冷たい夜気に押しつぶされそうになっていた胸の奥に、突然、柔らかな羽毛が差し込まれたかのような温もりが広がった。

まるで、天国に行きかけたその瞬間、なにかの手違いでひょいと連れてきてしまった天使ではないか――そんな馬鹿げた妄想を抱いてしまうほど、その声には現実離れした優しさと、圧倒的な温もりが宿っていた。

「清水くん。お願い、交番に逃げて!」

――違った。俺が行きかけたのは天国ではなく地獄だった。つまり、連れてきてしまったのは天使ではなく、小悪魔なのだ。

「誰がお前なんかの指図を受けるか!」

走りながら怒鳴る俺の声は途切れ途切れになる。

「そんな……お願い」

「ふんっ! 毎度毎度、虫が良すぎやしないか。どうせまた俺を騙そうとしてるんだろ!俺の気持ちを無下に扱いやがって、ふざけるのも大概にしろ!」

「だって、それは……」

小悪魔は言葉を詰まらせた。今になって自分の罪を嘆いても、もう遅い。

「だってそれは、清水くんが優しいから、つい甘えちゃって……」

「どうだが……」

小悪魔の声は、そこで唐突に途絶えた。

まるで電源を落としたスピーカーのように、最後の一音だけが空気中で震え、その余韻だけが残った。

次の瞬間、夜風がすり抜け、わずかに甘い香りが鼻を掠めた。

花のような、それでいて少し湿った香り――どこかで嗅いだことがある。脳裏の奥が、懐かしさと嫌悪で同時にざわめいた。

「だって、わたし……たぶんあなたが……」

――あなたが? あなたがなんだ? 気になるじゃないか。

「なんだよ、最後まで言えよ!」

そう叫んだが、小悪魔はもう近くにはいなかった。フローラルの香りだけを残し、天に召されたのだろう。

俺は最後の力を振り絞って、一気に加速した。


 ガシャン!

夜の静寂を破るように、派手な破砕音が響いた。

俺はガラス片を撒き散らしながら交番の中へ転がり込み、息を切らして床に這いつくばった。

肺が焼けるように痛い。頭の中はもう、逃げ切ることでいっぱいだった。

そのとき、机の向こうから人影が現れた。

制服の前を少し開け、ネクタイも締めず、どこか寝ぼけ眼のままの警官――

深夜勤務に慣れすぎたのか、あるいは夜勤に“やられて”しまったのか、

その男はカップ麺片手に、呑気な声をあげた。

「なんだ、ちみは?」

……ちみ?

一瞬、脳が処理を拒んだ。

この異常事態に、その“振り”を入れてくるとは、どうにもイカれているらしい。

「なんだ、ちみはってか……そうです、私が――ぐはっ!」

言い終わる前に、背中に衝撃が走った。

まるで鉄の杭を打ち込まれたかのような一撃だった。

背骨を通して全身に鈍い痛みが広がり、肺の空気が一気に押し出される。

口から漏れた声は、自分でも聞き取れないほどくぐもっていた。

視界がぐにゃりと歪み、頬が床に叩きつけられる。

交番の蛍光灯が、割れたガラス片に反射してチカチカと瞬いている。

――中須だ。

気配を感じた瞬間には、もう次の打撃が肩口に飛んできていた。

透明マントのせいで、警官には中須の姿が見えていないのだろう。

俺は一人、床を転げ回って自分を殴っているようにしか見えていないに違いない。

「なにやってるんだ、ちみは!」

この警官、本当にイカれてやがる。

なぜ「清水、後ろっ!」と警告してくれないのだ。

理不尽な怒りが胸を占める。

――——また騙された。

あの女は、またも思わせぶりな態度で俺を弄んだ。

こうなることは目に見えていたはずなのに、どうして寸前のところで希望を捨てきれなかったのか。

またこうして痛い目に遭っているではないか。

俺を物凄い形相で殴り続ける中須の姿が、徐々に露わになり始めた。

あぁ、ついに幻覚まで見えるようになった。もう本当にヤバい。

「透明人間!」

その叫びは、夜の交番に異様な響きをもたらした。

驚くことに、その“幻覚”は俺だけでなく、警官の目にも映ったらしい。

警官が目を見開き、反射的に腕を伸ばすと、まるで空気そのものを掴むようにして中須の身体を抱え込んだ。

中須の姿は、最初はまだ半透明だった。

ガラス片の反射の中に、かすかに人の輪郭がちらつく。

風の流れに合わせて滲み、揺らぎ、まるで空気が人の形を思い出そうとしているかのようだった。

次第に、黒ずんだスーツの線が浮かび上がり、血に濡れた拳、そして歪んだ顔が現れていく。

まるで誰かが絵の具で“存在”を塗り足していくように、断片的だった姿が徐々に実体を取り戻していった。

それは恐ろしくもあり、どこか神聖な瞬間にも見えた。

「離せっ! クソ野郎!」

中須が暴れ、警官の腕の中でもがく。

透明と実体の境界が曖昧なその身体は、ところどころ透けたままで、光の角度によっては再び消えそうになる。

――なんで? なにが起こった?

俺は息を呑み、床に手を突いたままその光景を見つめていた。

ついさっきまで見えなかったはずの中須が、今、その目で確かに確認できる。

闇の中に、ゆらりと姿が浮かび上がった。

血走った目、濡れた髪、そして無数の傷を刻んだ拳――。

まるで空気そのものが中須という存在を思い出し、形を描き出しているようだった。

見えるはずのないものが見える。

まるで現実そのものが、俺の混乱に引きずられて歪み始めたようだった。

混乱する頭に追い討ちをかけるように、俺の身体がふわりと宙に浮いた。

そのまま交番の外へと引きずり出される。

「おい、ちみ!ちょっと待ちなさい!ちみにも話がある!」

警官がいくら訴えかけてきても、俺にはどうすることもできない。

もう身体中に激痛が走っていて、とてもじゃないが動けない。

意思とは関係なく交番から遠ざかっていく俺は、何がなにやら分からなくなっていた。

交番から少し離れた路地の先――闇の隙間から、切羽詰まった声が飛んできた。

「こっち!こっち!」

その声に振り向いた瞬間、街灯の薄明かりに照らされて、彼女の姿が浮かび上がる。

雪音だった。

髪は乱れ、頬には涙の跡が光っている。

肩で息をしながら、それでも両手を大きく振って必死に呼んでいた。

まるで、燃え盛る炎の中から誰かを引き戻そうとするような、そんな必死さだった。

「早く!こっちに来て!」

声が裏返っている。

喉を絞り出すような叫びが、夜気を震わせる。

その一言一言には、恐怖と焦燥、そして――罪悪感のようなものが混じっていた。

街灯の下で、雪音の白い腕が震えているのが見えた。

震えながらも、俺を迎え入れようとするその姿は、祈りにも似ていた。

背後には一台のタクシーが停まっており、エンジンの低い唸りだけが夜を切り裂いていた。

まるで、その鼓動さえも彼女の焦りを代弁しているかのようだった。

後部座席のドアが開く。

俺は、そのままタクシーまで担ぎ込まれ、後部座席に無造作に放り込まれた。

足が地面に触れる間もなく、視界がぐるりと回転し、ドサリと衝撃が背中を突き抜ける。

「お客さん、暴れないでくだ……」

運転手は言葉を途中で飲み込んだ。

顔中に痣を浮かべ、血にまみれた俺の姿を見て、喉が詰まったのだろう。

目を見開き、眉を引きつらせ、ハンドルを握る手が震えている。

――まあ、それが正常な反応だ。

続いて、雪音が後部座席に滑り込んできた。

「運転手さん、池袋方面へお願いします」

その声音には、焦りと冷静さが奇妙に同居していた。

運転手はバックミラー越しに雪音を見た。

暗闇の中でも、彼女の美貌はひと際際立つ。

一瞬、彼の瞳に迷いの色が浮かんだ。

「できれば、ナビに入力したいので……目的地を教えていただけますか?」

その声音には妙な探りが混じっている。

どうやらこの運転手、綺麗な女を見ると余計な一言を挟まずにはいられない性分らしい。

雪音は短く息を吐き、眉を動かした。

「彼の家か、わたしの家か……まだ決めてないんです。とにかく早く。お願いします」

一瞬の沈黙。

「わかりました」

どうやら運転手は、しつこいタイプではないらしい。それ以上何も言わずにアクセルを踏んだ。タクシーが静かに夜の街を滑り出す。

その微かな振動に身を委ねながら、俺は安堵と混乱の狭間で、深く息を吐いた。


先ほどの波乱が嘘のように、車内はしんと静まり返っていた。

タクシーが高速に入ると、車窓の外には都会のネオンが流れ、川面に滲む光が線となって遠ざかっていく。

一定のリズムで響くエンジン音に、ふわりとしたフローラルの香りが重なり、目の奥がぼやける。夢の途中にいるようだった。

「清水くん……大丈夫?怪我してない?」

雪音の声音は柔らかく、それがかえって癇に障る。俺は片目だけ動かし、悪態をついた。

「見てわからんのか?どこぞの世では、小指を紙で切っただけでも労災になるんだぞ」

「無職のくせに……」

「それは酷くないか」

雪音が小さく吹き出した。どうにも、こいつは人をからかわずにいられない性質らしい。

やがて、俺は気になって尋ねた。

「……で、どこに行くつもりなんだ?」

「池袋よ。明日仕事だけど、たまにはサボろうと思って」

「……普通に有給使えば?」

「急にまともなこと言わないで」

その言葉に、思わず苦笑が漏れた。

理不尽すぎるやりとりなのに、なぜか胸の奥が少し温かい。

深夜の高速を走るタクシーの中、俺たちはまるで現実から切り離された夢の狭間に取り残されたようだった。


―――――――――――――――――――――――――――――――


 矢後と真鍋と合流した。

……不服なのは言うまでもない。

毎度毎度、思わせぶりなセリフを吐いては、人を振り回してばかり。ここまでくると、詐欺罪で立件してもいいレベルだ。

四人は、奇跡的に営業していた深夜の居酒屋へと流れ着いた。

照明は暗く、場末のカラオケが遠くで鳴っている。血まみれの俺を見て店員がぎょっとしたが、雪音が先に会計札を握らせ、無理やり押し通した。

つくづく思う。こいつらときたら、揃いも揃って頭がイカれている。

普通、顔面腫れ上がった人間にアルコールを飲ませるか?誰がどう見ても、まずは病院だろう。

そう毒づいていたが、流石のこいつらも鬼ではなかった。

雪音がバッグから小型の救急箱を取り出し、慣れた手つきでガーゼを巻き始めたのだ。

そのあまりの手際に、思わず言葉が漏れる。

「……おい。用意してるのはおかしいだろ。最初から予見してただろお前ら」

皮肉をぶつけてはみたものの、彼女の指先が頬に触れるたび、どうにも心の奥がざわつく。

まあ……雪音に看病されるのは、悪い気はしなかったから、今回は特別に大目に見てやる。

矢後と雪音は、俺に気を遣ってか酒を頼まなかった。

真鍋だけが平然と生中を注文し、ぐびぐびと喉を潤している。

その音が、妙に腹立たしい。

「俺もっ!」と思わず我儘をぶつけると、矢後と雪音が同時に止めた。

「ダメ。アルコール入れたら傷に響く」

「……どっちかって言うと、精神的に効くんだけどな」

呟いた俺の声に、真鍋だけがケラケラと笑った。

あれほど血を流したのに――この空気の方が、よほど現実離れしていた。


事の成り行きを、三人は順に語ってくれた。

中須の姿が突然見えるようになったのは、真鍋の開発した――“透明マントを溶かす液体”による仕業だったらしい。

それをこっそり中須の背後に忍び寄り、散布したのだという。

「そんな便利なもんがあるなら、最初から使えよ」と喉まで出かかったが、ふと考え直した。

今日の夕暮れ、真鍋が俺の家を訪ねてきたのは――おそらく、そのことを伝えに来たからなのだ。

そう思うと、軽々しく文句を言う気にはなれず、俺は黙った。

なぜ、あの場に三人が現れたのか。

理由は単純だった。真鍋が俺の後をつけてきて、途中で二人に連絡を入れたという。

「すげぇ形相してたからさ。こいつ、なんかやらかすなって思ってよ」

真鍋が得意げに言う。

真鍋ごときに心を読まれたのは腹立たしいが、今回はそれで命拾いしたのも事実だ。

「でも……清水くん。ちょっと見直しちゃった」

雪音がグラスを指先でなぞりながら、柔らかく笑った。

その妖艶な声色に、思わずドキリとする。

だが、どこをどう“見直された”のかは、皆目わからない。

人の悪口を書き殴り、殴られ、逃げ回っただけの一日――それが“見直す”に値するとは思えない。

―――他に何か、大事なことをいくつも取りこぼしている気がした。

けれど、これ以上考えるのは面倒くさくて、話題はいつの間にかいつも通りの馬鹿話に変わっていった。

「そういえばさ、天宮さんのことで感動的な話があるんだけど」

真鍋が唐突に切り出した。

「誰だよ!」

酔いのまわった真鍋の顔に、思わずツッコミを入れ、軽くひっぱたく。

「いやいや、お前らも会ってるだろ。天宮さんだよ、天宮さん!」

「だから誰だって言ってんだよ!」

どうにも埒が明かない。矢後ですら首を傾げていた。

だが、雪音だけは、その名に反応した。

目を細め、微かに笑みを浮かべる。

「……天宮さん?本当に?誰なの、それ」

けれど、その笑みはどこか遠くを見ていた。知っているようで、知らない顔だった。

「ほら、金髪美女と豪遊してたって話、あったろ?」

「……ああ、“煤だらけ”!」

思い出した。そうか、あの変人にも名前があったのか。知らなかったというか、どうでもよかったというべきか。

「天宮さんさ、一世一代の大恋愛してたって言ってただろ?あの続きなんだけど――」

真鍋は身振り手振りで語り始めた。

どうやら、イタリアに駆け落ちした二人がマフィアに追われ、最後は彼女を守るため、天宮が囮になったという壮大な話らしい。

俺は感動のあまり、思わず涙を流した。

だが、矢後は冷静に言い放つ。

「この前と全然話、違うじゃねぇか」

場が笑いに包まれる中、雪音だけはグラスを見つめたまま、小さく呟いた。

「……嘘つき」

その声は、誰にも届かないほど微かだった。


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