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いたずら青年、世にはばかる  作者: 堀尾 朗
最終章「復讐」(過去編:雨宮と二宮)
31/36

—5—

 わたしは無造作に突き飛ばされ、重い衝撃とともに詐欺グループのドン――夢野久の前に晒された。床に膝をついた拍子に、息が詰まる。見上げた先、憎むべきその男の顔があまりに近すぎて、視界の端が揺らめいた。

昨夜わたしを欺いた、あの人懐こい笑みはどこにもない。代わりに浮かんでいたのは、氷のように硬直した口元と、濁った双眸の鈍い光だった。人間の温もりを一滴も含まないその眼差しに射抜かれると、背筋が凍り、喉が勝手に鳴る。

鼻先に漂う脂の匂い、乾いた唇の隙間から漏れる湿った息。吐息ひとつさえ、わたしには汚濁の塊に思えた。

できることなら、この視線を逸らしたい。明後日の方向を向いて、耳を塞ぎたい。いや、仮面でも被って、この顔を直視せずに済むなら、どれほど楽か。

――それほどまでに、目の前の男は生理的嫌悪と恐怖を同時に呼び起こす存在だった。

「それで、君はどうするつもりなんだ?」

「…なにも」

絞り出すように呟くと、わたしをここまで引きずってきた金髪の男が割り込んだ。ボサボサの髪を揺らしながら、低くて冷たい声で言う。

「そんなの信用ならんすよ。やっちゃいましょう」

その言葉が喉に刺さった。心臓が跳ね上がり、全身が一瞬で凍り付く。逃げなければ――今すぐ大声を上げて助けを呼べばいい。そうすれば、この連中の悪事は露見する。わたしは解放される。だから、叫ばなくては。

…と理性が叫ぶ。だが身体は動かない。鼓動だけが耳の奥で鳴り続ける。

握り拳を作り、深く息を吸い込んだ。片手の筋が白く浮き、喉の奥で何かを決断しかけたその瞬間、思惑はあっけなく潰えた。

ヒーローショーの悪役のように、呑気に待ってくれるはずもなかったのだ。

「んーんー」

虚しくも閉ざされた社長室に、わたしのくぐもった声が反響した。

ゴツゴツとした大きな掌が乱暴に口を覆い、吐き出しかけた叫びを押し殺す。掌のひび割れた皮膚が唇に食い込み、生臭い汗の匂いが鼻を直撃する。息を吸おうとしても、わずかな隙間から湿った空気が入るだけで、喉がひゅうひゅうと悲鳴をあげた。

視界の端で、中須の顔がねじれて見えた。けばけばしいサングラスが蛍光灯の光を反射して、まるで怪物の仮面のようにぎらついている。そのすぐ下で、血色の悪い唇が歪み、愉快そうにわたしを見下ろしていた。悪夢そのものだ。

脇腹に何度も鋭い痛みが突き刺さり、身体が勝手に折れ曲がる。肺に酸素が届かず、胸の奥が焼けつくように熱い。涙が勝手に溢れ、鼻水と混ざって口の中へ流れ込んでいく。塩辛い液体の味が喉に広がったとき、ああ、わたしは泣いているのだとようやく自覚した。

わたしは首を激しく振った。無言のまま必死に抗い、目を見開いて「やめて」と訴えた。許しを請い、二度と逆らわないと必死で叫んだ。だが、その必死の訴えも、掌に吸い込まれて消えていく。音にならない声は、冷たい社長室の空気に触れることすらなく、乾いた風にかき消される幻に過ぎなかった。

「もういい。どの道、その女は用済みだ。異分子は早めに潰すに限る」

久の一言が、部屋の全てを決定づけた。刃のように冷たい宣告。わたしの胸から、最後の希望が小さくこぼれ落ちる。

力任せに引っ張られ、扉へと連れ出される。

必死に抵抗しても、屈強な男の前では、わたしの細腕など無力で、容易くねじ伏せられてしまう。行き先がどこかも分からない。人の住まぬ場所へ連れ去られ、誰にも発見されずに終わるのではないかという恐怖が、全身を凍らせる。何が待ち受けているのか、想像は最悪の方へと暴走する――永遠に消えない傷、身体だけでなく心をえぐる痕跡、あるいは、命すら奪われるかもしれない。

思考は一点に凝縮された。もう終わったのだ、と。

その時、重々しい扉がバンッと勢いよく開いた。

思わず肩を震わせたわたしの視界に飛び込んできたのは、天宮さんの姿だった。

彼は荒々しい息をつきながらも、鋭い眼光をこちらに向けていた。射抜くようなその視線は、わたしを通り越して中須に突き刺さる。わたしの全身に緊張が走る。

「――っ!」

次の瞬間、彼は躊躇なく床を蹴った。重い空気を裂くような足音が響き、疾風のような勢いで中須に体当たりする。

咄嗟に防御する間もなく、中須の体がわたしごと押し倒され、硬い床に叩きつけられた。衝撃で肺から空気が抜け、視界が一瞬白む。

その拍子に、中須の懐から銀色に光るナイフが滑り落ち、カランッと乾いた音を立てて床を転がった。蛍光灯の光を反射しながら、刃がこちらに冷たく輝く。

「きゃあっ!」

喉の奥から絞り出されるように悲鳴が漏れる。恐怖と安堵がごちゃ混ぜになって、体は震え、声は裏返った。

「晴子っ!」

天宮さんの叫びが響いた。その声は確かにわたしを呼んでいるのに、耳に届いた瞬間、なぜか遠くから響いてくるように感じられた。

天宮さんがわたしの名を叫び、必死にこちらへ駆け寄ろうとする。だがその行く手を、金髪の男が飛び蹴りで塞いだ。鈍い衝撃音とともに天宮さんの体が弾かれ、形勢は一瞬にして逆転する。

金髪の男は怒りに顔を歪め、何度も天宮さんの顔面を蹴りつけた。腫れ上がった頬から血が飛び散り、床に滴り落ちていく。わたしは声を振り絞って制止を乞うたが、次の瞬間、中須の拳がわたしの頬を打ち抜いた。

「騒ぐな」

サングラスの奥の目がギラリと光り、冷気のようなものが背筋を貫いた。これまでの人生で感じたことのないほど冷ややかな眼差しに、全身が震え上がる。

金髪の男は、倒れた天宮さんの顔面を執拗に蹴り上げていた。

**ドスッ、ドスッ――**と鈍い衝撃音が響くたびに、血が飛び散り、天宮さんの顔はみるみる腫れ上がっていく。

止めなければ――そう思っても、喉は恐怖で固まり、声が出ない。体は凍りつき、ただ震えながら惨状を見つめるしかなかった。

靴底が再び振り上げられる。今度こそ命が絶たれる――そう直感した瞬間。

「おい、もうその辺でいいだろ」

中須の低い声が飛んだ。その一言にようやく金髪の男の動きが止まり、苛立たしげに舌打ちする。

「チッ…コイツ、殺しましょうよ」

金髪の男は息一つ乱さず、涼しい顔で言い放つ。その実力は歴然であった。

「ああ、そうだな。ただ、ここで殺すわけにはいかん。社長の迷惑になる。なぁ?」

中須が久に目を向けると、久は二重顎を揺らしながら頷いた。

「その通りだ。俺は関係ないところでやってくれ」

「でもそれじゃ気が収まらないっすよ」

金髪の男は吐き捨てるように言い、天宮さんの顔を再度蹴り上げる。

「まぁいいじゃねぇか。その分、この女で発散しようや」

「おっ、それいいっすね。なかなかマブイと思ってたんすよ」

「おいおい、現金な奴らだな」

外道な会話が耳を刺す。吐き気が込み上げるのに、もう抵抗する力は残っていなかった。これ以上ない最悪の状況だと理解していながら、頭は真っ白で、打開の術など浮かびもしなかった。

わたしは後ろ手を中須にねじ上げられ、強引に廊下へと引きずり出された。

社内は不気味なほど静まり返っていた。髪は乱れ、服は無残に引き裂かれ、両脇をガラの悪い男二人に固められている。端から見ても異常事態は明白なはずだ――だが、助けの気配はどこにもない。先ほど天宮さんが蹂躙されていた惨状を思い出せば、たとえ誰かに見られたとしても、助けなど望めないのかもしれない。せめて通報だけでも、とわずかな希望を抱いたが、それすら叶わないほど、人影はなかった。

やがて辿り着いたのは、普段わたしが通ったことのない裏口へと続く薄暗い廊下。貨物用の無骨なエレベーターで一階に降ろされ、扉を抜けると、そこには黒いセダンが一台、待ち構えるように停まっていた。

一歩退いた途端、逃げ出そうとしたと勘違いされたのか、髪を力任せに引っ張られる。頭皮に焼けるような痛みが走ったが、もう悲鳴すら出ない。何度も地獄を味わった心は、すでに半ば壊れ、わたしは放心したまま無抵抗で車に押し込まれようとしていた。

――その時だ。

背後で、肉を裂くような鈍い音が響いた。空気が震えた気がした。

続いて低い呻き声。耳にまとわりつくようなその声に、思わず全身がビクリと強張る。反射的に肩をすくめ、ゆっくりと後ろを振り返った。

そこにいたのは――顔を苦痛で歪めた中須の姿だった。

彼の顔は苦悶に歪み、いつもの不敵な笑みも、けばけばしいサングラスの威圧感も跡形もない。荒い呼吸を繰り返しながら、腹部を両手で押さえている。その指の隙間から、どろりとした赤黒い液体が溢れ出し、彼のシャツを瞬く間に染めていく。鉄の匂いが鼻を突き、思わず吐き気を催す。

信じられなかった。つい数秒前まで、わたしを屈強な腕で押さえつけていた男が――今、膝を震わせ、わたしを解放しようとしている。

腕の力が抜ける感覚。肩を支えていた手が滑り落ちる。自由になったはずなのに、恐怖と混乱で身体は動かない。ただ呆然と、彼の指の間から滴り落ちる血の雫を見つめていた。

金髪の男が怒号を上げたが、すでに運転席に身を沈めていた彼とは距離があった。

その時、不意にわたしの手が強く握られた。

驚いて振り返った瞬間、胸の奥がじんわり熱くなる。

そこにいたのは――満身創痍の天宮さんだった。

顔は腫れ上がり、血に濡れ、原型を失っていた。それでも、その奥に宿る瞳だけは決して濁っていない。真っ直ぐで、鋭く、それでいてどこまでも優しい光を放っていた。

息が詰まった。

ああ、間違いない。この人だ。この人が、わたしを救いに来てくれたのだ。

込み上げる涙が視界を滲ませる。

みっともない姿なのに、美しく見えて仕方がなかった。

その瞬間、わたしの心臓は大きく跳ね、恋にも似た震えが身体を駆け抜けた。

彼は無言で駆け出した。わたしは引かれるまま、必死にその背を追う。

やがて人混みへと飛び込むと、周囲はたちまち騒然となった。

返り血で染まった服、包帯を巻き付けた乱れ髪、潰れた鼻、腫れで歪んだ顔――誰もが目を背けるほどの有様。

――それでも、脂ぎった顔の夢野久よりははるかにマシだ。

そんな皮肉が、頭の奥からふとこぼれ落ちた。

わたしはその手をぎゅっと握りしめた。

声にはできなかったが、心の中で繰り返し叫んでいた。

ありがとう。

何度でも、しつこいくらいに――あとで必ず伝えよう。本当に…。


 そこは西新宿のラブホテルだった。

血塗れの男女二人が駆け込んだというのに、受付に座る老婆は怪訝な表情を浮かべただけで、追い返すことはなかった。

ようやく追手を撒き、命を拾ったのだと実感が胸に広がる。わたしは天宮さんに精一杯の感謝を告げた。だが彼は、予想に反してぶっきらぼうに「…あぁ」と返すだけだった。

淡いピンク色の室内が、場違いに思える。壁紙もカーテンも甘ったるく彩られているのに、わたしたちの姿は血と泥に塗れ、まるで別世界から迷い込んだ異物のようだった。天宮さんはソファに凭れたまま微動だにせず、わたしもベッドの端に腰を下ろし、ただ無意味に照明の明かりを見上げていた。さっきまでの地獄のような喧騒が嘘のように、耳を刺すほどの静寂が漂っていた。

訊ねたいことはいくらでもあった。なぜあの場に現れたのか。昨晩、どこでなにをしていたのか。どうして久がわたしの前に現れたのか。夢野屋の詐欺はいつから始まっていたのか、そして天宮さんはどこまで知っているのか。――だが今は、声にする気力すら残っていなかった。身体中が痛み、疲労が骨の髄まで沁み込んでいる。

「もう、関わらない方がいい。それと、ほとぼりが冷めるまで、どこか遠くに行った方がいい」

天宮さんがぽつりと呟いた。その声は、低く、掠れていて、妙に遠くに感じられた。

わたしはもう、意識の端が薄れていた。頭が霞み、思考もまとまらない。ただ――気づけば、口元に小さな笑みが浮かんでいた。

「だったら…一緒に…」

深い考えがあったわけではない。ただ、心のど真ん中に押し込めていた言葉が、ふと零れ落ちただけだった。

わたしはベッドに身を横たえ、やがて静かな寝息を立てた。

お読みいただきありがとうございます。

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