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俺はあっさりと早乙女に暴行を加えた。
突然、体をくねらせて苦痛を訴える元上司。見えない拳が一発、二発と頬を打ち付けるたびに、早乙女の顔面は上下に揺れ、その度に苦悶の表情を浮かべる。
だが――傍から見れば、まるで間抜けなダンスだ。
腰をくねらせ、顔をカクカクと上下に振る姿は、リズム音痴の即興ダンサーにしか見えない。
当然、周囲の社員たちは呆気に取られ、ただぽかんと口を開けたまま立ち尽くすしかなかった。アホ面を揃えて、何が起きているのか理解できずにいる。
俺はそんな社員たちの目の前へ早乙女を放り投げた。床を転がりながら無様な呻き声を上げる早乙女を横目に、ふんと鼻を鳴らす。
――そして、悠々とデルクス株式会社をあとにした。
心は満たされていた――が、帰宅してテレビをつけた途端、その気分は再び害されることとなった。夕方のニュース番組が大々的に報じていたのだ。
――相次ぐ怪奇強盗事件。透明人間は実在した!?――
番組によると、都内の宝石店で再び強盗事件が発生。犯行は、透明人間の仕業と見られているらしい。被害を受けたのは中野区、港区、江東区の三店舗。いずれも、ガラスケースが突然割れ、宝石が宙に浮いたまま店の外へ飛んでいったのだという。
真鍋が必死の思いで発明した透明マントを悪用するとは――まったく、とんだ不届き者である。
しかも、捜査の混乱を狙ったのか、前回の事件は足立区、千代田区、大田区と、23区内を無作為に荒らしていた。今回と合わせれば、その範囲は広く、足取りを掴むのは困難を極める。
犯行時刻はいずれも深夜帯。
ただし同時刻の連続犯行ではないことから、犯人は車で移動している可能性が高いと報じられていた。警察は現場周辺で不審者の目撃情報を洗っているというが、それだけでは真犯人に辿り着けないだろう――コメンテーターの口ぶりは、辛辣だった。
――当番組の報道班は、透明人間に心当たりがあるという二人の人物への取材に成功しました。まず一人目は……。
心臓が飛び出しそうになった。
画面に映し出されたのは、顔にモザイク、声は加工されているものの――間違いなかった。
かつて多恵子の浮気相手だった、あの男だ。
「……一ヶ月ほど前のことなんですが。当時、とある女性に付きまとわれていたんです。その日も、彼女にしつこく交際を迫られていました。自分は……正直、あまり好きではなかったので断ったんですが……まあ、ちょっと頭のイカれた女性でしたから、それでも引き下がらなかったんです」
男は語りながら、椅子の上で落ち着きなく身をよじった。
「その時です。いきなり、身体に異変が起きたんです。まるで――男にとって大事なところを、何者かに鷲掴みにされたような痛みが走ったんですよ!当然、目の前の女性じゃありません。彼女とは一定の距離を取ってましたから」
声が震え、スタジオもざわめく。
「しかも、その怪奇現象は一度だけじゃない。五日間連続で起こったんです。しかも決まって……あのイカれた女性が目の前にいる時だけ――」
更なる衝撃が、全身を駆け巡った。
二人目として画面に映し出されたのは――矢後の勤める学校に巣くう問題児の保護者。あの、モンスターペアレントのミサト物真似であった。
「……あれは三週間ほど前のことです。息子が学校でいじめられていると知り、学校に相談に行ったんです。けれど学校側は、そもそもいじめの存在を認めようとしませんでした。『何かの勘違いでは?』『子供同士のじゃれ合いですよ』などと言い出すんです。そんな馬鹿なこと、ありますか? 可哀想に、息子は毎日のように傷だらけで泣きながら帰ってくるんですよ!」
声を荒らげながら、ミサト物真似は続ける。
「だから私は、学校に強く抗議しようとしました。……でも、それは叶いませんでした。なぜなら――誰もいないはずの背後から、汚らしい言葉が耳元で囁かれたんです。私を貶めるような、吐き捨てるような声で。気が気じゃありませんでした……きっと、あれが透明人間の仕業なんです……!」
――揃いも揃って、都合のいい改竄をしてくれる。
あの男は「浮気」も「ヒモ」も綺麗に抜かし、多恵子が一方的に好意を寄せていたかのように語るとは。虚実を逆さまにしやがって。
そして、このミサト物真似はさらに酷い。
いい加減に認めろ。お前の息子は「いじめられている」んじゃない。――「いじめている」側なんだという現実を。
二人の告発を知り、胸騒ぎが止まらなかった。
この二人がニュース番組の取材に応じているということは、当然ながら警察の捜査にも協力的なのだろう。直接的に俺へと辿り着くことはなくとも、間接的に俺の名が浮かび上がる可能性は十分にある。――つまり、残された時間はそう多くない、ということだ。
そんな折、一人の女性が家を訪ねてきた。雪音だ。
こうも頻繁に我が家を訪れるとは、彼女はきっと堪らなく俺のことが好きなのではないか。嫌よ嫌よも好きのうち――なんだかんだ言いながらも、実は俺に首ったけに違いない。会いたくて会いたくて仕方がないのだろう。もっと素直になれば、どれほど可愛げがあることか……。
――そんな淡い期待は、一瞬で粉々に打ち砕かれた。
雪音の背後に、矢後の姿があったのだ。
「……ちょっと、雄司くんと相談してたんだけど」
あれ? 今、聞き間違いか?
矢後のことをファーストネームで呼ばなかったか?いつの間に俺は追い抜かれていたのだ?
そのことばかりが気になって、二人の話などほとんど耳に入ってこなかった。
――相談?何の相談だ。
まさか、子作りの計画でもしていたのだろうか。そういえば前回も、この二人はこそこそと密会していた。おそらくホテルでお盛んに耽っていたに違いない。
美男美女の秀才コンビ。
同じ階級に属する二人が恋仲になるのは、自然の摂理といえるだろう。醜悪・低学歴・無職の俺には、もはや入り込む余地など一切ないのだ。
――気づかぬうちに、二人はすでに恋仲となっていたのか。
だとしたら、なぜそれを公表しないのだろう。互いに独り身で、交際相手もいないはず。不倫でもないのに、隠す理由が見当たらない。
……強引にこじつけるなら、マドンナ先生の存在か。矢後は否定していたが、その実、彼女を抱いていた可能性はある。その手前、雪音との交際を曖昧にして波風を立てないようにしているのかもしれない。
それにしても、雪音も性悪だ。美人であることを鼻にかけ、手当たり次第に愛想を振りまき、男を手玉に取っては都合よく掌で転がす――許すまじ行為である。
「ねぇ、聞いてるの?」
「いや、全く」
二人が同時に呆れ顔を浮かべる。その表情がまた見事に息ぴったりで、まるで運命に導かれたかのよう。図らずも、その光景が胸に深く突き刺さった。
「とにかく、会って貰いたい人がいるの」
眉間に皺を寄せ、傷心しきっている俺に一切の気遣いなく、雪音は一方的に用件を伝えるのであった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
連れて行かれたのは、浅草橋駅からほど近い江戸通り沿いにある、古びた宝石店だった。
店内はブラウンを基調とした落ち着いた空間で、売り場はガラスケースがぐるりと取り囲んでいる。カウンターの役割も兼ねているため、内側には椅子も並べられていた。しっとりとした雰囲気が漂い、思わず心が落ち着く。
本来なら――雪音と二人きりなら、俺は盛大に勘違いを起こしていたことだろう。だが、いかんせん“お邪魔虫”矢後が隣にいる。おかげで一瞬の幸せに浸ることさえ叶わず、無の心持ちで入店するしかなかった。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声が耳に届く。
売り場に出ていたのは二人の従業員だった。
一人は三十代ほどの男性。垂れ目で恵比寿顔、柔和な雰囲気が滲み出ている。
もう一人は二十代くらいの女性。切り揃えられた前髪と、肩までの後ろ髪はどこか座敷わらしを思わせた。
どちらも目の前のカップルに接客中だったが、こちらと目が合うと軽く会釈し、微笑みを返してくれる。とても好印象な対応だった。
雪音は一瞬、従業員に声を掛けようとしたが――仕事の邪魔をしてはいけないと考えたのか、そのまま店内の指輪を見て回り始めた。
目的が分からない俺も、仕方なく彼女に倣って適当に指輪を物色する。
正直なところ、これまで宝石になど興味を抱いたことはない。せいぜい「綺麗だなぁ」と、子供じみた感想を浮かべる程度だった。
しばらくして接客を終えた従業員が、にこやかにこちらへ近づいてきた。
「なにか気になるものがありましたら、お声掛けください」
……なんだ、男か。思わず外れを引いた気分になり、適当に相槌を返す。
その瞬間、雪音が待っていたかのように口を開いた。
「二宮さん。いらっしゃいますか?」
従業員の男は目をまん丸に見開き、「店長ですか?」とだけ言うと裏へと消えていった。
やがて彼が連れてきたのは、五十代くらいの女性だった。
背筋はすっと伸び、深く刻まれた皺に優しげな垂れ目――その表情には、不思議な親しみやすさが漂っている。
女性は深く腰を曲げて自己紹介をした。
「はじめまして、二宮です」
そして雪音を一瞥すると、感慨深そうに目を細めて問いかける。
「あなたが……娘さん?」
「あっ、はい! その節は父がご迷惑をお掛けしました」
「いえいえ、わたしは別に大したことしていませんよ」
謙遜なのか、二宮は軽く首を振った。
「立ち話もなんだから……」
そう案内されたのは、従業員の休憩室と思しき小部屋だった。長テーブルの前に腰を下ろすと、温かいお茶が配られる。外の冷気にすっかり震えていた身にはありがたく、一口すすって気を落ち着けた。
「電話でお話した通りなのですが……」
矢後が切り出して説明を始めた。だが、真夜中の警備だの長期戦だの口裏合わせだの――要領を得ない言葉が延々と並ぶばかりで、肝心なところがさっぱり伝わってこない。唯一わかったのは、この店で中須を待ち伏せする腹積もりらしい、ということだけだった。
やがて説明を終えた二人が立ち上がる。俺もつられて腰を上げると――
「いや、お前はここに残るんだよ」
まるで説教するかのように言い放たれた。
「ふざけんなよ」と当然反論するが、小悪魔的な雪音の潤んだ瞳に見つめられると、つい心を奪われ、安請け合いしてしまう。
二人は「俺たちは明日も仕事だから帰るよ」と、あっさり店をあとにした。無職になって以来、時間感覚はすっかり狂っていたが、時計を見れば確かに夜の十時を回っていた。
取り残された俺は、二人の背を見送ったあとで腰を上げ、二宮に軽く会釈した。
「あら、帰ってしまうの?」
「やってられませんよ」
第一に、中須がそんな都合よく現れるわけがない。それに奴がこれまで狙ってきたのは、どれも高級感漂う宝石店ばかりだ。こう言ってはなんだが、こんな古臭い店を標的にするとは到底思えない。
目を見開く二宮に、冷徹にそう言い残し――俺は帰路についた。
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