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優雅な水曜日の朝を迎えた。
小鳥の囀りもなければ、波の音がさざめいているわけでもない。
それどころか、アパート前の環状七号線の交通騒音が、
やたら喧しいだけの風情もへったくれもない状況下なのだが、
気負うのがニートという現実だけだと、お気楽な気分でいられる。
退屈とは幸福なことで、溜まっていた家事を済ませてからは、
録画していたテレビ番組を流して日中を浪費した。
一方で、時折頭を掠める職探しへの焦燥感が居心地悪く、
所謂ニートが抱える闇を味わうことになった。
夕方までひたすらダラダラと過ごしたあと、北千住へと向かった。
旧友の矢後と会うためだ。
―暇なんだから、呑むのは俺の休みに合わせてくれよ―
と彼は主張したが、
「愚痴を一度吐き出さないと前に進めない。
早めの切り替えが肝心なのだ」
と却下した。
このままのんべんぐらりと過ごして、働く気力が失せてしまったら、それこそ一大事だ。
矢後は葛飾区亀有在住のため、二人きりで呑む場合は、
双方が電車一本で行ける北千住駅が待ち合わせるに都合が良い。
足立区最大の都市だけあって、
駅前には、多くの居酒屋が建ち並ぶ。
実に半年振りに再会する旧友を見つけるなり
「糞ニート」
と指を指して高笑いする矢後と合流して、焼鳥屋の暖簾を潜った。
「いやいや、笑うしかないね」
矢後は礼儀正しく、冷静沈着で頭も切れる。
これは学生時代からの部活の顧問やら元カノやらバイトの先輩やらからの、彼の評価だった。
礼儀知らずで、慌てん坊のどんくさい馬鹿と、
老若男女問わず評価されている俺とは偉く違う。
どうして仲が良いいのかと訊かれると、
隠微であるが、とにかく彼とは気が合った。
「それにしても、責任を押し付けられてクビとか、光亮らしいな」
今なお付き合いがある友人で【清水光亮】
の下の名前で呼んでくるのは、中学以前からの友人のみだ。
彼とは小・中学校と同級生であった。
「やられたわ本当に。自殺しなかっただけでも表彰ものだよ。退職金を寄越せよって話だな」
「あれ?お前の会社貰えないんだっけ」
「知らん」
「知らんって相変わらずだな。解雇通知書とかに記載されてなかったか?」
「なんだ解雇通知書って、そんなの貰ってないよ」
相変わらず矢後の呆れ顔は鼻に付く。
「お前なぁ。口頭で言われて、はいそうですかって問題じゃないぜ。
解雇処分ってのは、そんな軽々しく行われることじゃない」
「あ~でもそういえば、色々書かされたっけな」
「じゃあ自主退職ってことになってんじゃないか。
いくら部長クラスでも、その日の気分で解雇なんてできるわけがない。
大体、お前が被ったとされる責任ぐらいで解雇って、一般的に厳し過ぎるしな」
「なに!あの腐れ部長!騙しやがったな」
なんとも腹立たしいことだ。
矢後の呆れ顔が可愛く見えるとはよっぽどのことだ。
復習敢行、またも就職活動をしなくても済む口実を見つけてしまったではないか。
酒も回り始めて、お互い愚痴を吐き散らす。
矢後も相当溜め込んでいるようだった。
彼は港区内の公立小学校で教師をしている。
配属されて半年ほど経つが、副担任を勤めるクラスで、
とんでもないモンスターペアレントの親がいるようで、
クラス担任の先輩は、疲弊しきっているとのことだった。
矢後の話を簡単にまとめる。
その生徒が、授業中に友人と馬鹿話をしていたので注意する。
すると母親から電話が来て『虐待だ』。
体育の授業でその生徒が転けて、膝が擦りむけたら『医療費を払え』。
音楽の授業で、あまりにその生徒が音痴だったため、周りが笑うと『いじめだ』。
それはいじめではありませんよと答えると『隠蔽だ』とくる。
そのくせ、息子が友人と喧嘩をして、相手に怪我させると
『先生方はどういう躾をしているだ』らしい。
更には、相手の生徒を『転校させろ』と言い出す始末。
その度に担任である先輩は、一切反論せずにすみませんの虫となるようだ。
一方の矢後は、果敢にも『教育の一環です』と言い返したことがあるようだ。
すると、奇声を上げているのか、猿の物真似をしているのか、
判別が付かないような奇声を上げ始めたという。
それでも頑として折れずにいると、次に教育委員会まで持ち上げられ、
早々に校長に呼び出されて『我慢してくれ』と諭されたようだ。
あまりにも理不尽で俺はつい笑ってしまっていた。
「おいおい、笑い事じゃないぜ」
「他人事は笑い事だぜ」
俺は揚々と答えた。
矢後も話を多少誇張する節こそあるが、大筋は事実だろう。
そこまで理不尽だと、こちらとしては笑う他ない。
それにアドバイスのしようもないし、慰めるのも、それはそれで白々しい。
矢後もウケたことで調子が付いたのか、次々と話を広げた。
新学期が始まり、クラス替えが行われた。
そこであまり評判の良くない生徒と同クラスになったことに対して、クレームを付けてきたようだ。
クラス替えのやり直しと評判の悪い生徒を名指しで挙げて、避けるようにと申し立ててきたのだ。
しかも、あろうことか職員室まで乗り込んでのことだ。
常軌を逸しているとは俺の見解だ。
しかも、運悪いことに偶然職員室に来ていた生徒にそれを聞かれてしまい、
たちどころにクラス中に噂が広がってしまった。
当然名指しされた生徒は気分が悪い。
その生徒に、そのことを詰め寄ることは、俺からすれば親に頼らないだけでも立派に思う。
その事実を知った母親は、まさに気が狂ったチンパンジーそのものだったという。
瞳孔を開き奇声を上げて、掴みかかってきたのだ。
種を撒いたのは自分自身だというのに、息子が可愛そうだと泣き叫び、
仕組みもよく理解していかないくせに、慰謝料を払えと騒ぎ立てた。
気が狂っているとしか思えない。
遠足の日には、わざわざ付き添ってきたようだ。
お菓子は、七百円までと決めてあったにも関わらず、
高級なチョコレート箱を開いていたので、注意すると
『この子に貧乏っ垂れのお菓子など食わせられない』と返されたらしい。
揉めるのを嫌って見逃すことにしたが、
しばらくすると、今度は母親とその息子が突如いなくなっていた。
遭難したと焦った教師陣は、他の生徒を下山させ、必死に山を探索したようだ。
オチは単純で、母親が断りもなく、息子を連れて先に帰っていただけだったのだ。
『勝手に帰られては困ります』と流石に連絡をしたが、
そんなババアに正攻法は通用しない。
『山道で転んで怪我でもしたらどうする』
『遭難したら』
『熊に襲われたら』
『こんな可愛らしい顔をした息子が、もし誘拐でもされたら』
と妄想を繰り広げた末に、一方的に電話を切ったという。
運動会では、子供に優劣を付けるのはおかしいとの観点から、
数年前から横一列みんなで手と手を取り合って、ゴールインとしているみたいなのだが
『汚ない子と手を繋がせて、黴菌でも移されたらどうする』らしい。
腹を抱えて笑った。
矢後もだいぶストレスを発散した様子で、清清しい表情を浮かべている。
このストレス社会。誰もが皆、大なり小なりストレスを抱えている。
そこで重要となるのは溜まったストレスを如何にして発散させるかだ。
俺も矢後もそうだが、愚痴一つで片付くとは、実に安上がりで健全だと思う。
そのように、矢後と笑い合っていると、店内にテーブルを強く叩く音が響き渡った。
あまりの爆音に、店内が一瞬静まり返る。
視線を向けると三十代後半ぐらいの男が、テーブルに突っ伏していた。
傍らには、同僚とおぼしき男が、寄り添うようにして
「まぁまぁ」と背中を優しく擦っている。
「きっと浮気しているんだ。きっと…」
男の虚しい嘆きが、耳に届いた。
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愛しの雪音と表現すのは、まだ早いだろうし、
惚れた相手では大袈裟だし、気になる相手ってほどに可愛いげのある感情ではなくて…。
性的にそそられる雪音と会いたくて、俺は佐伯さんの自宅へと向かった。
流石に君に会いたくて、ではドン引き必須であろうから、
佐伯さんが心配でと装ってお邪魔するつもりだ。
あと一つ曲がれば、佐伯家のところ。
如何にも怪しげな青年が、コンクリート塀の陰から覗き込むようにしていた。
探偵かなにかであろうか、青年は望遠鏡を覗くことに夢中で、
背後の俺に気付いていない様子である。
無視して通り過ぎようとしたが、近づく足音に気付いたか、
青年がはっとして、こちらを振り向いた。
色白で前髪を目元まで伸ばした、生意気そうな青年であった。
二十歳そこそこってところだろう。
「どうも」と軽く会釈して通り過ぎようとすると、青年が話し掛けてきた。
「どこに行くつもりですか?」
青年は敵意剥き出しだ。
「ちょっと散歩してるだけです」
なぜ、お前に行き先を告げねばならんのかと適当に答えた。
「そうですか。なら良いです」
青年は足早に立ち去っていった。
可笑しな奴もいるもんだ。
雪音は不在であった。
出迎えてくれた佐伯さんは、大きなお釈迦様の木彫りを抱き締めながら、中に通してくれた。
「それなんですか」
と訊ねたが、
「いやまぁ」
と心苦しそうに言葉を濁すだけだった。
体調の具合や解雇されてからなど一通りのことを訊ねるが、
大概が濁されることばかりであった。
前回同様に、重苦しい空気が流れる。
しかし、雪音の話になると水を得た魚のように喋りだした。
「いい娘さんですね」
「そう思ってくれるかね。私としても自慢の娘だよ。
こんなどうしようもない父親なのに、立派に育ってくれて嬉しいよ。
大手企業にも勤めて、私が体調を崩してからは、他所に全く遊びに行かずに看病してくれてる。
年頃だから遊びたいだろうに…。
別に、全く動けない訳でもないから、
そんなに付きっきりにならなくても良いよって、
いつも言ってはいるんだけどね。
優しいんだ。あの子は。なにもかも、全て妻のおかげだ」
「へぇー。そういえば、奥さんは?」
「あ~一年前に他界したよ」
「そうだったんですか」
丁度佐伯さんが解雇された時期だ。
妻に先立たれて、長年勤めた会社を不当に解雇され、
佐伯さんも色々と苦労したことであろう。
今更だが、白髪がだいぶ増えている気がする。
「ただいま」
雪音が帰宅した。
彼女は買い物袋を抱えて、ダイニングに現れると
「あっ清水さんいらっしゃったんですか」
と小さくお辞儀をして、キッチンへと向かっていった。
しばらくして戻ってくると
「なんのお話をしてたの?」
とテーブルの席に着き会話に加わってきた。
「まぁ、別に大した話はしていないよ」
気恥かしいのか、佐伯さんはそう濁した。
それからしばらくは、和やかな会話をした。
雪音も以前とは違い、機嫌がだいぶ良いらしい。
佐伯さんも口数こそ少ないが、以前とは違って、会話が成立しているのは大きかった。
だが、雪音の
「ねぇあれ、なに?」
と木彫りのお釈迦様を指差したところで、空気が一変した。
佐伯さんは項垂れるように下を向いた。
それはまるで、悪戯が見つかった子供の仕草そのものだった。
「お父さんあれ、買ったの?」
「ん?まぁ」
「ちょっといない間に」
雪音は悔しそうに顔を顰めた。
「ごめんな。俺が情けないばっかりに。ごめんな。ごめんな…」
佐伯さんの様子が、途端におかしくなった。
頭を抱えて、謝辞をひたすら繰り返し始めた。
「良いのよお父さん。気にしなくて」
慌てて雪音は、佐伯さんの背中を擦った。
「ごめんな、ごめんな」
そう言いながら立ち上がると、亡霊のようにゆらゆら身体を揺らしながら部屋を出ていった。
部屋をあとにするまで、雪音は心配そうに佐伯さんの背中を見つめていた。
その横顔を見ると居たたまれない気持ちが芽生える。
「佐伯さん、もしかして…」
俺がそこで言葉を区切ると、言葉を継ぐように
「軽い鬱病みたいなんです」と溜め息混じりに雪音は答えた。
佐伯さんの様子がおかしいのは明らかだったから、特に驚くこともなかった。
「この前の訪問販売?」
雪音にそう訊ねると、先ほどの和やかな会話で警戒が溶けたのか、ここ最近の事情を話してくれた。
訪問販売が、頻繁に家へ来るようになったのは、一年前くらいからのようだ。
妻を亡くし、当時は、雪音も実家を出ていたため、佐伯さんは一人暮らしだったという。
人が良い佐伯さんは、訪問販売を無下に扱うことができなかった。
本人から訊いた話では、初め、その販売員はとても誠実そうだったらしい。
この前怒鳴っていた人と同一人物だとすると、とても考えられない。
俺がもっとも苦手とする、怒鳴ったもの勝ちと思い込んでいるタイプだ。
男はその時『売上が伸びず、上司からこっぴどく酷く怒られている』と情に訴えてきたようだ。
お人好しの佐伯さんは、あまり高価でもないことから、人助けのつもりで購入したようだ。
すると翌日から、ほぼ毎日のように訪問してくるようになったらしい。
佐伯さんの優しさにつけこんできたその男は、最初こそ小額ばかりを売込んできたが、
徐々に値を吊り上げてきたという。
流石に佐伯さんも不信に思い、ある日難色を示したようたが、
『あなたにも断られたら会社をクビになってしまう、もしそうなったらどうしてくれるんですか』
と俺からすれば、知ったこっちゃないと思えることを言い始めたという。
一月も経つと本性を剥き出しに、ほとんど脅迫に近い形で売り付けられるようになった。
佐伯さんは誰にも相談することが出来ず、終いには、気が滅入ってしまったそうだ。
「わたしも悪かったんです。母が亡くなり、
父が寂しい思いをしていることに勘づいていたのに、忙しさにかまけて、
ほとんど顔を出すことをしなかったから…」
雪音の優しさに触れ、性的対象から好意へとグレードアップした。
話が脱線した。
雪音がそのことに気が付いたのは、つい一ヶ月ほど前で、
職場へ通える範囲だったこともあり、すぐに越してきたとのことだ。
それからは、雪音が追い払っているようだが、雪音も仕事があるため、
平日の日中に来られては、対処のしようがなく困っているとのことだった。
「あれっ」
それを聞いて、疑問に思ったことがある。
深く考えることができない愚かな俺は、当然それを口にする。
「今日って、平日じゃあ…」
雪音はわかりやすく、しまったという表情を浮かべたあと
「たまたまね」と濁した。
「じゃあ一昨日もたまたま?」
全く無神経な奴だ。
「えぇまぁ」
と雪音は黙り込んでしまった。
ここでようやく、過ちに気付くのだから自分が嫌になる。
静寂が二人の間に降りてしばらくあと、慌ててこう切り出した。
「そういえば、家の前に変な奴がいましたけど、そいつも関係者ですかね」
すると雪音は、目を見開き「なにそれ」と呟いた。
「えっいや、望遠鏡を覗いてましたよ。
この家を見てたかは定かじゃないですけど、方角は一緒でした…」
「どんな男でした?」
食い気味だった。
しかも男と断定された。
「色白のなよっとした、若い男でした」
「なんなのよ、もう!」
なんだか訳ありのようだ。
「誰なんですか?」
「たぶん同僚です。きっと監視してるのよ」
監視?同僚?なぜ?理解できないことばかりだが、
予想するにストーカーの類ではないだろうか。
確かに、雪音ほどの美人を男共が放っておくはずがない。
ここらへんには、望遠鏡を担いだ男が、もう三、四人いても不思議じゃない。
近いうち、俺も仲間入りしているかもしれない。
佐伯さんも戻り、だいぶ落ち着いたのを確認して、佐伯家をあとにした。
駅の方に向かうため、来た時と同じ角を曲がる。
すると、先ほどの青年が待ち伏せしていた。
「君は嘘を吐いたな」青年は喧嘩腰だった。
ストーカーのくせに偉そうだなと腹が立ったが、
「へ?」
と情けない声が出てしまう。
「君は彼女の家から出てきたではないか。どういう関係だ」
おそらく年下の青年に、いきなり問い詰められ、不愉快なのは間違いない。
いっそ恋人だと言い返してやろうか。
彼女をスートーキングするのは止めたまえ。
彼女が苦しんでいる。
男なら姑息な手段など取らす、想いをぶつけてみたらどうだ…
そのように気持ちよく言えたらどんだけいいことか。
「いや別に」実際の俺は、情けなくも相手の目を反らしてしまう。
「まぁいい。あの女、こんな時に男を連れ込むとは、全く反省の色がないな」
青年はぶつぶつと言いながら、駅の方へ歩き始めた。
青年と同じ方角を目指している俺は、まさか並んで歩くわけにもいかず、その場に立ち尽くしていた。
ピロリンとスマホがメールを受信した。
スマホを開くと旧友【真鍋洋太郎】からであった。
[ついに開発に成功したぞ]
能天気なそのメールに少し救われた気がした。
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