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いたずら青年、世にはばかる  作者: 堀尾 朗
最終章「復讐」(過去編:雨宮と二宮)
30/36

—4—

 それから数年後――バブルは弾けた。

ジュエリーの売上は、全盛期の半分にまで落ち込み、業界全体が壊滅的な打撃を受けた。海外から大量に輸入されたジュエリーは売れ残り、かつて雨後の筍のように増えたショップの多くが、時代の波に呑まれ姿を消していった。

夢野屋も例外ではない。出店したばかりの支店は早々に店仕舞いを余儀なくされ、店舗従業員も半分近くに削られた。それでも、会社全体としては致命傷には至らなかった。

数年前から水面下で進められていた「事業拡大計画」が、ここにきて盤石な基盤を築きつつあったからだ。ブランド品に始まり、家具、家電、衣料品、化粧品――気づけば夢野屋は総合小売業者へと姿を変え、その売上は本業であるジュエリー製造を凌駕していた。近頃では、他を圧倒する激安価格を打ち出し、競合を寄せつけぬほどの勢いを見せている。まさに、久社長の思惑通りの展開であった。

その強引なやり方に不信感を抱いていたわたしでさえ、経営者としての手腕に脱帽せざるを得なかった。日本中のサラリーマンの給与が次々と切り下げられていく中で、夢野屋だけは一定水準を維持し続けたのだ。奇跡の経営戦略――そう評しても、決して大げさではないだろう。

先日久しぶりに顔を合わせた天宮さんも、すっかり羽振りが良くなっていた。わたしのように依然としてジュエリー販売に留まっている者の給与は、久社長の就任前と大差ない。だが、早々にジュエリーに見切りをつけ、久社長に従順に従った者は、異業種販売で着実に成果を上げ、給与も右肩上がり。両者の差は、否応なく広がっていた。

きっと――わたしはもう、疲れ切っていたのだと思う。

 

 その日、わたしは憂鬱な数字が並んだ先月の売上報告を抱えて、本社ビルの廊下を歩いていた。肩が重く、気持ちまで沈み込む。そんなとき、不意に背後から聞き慣れた声が響いた。

「暗いなぁ、晴ちゃん。せっかくの綺麗な顔が台無しだ」

振り向けば、天宮さんが相も変わらず能天気な笑みを浮かべて立っていた。

「お久しぶりです。その後、順調ですか?」

「もちろん。今でも俺の営業スタイルは健在だよ」

――あの滅茶苦茶な営業を、まだ続けているというのか。

「よく、それで契約取れますね。そのうち大問題になっても知りませんよ」

「俺は客を選りすぐりしてるからな。ノリのわからん奴には、二度と顔を見せないんだ」

「それはバブルの時代だから許されただけです。もう時代は変わったんです。そのうち見限られますよ」

わたしが苛立ちを隠さず言うと、天宮さんは肩を竦めて苦笑した。

「まぁまぁ、そんな怒るなよ。俺だってわかってるさ。最近は“言っていい嘘”と“悪い嘘”くらいは見分けるようになったんだ」

「嘘はなにがあっても駄目です!」

「まぁまぁ、そんなことよりさぁ……」

彼に食事に誘われた瞬間、心のどこかが緩んだ。久しぶりに出た自分の明るい声に、自分で驚く。ほんの一時でも、かつてのお気楽な日々に戻れる気がしたのだ。

「良いですよ。いつもの居酒屋ですか?」

「いや、今回は趣向を変えてみようと思ってな。名前は……」

耳慣れない店の名が告げられた。しかも新宿は、もともと彼のテリトリーではない。だからこそ強い違和感を覚えた。

――けれど、最近は本社通いでこの街にも出入りしている。きっと、その中で新しい店を開拓したのだろう。そう自分に言い聞かせ、無理やり納得した。

だが、それが甘かった。あとで痛いほど思い知らされることになる。

「あぁ、そうだ。当日は着飾ってきてくれないか?じゃないと入れないから」

なぜ、わたしは彼の本質を見誤ってしまったのだろう。

彼が――ただの与太郎だったことを。


 新宿の高層ホテル、最上階のレストランの一角。大きなガラス窓の向こうには、無数の光が宝石のように瞬く夜景が広がっていた。道路を走る車のテールランプが赤い帯となり、ビルの窓には黄金色の灯りが連なり、東京の街そのものが一枚の絵画のように輝いている。遠くには東京タワーのシルエットまで見え、その存在感が夜景に奥行きを与えていた。

店内は低めの照明に抑えられ、テーブルには小さなキャンドルが灯っている。グラスに映り込む炎がゆらゆらと揺れ、心をくすぐるように艶めいて見える。クラシックの旋律が静かに流れ、どこかでグラスの触れ合う軽やかな音が響いた。席を立つ給仕の所作は滑らかで、店全体が洗練された気配に包まれている。

そんな大人びた空間に身を置くのは久しぶりだった。わたしは言われた通り、ネイビードレスに身を包み、髪もいつもより念入りに整えてきた。背筋を伸ばして椅子に腰掛けると、まるで自分自身まで格上げされたような気分になる。頬にわずかに熱がこもり、胸の奥がそわそわと落ち着かない。

――まさか天宮さんに、こんな洒落た店に誘われるなんて。

その意外性が、逆に心を浮き立たせていた。

時刻は十九時五十五分。待ち合わせの五分前だ。彼のことだから、どうせ時間ぴったりか、少し遅れて来るに違いない。女性をこういう場所に誘うなら、先に待っているのが常識だろうに――そんな小さな不満さえ、彼らしくて妙に可笑しく思えた。

その時のわたしは、まだ浮かれ気分だったのだ。

「お待ちの方がいらっしゃいましたよ」

背後から声を掛けられ、反射的に振り返った刹那。

「えっ……」

笑顔だったはずの表情が、途端に引きつった。頭が真っ白になり、表情筋は硬直し、喉が詰まって声にならない。胸の高鳴りは、期待から恐怖へとすり替わっていた。

――そこに立っていたのは、夢野久だった。


彼は何食わぬ顔で、わたしの向かいの椅子に腰を下ろした。店員にメニューを訊ねられ、平然とした口調で答える。その一連の動作は、あたかもここにいることが当然であるかのようであった。

「かしこまりました」

店員が一礼して立ち去るのを横目で確認してから、久社長はゆったりと口を開いた。

「驚いたかい? 騙すようなことをして申し訳なかった」

――驚いたかい? そんな言葉で済むものか。

あの絶対君主が、今わたしに頭を下げている。背筋を粛然と伸ばしたまま、柔和な笑みを浮かべ、後頭部をこちらに差し出している。その光景自体が、理解の範疇を越えていた。どういう風の吹き回しなのか。なぜ、わたしがこの人に「謝罪」されているのか。そもそも、なぜ彼がここにいるのか。矢継ぎ早に疑問ばかりが噴き出す。

「あの……天宮さんは?」

「あぁ、彼なら急用が出来て、今日来られなくなったそうだ」

嘘だ! わたしは即座に心の中で否定した。

あの人が、よりによってわたしとの約束をすっぽかすなんて――そんなはず、絶対にない。信じたくなかった。

「最近、元気がないようだけど……なにかあったのかい? 良ければ相談に乗るよ」

わざとらしく柔らかい声音。エリート気取りの、歯の浮くような言葉。

問い掛けは次々と投げかけられるのに、答えを絞り出す気力は湧かなかった。ただ俯き、やり過ごすことしかできない。

やがて運ばれてきた料理は、一流のはずなのに無味無臭に思えた。舌に触れても、砂のように味気なく崩れていく。

久社長は楽しげに話し続ける。「カメラが好きでね」などと、まるで少年に戻ったかのように目を輝かせながら。わたしは乾いた相槌で応じるだけだった。

しかし彼は、一向に気付かない。あるいは、気付いていながら意に介していないのか。

「ところで、一眼レフのなにが優れているか知っているかい?」

その瞬間、二重顎が不気味に揺れた。

顔全体から脂汗が溢れ出し、まるで湯気のように立ち昇っている。唇から飛ぶ唾が、今にもわたしのスープへと落ちそうで、吐き気を催した。反吐が出そうだった。

――なぜ、わたしはこんな仕打ちを受けなければならないのだろう。

心のどこかで気付いていた。

会社のお荷物に成り下がったわたしに、拒否権などないことを。

久社長は、次々と雑多な商品を売り捌くように、ついにわたしにまで「手を伸ばした」のだということを。


 翌日の昼過ぎ、わたしは重い腰を引きずるようにして、新宿の本社ビルへ足を運んだ。

昨夜の出来事で全身が鉛のように重く、腰は痛み、胃の奥は焼け付くように鈍かった。本当なら朝一番にでも乗り込み、奴らの悪行を白日の下に晒してやりたかった。だが、疲弊しきった身体は思うように動かず、午前中はホテルの一室で蹲っているしかなかった。店も、人生で初めて無断欠勤した。

それでも――気持ちを奮い立たせた。

怒りと恨み、そして復讐心を支えにして。

わたしが怒っているのは、貞操を奪われたこと自体ではない。

そんなことよりも、女を弄ぶあの穢らわしいやり口に対して、どうしようもない嫌悪と怒りが込み上げていた。だからこそ皆の前で、天宮と久の悪行をぶちまけてやろうと決意していた。もちろん、その先に会社を辞める覚悟も固めて。

――だが、天宮は不在だった。

同僚に訊くと「外回りに出掛けている」とのこと。偶然だろうか?いや、確信犯に違いない。

矛先を失ったわたしは、ミーティングルームの椅子に崩れ落ちるように腰掛け、頭を抱えた。

夢野屋を辞めるとしたら、父にはどう説明すればいいのか。

ありのままを告げれば、父はきっと深く傷つくだろう。それはわたしにとっても本意ではない。だが、もしここで二人の悪行を暴けば、いずれ耳に入るのは避けられない。では、このまま二人を野放しにするのか?次の被害者が出ないとも限らないのに…。

例えば七奈美ちゃん――二つ下の後輩。あの子はわたしなんかよりずっと可愛い。もう既に狙われている可能性だってある。

予防線を張る意味でも、ここで告発する価値はあるはずだ。

だが一方で、不安が鎌首をもたげる。

今の店舗の客には、父の浅草橋の店にも顔を出す常連が少なくない。もしわたしが戻った時に、妙な噂が立ってしまったら――父の店にまで悪影響を及ぼすのではないか。

考えれば考えるほど、心は袋小路に嵌まっていく。

胸がざわめき、思考は堂々巡りを繰り返し、出口が見えない。

その時だった。

「ここなら、誰もいないから自由にお話できますよ」

衝立を隔てた隣のミーティングルームに、誰かが入ってきた。声の響きから二人だ。

本来ならすぐに立ち去るべきだった。だが、重苦しい思考に絡め取られた身体は動かず、わたしは椅子に縫い止められたように座り続けてしまった。

どうやら、彼らはわたしの存在に気づいていないらしい。

そして、そのうちの一人の声に聞き覚えがあった。

――中須さん。

数年前、ローナイバックの販売で助言をしてくれた、あの危うい男。

相も変わらぬヤクザ口調で、彼が口を開いた。

「天宮の奴はどうなった?」

「――あぁ、もう大丈夫っすよ。口が開けないくらい、たっぷり痛めつけてやりましたから。次になにか行動見せたら“殺す”とも伝えてあります。……なんなら、ほんとにやっちまいます?」

物騒すぎる言葉が、衝立越しに突き刺さる。

背筋がゾクリと震えた。昨晩、天宮さんが約束をすっぽかした理由――もしかすると、これに関係があるのではないか。嫌な予感が一層濃くなる。

「……ったくよ。あの坊っちゃんも悪いんだ。あんな奴に仕事回すからだろ。鈍感だから今まで気づかなかっただけで、いつかはバレるってわかりそうなもんだろうが」

カチャ、と乾いた金属音が響く。

目の前の衝立で姿は見えないが、あれはきっと中須さんが例のサングラスを弄った音だ。彼は相も変わらず、室内でさえ外さない。普通なら誰かが突っ込みを入れるはずなのに、あまりに威圧的で、誰一人として口を開けない。結果、影で笑われていることを本人は知らない――いや、知ろうともしないのだろう。

「まぁ、営業成績はトップっすからね。実際、奴が莫大な利益を上げてるのは事実っすし」

健全なる企業のオフィスのはずなのに、わたしの耳に届く会話はまるで任侠映画そのものだった。

心臓の鼓動がうるさい。喉が渇く。逃げたいのに、足が椅子に縫いつけられたみたいに動かない。

思えば、あれから幾年。久社長は、世間一般で“社会不適合者”と見なされるような連中ばかりを採用するようになっていた。彼らは横暴で、長年この会社を支えてきた先輩社員たちにすら敬意を払わない。社内は荒み、空気は濁り切っている。

それでも、彼らが売上という“結果”を出してしまっている以上、誰も逆らえない。

不満を抱きながらも、皆、泣き寝入りするしかなかった――。

「ところで、田井中組から仕入れたネタなんですがね……」

――えっ。

最初は、二人の会話が耳を素通りした。だが、言葉の輪郭がはっきりしてくるにつれ、脳内でパーツが繋がり、全身に鳥肌が立った。信じたくなかった。だが、これは勘違いでは説明がつかない。緻密すぎる、計画的すぎる。

彼らが口にしているのは、商売人として絶対に犯してはならない線を、会社という規模で踏み越える詐欺行為の話だった。何を間違えば、こんな大犯罪に手を染めるのか。頭が真っ白になり、すぐにでも飛び出して止めなければと衝動が湧く。

だが、足がすくんだ。喉から声が出ない。思考の針が震え、身体は動かない。目をぎゅっと瞑り、拳を握って必死に自分を抑えた。息を殺し、心音だけがやけに大きく聞こえる。


それなのに、わたしは衝立の向こうの二人に囚われていた。

衝立一枚――たかがそれだけの仕切りだ。時間の経過とともに、わたしの存在が露見するのは時間だった。

いや、そもそも、彼らがこのミーティングルームに入った時点で、もっと早く顔を出すべきだったのだ。

トイレに立っただけで簡単に見つかってしまうほど、距離は近かったのだから。


お読みいただきありがとうございます。

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