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渋谷駅のハチ公前広場。忠犬ハチ公の銅像は、今日も待ち人たちに囲まれていた。自分もその一人に数えられ、例に漏れずスマホ片手に時間をつぶしている。
昭和初期に初代ハチ公像が建てられて以来、この場所は待ち合わせの定番として、胸を高鳴らせる人々に、いつも囲まれてきた。だが今や、人々が夢中なのは、目の前で待つ相手ではなく、掌の中の小さな画面だ。待ち時間にふくらむはずの「今日は何を話そう」「どこに行こう」という想像も、スマホの向こう側へ吸い取られていく。雑念にまみれた群衆の中で、ハチ公もさぞ退屈していることだろう――いや、まぁ、犬の心境なんぞ知ったこっちゃないが。
腕時計に目を落とす。十時三分。集合時刻を千八百〇〇〇〇〇〇〇〇ナノ秒も過ぎている。一抹の不安が胸をよぎった。まさか、待ち人来ずか?由々しき事態だ。
ちょうどスマホの電話帳を開いた、その瞬間――。
「おまたせ。待った?」
振り向くと、雪音が立っていた。
「滅茶苦茶待たされた。三時間も前からだ」
「それはあなたが悪い」
雪音とこうして街へランデブーに繰り出したのには、もちろん理由がある。
昨日、中須を撃退した俺に対し、彼女は「なにかお礼をしたい」などという愚かな提案をしたのだ。
それを受けた俺は、鼻で笑いながらも、包み隠さず己の欲望を口にしかけ――寸前で顔に掌を突きつけられ、遮られた。
妥協の末に落ち着いたのは、「交際してくれなくてもいいから、一度デートしてほしい」という案だった。
なお矢後へのお土産は、包み菓子と、このデートの自慢話。
「ありがた迷惑だ」と彼は顔をしかめたが、「贅沢にもほどがある」と俺は説き伏せた。
まず俺と雪音は、某アニメや某映画、新商品のCMを絶え間なく流す巨大ビジョンに囲まれた某交差点を渡り、某大型書店へと流れ込んだ。
だが、そこで改めて悟る――俺たちの趣味は、まるで噛み合わない。
店を後にし、次に向かったのは某人気キャラ専門店。
雪音は「かわいい~」と声を弾ませ、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめている。その無邪気な姿を、俺は横目でこっそり「可愛いなぁ」と思いながら眺めていた。
店を出た彼女は、ぱんっと手を叩き「欲しいものがある!」と某大型百貨店の名前を口にする。
少し歩き、某坂を登る途中――。某カフェの前を通りかかったとき、客引きの店員が新作スイーツの宣伝をしていた。
その一言に雪音は敏感に反応し、香ばしい香りに鼻をくんくん鳴らす。まるで子犬のように店員へ近づき、看板を凝視。振り返った彼女は「甘いものには目がない」と言い放つと、俺の意見など求めもせず入店した。
運ばれてきたのは、某フルーツをたっぷり使ったタルトに、クッキーやフレークが山盛りになったパフェ。
一口食べた瞬間、雪音は甘さに全身をくねらせる。その間、俺は珈琲を一啜りしながら、その微笑ましい光景を静かに眺めていた。
そして某百貨店で、まさかの“あれ”を購入した雪音を連れ、某映画館へ。上映されたのは、とあるジャンルの巨匠である某監督の、うん作目にして人気作となった話題作。しかも、某有名俳優が声優に初挑戦したことでも注目を集めていた――――
「さっきから“某”某ってうるさいわね。某ってなによ! 言いなさいよ」
「野暮なことを聞くんじゃない。幸せってのは噛み締めるものであって、語るものじゃないんだよ。こういうのは敢えてぼかしておいた方が、あとあと想像の幅が広がるんだ。要はシークレットブーツだ」
「意味わかんない」
「知ってるか? 俺の頭の中での俺は、光源氏も顔負けの美男子なんだぞ」
「馬鹿じゃないの?」
そんな痴話喧嘩を交わしながら遅めの昼食を取っていたとき、スマホが震えた。発信者は真鍋。通話に出ると、ぶっきらぼうにこう告げられる――「恋人ができた」
幻聴かと思い聞き返すが、やはりそう言ったらしい。驚きのあまり固まっていると、雪音が小首を傾げた。
仕方なくこの事実を伝えると、彼女は両手を挙げて大喜びし、そのままスマホをもぎ取った。
なにやら真鍋と話し込んだ末、返してきたスマホと共に一言――「彼女と会わせてくれるって! 台場にいるらしい。行こ」
行き先は一方的に決定。折角のデート中なのに…と不服ではあったが、真鍋の恋人が気になるのも事実だ。正直、矢後にならまだしも、真鍋に先を越されるとは思ってもいなかった。その悔しさもあって、目の前の丼を一気にかき込んだ。
ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線の台場駅を出て、真鍋に指定された、自由の女神像を見下ろせる遊歩道へ向かう。
淡い空を背景に、爽やかな海風が頬を撫でる。周囲では、スマホ片手に自撮りを楽しむ学生や、はしゃぐ家族連れ、寄り添うカップルたちが、東京湾とレインボーブリッジを望む景色に声を弾ませていた。
その中に、見覚えのある後ろ姿があった。ボサボサの髪にカーキ色のウインドブレーカー。中に着たパーカーのグレーのフードが首筋からのぞいている。隣には、星柄のセーターにマフラーを巻き、季節外れの生足をフレアスカートから覗かせた女性。二人は、耳元で囁き合うようにして、楽しげに笑っていた。——なるほど……強ち嘘ではないらしい。
「あっ! いた」
雪音が声を掛けようとした瞬間、俺は手で制し、驚かせてやろうと二人の背後へそっと忍び寄った。
だが、気配を察したのか、同時にこちらを振り向かれる。
その刹那――今世紀最大級の衝撃が、脳天から背筋を駆け抜けた。
「どうも、はじめまして」
ペコリと頭を下げた女性の顔に、見覚えがあった。いや、はじめましてではない。
狼狽する俺をよそに、雪音はあっさり挨拶を返し、真鍋には「いつのまによ〜」と能天気な声を掛けている。
真鍋は涼しい顔を装っていたが、意味ありげに視線を送ると、すぐに逸らした。
雪音が女性に名前を尋ねると、彼女はにっこりと微笑み、再び律儀に頭を下げて告げた。
「多恵子です」
間違いない。
彼女は、以前浮気調査を依頼してきた鈴宮の妻だ。
浮気現場を押さえた俺と真鍋は、憐れな鈴宮のために、多恵子とその浮気相手の仲を引き裂いてやった。
――それがなぜ、真鍋と多恵子が並んでいる?
頭が混乱して口も開けずにいると、多恵子がこちらを向き、唐突に話を振ってきた。
「あなたが清水さんですね。洋太郎さんと探偵事務所を経営なさってる…」
「はい?」声を上げたのは雪音だ。
彼女の中で、俺と真鍋は“甲斐性なしのニートコンビ”という認識だ。驚くのも無理はない。
おそらく真鍋は、多恵子に対して職業を偽っている。
見栄からなのか、経緯上仕方なかったのかはわからないが、虚言には変わりない。
あいつは損得勘定では動かない、飾り気のない男だとばかり思っていた。それだけに、この手の嘘をつく真鍋は珍しく、意外だった。
だが、それをわざわざ暴くほど俺は野暮でも、お人好しでも、お節介でもなかった。
雪音も察したのか、特に追及はしない。
多恵子は、目をまん丸く見開き、口角を上げながら全身を左右に揺らしている。
その動きは、まるでお気に入りのおもちゃをねだる子どものようだ。両手の指先を胸元で軽く握りしめ、小刻みに足先まで弾ませる。その仕草は幼い少女を連想させ、童顔に加えて派手な服装が拍車をかけており―――
「多恵ちゃんは学生さんなのかな?」
――雪音、早くも多恵子マジックに掛かったらしい。
多恵子は彼女より年上だ。それなのに、ちゃん付け+タメ口という失礼の極みをやらかした。後で間違いなく赤っ恥をかく展開だ。
「いいえ。違いますよ。あたしはホテルマンなんです」
多恵子は、なぜか敬語を選んだ。たしかに雪音は高身長で落ち着いた服装、可愛い系というより美人系。見た目年齢の振り幅が大きく、予想しづらいのも事実だ。
「そうなんだ~。多恵ちゃんはいくつなの?」
――おい、なんで自ら地雷を踏みに行くんだ。
「二十一です」
虚言カップル、ここに爆誕。
嫌みを込めて、実にお似合いだと拍手喝采を送りたい。
お台場海浜公園を宛てもなく練り歩く。雪音と多恵子は意気投合したらしく、二人で談笑しながら前を行く。必然、俺は真鍋と横並びで後ろをついていく形になった。小突いて問い質す。
「説明してもらおうか」
「仕方ないじゃないか。こればっかりはどうしようもない。好きなんだ、どうしようもなく」
悪びれゼロ。まるで自然の摂理に逆らえないとでも言いたげだ。探偵事務所の経営? 二十一歳?訊くべきことは山ほどある。
「嘘だろ。ニートじゃ交際はキツいだろ」「彼女がそう言い出したんだ。俺は何も知らないことにしてる」
あまりに素直で、質問も滑らかに返ってくる。
「鈴宮さんは?」
「知ってるわけないだろ。金は一円も持ってない。デート代は全部彼女持ち、というか鈴宮からくすねた金だ。経営が厳しいってことにしてる。毎晩、例のホテルで会って、夜這いに更けてる」
「多恵子の結婚指輪は?」
「質屋だ」
……しばらく見ない間に、何がどうなった。クズ、ゲス、ヒモ――そんな単語が脳裏を掠める。
前方を見ると、いつの間にか二人は軟派な男どもに声を掛けられていた。雪音は迷惑そうに首を振るが、多恵子は満更でもなさそうに「どうしよっかな~」と後ろ手を組み、体をゆらゆら揺らしている。
――どうにも、似た者同士らしい。
その軽率さを見た瞬間、胸の奥で渦巻いていたモヤモヤは、なんだか馬鹿らしくなって消えていった。
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右クリックをカチッと押したところで、一息吐く。これでひと段落。複合機が唸りを上げ、大量の紙を印字しながら吐き出し始めた。
整然と並ぶデスクの島、その奥からはかすかなキーボード音が漏れ聞こえる。規則正しく並んだ書類棚や観葉植物が視界の端をかすめ、白い蛍光灯の光が床のタイルに淡く反射している。そんな静けさの中、複合機の低い唸りだけが妙に際立っていた。
視線を天井に向け、背もたれに身を預ける。定時を少し過ぎた今、広いフロアにはぽつぽつと帰り支度をする社員の姿があるだけで、昼間の喧騒はすっかり薄らいでいた。
これで明日の会議用資料の作成も完了だ。ついさっき定時も回ったし、あとは紙を部ごとにまとめれば今日はお開き――そう思っていた矢先。
「あの~、なにかお手伝いすることありますか?」
虚を突かれたように椅子をきしませる。
しかも、その声の主が吉岡だと分かった瞬間、驚きが、表情にそのまま出てしまった。慌てて表情を引き締め、デスクの書類を漁る――が、もちろん都合よく仕事が転がっているはずもない。
そもそも定時過ぎに彼が社内に残っていること自体が珍しい。ましてや、自ら仕事を求めてくるなんて、しかも礼儀正しい口調まで添えて。あの無気力で無愛想な吉岡が、だ。――まるで別の人みたいじゃない。
「えぇと……なにかあるかな」
妙な感覚だった。せっかく珍しくやる気を見せているのに、この場で何も渡せなければ、その火種を消してしまう気がする。――いや、消してしまうどころか二度と点かないかもしれない。そんな圧迫感が背中にのしかかってきた。
「あっ、そうだ!」
思い立ったわたしは複合機に向かい、すでに印刷を終えていた紙の束を抱えてミーティング用の長テーブルへ向かった。手招きして彼を呼び、椅子に腰掛けたまま書類のまとめ方を説明する。
まずはA4サイズに揃えるため、A3の用紙は二つ折りにして、さらに片面だけ表になるように折る。次に、別々に作成したデータを部ごとに組み替えてテーブルに並べる。それからホッチキスで留め、項目ごとに付箋を貼って積み上げれば完成だ。
「はい」
返ってきたその短い返事に、思わず息が止まりそうになる。彼が素直に返事をするなんて――明日は雪でも降るのかしら、と本気で考えてしまうほどだ。
ここ数日の吉岡の変化には、うすうす気づいていた。仕事中にゲームをしなくなったし、昨日は同僚に向かって朝の挨拶までしていた。その場にいた相手は一瞬きょとんとした顔をして、周りを見回し、吉岡しかいないとわかると怪訝そうに会釈していた。
一体、彼の中で何が起きているのだろう――。
黙々と作業を始めた彼は、わたしの説明通りに忠実に手を動かしていた。かつての彼を思えば、その姿はどこか微笑ましくて、自然と口元がゆるむ。
しばらく無言で作業が続いていたが、不意に彼が口を開いた。
「雪音さん、彼氏できたって……本当ですか?」
「えぇ!? 急にどうして?」
彼は手を止めることなく、淡々と紙を折り畳んでいる。驚きのあまり手が止まったのは、むしろわたしのほうだった。頬に熱が集まるのが自分でもわかる。
「友人から聞いたんです。違うんですか?」
“彼氏”という単語に、思わず清水くんの顔が浮かんでしまう。
かぶりを振り、「う〜ん、彼氏ってほどじゃないけど……」と曖昧に返して、作業に戻る。
日曜日は確かに楽しかった。だが、彼は正直タイプではないし、頼りないところもある。まあ、一緒にいて楽しいという点は認めるけれど――それに、彼とは交際に踏み切れない理由は別にある。
「告白とかは受けてないんですか? 友人がそう言ってたんですけど」
「えぇ!?」
今日はやたら驚かされてばかりだ。その“友人”とは誰のことなのか。たぶん社内の誰かだろうが、心当たりが多すぎて絞れない。そういえば部長の耳にも入っていたから、相当広まっているらしい。だが、告白を受けたなんて話は一度もしていない。
おそらく、最近仲良くしている男友達がいるという話が、回り回って尾ヒレがついたのだろう。
再び手を止め、思考が沈む。告白……受けたことあっただろうか。思い返せば、それらしいことは言われたことはある。でも、酔った勢いのままだったり、ぼそっとつぶやくだけだったり、まともな告白は一度もない。まったく、いい加減な人だ。まあ、正式に告白されたとしても、今の彼と付き合う気はさらさらないけれど。
「告白なんてされた覚えはないよ。きっと何かの勘違いだって」
長い思考の末、それだけ答える。
「さっ、それより早く終わらせて帰りましょう」
そう言って作業に戻ろうとしたとき、テーブルの上には、きれいに積み上げられた書類だけが残っていた。
「もう終わりましたよ」
物凄く手際がいい。――最近の彼、本当にどうしたんだろう。
ただの気まぐれなのか、それとも……。
答えはわからないけれど、少なくとも、前までの彼とは別人のようだ。
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ、評価して下さるとありがたいです。




