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いたずら青年、世にはばかる  作者: 堀尾 朗
第1章「夢の透明マント」
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—2—

 優雅な水曜日の朝を迎えた。

小鳥の囀りが聞こえるわけでもなければ、波音がさざめくこともない。むしろ、アパート前を走る環状七号線の交通騒音がやたらと耳につき、風情のかけらもない。だが、背負う現実が「ニートであること」だけとなれば、それもまた気楽なものである。

退屈とは、ある意味で幸福だ。

溜まりに溜まった家事を片づけたあとは、録り溜めしていたテレビ番組を流しながら、日中を贅沢に浪費する。

けれども、ふとした瞬間に頭を掠める「職探しへの焦燥感」が、なんとも居心地を悪くさせる。こうして、ニートが抱える“闇”を、じわりと味わう羽目になるのだった。

夕方までひたすらダラダラと過ごしたあと、北千住へと向かった。旧友の矢後に会うためだ。

「暇なんだから、呑むのは俺の休みに合わせてくれよ」と彼は主張したものの、「愚痴を一度吐き出さないと前に進めない。早めの切り替えが肝心なのだ」と、こちらは却下した。

このまま、のんべんだらりと日々を過ごしてしまえば、働く気力まで失いかねない。それだけは避けたい――そう思ったのだ。


――――――――――――――――――――――――――――――


 矢後は葛飾区亀有に住んでいるため、二人きりで呑むときは、どちらからも電車一本で行ける北千住駅が都合がいい。足立区最大の都市だけあって、駅前には数多くの居酒屋が軒を連ねている。

実に半年ぶりに再会した旧友を見つけるなり、「糞ニート」と指をさして高笑いする矢後と合流し、そのまま焼鳥屋の暖簾をくぐった。


「いやいや、笑うしかないね」

矢後は礼儀正しく、冷静沈着で、頭も切れる――これは学生時代から、部活の顧問やら元カノやら、バイトの先輩やらから口を揃えて評された彼の人物像だ。

対して俺は、礼儀知らずで、慌てん坊で、どんくさい馬鹿と、老若男女問わず評価されている。まったく、雲泥の差である。


どうしてそんな彼と仲が良いのかと訊かれれば――正直、説明に困る。隠微なものがあると言うしかない。だが、気が合うことだけは確かだった。

「それにしても、責任を押し付けられてクビとか、光亮らしいな」

清水光亮しみず・こうすけ―――今も下の名前で「光亮」と呼んでくるのは、中学以前からの付き合いがある友人だけだ。彼とは小・中学校と同級生だった。

「やられたわ、本当に。自殺しなかっただけでも表彰もんだよ。退職金を寄越せって話だな」

「あれ? お前の会社、貰えないんだっけ?」

「知らん」

「……知らんって、お前な。相変わらずだな。解雇通知書とかに書いてなかったのか?」

「なんだよ、解雇通知書って。そんなの貰ってないよ」

呆れたようにため息をつく矢後の顔が、妙に鼻につく。

「お前なぁ。口頭で『クビだ』って言われて、はいそうですかって、それで済ませる話じゃないぞ。解雇処分ってのは、そんな軽々しくできるもんじゃない」

「あ〜でも、そういえば、なんか色々書かされたっけな……」

「それ、たぶん自主退職ってことになってんじゃないか? いくら部長クラスでも、その日の気分で解雇なんてできるわけがないし。第一、お前が背負わされたっていう責任の程度で、解雇ってのは、一般的に見ても厳しすぎる」

「なにぃ!? あの腐れ部長! 騙しやがったな!」

なんとも腹立たしい話である。矢後の呆れ顔が可愛く見えるだなんて、よほどのことだ。

復讐敢行。そして、またひとつ――就職活動をしなくても済む、都合の良い口実が増えてしまったではないか。


酒も回り始め、お互いに愚痴を吐き散らす時間が始まった。どうやら矢後も、かなり溜め込んでいたようだ。

彼は、港区内の公立小学校で教師をしている。配属されてから、まだ半年ほどしか経っていないが、副担任を務めているクラスに、なかなか手強いモンスターペアレントがいるらしい。その影響で、クラス担任の先輩はすっかり疲弊しきっているという。


以下、矢後の話を簡単にまとめよう――。


その生徒が授業中に友人と馬鹿話をしていたため、矢後が注意をすると、すぐに母親から電話がかかってきて「それは虐待だ」と抗議。

体育の授業で転んで膝を擦りむけば、「医療費を払え」と来る。

音楽の授業では、あまりにその生徒が音痴だったため、周囲の生徒が笑っただけで「いじめだ」と騒ぎ立てる。

「それはいじめではありませんよ」と冷静に返すと、今度は「隠蔽だ」ときた。

そのくせ、息子が友人と喧嘩をして相手に怪我をさせた際には、「先生方はどういう躾をしているんだ」と責任転嫁。

挙げ句の果てには、被害を受けた相手の生徒に対して「転校させろ」とまで言い出す始末である。

そのたびに、クラス担任である矢後の先輩は、一切反論せず「申し訳ありません」の一点張り。すっかり“すみませんの虫”と化しているそうだ。

一方の矢後は、というと、ある日果敢にも「教育の一環です」と真正面から言い返したことがあるらしい。

すると母親は、奇声を発しはじめたという。猿の物真似なのか、発作なのか、判別がつかないほどの大音量だったそうだ。

それでも矢後は怯まず、頑として持ち場を守った。だが、話はエスカレートし、ついには教育委員会にまで持ち込まれる。

結果、校長に呼び出され、「我慢してくれ」と、肩を叩かれてなだめられる羽目になったそうだ。


あまりにも理不尽な話で、俺はつい吹き出してしまった。

「おいおい、笑い事じゃないぜ」

「他人事は笑い事だぜ」

揚々とそう返すと、矢後は肩をすくめた。

もちろん、彼が話を多少盛っている節はある。だが、付き合いの長さからしても、大筋は事実だろう。

ここまで理不尽だと、もう笑うしかない。

それに、アドバイスのしようもないし、下手に慰めようものなら、かえって白々しくなってしまう。

それが分かっているのか、矢後もウケたことで調子がついたのか、話はさらに広がっていった。


新学期が始まり、クラス替えが行われた。

そこで問題となったのが――あまり評判の良くない生徒と、例のモンスターペアレントの息子が同じクラスになったこと。たったそれだけのことで、母親がクレームをつけてきたというのだ。

しかも、クラス替えのやり直しを要求し、名指しで「○○くんとは同じクラスにしないでほしい」と申し立ててきたという。

あろうことか、それを職員室まで乗り込んで直談判してきたというから、もはや常軌を逸しているとしか言いようがない。

さらに運の悪いことに、そのやり取りを、たまたま職員室に来ていた別の生徒が聞いてしまった。

噂は瞬く間にクラス中に広まり、当然ながら、名指しされた生徒は激しく気分を害した。

それでも、その生徒が直接詰め寄ったのは、まだマシな方だと俺は思う。親を盾にするでもなく、自分の言葉で向き合ったのだから。

だが――その話を聞いた母親の反応は、まさに気が狂ったチンパンジーそのものだったという。

瞳孔は開き、何かを喚きながら奇声を上げ、ついには担任教師に掴みかかってきたそうだ。

さらには、自分が種を撒いておきながら、「うちの子が可哀想だ」と泣き叫び、事情も仕組みもろくに理解しないまま、「慰謝料を払え」と騒ぎ立てる。

……もう、気が狂っているとしか思えない。


遠足の日には、例の母親がわざわざ付き添ってきたという。お菓子は「七百円まで」と決められていたにもかかわらず、息子は高級チョコレートの詰め合わせ箱を広げていた。矢後が注意すると、「この子に貧乏っ垂れのお菓子など食わせられない」と、信じがたい一言が返ってきた。

揉めるのを避けてその場は見逃したが、しばらくして母親と息子の姿が消えていることに気づく。遭難かと焦った教師たちは、他の生徒を下山させ、山中を必死に捜索したという。だが、オチはあまりに単純だった。母親が事前の断りもなく、息子を連れて勝手に下山していただけだったのだ。

「勝手に帰られては困ります」と、さすがに連絡を入れた矢後だったが、当然のごとく正攻法は通じない。「山道で転んで怪我でもしたらどうするの」「遭難したら?」「熊に襲われたら?」「こんな可愛らしい顔をした息子が、もし誘拐でもされたらどうするの」――次々と妄想を膨らませた挙句、母親は一方的に電話を切ったという。

運動会でも、また別の騒ぎが持ち上がった。

近年は「子どもに優劣をつけない」という方針のもと、徒競走では全員が手をつないで横一列にゴールする方式が採用されている。勝ち負けを避け、協調性を育てる――そんな教育的配慮からの決まりだ。

ところが、例の母親はそれすらも問題視した。

「汚ない子と手を繋がせて、黴菌でも移されたらどうするの」

……もはや潔癖症を通り越して、常軌を逸しているとしか言いようがない。


腹を抱えて笑った。

矢後もだいぶストレスを発散できたようで、どこか清々しい表情を浮かべている。

このストレス社会において、誰もが大なり小なり何かしらの鬱憤を抱えて生きている。だからこそ重要なのは、それをどう発散するかという点だ。俺も矢後も、こうして他愛もない愚痴ひとつで気が済むのだから、実に安上がりで健全な部類だと思う。

そんなふうに、矢後と笑い合っていたそのときだった。

店内に――バンッ、と激しくテーブルを叩く音が響き渡った。あまりの爆音に、その場の空気が一瞬で凍りつく。

視線を向けると、三十代後半くらいの男が、テーブルに突っ伏していた。傍らでは、同僚と思しき男が、寄り添うようにして背中をさすりながら「まぁまぁ」となだめている。

「きっと浮気してるんだ……きっと……」

男の虚ろな嘆きが、静まり返った店内にぼそりと響いた。


――――――――――――――――――――――――――――――


「愛しの雪音」と表現するには、まだ早い。「惚れた相手」では大袈裟だし、「気になる相手」と言うには、可愛げがありすぎる。

――性的にそそられる雪音に会いたくて、俺は佐伯さんの自宅へと向かっていた。

とはいえ、「君に会いたくて来ました」などと言えば、ドン引きされること必至である。

だからこそ、「佐伯さんの体調が心配で」などと、それらしい理由を装って訪問するつもりだった。

あと一つ角を曲がれば、佐伯家がある。

そんなところで、コンクリート塀の陰からこちらを窺う、いかにも怪しげな青年がいた。まるで探偵か何かのように、望遠鏡を構えて夢中になっている。背後から近づく俺の気配にも、まったく気づいていない様子だった。

無視して通り過ぎようとしたその瞬間、足音に気づいたのか、青年がはっとして振り返った。

色白で、前髪が目元まで伸びた、生意気そうな青年。年の頃は、二十歳そこそこだろうか。

「どうも」

軽く会釈して通り過ぎようとしたそのとき――

「どこに行くつもりですか?」

敵意むき出しの声が、背後から飛んできた。

「ちょっと散歩してるだけです」

なぜお前に行き先を告げねばならんのか、という思いを込めて、適当に答える。

「そうですか。なら、いいです」

青年はそのまま足早に立ち去っていった。

……可笑しな奴もいるもんだ。


 雪音は不在だった。

代わりに出迎えてくれた佐伯さんは、大きなお釈迦様の木彫りを抱きしめるようにして現れ、そのまま俺を中へと通してくれた。

「それ、なんですか」と訊ねてみたが、「いや、まぁ……」と、どこか心苦しげに言葉を濁すばかりだった。

体調の具合や、解雇された後のことなど、一通り尋ねてみたものの、大半は曖昧な返答に終わる。前回と同じく、どこか重苦しい空気が漂っていた。

だが、話題が雪音に及ぶと、佐伯さんは水を得た魚のように饒舌になった。

「いい娘さんですね」

「そう思ってくれるかね。私としても自慢の娘だよ。こんなどうしようもない父親なのに、立派に育ってくれて嬉しいよ。大手企業にも勤めてね、私が体調を崩してからは、他所に全然遊びにも行かずに看病してくれてるんだ。年頃だから、本当は遊びたいだろうに……。別に、全く動けないわけじゃないんだから、そんなに付きっきりにならなくてもいいよって、いつも言ってはいるんだけどね。優しいんだ。あの子は。なにもかも、全部、妻のおかげだよ」

「へぇー。そういえば、奥さんは?」

「ああ――一年前に、他界したよ」

「そうだったんですか……」

ちょうど佐伯さんが解雇された時期と重なる。妻に先立たれ、長年勤めた会社を不当に解雇され――佐伯さんも、いろいろと苦労を重ねてきたのだろう。今さらながら、その髪に白髪が増えたように感じられた。

そのとき、「ただいま」と、雪音が帰宅した。

買い物袋を両手に抱えた彼女は、ダイニングに入るなり「あっ、清水さん、いらっしゃったんですね」と小さくお辞儀をして、そのままキッチンへと向かった。

しばらくして戻ってくると、「なんのお話をしてたの?」と問いながら、テーブルの席に着いて会話に加わってきた。

「まぁ、別に大した話はしてないよ」

気恥ずかしさからか、佐伯さんは笑ってそう濁した。

それからしばらくは、和やかな会話が続いた。

雪音も以前とは打って変わって機嫌がよく、佐伯さんも口数こそ少ないものの、きちんと会話が成立している――それだけでも、前回とは大きな違いだった。

だが、その空気は突然、一言で凍りついた。

「ねぇ、あれ……なに?」

雪音が指差したのは、あの木彫りのお釈迦様だった。

その瞬間、佐伯さんの表情がみるみる曇った。項垂れ、視線を落とし、まるで悪戯が見つかった子どものような仕草を見せた。

「お父さん、あれ……買ったの?」

「ん? まぁ……」

「ちょっといない間に……」

雪音は悔しそうに顔をしかめた。

佐伯さんは、急に頭を抱え、低く震えるような声で謝り始めた。

「ごめんな……俺が情けないばっかりに……ごめんな、ごめんな……」

様子が一変した。ひたすら謝罪を繰り返す佐伯さんに、雪音は慌てて駆け寄り、背中を優しく擦った。

「いいのよ、お父さん。気にしなくていいの」

それでも佐伯さんは止まらない。「ごめんな、ごめんな」とつぶやきながら、ふらりと立ち上がると、亡霊のように身体を揺らしながら部屋を出ていった。

その背中を、雪音は心配そうに黙って見送っていた。

その横顔を見ていると、なんとも言えない居たたまれなさが胸に込み上げてくる。

「佐伯さん、もしかして……」

俺がそこで言葉を切ると、雪音がため息混じりに答えた。

「軽い鬱病みたいなんです」

佐伯さんの様子がおかしいのは明らかだったから、特段の驚きはなかった。

「この前の……訪問販売?」

そう訊ねると、先ほどまでの和やかな空気が、雪音の警戒心をほぐしていたのだろう。彼女は、ここ最近の出来事を少しずつ語り始めた。


 訪問販売が頻繁に家へ来るようになったのは、およそ一年前からのことらしい。

ちょうど妻を亡くし、雪音も実家を離れていた時期。佐伯さんは一人暮らしで、心身ともに孤独な日々を送っていたという。

人が良い佐伯さんは、訪問販売員を無下に扱うことができなかった。本人の話によれば、最初に来たとき、その男は非常に誠実そうな人物だったそうだ。

この前、怒鳴り散らしていたあの男と同一人物だとすれば、到底信じがたい。ああいう、怒鳴れば通ると思い込んでいるタイプ――俺がもっとも苦手とする人間だ。

その男は当時、「売上が伸びず、上司からこっぴどく叱責されている」と、情に訴えてきたという。

お人好しの佐伯さんは、それほど高額でもなかったこともあり、人助けのつもりで商品を購入した。

すると、翌日からはほぼ毎日のように訪問してくるようになった。

佐伯さんの優しさに味を占めたその男は、最初こそ小額の商品を売り込んでいたものの、次第に単価を吊り上げていったという。

さすがに佐伯さんも不信に思い、ある日ついに難色を示したそうだ。

だが、男は「あなたにまで断られたら、私は会社をクビになります。もしそうなったら、どうしてくれるんですか」と言い放った。

……俺からすれば、「知ったこっちゃない」で一蹴すべき話だ。

だが、佐伯さんはそうはできなかった。

ひと月も経つ頃には、男は本性を剥き出しにし、ほとんど脅迫に近い形で商品を売りつけるようになった。

誰にも相談できず、頼れる人もおらず――佐伯さんの心は、次第にすり減っていった。

そしてついには、気が滅入ってしまったのだという。


「私も悪かったんです。母が亡くなって、父が寂しい思いをしていることには気づいていたのに……忙しさにかまけて、ほとんど顔を出していなかったから……」


雪音のその言葉に、胸を打たれた。

それまで“性的対象”として見ていた自分の浅はかさを恥じた――と言いたいところだが、正直に言えば、評価が「性的対象」から「好意」にグレードアップしただけである。

……話が脱線した。

雪音が異変に気づいたのは、ほんの一ヶ月ほど前のことだという。職場から通える距離だったこともあり、すぐに実家へ戻ってきたそうだ。それ以来、訪問販売の男は雪音が対応して追い返しているというが、平日の日中となると、どうしても仕事の都合で不在になるため、対処しきれず困っているのだという。

「あれっ」と、ふと疑問が浮かんだ。そして、深く考える前に即座に口に出してしまうのが、俺の悪い癖だ。

「今日って、平日じゃあ……?」

雪音は「しまった」という顔を露骨に浮かべたあと、「たまたまね」と濁した。

「じゃあ一昨日も、たまたま?」

……俺って本当に無神経な奴だ。

「えぇ、まぁ……」と、雪音はそれ以上何も言わず、沈黙した。

その沈黙にようやく自分の過ちに気づいた俺は、慌てて話題を変える。

「そういえば、家の前に変な奴がいましたけど……あれも関係者ですかね」

その瞬間、雪音の目がぱちりと見開かれた。

「なにそれ……?」

「えっ、いや……望遠鏡を覗いてましたよ。こっちの家を見てたかは定かじゃないですけど、方角的にはこっち……でした」

「どんな男だった?」

まるで食いつくように尋ねてきた。しかも「男」と断定した。

「色白で、なよっとした若い男でした」

「……なんなのよ、もう!」

どうやら、ただ事ではないらしい。

「誰なんですか?」

「たぶん……同僚です。きっと、監視してるのよ」

監視? 同僚? なんだそれ。意味がわからない。

だが、状況から推測するに、ストーカーの類ではないだろうか。

いや、それも納得できる。

雪音ほどの美人を、男どもが放っておくはずがない。望遠鏡を担いで徘徊する男が、このあたりにもう三、四人いても不思議じゃない。

……近いうちに俺も、その一人に加わっているかもしれない。


――――――――――――――――――――――――――――――


佐伯さんも落ち着きを取り戻したようだったので、それを見届けてから、俺は佐伯家をあとにした。

駅へ向かうため、来たときと同じ角を曲がる――すると、先ほどの青年が、まるで待ち伏せしていたかのようにそこに立っていた。

「君は嘘を吐いたな」

開口一番、喧嘩腰である。

ストーカーのくせに偉そうだな――そんな苛立ちが込み上げるが、思わず出た声は「へ?」という情けないものだった。

「君は彼女の家から出てきたではないか。どういう関係だ?」

いきなり年下とおぼしき青年に詰め寄られ、不愉快極まりない。いっそ「恋人だ」とでも言ってやろうか。そしてこう続けるのだ――彼女をストーキングするのはやめたまえ。彼女は苦しんでいる。男なら、そんな姑息な真似などせず、真正面から想いをぶつけてみたらどうだ――と。

……そう、言えたら、どれだけ格好良かったことか。

「いや、別に」

実際の俺は、相手の視線から逃げるように、目を逸らしてしまった。

「まぁいい。あの女、こんなときに男を連れ込むとは……全く反省の色がないな」

そう吐き捨てるように呟きながら、青年は駅の方へと歩き出した。

目的地が同じとはいえ、さすがにその隣に並んで歩くわけにもいかず、俺はその場に立ち尽くすしかなかった。

そのとき――ポロリン、とスマホが着信音を鳴らした。

画面を見ると、旧友・真鍋洋太郎からのメッセージが届いていた。

【ついに開発に成功したぞ】

能天気な一文に、思わず口元が緩む。

妙な一日だったが、少しだけ救われた気がした。

お読みいただきありがとうございます。

よろしければ、評価して下さるとありがたいです。

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