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いたずら青年、世にはばかる  作者: 堀尾 朗
第1章「夢の透明マント」
3/20

—3—

 不幸の連鎖に、理屈なんてない。

どれもこれも、ただの偶然と片づけられて、耐えれば報われるなんて保障も、どこにもない。

大好きだったお母さんが亡くなって、尊敬していたお父さんは、仕事を失った上に詐欺まがいの被害に遭って、心を閉ざしてしまった。

それだけでも十分なのに、今度はわたしが――会社から、身に覚えのない理由で謹慎処分を受けた。これが「弱り目に祟り目」ってことなんだろうか。

ため息をいくら吐いても、胸の奥に溜まったこのしこりは、どうしても抜けてくれない。

悔しくて、虚しくて、悲しくて――感情ばかりがあふれて、どうにもならない。

さっき、上司から電話があった。

――謹慎中に男と遊び呆けているらしいな。

そんなこと、しているはずもないのに。怒るよりも、悲しさのほうが大きくて、何も言い返せなかった。

きっと、あの人の仕業だ。また――あの人が。

どこまでわたしを追い詰めれば、気が済むの……。


―――吉岡 よしおか・まなぶ

後輩の彼には、一つひとつの仕事を、できるだけ丁寧に教えてきたつもりだった。

それなのに――ある日突然、「パワハラだ」「セクハラだ」と騒ぎ立てられ、挙げ句の果てには役員会議にまでかけられて、わたしは謹慎処分になった。

必死で抗議した。

確かに叱ったことはある。けれどそれは、遅刻や無断欠勤が続いたり、仕事をお願いしても返事すら返ってこなかったり、勤務中にゲームをしていたり――社会人として、あまりにも非常識だったから。

怒鳴ったわけじゃない。あくまでも諭すように、落ち着いて注意したつもりだった。

セクハラだって……。

たとえば、書類を手渡すときに、指先が少し触れてしまったこと。

飲み会でたまたま隣になって、おつまみを取ろうとしたときに肘がちょっとぶつかって、それで彼が顔を赤らめていたから、つい軽くからかってしまった――その程度のこと。

あとは、親睦を深めようと思って「髪切ったの?」とか「休みの日は何してたの?」って訊ねたくらい。

それすらセクハラだというなら、この世はセクハラだらけじゃない?

わたしだって、上司や先輩にそれくらい聞かれたことなんて何度もあるし、もっとひどいことだって……。

酔った勢いでキスを迫られたり、「よろしく」と言いながら肩や腰を軽く叩かれたり、ひどいときなんて、冗談を装ってお尻を触られたことさえある。

それでも、わたしは耐えてきた。

笑ってごまかして、やりすごして――「こういうものだから」って、受け入れてきたのに。

それなのに、わたしが“加害者”になるなんて――

そんなこと、想像すらしていなかった。


吉岡は、吉岡薬品株式会社の社長の孫ということもあって、周囲からはずっと特別扱いされてきた。

厄介なのは、その肩書き以上に、極端に人付き合いが下手で、一般常識というものがすっぽり抜け落ちていることだった。

噂では、中学から二十歳になるまで引きこもっていたらしい。

周囲の人たちは皆、それとなく距離を置き、何かあっても適当にあしらっていた。

そんななかで、わたしは――見限らなかった。

見て見ぬふりをするのではなく、誠心誠意、教えてあげようと努めたつもりだった。

……その「つもり」が、傲慢だったのかもしれない。

結果はこのざまだ。とても、悲しい。

わたしも周りの人たちと同じように、必要以上に関わらず、見て見ぬふりをして、陰で悪口でも言っていればよかったのだろうか。

そうしていれば、わたしが傷つくことも、責められることも、なかったのかもしれない。

謹慎は、今週いっぱいで解ける。

でも――来週からが、怖い。

今はただ、会社に戻るのが、とても憂鬱だ。


―――――――――――――――――――――――――――――——


翌日、大田区の外れにある真鍋の実家を訪ねた。

真鍋は中学時代の友人で、当時は矢後ともう一人を加えた四人組で、よくつるんでいた。当然このあたりは、俺にとっても地元である。


ボサボサ頭の真鍋に出迎えられ、彼に案内されたのは、いわく“研究室”という名のコンクリート打ちっぱなしの地下室だった。

地下といっても敷地にドライエリアがあるため、室内には自然光が差し込んでおり、じめじめした地下特有の空気は感じられなかった。

真鍋はいわゆるニートである。しかも、中学卒業以降、一度も社会に出たことのない筋金入りだ。

世間一般から見れば、「いい年して親のすねをかじるクズ」と評価されるだろう。

だが、実態は少し違う。真鍋はある“研究”に没頭していたのだ。

中学卒業以降まったく音沙汰がなかったことから、研究というのも単なる言い訳で、ただの引きこもりだと思っていた。

だが、もし本当に完成しているのなら、少なくとも“何かをしていた”というのは事実ということになる。

実に八年ぶりの再会だったが、真鍋はまるで昨日も会っていたかのような軽い調子で、再会の挨拶もそこそこに本題へと入った。

「まぁ、あれこれ説明するより、見た方が早いだろ」

そう言って、学校の理科室にあるような実験台の下へとしゃがみこみ、真鍋の姿は死角へと消えた。

すると次の瞬間、目の前のフラスコが宙に浮いた。

「おお~……」

俺は思わず感嘆の声を上げた。

続いて、カーテンがひとりでにスーッと閉まり、背後から軽い衝撃があったかと思うと、ポケットにしまっていた財布がふわりと宙を舞い、鳥のように自由気ままに8の字を描いて飛び回り始めた。

「これは……すごい。まったく見えない」

つい拍手したくなるほど、感動的な光景だった。

「そうだろ? 全然わからんだろ」

姿の見えない真鍋の声が、部屋のどこかから響く。

そして、ふいに目の前に、真鍋が忽然と姿を現した。だが、その手元はどこか不自然に歪んでいた。

「それが……?」

「そう。透明マントだ」

真鍋は不自然に揺らめく手元の布を軽く持ち上げながら、静かに続けた。

「もっと早く完成できると思ってたんだがな……結局、八年もかかってしまった。ずいぶんと待たせてしまったな」

その言葉に、どこか遠くを見つめるような、淡い表情が浮かんでいた。


 それは、八年前のこと。

かつて中学生だった二人の少年は、ほぼ毎日のように、ある“夢”について語り合っていた。

周囲の人間はそれを笑いものにしたが、二人は本気だった。

どこまでも、大真面目だった。

だが――誠に残念なことに、その夢はこの日本という国において、人徳に反するとされた。

最悪の場合、社会復帰すら困難になる可能性もある。それほどまでに、危険な賭けだった。

結局、彼らは怖じ気づいた。

夢は果たされることなく、中学を卒業した。純粋無垢な二人の少年にとって、あまりにも敵が多すぎたのだ。

一人の少年が、涙をこらえながら呟いた。

「透明マントでもあれば……」

すると、もう一人の少年が、きらきらした目で答えた。

「だったら――作ってしまおう」

—————と。


まさか、本当に作り上げてしまうとは……。

今、もしかすると俺は、歴史的瞬間に立ち会っているのかもしれない。彼は、ただあの夢を叶えるためだけに、八年という歳月を研究に捧げてきたのだ。

そして――これは、世界をひっくり返すほどの大発明だ。

だからこそ、言えなかった。

正直なところ、もう俺は良い大人で、それなりの経験もしてきた。

あの頃に比べて、あの“夢”への熱は、もうそれほど残っていない。

中学を卒業して以来、ずっと引きこもっていた彼は――

良くも悪くも、あの頃と変わらない。純粋で、まっすぐな心を、そのまま維持できたのだろう。でも、大人になるとは、現実を知るということだ。

不幸なことに、夢を持った分だけ、それを削ってしまう過程でもある。

たとえば、将来の夢に“スポーツ選手”を挙げていた少年が、「こんなに努力しなきゃいけないのか」と悟って、夢を諦めるように。

あるいは、“パティシエ”に憧れていた少女が、実は男性が多く、調理器具は重くて、深夜残業が当たり前だと知って、夢から離れていくように。

もしくは、“海の見える暮らし”に長年憧れていた人が、引っ越してしばらくは胸を躍らせるけれど、数ヶ月もすれば潮風と湿気にうんざりして、感動が薄れていくように――

(……ようやく、しっくりくる例えに辿り着いた)

そういう感覚を、きっと真鍋は知らずにここまで来たのだ。

だからこそ、言えなかった。

八年という、人生で一番まぶしいはずの時間のすべてを、それだけに捧げてきた男に、そんなひどいことは言えなかった

だから、俺は腹を括った。

真鍋を正面から見据え、ごくりと生唾を飲み込む。

「良心は?」

「働かない」

――それは、中学生の頃、いたずらを仕掛けるときの、俺たちの合言葉だった。

“やるぞ”という、決意の表明


―――――――――――――――――――――――――――――——


「いやぁ〜、最高だったな」

俺たちは肩を組み合いながら、夜道を歩いていた。真鍋も俺も、缶ビールを片手に上機嫌そのものだ。

「もう一回行くか?」

「いいねぇ」

二人で高らかに笑う。

頬はほんのり赤い。

それは銭湯で火照っているのか、酔いで火照っているのか――それとも、あの行為によるものか。とにもかくにも、ストレス発散の最高峰を、今この瞬間に味わっている。

つい先ほどまで“大人ぶっていた”俺など、もうどこにもいない。

気分は最高潮で、本能の赴くままに事を成した。

これ以上に、透明マントを活かす手段が他にあるだろうか? 断言する。絶対にない。

人助け? 社会貢献? いくらでも綺麗ごとは並べられるが、自己の利益を最優先したとき――やはりこれっきゃない。

「なぁ、この透明マントって、大発明じゃないか? 今後どう使うつもりなんだ?」

気になって訊ねてみた。開発したのは真鍋なのだから、当然、使い道を決める権利も彼にある。

「どうって言われてもな。今日のために作ったんだし」

真鍋は本当になにも考えていない様子で、ぼんやりと答えた。

「いやいや、専門の研究所とかに売り込めば高く売れるんじゃないか? もしかしたら、そこに就職できるかもしれないぜ」

「そりゃ無理だな」

「なんでだ?」

「透明マントは、すでに開発されてるからな」

「なにっ!?」

衝撃の事実だった。

八年もかけたというのに、なぜそんな事実を平然と……。悲しくはないのか?

そう思った瞬間、真鍋がまるで心を読んだかのように口を開いた。

「当たり前だ。じゃなきゃ、八年なんかで完成できるわけない。公には発表されてないが、二十年も前に、完成間近の論文が出てる。それを応用して、俺が仕上げたってわけ。だから間違いなく、透明マントはとっくに完成してる」

「そうか……でも、公に発表されてないんだろ? だったら……」

「当たり前だよ」

――二度目である。

こっちは研究者じゃないんだから、その“常識”は知らない。もうちょっと優しく言ってほしいものだ。

「完全なる透明人間になれるんだぞ。悪用のしようはいくらでもある。倫理的な問題が大きすぎるから、手放しで発表なんてできない。最悪の場合、研究そのものが闇に葬られる可能性だってある」

「そういうもんか?……まぁいいや」

難しいことを考えるのはやめた。そんなことより、楽しければ何でもいい。

「それより、もう一回行こうぜ。今度は趣向を変えて、渋谷あたりどうだ? 若い娘が、わんさかいるぞ」

「決まりだな」

男同士がニタニタ顔で見つめ合う。

持つべきものは――やっぱり、こういう友だ。


―――――――――――――――――――――――――――――——


 頭がズキズキする。

今日は同僚に付き合ってもらって、少しばかり飲みすぎた。くだらない話で笑ったはずなのに、気分は少しも晴れなかった。

深夜の静まり返った家にそっと足を踏み入れる。

玄関の扉をゆっくり閉め、足音を殺して廊下を進む。寝室の扉をそろりと開けると、かすかに寝息が聞こえた。

照明をつけるのは気が引けて、目が慣れるのをじっと待つ。薄暗い部屋を忍び足でタンスまで歩き、手探りで引き出しを開け、寝間着と下着を取り出そうとしたそのときだった。

「今、何時だと思ってるのよ」

布団の中から飛んできた、冷たく刺すような声。

「……ごめん」

条件反射のように低く謝り、寝間着と下着を手に取る。部屋を出ようとしたその背に、さらに追い打ちがかかった。

「最近、飲みすぎじゃない?」

その刺々しい言葉に、胸の奥が苛立ちでざわついた。だが、唇を噛み締めて感情を押し殺す。

――妻は、どうして僕が酒をあおるようになったのか、考えたことすらないのだろう。

自棄酒に走るようになったのは、妻の浮気を疑いながらも、それを問い質すこともできずにいるからだった。

妻はまだ何か言っていたが、もう聞く気になれない。寝間着と下着を手に取り、寝室の扉を――わざと音を立てて――閉めた。

扉越しに怒声が響いたが、もう気にしない。気にしてはいけない。

妻・多恵子たえことは、今年で結婚三年目。

まさか、こんなにも早く冷え切った関係になるなんて、想像もしていなかった。

どうして、こうなってしまったのだろう。

いつまで、こんな鬱々とした日々が続くのだろうか。

――もう、終わりにしなければならない。

決定的な証拠さえあれば。

それさえあれば、口下手な僕でも、妻の目を見て、真正面から問い詰めることができるはずだ。

そう、証拠さえ――あれば。

お読みいただきありがとうございます。

よろしければ、評価して下さるとありがたいです。

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