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いたずら青年、世にはばかる  作者: 堀尾 朗
最終章「復讐」(前編)
21/36

—2—

 仕切り直して履歴書を広げ、ボールペンを握る。

学歴・職歴を埋め、ようやく免許・資格の欄へ辿り着く。取得年月まで書き終えたところで、スマホが再び鳴った。

時刻は夜の九時を回っている。せっかく珍しくやる気になって書き始めた履歴書なのに、邪魔ばかり入る。さっきも父親から長々と説教を受けたばかりだ。胸糞悪い。

発信者は吉岡。通話ボタンを押すと、開口一番——

「まだ告白してないんだって?」

あまりに唐突で、意味を理解できず、疑問符を投げ返す。どうやら雪音に告白していないことに腹を立てているらしい。

「したわ!二回も!そして木っ端微塵に振られたわ!人の傷口に塩を塗るような真似すんな!」

そう怒鳴り返したが、吉岡は聞く耳を持たない。

「雪音様、本人から聞いたんだ。このチキン野郎!」

……あの女、俺の渾身の告白を闇に葬るつもりか。ふざけやがって。

「いいか? 今週中だ。今週中に告白しろ。でなければ、またチンピラ共を放つぞ!」

恐ろしい捨て台詞を残し、通話は一方的に切れた。

実に不愉快だ。

苛立ちを押し殺し、再び履歴書に向かいペンを握る。今日は嫌な電話ばかりが続く。そこまでして俺に履歴書を書かせたくないのか。——だったら、お望み通り無職でいてやろうか? ……いや、金がないか。

「あっ!」

やらかした。

免許証を何も考えずに丸写ししたせいで、「普通自動車免許証」と書き込む痛恨のミス。履歴書に“証”はいらないのだ。つまり——書き直し。これまでの努力が、一瞬で水の泡と化した。

絶望感に浸っていると、またスマホが鳴る。

「なんだよ、もう!」画面には「佐伯雪音」。恋とは摩訶不思議なもので、さっきまでの憂鬱が一転、高揚感が急上昇する。

「はいもしもし、あなたのことが好きなんだけど、付き合ってくれない?」

早速、嫌みを込めた冗談を放つ。

「……今すぐウチに来い」

低く押し殺した声にドスが利いている。だが、その語尾がわずかに震えていて――妙に胸に引っかかる。怒っているはずなのに、少しだけ可愛いと思ってしまった。

そして無情にも通話は切れ、ツーツーという電子音だけが耳に残った。まったく、冗談の通じない女だ。

不貞腐れたままベッドに横になる。人間という生き物は贅沢なもので、活動していない日でも、空腹と睡魔だけは決まって訪れる。やがて瞼が重くなり、深い眠りへと落ちた。

一時間後——またもスマホが鳴る。発信者は、再び雪音。目をこすりながら通話ボタンを押す。

「今どこにいるの?」

「へ? 家」

「―――来いって言ったよね。さっさと来いよ!」

短く鋭い声。そのまま切り捨てるように通話が途絶えた。耳に残るのは、機械的なツーツー音だけ。

本気で怒っていることは、声の温度で嫌というほどわかった。だが、何に対してそこまで怒っているのか――思い当たる節が一つもない。

眉間に皺を寄せたまま、小首を傾げ、とりあえずクローゼットの扉に手を掛けた。


 佐伯家を訪ねると、雪音は玄関先で仁王立ちし、腕を組んで待ち構えていた。

「これで風邪を引いたら病院代は払って貰うからね」

この上なく理不尽なことを言い放ち、俺を中へと押し込む。

リビングに足を踏み入れた瞬間、息が詰まった。

――まるで大地震の後だ。

まず目に飛び込んできたのは、開け放たれた食器棚。床には粉々になった皿の欠片が散らばり、その合間に醤油や食用油のボトルが転がっている。蓋は外れ、中身がカーペットにじわりと染み込み、鼻をつく匂いが立ち上る。

振り返れば、ダイニングテーブルの椅子は二脚が横倒し、残りも妙な方向を向いている。頭上の照明は割れ、破片がテーブルを覆っていた。

だが、本当の惨状はリビングだ。テレビは中央が抉れ、液晶は細かいヒビで覆われている。ソファーは刃物で裂かれ、白い綿が雪のように舞っている。炬燵はひっくり返り、コードは切断され、水浸しのカーペットは、繊維の奥まで水が染み込み、まだら模様が広がっていた。

外れかけたカーテン、倒れたインテリア棚、散乱する本や置物。そして、妙に存在感のあったあの壺も、今は粉々になっていた。

「……これは酷い」

他人事は笑い事主義、なんて言ってる俺でも、この光景だけは笑えなかった。

「わたし達になんの怨みがあるの?」

耳を疑った。リビングの中央で、雪音は腕を組み、鋭い眼差しを突きつけてくる。

「は?」

まさか、俺を犯人扱いするために呼び出したのか?身に覚えは皆無だ。犯行に及ぶ理由も、計画もない。それなのに、なぜ俺が疑われるのか――全く理解できない。怒りより先に、疑問が湧いた。

否定の言葉を口にした途端、雪音は金切り声を上げた。

彼女の主張では、俺達以外に犯行は不可能らしい。俺“達”?その「達」とは一体誰のことだ?問い返すも、彼女は一向に声を荒げるばかりで、話が通じない。

仕方なく、心に耳栓をして、重要な情報だけを拾うよう努めた。やがて、断片的ながらも事の全貌が見えてきた。

「お父さんが目撃してたのよ!誰もいないのに、勝手に椅子がひっくり返ったり、棚が開いたり、物が壊れたり!まるで透明人間がいるみたいだったって!あなた達以外に、そんな芸当、他の誰ができるっていうのよ!馬鹿じゃないの?物事はもっと慎重に動きなさいよ! っていいことと駄目なことがあるでしょ!なんの怨みがあるか知らないけど、だったら口で言いなさいよ、この頓珍漢!」

一気にまくしたてる雪音がようやく息をついたのを見計らい、憮然とした態度で返す。

「俺はやってない!やるわけがない。大体、なんで呼び出されたのが俺だけなんだ! 雄司か洋太郎かもしれないじゃないか!俺が無実だったらどうするつもりだ!」

「こんな下らなくて卑劣なこと、あなたが一番やりそうじゃない!あの二人よりも、圧倒的にあなたが怪しいの!」

心外だった。

下らないのは否定しないが、卑劣とまで言われる筋合いはない。仮にも惚れた女に嫌がらせをするほど落ちぶれた覚えはない。

「ふざけるな! ぶっ――」

言い終わる前に、平手打ちを食らった。思わず雪音を振り返ると、その瞳には涙が浮かんでいた。

「そんな……いちっ」

また平手打ち。顔を上げるたびに次の一撃が飛んできた。ついに堪忍袋の緒が切れ、俺は力ずくで彼女の手首をつかみ、動きを封じた。

「離して!」

痛いのも辛いのも苦しいのも嫌いな俺が、そう簡単に手を放すわけがない。しばらく押さえ込んでいると、雪音はふっと力を抜き、「わかったから、とりあえず離して」と、力なく言った。

手を離すと、彼女はその場に崩れ落ち、顔を覆って嗚咽を漏らした。運悪く膝をついたのは、割れた皿の破片の上。床に赤いしみがじわりと広がっていく。肩に手を置こうとした瞬間、勢いよく振り払われた。

「……片付け、手伝うよ」

なにを言えばいいのか分からず、考えに考えて絞り出したのが、それだった。だが雪音は反応を示さない。

「ごめんなぁ」

声の方を向くと、廊下の扉にもたれた佐伯さんがいた。

うなだれたまま、一部始終を黙って見ていたらしい。雪音の泣き声と、佐伯さんの謝罪が重なり、この混沌とした空気に情けなさと苛立ちが混じった――そう感じた。



 渋々といった様子で、雪音は俺への疑いをひとまず引っ込めた。

犯行時刻は、目撃者である佐伯さんの証言によって夕方七時頃と判明している。その時間、俺は自宅にいた――証人はいないが、偶然にも父親と電話中だったのだ。父に連絡を取って「三十分も説教していただろ」と確認すればいい。それが直接の証拠になるわけではないが、その間に破壊工作をするのはさすがに無理があるだろう。

だが雪音は、ミュートにしていれば音は拾わないと切り返してきた。さらに「説教の内容は?」と問われ、俺は言葉に詰まった。正直、ろくに聞いていなかったし、相槌すらほとんど打っていなかったのだ。

ならばと、その時流していたテレビ番組や出演者を答えるも、「あとから調べられるでしょ」と一蹴された。

それでも、雪音が引き下がったのは佐伯さんが俺をかばってくれたから――もっとも、それも一時的な保留に過ぎないだろう。

「他に犯行が可能な人物…」

顎に手を当て、俺は真鍋の名前を口にした。

「証拠は?」

俺のときは証拠なんてなくても疑うくせに、真鍋のときは証拠がなければ疑わない。この待遇差はなんなのか。

俺がムッとすると、雪音は吐き捨てるように言った。

「友達を売るなんて最低ね」

……この野郎。

――他に思い当たる人物といえば、矢後ぐらいだ。だが二択なら、疑わしいのは真鍋に決まっている。あいつは普段から何を考えているのかわからないし、———つまり、やりかねない。

「わかった。今からアイツを吐かせてくる」

自分の保身第一の決意を胸に、俺は佐伯家をあとにした。

お読みいただきありがとうございます。

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