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それは、あまりにも突然の訃報であった。
夢野屋の社長であり、父の親友でもあった夢野友蔵さんが、不慮の交通事故でこの世を去ったのだ。
葬儀の場。
棺の中で、静かに眠る友蔵さんの姿を目にした瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。つい数日前まで温かく笑い掛けてくれていたその人が、今は冷たい眠りにつき、もう二度と声を掛けてくれることはない――その現実を前にして、わたしの心は張り裂けそうだった。歯を食いしばり、せめて声だけでも抑えようとしたが、嗚咽が喉の奥から漏れ、肩が震えるのを止められなかった。指先で必死に涙を拭っても、次から次へと零れ落ちてきて、視界は霞み続けた。
閉式後。
気丈に振る舞っていた父が、人知れず棺の傍らに歩み寄り、静かに腰を落とした。その背中には、これまで見たことのない重さと哀愁が宿っていた。彼は声にならぬ声で、何事かを語り掛けていた。友蔵さんとの長き友情、数え切れぬ思い出を振り返っているのだろうか。頑固一徹で涙を見せたことのない父の頬に、一筋の光が伝っていた。
その涙を見た瞬間、堪えていたものが決壊した。胸の奥から押し出されるように嗚咽が込み上げ、わたしは顔を覆って泣き崩れた。親友を失った父の深い悲しみと、かけがえのない存在を同じく喪った自分自身の痛みが重なり合い、全身が悲しみに沈んでいくようであった。
いつもは冗談ばかり口にして場を和ませる天宮さんでさえ、この日ばかりは別人のようだった。お調子者の面影はどこにもなく、眉間に深い皺を寄せ、唇を固く結んだその横顔は、見慣れぬほど真剣で、張り詰めた空気をまとっていた。
慰めの言葉を掛けようと一歩近づいたとき――彼の唇から漏れたのは、低く、しかし揺るぎない声だった。
「見ててください。必ず…」
その一言には、悲嘆よりもむしろ決意が込められていた。
思わず足を止めた。胸にかけていた言葉は霧散し、ただ立ち尽くす。彼の背中から伝わる気迫に、軽々しく声をかけることなど到底できなかった。彼の決意を邪魔してはいけない――そう直感し、わたしはそっと身を引いた。
それから数日後、夢野久が正式に社長の座に就くこととなった。
社長就任初日。夢野屋の全社員が工場に集められる。簡易的なステージ台に立った久社長は、まず実父への弔意を述べ、続けて新たな経営方針を語り始めた。
「今、我が社の経営が軌道に乗れているのは、昨今のバブル景気の後押しが大きいからだ。だが、いつまでも好景気が続くわけではない。いずれバブルは弾け、深刻な不況に陥るかもしれない。その時、今のままの我が社で太刀打ちできるのだろうか。最悪の場合、会社が頓挫する可能性もある。ましてやジュエリーは贅沢品。日本経済の悪化は、そのまま業界全体に影響を及ぼす。だからこそ、今のうちから準備をしておかねばならない。ジュエリーだけに拘らず、多岐にわたる製品を取り扱うことで、小売業者としての礎を築き、時代に左右されない逞しい会社とするのだ」
――やはり、そうきたか。
そう思う一方で、久社長の言葉には確かに一理あり、感心せざるを得なかった。
「とは言え、今やジュエリーは空前のブームの真っ只中であり、皆が多忙を極めていることも承知している。そんな中で異業種に参入したところで、食い散らかすばかりか、目まぐるしく発展するジュエリー業界に遅れを取る危険もある。――そこでだ。皆に紹介しておきたい方々がいる。こちらへ」
久社長の呼び掛けに応じ、端に固まっていた男達がゾロゾロと前に出てきた。十数人。横一列に並ぶその姿は、初めて目にする顔ぶればかりだった。
一瞥しただけで、胸の奥に不穏なざわめきが走る。
がっしりとした肩幅に、鍛え上げられた腕。場数を踏んできた者特有の、威圧感のある立ち姿。髪型はスキンヘッド、オールバック、リーゼント――とバラバラなのに、不思議と同じ匂いを放っている。
彼らの顔つきは、一癖も二癖もありそうなものばかりだった。眉間の深い皺、目尻に刻まれた傷跡、歯の抜けた笑み。どれも「普通の職場」に馴染む顔ではない。共通しているのは、その眼光の鋭さだ。油断なく周囲を射抜く視線に、思わず背筋が粟立つ。
しかも着ているのは、場違いなほど派手なスーツや、くたびれて黄ばんだワイシャツ、あるいは襟元をはだけた開襟シャツ。まるで、縄張りを広げに来た一団のようだ。立ち並ぶその列からは、煙草と整髪料と酒の入り混じった、刺々しい匂いすら漂ってくる気がした。
――どう見ても、堅気には見えない。
その異様な光景に、場に居合わせた社員たちのざわめきは一瞬で凍りつき、しんと静まり返った。
久社長の声が、まるで高座の演説のように響き渡る。
「皆には今まで通りジュエリーを専門に尽力してもらう。そして新たに社員として迎え入れる彼らこそが、未だ見ぬ異業種への開拓者となってくれよう!」
――すでに経営改革は動き出していたのだ。
だが疑念は拭えない。事業拡大の構想を久社長が語っていたのは以前からだが、故・友蔵さんに強く止められていたはず。表立った行動はできなかったのに――まるで準備していたかのように、こうして“人材”を揃えてきた。あまりにもタイミングが良すぎる。
「それでは、皆の健闘を祈る!」
久社長が声高に締め括り、就任挨拶はもはや演説そのものの様相を呈した。場内に響いた拍手はどこかぎこちなく、重苦しい空気だけが残った。
就任挨拶が終わり、工場の事務員をしている同僚と他愛もない談笑を交わしていたところだった。
ふと、口の端を歪めた久社長がこちらに歩み寄ってくるのが目に入り、わたしは咄嗟に背筋を伸ばして身構えた。
「心配してただろう? 異業種に飛ばされるんじゃないかってな」
久社長は、わざとらしく口角を歪め、目を細めてこちらを値踏みするように見下ろした。
「だが安心しろ。ジュエリー以外、何ひとつ知識も能もない君になど、最初から一欠片の期待すらしていないからな」
その声音には、氷のような冷たさと、相手を傷つけることを楽しむかのような嘲りが滲んでいた。
胸の奥を鋭利な刃で抉られたように痛む。
吐き捨てるように言葉を残すと、久社長はわざと靴音を響かせながら、ゆっくりと背を向けて去っていった。
あからさまな嫌味に言葉を失い、押し黙ったわたしを見て、同僚が心配そうに覗き込んでくる。
「……ううん。なんでもない」
慣れたふりをしてそう答えたが、胸の奥には、鈍い痛みがじわりと広がっていた。
――――――――――――――――――――――――――――――
それからおよそ一年後のある日。
天宮さんが珍しく深刻な表情を浮かべ、わたしに相談事を持ち掛けてきた。
その頃のわたしは、あの”どう見ても堅気には見えなかった連中”の存在などすっかり忘れていた。というのも、彼らが来社して以来も業務内容は大きく変わることなく、相変わらずショップの販売員として平穏な日々を送っていたからだ。久社長が就任の日にぶち上げた経営改革の声明も、いつしか頭の隅から薄れていた。
「晴ちゃん、ローナイってブランド知ってる?」
「ええ、もちろん知ってますけど…」
ローナイと言えば、フランスの高級ファッションブランドだ。バッグや財布、小物を数多く手掛け、最近では若い女性を中心に絶大な人気を誇っている。新作が出れば、早朝から行列ができるほどで、ファッション誌では「高ステータスのマストアイテム」とまで持て囃されている。当然値も張るため、わたしの友人の中には、ローナイを手に入れるために何か月も節約生活を強いられていたり、好意のない男性にまで媚びて資金を調達しようとしたりする者もいた。
「これなんだけどさ」
そう言って彼が取り出したのは、ローナイのバッグだった。真っ白なトートバッグで、留め具の部分にはローナイのシンボル――三日月に星を添えたような意匠が施されている。
一瞬――まさかプレゼント?と期待してしまった自分を、心の中で呪う羽目になった。実際にはそんな甘い話ではなく、このバッグを「売り込まなければならない」のだと、彼は言うのだ。
「なんでうちが? だってジュエリー専門でしょう? 全く関係ないじゃ――」
そう口にしかけたところで、はっと思い当たった。
――そうか。これも、あの日の“事業拡大”の一環なのか。
「でも、おかしくないですか? ローナイと言えば超有名ブランドですよ。既に大手のアパレル企業が取り扱っているはずです。それなのに、なぜうちみたいな中小企業が――ましてやファッション販売の実績なんて皆無のうちが――取り扱えるんですか?」
わたしは疑念を覚えて問い詰めた。だが、返ってきたのは予想通りの気の抜けた答えだった。
「知らん」
――そうだ、この人は適当な男だった。
「とにかく、これを営業に掛けてくれって、社長直々のお達しなんだよ」
天宮さんはローナイのバッグを撫でながら、困ったように笑う。少しずつ事情が飲み込めてきた。つまりブランド品に疎い彼は、どう売り込めばいいのか全くわからず、知識を補おうとわたしに泣きついてきたのだろう。だが、その懇願は予想をはるかに超えていた。
「だから、俺と一緒に外回りして、このバッグを隣でアピールして欲しいんだ」
「はぁ?」
思わず声が裏返る。もちろん即座に断った。だが天宮さんは食い下がる。
「一回だけでいいから!」
断っておくが、これは卑猥なやり取りではない。彼の言い分はこうだ――うちの顧客リストに載っているのは、あくまでもジュエリーを求めている客ばかり。そんな人たちに、いつもの“嘘八百営業”でバッグを売り込むなど不可能だ、とのことだった。
「だったら真面目にやればいいだけじゃないですか!」
「いやいや、それじゃあ俺の個性が死んでしまうじゃないか」
――明石家さんまか!
くだらないプライドに付き合っていられない。
「じゃあ新規を開拓すればいいじゃないですか。それなら個性とか関係ないでしょう」
「いや、それは面倒だ」
せめてもっとマシな言い訳をしてほしい。真剣に案を出しているこっちが馬鹿みたいだ。
「大体、わたしだってそんなに詳しいわけじゃありませんよ」
「それなら俺の方がよっぽど知らん。ローナイなんて、つい最近初めて聞いたくらいだ」
「だからおかしいんです!なんで予備知識もない天宮さんが、これを売り込むんですか?」
そこで彼が一瞬言葉を詰まらせた。重い沈黙のあと、力なく呟く。
「……それが狙いなんだろう」
はっとした。――これは久社長の仕組んだ嫌がらせだ。
社長に無理難題を押し付けられ、右も左もわからないまま、必死にわたしへ縋りついている天宮さんの姿が急に浮かび上がって見えた。普段は軽口ばかり叩くお調子者なのに、今はまるで迷子の子どものように不安げで、頼りなさすぎて逆に胸が痛む。
気づけば、わたしの中で苛立ちよりも哀れみの方が勝っていた。――この人を完全に突き放すことはできない。
「仕方ないですね。一回だけですよ」
そう告げた自分に、呆れと苦笑が入り混じる。
こうして、またもわたしは彼の外回りに同行する羽目になった。
その日は朝から雨が降っていた。
しとしとと細い雨脚が空気を濡らし、アスファルトのあちこちにできた水溜まりが、街灯の光をぼんやり映している。その上を、天宮さんはまるで慣れた道を歩くかのように軽やかに進み、わたしは必死に水溜まりを避けながら、その背を追いかけていた。
昨晩からずっと頭の中で練習してきた台詞を、小声で譫言のように繰り返す。だが声はどこか上擦り、心臓の高鳴りは一向に収まらない。胸の奥で波立つ緊張が、呼吸のリズムさえ乱していた。
「なにをそんなに緊張することがあるんだ? 気心知れた相手だろう」
余裕の笑みを浮かべて振り返った天宮さんに、わたしはムッとした。――あなたはいつも通りの軽口でいいでしょうけど、こちらは本来無関係な商品を必死に売り込まなきゃならないのだ。上がって当然じゃない!
そもそもの発端は、ローナイを誰に紹介するかを相談していた時だった。田所様が、あの家政婦さんのためにローナイを探していたことを思い出したのだ。憧れのブランドを贈ってあげたい、と話していた姿が脳裏に蘇る。もちろん、既に購入してしまっているかもしれない。だが、話題にするだけでも意味はある――そう結論づけ、今日の訪問に臨むことになったのだった。
田所様は大変ご機嫌であった。
一年前と変わらず、天宮さんの滅茶苦茶な営業に腹を抱えて大笑いしている。わたしは愛想笑いを貼り付けたまま、その掛け合いを見守り、やがてジュエリーの契約が済んだところで、意を決してローナイバッグの話を切り出した。
「あっ、あのっ――」
声が裏返り、自爆。場の空気が一瞬止まる。
だが田所様は、わたしの狼狽を気遣うように「ゆっくりでいいよ」と穏やかに促してくれた。その優しさに救われ、どうにか体勢を立て直す。
「もしご興味がなければ、全然断っていただいて構わないんですが…」
――営業のセオリーから言えば致命的な後ろ向きの言葉だ。だが、この時のわたしはただ伝えることに必死で、余計な言い回しに気を配る余裕などなかった。
ローナイバッグをテーブルにそっと置き、声を強める。
「実は最近、我が社ではジュエリー以外の商品も取り扱うようになりまして…。以前、田所様が家政婦さんへの贈り物に、とローナイのことをお話されていたのを思い出しまして」
言葉が勝手に口を突いて出る。勢いに任せて、わたしは一気にまくし立てた。
「こちらの商品なのですが、新作物でして、どこの高級セレクトショップでも即刻売り切れとなってしまい、なかなか手に入れることができない貴重な代物なんです。ですが、幸い社内にローナイ関係者と知り合いの者がいまして、口説き落として、なんとか数量限定で販売に漕ぎ着けたんです!」
自分でも”必死すぎる”と思うほど必死に喋り続ける。
実のところ、この売り込み口上は――お恥ずかしい話――ローナイバッグ販売の仕掛け人である中須さんから聞いたフレーズの丸写しに過ぎなかった。
中須さんは、一年前に久社長が事業拡大のために招き入れたメンバーの一人だった。三十代前後、髪はべったりと撫でつけたオールバック。室内だというのにサングラスを外さないその姿は、どう見ても”堅気”には見えず、第一印象からして危なっかしい人だった。わたしは緊張の面持ちで、メモ用紙をぎゅっと握り締めて彼と向き合ったのだが――意外にも、ヤクザ口調ながら親身になってアドバイスをしてくれる人であった。
「こちら、網目状の模様になっているんですけど……よく見ると、左下方向の線だけ、少し溝が広くなっているのがおわかりになりますか?これがローナイブランドの証なんです」
中須さんに教わった言葉を、そのまま必死に口にした。けれど田所様は「うん?」と首を傾げるばかりで、明らかに違いが伝わっていない様子だった。
わたしは焦り、次なる受け売りを繰り出したが、むしろ疑問を植え付けてしまったらしく、場の空気が徐々に重苦しいものになっていった。
その時だった。隣に座っていた天宮さんが、平然と口を開いた。
「そんなん、パチモンですよ」
背筋に鳥肌が走った。
「ちっ、違います!」
わたしは慌てて彼を睨み付けるが、お構いなしに暴走は止まらない。
「見りゃ安っぽいのわかるでしょ。それにうちの社長、田所様に偽物売り付けようと“バレないバレない”って、鼻息荒くしてたもん。しかも“ヨーロッパって国で大人気だ”なんて言ってましたからね。ヨーロッパは国じゃないっつーの」
あわあわと手を伸ばし、どうにか止めようとするが、天宮さんはますます調子に乗る。
「噂じゃ、とある貧しい女が、友達に見栄張るためだけに作ったのが発祥らしいですよ。ブランド品を真似ては見せびらかしてたんですけど、ある日バレちゃってね。意気消沈したその女が考えたのが“そうだ、成金にばら撒こう”。以来、偽物を持ち歩く成金共を影から見ては、せせら笑ってたとか」
わたしは肩を落とした。努力も台詞の練習も、すべて水泡に帰した気分だった。
だが次の瞬間、田所様の豪快な笑い声が部屋いっぱいに響いた。
「ガハハッ!まったく君らは面白いなぁ」
その笑いに救われたのか、天宮さんは最後に畳みかける。
「さて、こちら“ぼったくり商品”となりまして、税抜き五十万円!いかがなさいますか?」
――結局、田所様は迷うことなくローナイバッグを購入した。
わたしの必死の努力は一体なんだったのか。胸に虚しさだけが残った。
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