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告白をしたのは、彼女の方からだった。
臆病者の私は、彼女と何度もデートを重ねながらも、なかなか次の一歩を踏み出せずにいた。
初デートから一年。月に二度、多い時は毎週末のように二人で街へ出掛けた。
普通なら、とっくに脈ありと判断して告白に踏み切るのだろう。だが私は、デート中に必ずと言っていいほど小さな失敗を重ね、帰る頃には自信を削り取られてしまう。自己嫌悪に沈み、無口になるのがいつものパターンだった。
大学の友人に相談すると、「そんな調子じゃ、そのうち彼女に愛想を尽かされるぞ」と呆れ交じりに忠告された。
彼女は人気者で、恋文や告白を受けることも多い。私のような冴えない男とデートしてくれているだけでも奇跡──そう友人に言われ、苦笑いしかできなかった。
焦りを覚えた私は、意を決して彼女を夜の公園に呼び出すことにした。時刻はすでに二十一時を回っていた。
映画館のアルバイトを終えた彼女は、疲れの滲む足取りでやって来た。
しかもその公園は駅から見て彼女の家とは逆方向。自分の気の利かなさに胸の奥が痛む。
「急に呼び出してどうしたの?」
私を見つけると、彼女は小首を傾げ、ぱちりと瞬きをした。
「……実は、君に大事な話があって」
その一言を口にするだけで、心臓が暴れ馬のように暴れた。一呼吸置かなければ、倒れそうだった。
「なに?」と穏やかに促され、
「君のことがすっ……」と切り出した瞬間、怖気づく。咄嗟に「ステーキの話」を始めてしまう。
「そう。美味しいよね。それで?」
小さく笑いながら続きを促されるも、私はまたも「スノーボード」の話へ逃げ込んだ。すると今度は、「そういえばスイーツも好きだよね?」「スクーターって乗ったことある?」と、全く脈絡のない“ス”攻めが始まってしまう。
止めよう、今度こそ止めようと思っても、頭の中の単語帳が勝手にめくれ、次々「ストーブ」「スープ」「スランプ」と、雪崩のように口から滑り出す。
告白どころか、もはや早口言葉の練習か何かのようだ。
自分で自分の暴走を止められず、心の中で頭を抱えていた。
──もう無理だ。
そう思ったその時だった。
「わたし、あなたのこと好き。付き合ってください」
あまりにもあっさりとした逆告白に、頭の中で何かが弾けた。時間が一瞬止まったように、耳に入ってくるはずの夜風の音も消える。
目の前の彼女は、ほんのり頬を染め、小さく唇を結んで私を見つめていた。
「……え?」
情けない声が漏れる。返事を促すように、彼女は小首を傾げた。長い髪が肩からさらりと滑り落ち、街灯の光を受けて柔らかく揺れる。その仕草に心臓が跳ねた。
「返事は?」
潤んだ瞳でまっすぐ見上げられ、私は反射的に首を激しく縦に振っていた。
そして彼女は、そっと距離を詰め、私の頬に手を添えて──
その夜、人生初めてのファーストキスをくれた。
交際は順調だった。
夏は海へ行き、秋は紅葉を見に登山、クリスマスにはきらびやかなイルミネーションの中を手を繋いで歩いた。まるで夢の中を生きているような日々だった。
もちろん、私は相変わらずのどんくささで、海では溺れて彼女に救われ、登山では滑って転び紅葉を散らして管理人に怒られ、クリスマスにはイルミネーションのコードを引っ掛けて周囲を真っ暗にしてしまった。それでも彼女は声を上げて笑い、すべてを許してくれた。
やがて私は社会人となり、彼女との時間は少なくなったが、それでも毎晩電話をし、彼女は時折、私の一人暮らしの部屋を訪れて掃除や洗濯をしてくれた。
ある晩、テレビを観ながらふと尋ねた。
「どうして、僕なんかと付き合ってくれるの?」
ずっと胸の奥に引っかかっていた疑問だった。
「なんでかな……わからない」
彼女はテレビ画面に視線を残したまま、少しだけ口角を上げてそう答えた。
その声は優しいのに、どこか遠く、掴みきれない。
胸の奥に、針で小さく突かれたような不安がじわりと広がった。
そして、二十七歳の夏。私はついにプロポーズを決意した。
給料三か月分を貯め、結婚指輪を買うための資金を用意した。
そして、さりげなく情報を引き出すつもりで、彼女に電話を掛けた。
「ねぇ? 君のお母さんの指輪のサイズって何?」
わざと何気ない風を装ったつもりだったが、声が少し上ずっていたのだろう。受話器の向こうで、彼女がふっと笑った気配が伝わってきた。
「そんなことより、欲しい物があるの。一緒に明日付き合って」
笑みを含んだ声音に、胸の内をすべて見透かされているような気がした。
翌日、有休を取って向かったのは、台東区の下町にある小さなジュエリーショップだった。
「前に偶然立ち寄って、気に入ったの」
彼女はショーケースを覗き込み、指輪を一つひとつ丁寧に試着していく。だが、手に取るのは私が用意していた予算よりも、ずっと控えめな価格のものばかりだった。
「もっと高価なものが似合うと思うけどな」
「わたしはこれが好きなの」
その言葉は揺るぎなく、結局その日、彼女は何も買わずに店を後にした。
「やっぱり私には高くて買えないわ」
その背中越しに響いた言葉が、妙にゆっくりで、わざと聞かせるような声音だった。
――ああ、これが欲しいって、ちゃんと伝えてくれてるんだな。
少し芝居がかったその健気さが、切なくも愛おしく、私は笑いをこらえるのに必死だった。
数日後、私は一人で再びその店を訪れた。しかし、肝心の彼女が欲しがっていた指輪のデザインを失念していた。困り果てていると、前回接客してくれた女性店員が声を掛けてくれた。
歳は私と同じくらいだろうか。落ち着いた声色に柔らかな物腰、美しいが控えめなスーツ姿。ジュエリーショップの店員にしては珍しく装飾品を身につけておらず、それがかえって上品さを引き立てていた。
「こちらですよ」
そう言って差し出されたのは、0.2カラットの小ぶりな指輪。透明度の高いダイヤは、光を受けるたびに繊細な七色のきらめきを放つ。細身のプラチナリングは、無駄のない滑らかな曲線を描き、石座は低く、指に沿うよう控えめに収められている。派手さはないが、洗練された輝きが、彼女の細く白い指にしっとりと馴染む光景が、ケース越しにもありありと浮かんだ。
「大事にしてくださいね」
涼やかな笑みと澄んだ声、切れ長の瞳に宿る知性の光が一瞬きらめいた。
店員の言葉に背中を押され、私は購入を決意した。
そして迎えたプロポーズ当日。
場所は、何度も迷った末に選んだ高尾山の山頂。眼下には夏の緑が広がり、吹き抜ける風が心地よい。
膝をつき、ケースをパカッ──しかし、勢い余って逆さに開き、指輪が土の上に転がり落ちた。
「縁起が悪い」と彼女は眉をひそめたが、すぐに苦笑して許してくれた。
私は急いで拾い上げ、土を払い、改めて差し出す。
彼女は小さく息を呑み、瞳に涙を浮かべながら微笑んだ。
「いつだったかの答え。あなたの好きなところは……」
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スマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、娘の名前。
耳に当てると、懐かしい声が響く。
「――お父さん。ごめんね。全部解決したから、もう帰って来ても大丈夫だよ」
五十八歳になった今も、私は相変わらず娘に支えられている。
情けないと思う反面、それを手放せない自分がいる。
……まぁ、今さら変われたところで、どうということもないのかもしれないが──。
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