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いたずら青年、世にはばかる  作者: 堀尾 朗
第4章「強引な訪問販売と詐欺は紙一重」
16/36

—3—

 ここ最近、娘の雪音がますます生前の妻――由美子に似てきた。

それを思うたびに、胸が締め付けられる。

情けない父親を持ったばかりに、どれほどの苦労を娘に背負わせてしまったか……。


始まりは一年前。

突然の解雇通知により職を失い、ほどなくして妻が亡くなった。

失意のどん底にいた私のもとへ、まるで不幸の匂いを嗅ぎつけてきたかのように現れたのが、中須という男だった。

訪問販売業者を名乗るその男は、強引かつ執拗で、弱り切った私は毎度、煮え湯を飲まされ続けた。

生気を失い、言われるがままの日々。

見かねた娘は、中須をどうにか追い払おうと奔走してくれたが、そのたびに傷ついて、それでもなお私を庇おうとしてくれた。

心優しい子だ。それなのに、私は……。

結局、一線を超えてしまった。

よりによって百万円近いネックレスの契約書に、迷いもなく判を押してしまったのだ。哀れな私に、流石の雪音も今回ばかりは呆れていることだろう。

もはや、顔向けすらできない。

由美子が死の間際、意識朦朧としながらも、私の手をぎゅっと握りしめて――

「あとは頼んだよ」

そう微笑んでくれた、あの懸命な表情が脳裏から離れない。

あの願いすら、私は裏切ってしまった。


池袋のビジネスホテル。

引きこもって、今日で四日目になる。

テレビも照明もつけず、窓から射し込む淡い光だけが差す薄暗い室内で、

六十手前の男がひとり、うずくまりながら頭を抱えている――。

客観的に見れば、それはきっと、不気味な光景だろう。


———————————————————————————————


 妻――由美子との出会いは、中学時代に遡る。

容姿端麗、成績優秀、おしとやかで優しい。そんな彼女は、校内で誰もが憧れる存在だった。

当時から地味で、取り柄ひとつない私にとって、彼女はまさに“遠い光”だった。交際など夢のまた夢、話しかけることさえ叶わないほど、まぶしい存在だった。

そんな彼女と急接近したのは、二十歳の成人式後、同窓会の席でのことだった。偶然隣り合った私たちは、初めてまともに会話を交わした。

その時、私は大学生で、山岳サークルに所属していた。

筑波山、三原山、大山など、これまでの登山経験やその魅力について、私は夢中になって語った。恋愛に不器用な私は、話すことに熱中するあまり、彼女の表情を気遣う余裕などなかった。

登山に興味のない人間からすれば、きっと退屈でしかない話だっただろう。それでも彼女は、にこにこと優しく相槌を打ってくれていた。

散々しゃべり倒した末、ようやく自分の傍若無人さに気づいた私は、「ごめん、僕ばっかり話して……」と、項垂れながら謝った。

すると彼女は、ゆっくり首を振って、ふんわりと微笑んだ。

「そんなことないよ」

その包容力。その優しさ。その笑顔が、あまりにも眩しくて――私は言葉を失った。

そして気づけば、酒の勢いも手伝って、こんなことを言っていた。

「……よかったら今度、一緒に高尾山にでも行かない?」

言った直後、後悔した。

彼女のような輝かしい女性が、自分のような冴えない男の誘いを受けるはずがない。早まった。引かれたかもしれない――そう思って顔を伏せかけたそのとき。

「いいよ、行こ」

由美子は、明るくそう答えてくれた。

あの瞬間の歓喜。

心が跳ねるような、あの感覚は――今でも、まざまざと覚えている。


人生初のデートの日。

私は、緊張のあまり、いくつもの失敗を繰り返すこととなった。

高尾山口まで電車を乗り継いで向かう道中。話に夢中になるあまり、見知らぬ人とぶつかること数回。

電車に乗る際のわずかな段差につまずくこと数回。

そして――彼女はトイレに行きたかったのに、私が怒濤のようにしゃべり続けたため、なかなか切り出せず、我慢を強いてしまう羽目になったことが一回。

新宿を出発した京王線が長い車窓を走る中、ようやく彼女の様子が妙にもじもじしていることに気づいたのだから……まったく、性懲りもない男である。

それでも彼女は怒らなかった。

頬をぷくりと膨らませて、「もう遅いよ」と口を尖らせるだけで、それ以上は何も言わなかった。

そして極めつけは――財布の置き忘れ。

男として、この日のデート代はすべて自分が持つつもりでいたが、結果的に、すべてを彼女に払わせてしまった。情けなくて、顔を上げられなかった。

登山中も、学習能力のなさは発揮されっぱなしだった。

格好をつけようと、わざわざ難易度の高いコースを選んでしまい、彼女を疲れさせ、不機嫌にさせたこともある。

さらに、つい下心が溢れてしまい、吊橋で彼女が怖がったのをいいことに、手を握ってしまった。

段差を上る彼女の後方で、揺れるお尻に見とれてしまい――歩幅を誤って、彼女の背中に突っ込んでしまったこともあった。結果、彼女は前のめりに転倒。

本当に……あまりにも失態が多すぎる。

よくもまぁ、こんな最低なデートをされて、彼女は帰ろうと思わなかったものだ。

山頂に到着した頃には、私はもう完全に意気消沈していた。

だが彼女は違った。

山頂からの眺めに目を輝かせて、私の方へと振り返り、にこりと笑って言った。

「また来ようね」

その屈託のない笑み。

あまりにも美しく、尊く――後日、本当に妄想だったのではないかと疑ったほどだった。


 それから数日後、私は受話器を片手に思い悩んでいた。

あれだけの失態を起こしてしまったのだ。もう二度と、彼女がデートに付き合ってくれることはないだろう。

しかし、高尾山頂で見せたあの美しい笑みが、どうしても忘れられなかった。

思案の末、「どうせ諦めるなら、きちんと振られてからにしよう」と決意し、私は勇気を振り絞って電話をかけた。

「よかったら、今度映画でも見に行かない?」

「良いよ。じゃあ、今週の日曜ね」

あまりにもあっさりとした返事に、「えっ、いいの?」と、逆に聞き返してしまったほどだった。


こうして二度目のデートにありつけた私は、場所に池袋を指定した。

今度こそは失敗しないと誓い、財布を失くさぬようベルトループに紐を通してしっかり固定。二度目ということもあり、それを見せびらかして「これならもう失くさない」と、おどける余裕すらできていた。

万全の準備を整えたつもりで臨んだのだが――

劇場に到着し、映画のチケットを買おうとしたそのとき、私は財布の中に一銭も入っていないことに気がついた。

だから、彼女に「実は、私のことからかってるだけだったりして?」と疑われたのも、無理はなかった。

この日もまた、彼女にすべてを奢らせてしまった。

上映中は反省の念で頭がいっぱいで、映画の内容などまるで入ってこなかった。

空気の読めない私は、周囲が笑っているときも、感動の場面でも、何度もため息をついてしまった。

ついに前の席に座っていた強面の男性に、「うるせぇぞ!」と怒鳴られてしまう。

硬直して声も出せない私に代わり、彼女がすぐに頭を下げたのだった。


「あんな、いきなり怒鳴んなくても良いのにね!」

劇場をあとにして、彼女はぷりぷりと怒りながら通りを歩いていた。私が謝罪すると、「次は気をつけてね」と、寛大に許してくれた。

だが、動揺した状態は続き、このあとも私は彼女を困らせることになる。

立ち寄った喫茶店で、私は手を滑らせてコーヒーカップを落とし、見事に粉々に割ってしまった。

当然、コーヒーは飛び散り、彼女のロングスカートを派手に汚してしまう。

慌てた私は、近くにあった紙ナプキンをこれでもかというほど取り出し、テーブルの下にしゃがみ込んでスカートを拭こうとした。

だが彼女は驚いたように叫んだ。

「きゃっ、なにしてるの! いいよ、そんなんじゃ取れないってば!」

その声にさらに動揺した私は、テーブルの下にいることを忘れて勢いよく立ち上がろうとし――頭を思いっきりぶつけてしまった。

その衝撃で今度は、テーブルの上に置いてあった彼女のコーヒーカップが倒れ、またもや彼女の服を汚し、顔にまで飛び散ってしまった。

「熱っつ!」

悲痛な声を上げる彼女。

あのときの光景はほとんど記憶にないが、見るに堪えないほどの惨状であったことは確かだ。周囲の客も店員も、不快感を隠さず私を睨みつけていた。

だが、ただ一人だけ、様子が違った。

当の被害者である彼女は、「なにしてるのよ、もう……」と、あきれたように、けれどどこか楽しげにそう言って、周囲に頭を下げながら店員の元へ向かっていった。

そして雑巾を借りると、自ら床やテーブルを拭き始めたのだ。

こんな仕打ちを受けてなお、冷静に対処する彼女の姿を見て、私は申し訳なさよりも先に、驚きを覚えたのをはっきりと記憶している。

今度こそ彼女は帰ってしまうだろう――そう覚悟していたが、彼女はおもむろにこう言った。

「古着屋に行きたい。服がシミだらけになって恥ずかしいし、ちょうど新しいの欲しいなぁって思ってたとこ」

その古着屋は、狭い店内に所狭しと衣類を詰め込んでおり、人とすれ違うのも難しいほど通路の幅が狭かった。

これまでに幾度となく失敗を繰り返してきた私は、入店前から嫌な予感がしていた。そして、その予感は見事に的中することになる。

彼女に連れられて店内を見て回りながら、「これとこれ、どっちが似合う?」と二択を迫られていた、まさにその時だった。

「邪魔だよ。こんなところで止まんなよ」

背後からの警告と同時に、肩をどんとぶつけられる。

振り返ると、彫りの深いスキンヘッドの男がこちらを睨みつけていた。その隣には、当時流行していた奇抜なファッションに身を包んだ女性が、男の袖を掴み、なにやら耳打ちをしている。

根性なしの私はすぐに道を譲ろうとし、大量の衣類が掛けられたハンガーラックを押し込むようにして、通路を開けようとした。

その瞬間だった。

――ガシャン!

何かが倒れる音に続いて、「いてぇな! 押すなよ!」という怒鳴り声が店内に響き渡る。

今思えば、誰にでも分かる単純な構造だった。店内は、壁際と中央の三列にハンガーラックを並べることで、通路を区切っている。つまり、仕切りのように置かれているだけの中央ラックを押せば、均等だった通路幅が崩れ、一列目は広がるが、二列目はその分狭まってしまう。ましてやキャスターを固定していたラックを無理に押せば、バランスを崩し、倒れるのは当然のことだった。

冷静であれば避けられた事態だが、私にはその冷静さがなかった。

スキンヘッドの男は鼻で笑い、隣の女は「あらら」と茶化しながら通り過ぎていく。

ようやく事の重大さに気づいた私は、青ざめながらその場に立ち尽くすことしかできなかった。

そこへ、ドタドタと荒っぽい足音が近づいてきて、物凄い形相をした男が「てめぇか!」と食ってかかってくる。

私はただ掠れた声で謝罪することしかできず、無抵抗のまま強引に腕を引っ張られていた。まさにそのとき――

「違います。わたし、見てました。この人じゃありません。スキンヘッドの人です」

彼女の嘘だった。

情けないことに私は涙目で彼女を見つめていた。相手の男も逆上しており、冷静な判断などできなかったのだろう。

「……あん? そいつどこだ!」

男は彼女が指差した方角へと、疑うことなく突進していった。

そして、間もなくして――

「逃げましょ」

彼女は幼い悪戯っ子のような笑みを浮かべ、私の手首をギュッと握りしめてきた。

こんな調子で、この先も幾度となく、私は彼女に救われることになる――。


お読みいただきありがとうございます。

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