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「俺はもう死のうと思う」涙ながらに目の前の男に告げると「まぁまぁ」とお猪口に日本酒をなみなみまで注がれ、手渡された。それを一気に呑み干して、荒々しくテーブルに置く。
毎度お馴染み、焼鳥クリアである。平日ということもあってか、客足は疎らで空席が目立つ。木目調の内装に、手書きのメニューがペタベタと壁に貼り出されている。疎らにいる客の雑声と焼鳥を焼かす音に自身の啜り声が重なる。
「思えば、醜い二十三年間であった。今まで本当にありがとう。お前になど全く感謝していないが、他に遺言を残しておきたい奴もいないから、有り難く頂戴しておきなさい」
「偉そうな遺言だな。んな大袈裟な話じゃないだろ」矢後の無神経な発言に血が上る。
「大袈裟だと!」怒声を浴びせてやるが、彼はお構い無しに笑声を上げ「女に振られるなんて馴れたもんだろ。なにを今更。中学生の初恋じゃあるまいし。受付の女性に振られた時だって、ケロッとしてたじゃないか」と平然な顔をしている。
彼はまるでわかっていない。今回の恋愛は、今までとは比べ物にならないほどに情熱的であったのだ。どれだけ本気で、彼女のことを想っていたことやら。
「あのな~雪音はまさに運命の相手だったんだぞ。それなのに、振られてしまったということは、今後一切恋をする意義を失ってしまったということにもなるんだぞ」呆れ顔を彼に向けて、懇切丁寧に事の重大性を説いてあげたが、憎たらしくも「運命って末期だな」と鼻で笑われた。
あれは昨晩のことである。吉岡との白熱した討論会を終えて、意気揚々と佐伯家に向かった。玄関扉を開けた雪音は、えらくご機嫌斜めの様子であったが、そんな些細なことなど気にしてはいられない。こうゆうことは勢いが大事であると考え、勢いに身を任せ愛の言葉を口にした。思えば、彼女への好意を面と向かって告げたのは、この時が初めてであった。
そんな熱い想いを受けた彼女は、無情にも「は?ない!」の一言で切り捨て、扉をピシャリと閉めた。そのあまりにもぞんざいな扱いに、立ち尽くしたのは言うまでもない。過去何十回と女性に振られ続けてきたが、こんなにも辛辣な振られ方をしたのは初めてであった。
これまでの失恋体験によれば、大概の女性は、なんと言えば相手を傷つけずに済むのかと考えあぐね、遠慮がちに口を開くか、笑って誤魔化すかのどちらかだというのに、彼女は躊躇いも配慮もなしに俺の心に深い傷を刻み込んだ。
「まぁまぁ、AVなら貸してやるからさ。ククッ」こんなにも打ちひしがれているというのに、矢後が如何に冷徹非道なのかを思い知らされる。真鍋に至っては、忙しくてそれどころではないと自棄酒にすら付き合ってくれなかった。なんてつっけんどんな奴らだ。目頭が熱くなり、テーブルに突っ伏して、啜り泣いて見せた。
「わかった。わかった。」そう言いながら、またもお猪口に日本酒を注がれる。だが、次に矢後が放った発言に度肝を抜かれた。
「良い子、紹介してやっからさ。ほら、この前、俺の隣に座ってた若い教師いただろ…」なんと、矢後はあのマドンナ教師を紹介してくれるのだという。
やはり持つべきものは友である。今なら矢後のこれまでの失言を寛大なる心持ちで許せてあげられそうだ。自然と口許が緩む。
あ~あの一見清楚そうなマドンナ教師は、一体どんな方などであろう。以外と積極的な一面を持ち合わせているかもしれない。あっそうだ。折角だから、交際した暁には、佐伯家の前を何度も往復して見せびらかせてやろう。あの怒りっぽい雪音のことだ。ハンカチをキーと噛んで悔しがること間違いない。
先ほどまでの憂鬱な気分をコロッと切り替えて、妄想を膨らませていると「だが、一つ条件がある」と矢後は人差し指を俺に突き立てた。
「まずは働け!俺としても今後の体裁があるからな。無職は紹介できん」
無理難題な条件に絶句する。
「は…働けって、それはベンギンに空を飛べって言ってるのと同じことだぞ。わかって言っているのか!」今度は矢後が絶句した。
「…いや、働いてもいないのに女が欲しいのか。世の中甘く見るなよ」矢後の言葉はいつも理解に苦しむ。どこが甘く見ているというのだ。ライオンだって象だってキリンだってカブトムシだってキリギリスだって、どれも働いていないではないか。思いの丈をぶつけると処置なしといった様子で笑われた。「ここまで落ちぶれられるとは素晴らしい」と絶賛され、照れ臭くなる。
冗談はさておき「わかっているよ」と煙草に火を付け、天井に燻らせた。今成すべきことは女を口説くことでもなければ、遊び呆けることでもない。職探し。ただそれ一択である。どうしてそんな簡単なことすら、俺は出来ないのであろう。
しかしながら、自己嫌悪にはもう疲れた。よもやクズっぷりは最終形態に突入し、思考停止にまで陥った。もうこれ以上考え込むのは止めにしようではないか。非合理的という奴だ。そもそも、考える前に行動しなければ始まらないのだ。
「なにかやりたいこととかないのかよ?」と訊ねられ、案外そこははっきりしていることに気が付いた。
「イベント運営」そうなのだ。俺は別に、前職を嫌いになって辞めたわけではないのだ。「起業しようかな」と呟いてみると、すかさず「お前じゃ無理」と一蹴された。
枯れるほどに涙を流し、逆にトイレがやたら近くなった頃、吉岡から電話がきた。通話ボタンを押して耳に当てると―雪音様が朝からずっと暗い顔をしている。どうなっているんだ!―といきなり咎められた。
吉岡の話では、いつなんどきだって、愛想の良い雪音が、今日はどこか上の空で、仕事のミスも多いし、上司から話し掛けられても、返事がワンテンポ遅れているらしい。
だが、正直知ったこっちゃない。俺は矢後と真鍋と雪音に習い、冷徹な男に生まれ変わると決心したばかりなのだ。まして相手は、俺を奈落の底に叩き落とした張本人だ。それを心配してやるほど、俺はお人好しではない。
雪音に木端微塵に打ち砕かれたことを告げ、一応涙ながらに身を引いた吉岡の気持ちを慮り謝罪の言葉も付け足した。しかしながら、吉岡はそれで納得するような奴ではなかった。
—それは困る。僕は君になら雪音様を幸せに出来ると確信したから、泣く泣く諦めたのだ。それに、どこの馬の骨とも知れん人に雪音様を任せてはおけないだろう—彼の発言には突っ込みどころが満載である。一つ、どの立場から物を言っているのだ。それはまるで父親の口振りだ。一つ、俺に対する過大評価が過ぎる。本来雪音は高嶺の花であり、釣り合いが取れていないのは一目瞭然である。一つ、吉岡は全く困らない。寧ろ振られた男にいつまでも付きまとわれる雪音の方が遥かに困る。さて、彼の傍若無人な発言は止まることを知らない。
—仕方がないから、僕が君と雪音様の仲を取り持ってあげよう。実は、雪音様の様子がおかしいもんだから、部長を利用して雪音様には残業を押し付けておいた。その部長には、雪音様の恋人が現れるまで、絶対に家に帰すなと指示してある。そこで君が現れれば、雪音様の目に映る君は、まさに白馬の王子となっていることであろう。なぁに。あまり気にしないでくれ。友人として当然の計らいだ—
「友人として教えてやる。そんな見え透いた作戦など乗れない。寧ろ、彼女に恨まれてしまう。全くの逆効果だ」興味津々に耳をそばたてながら、ハラミを食らっている矢後に苛つきながら、そう伝えると「そんなことはないさ。大船に乗った気でいてくれれば良い」と返された。
彼の思考回路は、普遍的観点から著しく逸脱しており、時に狂気じみた発想へと辿り着く。彼女からしてみたら、なにか思い悩んでいる上に残業を押し付けられ、更には一度振った男が彼氏面で現れる仕打ちを受けることになる。たまったもんじゃないだろう。憐れに思え、吉岡に説得を試みたが、彼は断固とした自信があるみたいで、結局—まぁ、そういうことだから。君が来ない限り雪音様は一生帰路に立つことが出来ない—と言い残して、通話を切られてしまった。
なんと末恐ろしい奴であろう。流石に一生帰れないは、働き方改革が叫ばれる昨今の社会では到底あり得ないとして、今日一日帰れないぐらいはあり得ることだろう。他に誰もいないオフィスで、一人黙々とデスクワークしている小さな背中が目に浮かぶ。なんて酷いことをするんだ!職権乱用も甚だしい。
「どうすんだよ?」含み笑いを浮かべ、鳥皮串を口に運ぶ矢後をひっぱたいて、忽然と立ち上がった。
「なってやろうじゃないか。白馬の王子に!」
「よっ!」矢後に持ち上げられ、コートを格好良く羽織り、勢いそのまま店を飛び出した。つまり、矢後に奢らせた。
上野駅に降り立った俺と矢後は、吉岡製薬株式会社の東京支社ビルに向かった。時刻は夜の十時を回っており、飲み屋街が賑わう一方、オフィス街に入ると辺りの人通りは極端に減った。見上げたビルのほとんどが真っ暗の状態で、ポツリポツリと照明の点ったフロアが窺えるだけだ。その八階建ビルも例に漏れず、一フロアだけが取り残されたかのように灯っていた。
ビルの真下まで来ると、五十代くらいのネイビースーツにコートを纏った品の良いおじさんに話し掛けられた。
「君達はもしかして、佐伯くんのお知り合いかい?」
「そうです」するとおじさんは、安堵の表情を浮かべ「待ちわびてたよ」とビル内へと案内された。エレベーターで、雪音のいるフロアまで向かっている途中、矢後が「振り回されてご苦労様」と嫌味ともとれる労いの言葉を投げ掛けると「困ったもんだよ。お坊ちゃんには。佐伯くんも可哀想に。ただでさえ、朝から体調悪そうだったのに、今日ばかりは胸が痛んだよ。元気付けてやってくれ」と言い訳がましく言い募られた。
沢山のデスクが並ぶ大部屋の事務室内の一角、カタカタとパソコンを叩く髪を縛った女性の後ろ姿があった。
「佐伯くん。今日はもう帰りなさい。その仕事は、私がやっておくから」おそらく、吉岡が言っていた部長であろうおじさんが声を掛けると、パタリと女性の手が止まり、ゆっくりとこちらを振り返った。「良いんですか?」と答える雪音の目は虚ろで、なるほど確かに痛々しい雰囲気を醸し出している。やがて、俺と矢後を視界に捉えると大きく目を見開き「なんで清水くんが?」と小さく呟いた。
振られた直後という気不味さから、視線を下に逸らすと、全く事情を把握していないおじさんは「彼氏さんが、たまたま近くを通り掛かったみたいでな。心配で寄ってみたそうだ」とあまりに荒唐無稽な理由付けをした。
「彼氏じゃありません」真っ先に否定したその口調には、明らかに怒気が含まれていた。
おじさんは、吉岡の指示からの解放感からか、特に気にする風でもなく、労いの言葉だけを言い残して、さっさと事務室から出て行ってしまった。
矢後に背中を押され、仕方なく雪音の元に向かう。依然虚ろな目を浮かべている。
「もう、なんでも良いから帰って。もう疲れたの。あなたの相手をしている余裕はないの」
「あっいや、俺らも急に呼び出されて、訳がわからないんだ。それに…」
「イライラさせないで!もうやだの!疲れた…」
突然言葉を切った雪音は、白目を向いて後ろに倒れ込んだ。危機一髪で彼女を抱き抱え、どうにか後頭部から床に打ち付けるのを阻止出来たが、彼女は手の中で完全に気を失っていた。どうしたら良いものか、動揺から矢後に助けを求めると、近傍まで来ていた彼は「とりあえず、どこかで横にさせよう」と辺りを見回した。
大部屋の奥、応接室のプレートの貼られた小部屋に三人掛けソファーがあったため、二人掛りで雪音を運び込み横たわらせる。
そこでようやく一息吐く。目の前で突然人が倒れるなんてことは、今まで経験したことがなかった。面白半分で付いてきただけの矢後も、流石に険しい表情を浮かべている。ふと寒いなぁと思い至り、紳士的にコートを彼女に掛けてあげる。黒のスパッツを履いているとは言え、この時期にタイトスカートでは、さぞ寒いことであろう。
「救急車呼んだ方が良いのかな?」大学卒で頭の良いはずの矢後に訊ねたが、能無しにも首を傾げるだけだ。このような事態の適切な行動を二人考えあぐねるが、とりあえず息はしているため、様子見をすることにした。
ゆっくりとした時間が流れたが、彼女は一向に目を覚ます気配がない。誰もいない応接室は、独特な静けさであり、大部屋の方から常時稼働しているサーバーやら複合機の低い機械音だけが流れ込んでくる。そこに革製のソファーが、雪音の僅な動きに合わせて、ミシミシと音を立てている。
美しい彼女の寝顔を眺めながら「キスをしたら目覚めるかな」と真剣な顔付きで呟くと「どんだけポジティブなんだよ!振られたばっかだろ!」と矢後に頭を叩かれる。その音をきっかけにしたかように、彼女はうんうんと唸ったあとで目を覚ました。
「大丈夫?」
「…清水くん?わたし…なんで…」頭を抑え、状況を飲み込めないでいる彼女に、矢後がここまでの経緯を説明した。聞き終えた彼女は「わたし、よっぽど疲れているのかな」と自嘲気味に笑った。疲労で倒れてしまうなんて、よっぽどのことがあったに違いない。事情を促すが「うん…」と言ったきり黙りこくってしまった。
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