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「俺はもう、死のうと思う」
涙ながらにそう告げると、目の前の男は「まぁまぁ」と言いながら、お猪口に日本酒をなみなみと注ぎ、こちらに差し出してきた。それを一気に呑み干し、荒々しくテーブルに置く。
――毎度お馴染み、焼鳥クリアである。
木目調の内装は、少し煤けていて年季が入っている。壁には黄色く焼けた手書きのメニューが所狭しと貼られており、赤字で「本日おすすめ!」と書かれた紙が何枚も重なるように斜めに貼り出されていた。
カウンター席の奥には炭火焼きの煙がほんのり漂い、照明は暖色の裸電球で、明るすぎず、かといって暗すぎもしない、どこか懐かしさの滲む空間を演出している。
天井からは小さな換気扇が申し訳程度に回っているが、その効果は気休め程度。店全体にうっすらと焼き鳥の香ばしい匂いが染みついており、初めて来た客でも「ここは焼鳥屋だ」と一発でわかるだろう。
座敷では、仕事帰りの中年男性がひとり、スマホを見ながらチューハイを傾けている。奥のテーブルでは、スーツ姿のサラリーマン二人が小声で仕事の愚痴をこぼしていた。笑い声というよりは、ため息混じりの疲れた声ばかりが店内に滲んでいる。
カウンターの向こうでは、店主が無言で串を返しながら、炭火の加減を確かめていた。パチパチと脂が弾け、煙がふわりと立ち上る。その音が、時折途切れる会話の合間に自然と溶け込み、BGM代わりのように響いている。
そんな中に、俺のすすり泣く声が重なっていた。
酒の力を借りて抑えていた感情が、じわじわと滲み出していく。誰もこちらに注意を払わないのが、ありがたいようで、虚しいようでもあった。
「思えば、醜い二十三年間だった。今まで本当にありがとう。……お前になど感謝はしていないが、他に遺言を残しておきたい奴もいないから、有り難く拝聴しておけ」
「偉そうな遺言だな。んな大袈裟な話じゃないだろ」
矢後の無神経な発言に、思わず血が上る。
「大袈裟だと!?」
怒鳴りつけてやったが、彼はお構いなしに笑いながら続けた。
「女に振られるなんて、慣れたもんだろ。なにを今更。中学生の初恋じゃあるまいし。受付の女性に振られた時だって、ケロッとしてたじゃないか」
平然とした顔で、まるで他人事だ。
……彼は、まるでわかっていない。
今回の恋は、今までとは比べ物にならないほど情熱的だった。どれほど本気で、彼女のことを想っていたか――。
「あのな……雪音は、まさに“運命の相手”だったんだぞ。それなのに、振られてしまったってことは……今後一切、恋をする意味を失ったってことなんだ!」
呆れ顔の彼に向けて、懇切丁寧に事の重大性を説いてみせる。だが、憎たらしくも、彼は鼻で笑いながら言った。
「運命って……末期だな」
――あれは、昨晩のことだった。
吉岡との白熱した討論会を終え、意気揚々と佐伯家へと向かった。頭の中は雪音のことでいっぱいで、期待と緊張がない交ぜになった胸の鼓動が、歩を速めるたびに高鳴っていった。
玄関の扉を開けた雪音は、明らかに機嫌が悪そうだった。眉間に皺を寄せ、口を尖らせ、目も合わせようとしない。
しかし、そんな些細な空気を気にしてはいられなかった。こういう時は、勢いこそが命だ――そう信じ、気持ちのままに、ありったけの勇気を振り絞って愛の言葉を口にした。
思えば、彼女に対する想いを、面と向かってはっきりと伝えたのは、この瞬間が初めてだった。
――それなのに。
俺の熱い告白を受けた彼女は、間髪入れず「は? ない!」と一蹴し、ためらいもなく扉をピシャリと閉めてしまった。
あまりの唐突さ、あまりの非情さに、その場で立ち尽くすしかなかった。
これまで何十回と女性に振られてきたが、ここまで酷い振られ方をされたのは初めてだった。
大抵の女性は、せめて相手を傷つけないようにと、どう言葉を選べばいいのか悩みながら、遠慮がちに口を開くか、あるいは笑って誤魔化すものだ。
だが、雪音には、そんな躊躇いも配慮も一切なかった。彼女は一言で、俺の心に深く鋭い傷を刻みつけたのだった。
「まぁまぁ、AVなら貸してやるからさ。ククッ」
……こんなにも打ちひしがれているというのに。
矢後がどれほど冷徹非道な男なのか、改めて思い知らされた。
真鍋に至っては、「忙しいから」との一言で、自棄酒にすら付き合ってくれなかった。なんてつっけんどんな奴だ。
目頭が熱くなり、耐えきれずテーブルに突っ伏して、啜り泣いてみせた。
「わかった、わかった」
そんな俺を見かねてか、矢後はまたもお猪口に酒を注いでくれた。だが――その直後に放たれた彼の言葉には、思わず耳を疑った。
「いい子、紹介してやっからさ。ほら、この前、俺の隣に座ってた若い教師、いたろ?」
……な、なんと。あのマドンナ教師を、紹介してくれるというのだ!
やはり、持つべきものは友である。
今なら矢後のこれまでの失言の数々も、寛大なる心で許してあげられそうな気がする。
自然と、口許が緩む。
ああ――あの一見、清楚そうなマドンナ教師は、一体どんな方なのだろう。
いつも落ち着いた表情で、背筋をピンと伸ばして歩いている姿が印象的だった。実際に生徒と話しているところは見たことがないが、あの雰囲気なら、きっと生徒たちからの人気も高いに違いない。
いや、むしろ……生徒との関わりなんてなくてもいい。ただそこにいるだけで、もう尊いのだから。
とはいえ、外見が清楚だからといって、中身までそうとは限らない。もしかすると――私生活では意外とズボラで、休日は部屋着のままソファに寝転び、スナック菓子片手にテレビを観て笑っているような、そんなギャップ女子かもしれない!
あるいは、恋愛には不器用で、デートの前には「何着ていこう……」と三時間も迷って服を並べたり、緊張しすぎて前日眠れなかったりするタイプだったりして。
ああ、なんてピュア……いや、なんてリアルな妄想……!
でも、もしそんな彼女が、俺だけには心を開いてくれて――「今度、一緒に水族館でも行きませんか?」なんて、恥ずかしそうに言ってくれたら……
そうだ!!
仮に付き合うことなったら佐伯家の前を、彼女と腕を組んで、行ったり来たりと何往復もして見せびらかせてやろう。
あの怒りっぽい雪音のことだ、きっと玄関のカーテンの隙間から覗き見しながら、ハンカチをキー—と噛んで、嫉妬でのたうち回るに違いない。
先ほどまでの憂鬱な気分はどこへやら、俺はすっかり妄想モードに突入していた。
幸せな未来を勝手に描いてニヤニヤしていると、目の前の矢後が急に真顔になり、人差し指をビシッと俺に突き立ててきた。
「……だが、一つ条件がある」
「条件?」
「まずは働け! 俺としても今後の体裁があるからな。無職は紹介できん」
――無理難題に絶句した。
「は、働けって……それ、ペンギンに空を飛べって言ってるのと同じことだぞ。わかって言ってるのか?」
今度は矢後の方が絶句した。
「……いや、お前……働いてもいないのに女が欲しいのか。世の中を甘く見るなよ」
こいつの言うことはいつもよくわからん。
どこが甘く見てるっていうんだ。ライオンだって、象だって、キリンだって、カブトムシだって、キリギリスだって、みんな働いてないじゃないか!
俺はその思いの丈をぶつけたが、矢後は処置なしといった顔で吹き出した。
「ここまで落ちぶれられるとは……素晴らしいな、お前」
絶賛され、ちょっと照れる俺。……じゃない!
冗談はさておき、「わかってるよ」と煙草に火をつけ、天井へと煙を燻らせた。
俺が今すべきことは――女を口説くことでもなければ、遊び呆けることでもない。
職探し。
ただそれ一択である。
それなのに、どうして俺は、そんな当たり前のことすらできないのだろう。いや、もういい。自己嫌悪にはもう疲れた。クズっぷりもいよいよ最終形態に突入し、もはや思考停止状態である。
これ以上考え込むのはやめよう。
そもそも、考える前に動かなければ何も始まらない――非合理的ってやつだ。
「なにかやりたいこととか、ないのかよ?」
矢後の問いかけに、案外すぐに答えが出た。自分でも驚くほどにはっきりと。
「……イベント運営」
そうだ。俺は別に、前職を嫌いになって辞めたわけじゃない。好きだったし、やりがいも感じていた。
「起業しようかな」
ふと口にしてみたが――
「お前じゃ無理」
――秒で一蹴された。
枯れるほど涙を流し、逆にトイレばかり近くなってきた頃――吉岡から電話がかかってきた。
通話ボタンを押して耳に当てるや否や、「――雪音様が朝からずっと暗い顔をしている。どうなっているんだ!」といきなり咎められた。
吉岡の話によれば、いつもは愛想が良い雪音が、今日はどこか上の空で、仕事のミスも多いし、上司に話しかけられても返事がワンテンポ遅れるらしい。
……だが、正直、知ったこっちゃない。
俺は今しがた、矢後と真鍋、そして雪音を見習い、冷徹な男に生まれ変わると決心したばかりだ。ましてや相手は、俺を奈落の底に叩き落とした張本人である。そんな女を心配してやるほど、俺はお人好しではない。
一応、雪音に木端微塵に打ち砕かれたことを告げ、涙ながらに身を引いた吉岡の気持ちを慮り、謝罪の言葉を付け足した。
しかしながら、吉岡はそれで納得するようなタマではなかった。
「――それは困る。僕は君になら雪音様を幸せにできると確信したから、泣く泣く諦めたのだ。それに、どこの馬の骨とも知れん人に雪音様を任せてはおけないだろう」
……この男、突っ込みどころが多すぎる。
一つ。 どの立場からものを言っているのだ。それはまるで父親の口ぶりだ。
一つ。 俺に対する過大評価が過ぎる。雪音は高嶺の花であり、釣り合いが取れていないのは一目瞭然だ。
一つ。 困るのは吉岡じゃない。振った男にいつまでも付きまとわれる雪音の方が、百倍困る。
だが、吉岡の傍若無人な発言は止まる気配を見せなかった。
「――仕方がないから、僕が君と雪音様の仲を取り持ってあげよう。実は、雪音様の様子がおかしいもんだから、部長を利用して雪音様には残業を押し付けておいた。その部長には、雪音様の恋人が現れるまで、絶対に家に帰すなと指示してある。そこで君が現れれば、雪音様の目に映る君は、まさに白馬の王子となっていることであろう。なぁに。あまり気にしないでくれ。友人として当然の計らいだ」
「友人として教えてやる。そんな見え透いた作戦など乗れない。むしろ彼女に恨まれる。完全に逆効果だ」
横でハラミを食いながら興味津々に耳をそばだてている矢後にイラつきながらそう伝えると、———そんなことはないさ。大船に乗った気でいてくれれば良い、とのたまった。
こいつの思考回路は、常識という名のレールから脱線しまくっている。
雪音からしてみれば、何か思い悩んでいる上に残業を押し付けられ、さらに一度振った男が彼氏面で現れる――たまったもんじゃない。
憐れに思い、吉岡に説得を試みたが、彼は断固とした自信があるようだった。
結局、「――まぁ、そういうことだから。君が来ない限り雪音様は一生帰路に立つことが出来ない」と言い残し、通話を切ってしまった。
なんと末恐ろしい奴であろう。
「一生帰れない」は流石に大げさだろうが、今日一日帰れないぐらいはあり得る話だ。
無人のオフィスで、雪音が一人、黙々とデスクワークをしている小さな背中が目に浮かぶ。
なんて酷いことをするんだ!職権乱用も甚だしい。
「どうすんだよ?」
含み笑いを浮かべ、鳥皮串を口に運ぶ矢後の頬を軽くひっぱたき、俺は忽然と立ち上がった。
「なってやろうじゃないか――白馬の王子に!」
「よっ!」
矢後の声援を背に、コートを格好良く羽織り、勢いそのまま店を飛び出した。
つまり――矢後に奢らせた。
――――――――――――――――――――――――――――———
上野駅に降り立った俺と矢後は、目的地である吉岡製薬株式会社・東京支社ビルへと向かった。
時刻はすでに夜の十時を回っており、飲み屋街はまだまだ賑わいを見せていたが、オフィス街に足を踏み入れると空気が一変する。
喧騒が嘘のように消え、人通りもまばら。道行く人の足音と、信号の点滅音だけが夜の静寂に溶けていく。
見上げたビルのほとんどはすでに消灯しており、窓の奥には暗闇が広がっていた。
その中で、ぽつりぽつりと点った照明のフロアだけが、まるで取り残されたように光っている。
吉岡製薬の八階建てのビルも例外ではなかった。
その最上階――八階だけが、ポツンと一フロア分だけ明かりを灯していた。
ビルの真下まで辿り着くと、ネイビースーツにロングコートを羽織った、品の良さそうな五十代くらいの男性がこちらに歩み寄ってきた。
「君たちは、もしかして……佐伯くんのお知り合いかい?」
「そうです」
そう答えると、おじさんはほっとしたように表情を緩め、「待ちわびてたよ」と頷きながら、俺たちをビルの中へと案内してくれた。
エレベーターで雪音のいるフロアへと向かう途中、矢後が隣でぼそりと呟いた。
「振り回されて、ご苦労様って感じだな」
嫌味とも皮肉とも取れるその言葉に、おじさんは苦笑いを浮かべながら、少し言い訳がましい声で続けた。
「困ったもんだよ、ほんとに……お坊ちゃんには。佐伯くんも可哀想にね。朝から体調悪そうだったのに、今日ばかりは胸が痛んだよ。……元気づけてやってくれ」
エレベーターのドアが開くと、たくさんのデスクが、整然と眠るように並ぶ広々としたオフィスフロアが広がっていた。
たくさんのデスクが、整然と眠るように並ぶ広々としたオフィスフロア。
その中で、ただ一角だけが、ひっそりと灯りに包まれていた。
そこにいたのは、一人の女性の後ろ姿。
黒髪を後ろでゆるく束ね、グレーのカーディガンに包まれた細い肩が、小刻みに動いている。
彼女の周囲だけがぽつんと照らされ、他のエリアは静かに暗がりへと沈んでいた。
まるで、その空間だけが現実から切り離された舞台の一幕のようだった。
パソコンのモニターの光に照らされた頬は、わずかに影を落とし、表情まではわからない。
けれど――背中から漂う静けさと哀愁が、フロア全体の沈黙と溶け合い、こちらの胸にじんわりと染み込んでくる。
カタカタ、カタカタ。
キーボードを叩く乾いた音だけが、広い室内に淡く響いていた。
時計の針さえ止まったかのような空間で、彼女だけが時間に取り残されたまま、黙々と作業を続けている。
電話は鳴らず、コピー機も静かに眠り、自販機の光もどこか心許ない。
そんな無音の世界の中で、彼女の背中は――まるで何かを忘れようとしているかのようで、そして、どこか……ひどく、悲しげだった。
「佐伯くん。今日はもう帰りなさい。その仕事は、私がやっておくから」
おそらく、吉岡が言っていた部長というのはこの人だろう。
五十代くらいの、先ほどの紳士がそう声をかけると、キーボードを叩いていた女性の手が、ピタリと止まった。
ゆっくりと、ためらうように振り返る。
黒髪を束ねた女性――雪音の顔は、目に見えて疲弊しており、虚ろな眼差しがそのまま彼女の心境を物語っていた。
「……良いんですか?」
か細く漏れたその声には、どこか諦めのような色が混じっている。なるほど、たしかに吉岡が言っていた通りの“痛々しい雰囲気”だ。
そして次の瞬間、雪音の目がこちらを捉える。
「……なんで清水くんが?」
驚いたように目を大きく見開き、そう小さく呟いた。
振られた直後ということもあって、俺は気まずくて思わず視線を逸らす。
だが、そんな空気をまるで読まない部長は、にこやかにこう言い放った。
「彼氏さんが、たまたま近くを通りかかったそうでね。心配で寄ってみたそうだ」
……なんという荒唐無稽な理由。
当然、雪音はすかさず声を上げた。
「彼氏じゃありません」
真っ先に、しかも食い気味に否定したその口調には、明らかな怒気が含まれていた。
だが部長は、吉岡からの任務を果たし終えた達成感からか、まったく気にした様子もなく、
「お疲れ様」とだけ言い残し、さっさとオフィスを後にしてしまった。
背後から矢後に背中を押され、俺は渋々、雪音のもとへと足を運ぶ。
その目には、いまだ虚ろな光が宿っていた。
「……もう、なんでもいいから帰って。疲れたの。あなたの相手してる余裕なんか、ないの」
「いや、あの……俺らも急に呼び出された側でさ、わけわかんないっていうか、それに――」
「イライラさせないで! もうやなの! 疲れた……っ」
突然、言葉を途中で切った雪音は、ふらりと力を失い、白目を剥いたまま後ろへと倒れ込んだ。
「――っ!」
危機一髪で彼女の体を抱きとめ、後頭部が床に打ちつけられるのをどうにか阻止する。
腕の中で、雪音は完全に意識を失っていた。
どうすればいい――
混乱した頭で助けを求めて矢後を振り返ると、すでに近くまで駆け寄ってきていた彼が、辺りを見回しながら言った。
「とりあえず……どこかで横にさせよう」
大部屋の奥――「応接室」と書かれたプレートが貼られた小部屋に、三人掛けのソファがあった。
俺たちは二人がかりで雪音を運び込み、そっと横たわらせる。
そこでようやく、少し息を吐くことができた。
目の前で突然人が倒れるなんて、今までの人生で経験したことがない。面白半分でついてきただけの矢後ですら、さすがに険しい表情を浮かべている。
ふと、足元から冷えが這い上がってくるような感覚に気付き、紳士的な気持ちで自分のコートを脱いで、そっと彼女の体にかけてやる。
黒のスパッツとはいえ、この真冬にタイトスカートでは、きっと底冷えしていただろう。
「……救急車、呼んだほうがいいのかな?」
一応、大学卒の頭脳を持つ矢後に訊いてみたが、能無しでもある彼は、首を傾げるばかりだった。
どうするのが正解なのか――
俺たちはしばし考え込むが、とりあえず息はしているし、脈もある。意識はないが、容態が急変している様子もない。とりあえず、もう少し様子を見ることにした。
応接室には、独特の静けさが漂っている。
大部屋の方からは、サーバーや複合機が出す低い機械音が、静かに聞こえてくる。
その中で、革張りのソファが、雪音のわずかな動きにあわせてミシミシと軋んだ。
沈黙のなか、彼女の寝顔が目に入る。
意識を失ってなお整ったその顔立ちは、どこか儚くて、こちらの胸を締めつけた。
「キスをしたら目覚めるかな……」
俺が真剣な顔でそう呟くと、矢後が間髪入れず俺の頭をはたいた。
「どんだけポジティブなんだよ!振られたばっかだろ!」
その「ペチンッ」という音を合図にしたかのように、雪音がうっすらと唸った。
そして、ゆっくりと、まぶたを開ける。
「……大丈夫?」
そう声をかけると、彼女は目を瞬かせ、困惑した様子で言った。
「……清水くん? わたし……なんで……?」
額に手を当て、状況を飲み込めずにいる雪音に、矢後が簡潔にここまでの経緯を説明した。
彼女は聞き終えると、小さく笑いながら呟いた。
「……わたし、よっぽど疲れてるんだね」
その笑みは、自嘲と諦めがないまぜになっていた。疲労で倒れるなんて、よほどのことがあったに違いない。何があったのか、そっと尋ねてみる。
「……うん……」
返事はあったが、それきり。
彼女は目を伏せ、口を閉ざしてしまった。
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