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頬を叩いて気合いを入れようとしたが、痛いので断念した。
代わりに「よし!」と声を張り上げることで、自分を奮い立たせる。
中須との待ち合わせ場所は浅草橋駅、時刻は深夜0時。まだ電車の走る時間帯なので、俺は最寄り駅へと歩いて向かった。
事前に聞かされていた中須の計画では、まず浅草橋にある二宮ジュエリーを襲い、その後、中須の車で高田馬場のジュエリーショップを強盗する。さらに高円寺、そして大塚へと無作為に選んだ店を襲撃していく段取りになっている。
だが、俺は決めていた。最初の二宮ジュエリー襲撃は辞めようと進言するつもりだ。二店舗目以降には手を貸す気でいたが、そもそも一店舗目を断念した時点で契約違反だ。そこで仲違いになるだろう、と予想していた。
最寄り駅までの道を歩いていると、十メートルほど先に見覚えのある影があった。歩き煙草禁止の看板の真横で堂々と煙草を吹かし、紺のフードを被り、左右に揺れる無駄の多い歩き方をする不気味な男。そんな特徴を兼ね備えた奴など、真鍋以外にいない。
まだ顔がはっきり見える距離ではなかったが、俺は眼光を鋭くし、横柄に歩くよう意識した。やがて距離が詰まると、真鍋は無愛想に声を掛けてきた。
「よ〜光亮。話があるんだが……」
「それより、まず俺に言うべきことがあるんじゃないか?」
心の奥で、俺はとうに気付いていた。俺を嵌めた張本人は、矢後でも雪音でもない。建前の謝罪すらしなかった、この人でなしだ――。
「あん? なんのこと?」
しらばっくれているわけではない。本当に何を指しているのかわかっていないのだろう。昔から真鍋はそういう男だ。足を踏んでも悪びれない。借りた本をなくしても悪びれない。遅刻しても悪びれない。ムカつく奴の教科書をカッターで切り刻むという悪戯の対象を間違えて、ただのいじめに発展してしまっても悪びれない。要するに、こいつは「わざとでなければ許される」とでも思っている病的な感覚を持っているのだ。
今回だって、俺が暴行を受ける羽目になるとは夢にも思っていなかったに違いない。だから自分は悪くない――そう思っているのだ。
今までは大目に見てきたが、今回は許せない。どうせ絶交する仲なら、徹底的に追い詰めてやる。
「ふざけるなっ!」
閑静な住宅街に、俺の怒声が響き渡る。
「お前が立てた無計画な作戦のせいで、俺が中須からどんな目に遭ったか分かってるだろう!まずは謝るのが礼儀だ。謝ったら、俺が・・・お前をボコボコにしてやる。それでようやくチャラにしてやるよ!」
「あ〜、そのことか。もう過ぎたことだろ」
真鍋の無神経な一言に、身体が勝手に反応した。胸倉を掴み、罵声を浴びせる。だが無表情の真鍋を見ていると、怒りはますます沸点へ向かっていく。
「第一計画を立てたのは俺じゃない」
「嘘をつ…」
真鍋は、嘘をついてまで言い逃れようとはしなかった。謝ることもしない代わりに、言い訳もしない。自分にとって不都合なことも訂正しない。というか、そもそも何が自分にとって不都合なのかを考えることすらしていない。だから、この場面で虚偽を並べ立てて他人に罪を擦り付けることもない。悪くないのだから嘘をつく必要がない――それが真鍋の思考回路だ。
頭から血の気が引いていく。訊ねるのが純粋に怖かった。
「じゃ…じゃあ、言い出しっぺは誰なんだ?」
相変わらず真鍋は無表情だった。チクリという概念が欠如した奴は、当たり前のように事実を述べるだけだ。
「雪音さん。ってか、あの日だって自分で言ってただろ」
その瞬間、雪音に対する想いは、好感から憎悪へと一変した。
怒りが湧き上がる。なんだかんだで雪音はいい子だと信じようとしていた自分に、突きつけられた現実はあまりにも冷たかった。あの女が、こんな浅はかな作戦を考えるとは思ってもみなかった。
ゆるせない――絶対に。
もはや真鍋ごときに構っている暇はない。奴が何か喋りかけてくるが、耳に入らない。一刻も早く、佐伯雪音を懲らしめてやらねば気が済まない。
「あの女……覚えてろよ」
そう呟くと、眼中から真鍋を捨て置き、怒りのまま駅まで猛ダッシュした。
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中須と合流し、二宮ジュエリーへと向かった。
道中、中須が吐き捨てるように言う。
「裏切りでもしたら、わかってんだろうな?」
今さらそんな脅しが通じるわけがない。俺がどれだけ雪音への憎悪を溜め込んできたと思っているのだ。
中須の口元にはいつも通り薄ら笑いが浮かび、その笑いはどこか乾いて金属的だった。煙草の匂いをわざとらしく残し、まるで「俺は社会の上澄みにいるんだ」と言わんばかりに顎を上げる。ポケットに手を突っ込む仕草ひとつも芝居がかっていて、相手を値踏みしている風を装うが、どこか見せかけに過ぎない。
本物のエリートが持つ風格とはほど遠い。だが本人だけは、その薄っぺらな虚勢を完璧な鎧だと信じて疑っていなかった。
目は鋭く、他人の動揺を楽しむかのように獲物を観察する。謝るべき場面でも口を尖らせて拭い去り、困った顔をするこちらをあざ笑うように鼻で笑う。そんな男だ。だから、あの一言は脅しでもなんでもなく、ただの確認に過ぎない。奴は常に自分の立場を分かった上で小馬鹿にしているのだ。
ガラス越しに中の様子を窺う。閉店時間はとっくに過ぎており、店内は無人であった。隣でガラスが割れる音がした。中須と俺は既に透明マントを深く被り、その姿は肉眼では判別できない。だが、今響いた音は紛れもなく中須の仕業だった。
俺も倣い、金属バットを振り下ろした。ドンと鈍い衝撃はしたが、ガラスは思ったほど簡単には砕けなかった。クソッ、もう一度——と思った瞬間、横からぶっきらぼうな声がかかった。
「一つ割れりゃ十分だろ」
やれやれ、こいつは頭が回る。中須が先に謝って、割れたガラスの隙間から店内へと忍び入っていく。
割れたガラス片が床に散り、その細かな粒が街灯の光を受けて床に斑点のような反射を作った。店内は一瞬にして異様な静けさに包まれる。照明は落ち、外の街灯の淡い橙色だけがショーウィンドウの輪郭を浮かび上がらせる。年期の入ったカーペットからは、埃とワックスの混じった独特の匂いが漂い、どこか古い家の居間を思い出させるような懐かしさが胸を掠める。色褪せた陶器製のキャラクター置物は、ひびや擦り傷まで見て取れ、長年店を見守ってきた“歴史”を沈黙のうちに語っている。ガラスの破片が散る金属的な残響と、遠くを走る車の音がわずかに混ざり合い、時間がゆっくりと止まったように感じられた。
俺は無意識に手袋の縫い目を確かめ、あの置物を雪音ならどうするかと想像する。雪音なら、きっと躊躇なく片手で掴み、掌の中で粉々にして楽しむだろう――その想像が余計に胸の奥をざらつかせた。
ショーケースが割れる音がして、静寂が破られる。中須は割れたショーケースに手を突っ込み、宝石や指輪を無造作につかんでは外に置いた紙袋に放り込み、また戻ってくる。視覚的には、まるで宝石や指輪が宙に浮いているかのように見えた。俺も彼に倣い、バットを振りかざす——
近傍に並ぶ宝石の中で、ひときわ強く光るダイヤモンドがあった。街灯の淡い明かりを受けてキラキラと瞬くその姿は、砂漠で見た蜃気楼のようであり、夜空に瞬く星々のようでもあり、あるいは汗と涙を混ぜて掴み取った勲章のようにも思えた。
その光に目を奪われたとき、ふと佐伯さんのことを思い出す。
彼は普段、飾り気のない人だった。だが結婚指輪だけは例外で、律儀に左手に嵌めていた。ときどき無言でその指輪を眺める横顔には、家族を想う確かな誇りと温かさが滲んでいた。
入社当初、不出来な俺の教育係を務めてくれたのも佐伯さんだった。打合せでメモを取っても字が汚すぎて自分で読めなかったり、日程を何度も間違えたり……そんな度重なる失敗を、彼は見捨てることなくフォローしてくれた。
取引先に頭を下げに行くときも隣に立ち、俺が潰れないよう支えてくれた。周囲が「役立たず」と冷笑する中、最も迷惑を被っていたはずの佐伯さんだけが、最後まで俺を信じてくれていた。
そんな佐伯さんに対し、俺は恩を仇で返すような失態をしでかしたことがある。あるイベントで使うはずの「指輪のレプリカ」を用意し忘れてしまったのだ。焦りに焦った俺の視線の先にあったのは、佐伯さんの結婚指輪だった。最初こそ「これはダメだろ」と渋った佐伯さんだったが、死にそうな顔をしていた俺に同情してか、孫を甘やかす祖父母のような優しさで貸してくれた。
だが――俺はその指輪を紛失してしまった。
それまで一度も声を荒げたことのない佐伯さんが、この日ばかりは怒鳴った。俺はただただ失態を悔やみ、血眼で探す佐伯さんの背中を呆然と見つめるしかなかった。どうにか見つかったものの、自己嫌悪に押し潰され、まともに顔を上げられないほど落ち込んだ。
そんな俺を、佐伯さんはなぜか呑みに誘ってくれた。
そして居酒屋の席で、まず自分が怒鳴ったことに謝罪してきたのだ。俺も慌てて謝り返す――思えば、ここでようやく俺はまともに「謝る」ということをしたのかもしれない。
その時、佐伯さんは自らの指輪を見つめながら、ぽつりと語った。
『今の若い子は、こんな鉄の輪っか一つで大騒ぎかって思うかもしれない。でもな、指輪や宝石って、高い分だけ、その裏にある想いがあるんだよ。汗水垂らして働いた対価かもしれないし、大切な人からの贈り物かもしれない。人によっては形見になることだってある。確かに指輪は鉄、宝石は石にすぎない。でもそれを必死に掘り起こす人がいて、磨く職人がいて、そうして輝きを纏っていく。そしてそれを手にするのは、逃げ出さずに働いた人や、誰かを大事に想う人なんだ。――なあ清水くん、月並みだけど、いつか一個くらい買ってみなよ』
そう言って、彼はいつものように柔らかく微笑んだのだった―――――
きっとそれは一瞬のことだった。
目と鼻の先にあるショーケースに、ただバットを振りかざしただけだ。だが、その刹那で、随分と物思いに耽ったものだ。
バットの先端がガラスに触れる寸前で止まった。
俺は透明マントを脱ぎ捨てる。――こんな汚い手で、こんな美しいものに触れるなんて、あまりにおこがましい。それは、こいつにも同じことが言える。
「触んなっ!」
気がつくと、俺は虚空に――いや、中須に怒鳴りつけていた。返事はない。だが構わず続ける。
「お前みたいな小汚ねぇこそ泥が、神聖な努力の結晶に触れるんじゃねぇ!」
思えばこいつは、佐伯さんの想いの詰まった指輪さえ強奪したのだ。あれは“人生”そのものだった。絶対に、絶対に許しちゃならない。
「楽して稼いで、人を騙して、人の努力を踏みにじって――その上で偉そうにすんじゃねぇよ!」
俺は指を突き付ける。
「いいか。人の価値ってのは、どれだけ社会に貢献できたかなんだ。いくら金を持っていようが関係ねぇ。この日本に生まれて、先進国の恩恵を受けていられるのは、社会に貢献して、そのお返しをするからなんだよ!」
口が勝手にまくしたてる。
「お前みたいな奴は道路をただ歩くんじゃねぇ、逆立ちして歩け!水道水を飲むんじゃねぇ、雨水でも溜めてろ!街灯に照らされるな、土竜の跡でも追ってろ!服なんざ着るんじゃねぇ、生まれたての赤ん坊の横で永久に巻かれもしないおくるみを待ち望んでろ!建物に住むな、洞窟でウホウホ言ってろ!日本語を使うな、やっぱりウホウホ言ってろ!――つまりだ、お前みたいに社会に貢献してねぇ奴には、その恩恵を受ける資格はねぇんだよ!」
胸の奥に燻っていたものを吐き出し、叫び終えた直後だった。
顔面に衝撃が走り、不吉な音がした。――鼻が折れたのだ。
後頭部を床に叩きつけられる。おそらく、金属バットで殴られたのだろう。
「てめぇふざけんなよ……てめぇふざけんなよ、てめぇふざけんなよ……!」
仰向けに倒れ込むと、俺の腹に重りでも乗ったかのように動けなくなった。顔面のあちこちに断続的な衝撃が走る。もし姿が見えているのなら、所謂「馬乗りの袋叩き」だろうが、俺たちは透明だ。だからその光景さえ不透明で、何がどう当たっているのかも分からない。中須はうわごとのように呟きながら、容赦なく拳を振り下ろし続けた。
意識が朦朧としてくる。殴られすぎて、もはや顔に感覚すらない。おそらく俺は、このまま死ぬのだろう。せめて最後に――彼女の顔を舐め回すように見納めたい。そう思ったのに、走馬灯の中へ流れてきたのは、なぜかうだつの上がらないおっさんの顔だった。
『今日からお世話になります。清水と申します』
『清水くん。うん、いい挨拶だ』
『佐伯さん! 初めて契約とれましたよ!』
『そうか。それは良かった。じゃあ今日は祝杯で飲みにでも行こうか』
『奢りですか?』
『奢らなかったことないだろ』
『それもそうか』
『ああ、これ最近流行ってるんだってね。うちにも同い年くらいの娘がいるから、家にあるよ』
『へえ、娘さん。可愛いですか?』
『んー、まあ自分の娘だからな。私はそう見えるよ』
『佐伯さんの娘さんだから、きっと滅茶苦茶優しいんだろうなあ』
『奥さんってどんな方ですか?』
『そうだな……一言で言うなら、私にはもったいないくらいいい女だった。なんてね』
『いいなあ、羨ましい』
『清水くん、今日はなんだか暗いね。何かあったのかい?』
『実は、フラれてしまって……』
『そうか。でもな、きっと良いこともあるさ』
————「きっと良いこと」って、いつだったんだろう。身に覚えがない。こんな辛いことが立て続けに起きて、見返りもなく俺は終わるのか?そんなの、ふざけてる。そんなことあってたまるか!死んでたまるか!
そう叫びながら、俺は渾身の力を込めて中須を突き飛ばした。出鱈目に両手を突き出しただけだが、運良くいいところに当たったらしく、中須は勢い良く吹っ飛び、近くにあった棚が大きく音を立てて倒れた。
俺は即座に立ち上がり、猛然と二宮ジュエリーを飛び出した。頭の中はただ一つ、逃げ切ることで占められている。店の前に出るとそこは大通りだ。刻は深夜一時を回り、人通りはほとんどない。それでも車が稀に通り過ぎていく。俺はためらわず、浅草方面へ向かって猪突猛進した。
鼻は壊れているらしく、血が口の中に回って鉄の味がひりつく。視界は霞み、片方のまぶたが痙攣するが、足は動く。冷たい夜気が肺に飛び込み、息を切らす度に痛みが脳天まで届く。それでも、追い付かれたら終わりだという恐怖が、痛みを上書きしてくれる。中須の足音が背後で近づいてくる。あの重い、確実な足取り——まるでバットの重さを其の身に蓄えているかのような歩みだ。奴が我を忘れているのは先ほどの殴打で明らかだ。追い付かれたら、打ち所が悪ければ終わる。なにがなんでも振り切らなければならない―――――
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