―4—
俺は、ついに一線を越えてしまった。
吉岡学を――誘拐してしまったのだ。
手口としては、まず、透明マントを羽織って自身の姿を消す。姿の見えない状態で背後から吉岡に襲いかかり、彼にも透明マントを被せて周囲の目撃を防ぐ。そのままレンタカーに押し込み、手探りで手足を縄で縛り、目隠しを施し、猿轡まで噛ませて完全に拘束。そして最後に、もう一枚の透明マントを吉岡に被せてしまえば、彼の姿はこの世から消える。
あとは車を走らせ、かつて俺がボコられた廃墟ビルまで連れ去るだけだ。
非力な吉岡を誘拐するのは、実にたやすかった。
「やぁやぁ、ご無沙汰ぶり」
目に映るのは、宙に浮かぶ布風呂敷と縄だけ。だが、そこに吉岡がいるのは間違いない。
俺は、あくまで陽気に振る舞おうと、意味もなく手を振りながら挨拶をする。
「んれあうぃはぁいまんもふもうぃわぁ!」
なにやら怒っているようだが、猿轡のせいでまったく聞き取れない。仕方がないので、猿轡を外してやると、即座に怒声が飛んだ。
「これは一体どういうつもりだ!」
「あ~なるほど、そう言いたかったのか」
猿轡の効果がここまで絶大とは――と、変なところで感心する。
吉岡は激昂していた。
「僕にこんなことをして、ただで済むと思うなよ!」
「君は僕が何者か、わかってやってるのか!」
必死に何かをまくし立てていたが、俺はすべて聞き流していた。最初から話を聞く気なんてない。やがて吉岡は、喉を枯らし肩で息をするようになり、ついには沈黙した。その様子を見届けてから、俺はゆっくりと一歩、足を前に出す。
すると彼はびくつきながら、怯えた声で「暴力だけはやめてくれ……」と懇願してきた。———別に暴力をふるうつもりはない。
俺は、おそらく顔があるあたりを指さして、静かに宣言する。
俺は、一拍置いてから、そっと腕を伸ばした。
そして、宙に浮かぶ縄のあたり――つまり吉岡の顔があるであろう場所を、まっすぐに指さす。
その指先に込めたのは、威圧でも怒りでもない。ただ、ゆるぎない意思だった。
ゆっくりと息を吐き、静かに、だがはっきりと告げる。
「雪音のストーカーは俺がやる。お前には譲らない」
「……はぁ? 僕はストーカーではないが」
……は?こいつ、自覚がないのか?
「いや、お前はストーカーだよ」と言ってみたが、吉岡は「違う!」と断言。
「いや、ストーカー」
「違う」
「いや、ストーカー」
「違う」
バカの一つ覚えのような押し問答が続いたが、彼はとうとう認めなかった。
仕方がないので、方向性を変えてみる。
「じゃあ、ストーカー行為の許可をくれ」
すると今度は、「ストーカーなんて卑劣な行為が許されると思っているのか」と、まさかのお説教が始まった。
ここで血が上らないのが、俺の美徳である。
今度は膝をついて、ストーカー行為の許しを懇願してみた。もはや悪ふざけの域だが、吉岡はそれに気づく様子もなく、「ふん」と鼻を鳴らした。
「じゃあお前は、雪音のなんなんだよ」
「婚約者だ」
拍手喝采を送りたい。こんなにも真っ直ぐに人道を外れた人間を、俺は他に知らない。
仕方がない。彼の、ある種の誠実さを讃え、こちらも正面から向き合おうではないか。
「帰らせろ!」と喚く吉岡に、俺は二度目の宣言をぶつけた。
「俺こそが、雪音の婚約者だ」
「はぁ?なにを言っている。先ほどストーカーだと認めたではないか」
「そんなの嘘に決まってるではないか。じゃあ一つ聞くが――お前は、先月、雪音と一度でも会話をしたか?」
「ぐっ……」
「二人きりで川辺を歩いたか?」
「ぐっ……」
「呑みに出かけたか?」
「ぐっ……」
「向こうから連絡がくることはあったか?」
「ぐぐっ……」
出血大サービスで、吉岡の痛いところを突きまくってやった。
「それ見ろ。俺の方が、よっぽど雪音と仲が良いではないか」
吉岡はあまりにも図星を突かれすぎて、荒い呼吸を繰り返していた。少し憐れに思えるほどだ。
「そこで一つ提案だ」
先に断っておくが、妙に台詞っぽい言い回しなのは、単なるドラマの見過ぎである。
「どちらが雪音に相応しい男なのか、徹底討論しようではないか」
吉岡は「はぁ?」と口にしたきり、言葉が出てこない。
もう一度、寸分違わず提案を繰り返す。彼は依然、言葉を失ったままだ。どうにも、情報処理能力が著しく欠如しているらしい。
「いやだから……」
これで三度目だ。いくら温厚な俺でも、いい加減、怒るぞ。
「それはつまり、僕こそが相応しいとなった暁には、雪音様との交際を認めてくれるということか?」
……雪音様?
ぞわりとした。何気なく使ったその“様”が、妙に鼻につく。
ようやく意味を飲み込めたらしいが、それ以上に、こいつの脳内で雪音がどれだけ神格化されているのかが見て取れる。いろんな意味で、やはり放っておけない。
「そういうことだ」と大袈裟に頷いてみせる。
それから、彼の縄を解き、透明マントも剥いだ。
「ん? なにした?」と間抜けな顔で尋ねてくる吉岡に、「いや、別に」と適当に誤魔化す。
俺たちはテーブルを挟んで向かい合い、それぞれ椅子に腰掛けた。
「酒は?」
「呑まない!」
「いいから呑めって」
長期戦に備えて用意しておいた缶ビールのプルタブを開けて、彼に手渡す。すると吉岡は、「アルハラだ!」と騒ぎ始めた。
吉岡に酒を呑ませるのは諦め、グピッとビールで喉を潤し煙草に火を付ける。「スモハラだ!」と怒鳴る彼を無視して、討論会をおっ始める。
「おいおい。彼女は笊だぞ? そんなのじゃ、雪音と仲良くできないって」
「雪音様は、お酒など嗜まない」
「いやいやいや、この前ふつうに呑んでたし」
俺はまず、吉岡と雪音の趣味や性格がまったく噛み合っていないことを責め立てた。どうやら彼の頭の中では、理想的すぎる“雪音像”が出来上がってしまっているらしい。そこで、実際の雪音の姿──酒豪、怒りん坊、元いじめっ子グループの一員、スポーツ好き、野菜好き、淫乱(※やや誇張)──を伝えてみることにした。
ところが吉岡は、いちいち反論してくる。
「雪音様は下戸だ。それに気が小さくてか弱い女性だ。いじめられっ子の相談に乗っていたことはあるが、加害者ではない。アニメが好きで、ブロッコリーは嫌い、そして――バージンだ」
あまりに堂々とした宣言に、俺は苦笑するしかなかった。
……どうやら、相当こじらせているらしい。
それ以上、言葉にすることはやめておいた。下手に突っ込めば、逆効果になりそうだったからだ。
「……なら、一つひとつ、事実を元に紐解いていこうじゃないか」
雪音が怒鳴っているところを見たことがあるし、彼女自身が「昔いじめっ子とつるんでた」と語っていた。俺がアニメの話を振っても「わかんない」と言ってたし、ブロッコリーだって、この前モリモリ食べてた。状況証拠ならいくらでもある。
「じゃあ最後に聞く。雪音様が淫乱だという証拠は?まさか本人に直接訊いたわけじゃあるまい。それとも……き、君が実際に“そういう関係”だったとでも?それとも目撃したのか?まさか、なんの証拠もないまま、雪音様を侮辱したわけじゃあるまいな!」
痛いところを突かれてしまった。確かに、それに関しては、完全に主観だった。
「……わかった。淫乱という表現が行きすぎだったことは認めよう。だが、あれほどの美人がバージンだというのも、正直、夢見すぎではないか?」
「美人だからこそ、だ! 雪音様のように健全で心優しい方は、運命の相手に巡り会うまで、純白を守り抜くものだ。君のような、下世話な想像ばかりしている性欲の塊とは違う!」
「そんな話、信じてたまるかっ!」
本当に雪音が鉄のパンツでも履いているというのなら、大問題だ。考え方がまるで違うということになり、必然的に俺との相性は最悪ということになる。
それに「運命の相手」ってなんだ。役所から通知でも届くのか?
「わかった。そこまで言うなら、本人に確認してみればいいだろ」
そう言って携帯を取り出すと、吉岡は「そんなことできるわけないだろう!」と鼻で笑った。
その態度が妙に癇に障り、「お前と違って、俺は雪音と仲が良いんだよ」と言い放ち、吉岡の怒りを煽りながら、雪音に電話をかける。
──プルルルル、ピッ。
――なに? 今仕事中なんだけど?
ほれみろ。やっぱり怒りん坊じゃないか。
「一つだけ聞きたいんだが……バージンか?」
プツリ、と即座に通話が切れた。
吉岡は気が気でない様子だったが、回答が得られなかったことを伝えると、表情が一転、どこか得意げになった。
「やっぱり、僕の言った通りなんだ。もし本当に君の言うような淫乱だったなら、自慢げに語るはずだ。だが、そうしなかったということは……雪音様には恥じらいの心があるということなんだ。つまり間違いなく、バージンだ」
「そうやって結論を急ぐのは早すぎるぞ。経験ありの場合は、相手の証言があれば裏付けられるが、経験なしの場合は、本人が口を割らない限り、誰にも断言なんてできない。だから俺は、雪音本人が自ら語らない限り、断固として認めはしないぞ!」
喉が渇いたので、机の上に置いていた缶ビールを持ち上げる。——空だった。
二本目の缶ビールを取り出したところで、「僕にも、もう一本」と吉岡が手を差し出してきた。
ふと見ると、さっき渡した缶はすでに空。いつの間にか、呑み干していたらしい。
「なんだ。呑めるじゃないか」
そう言って新たな一本を手渡すと、「君のせいだ」とかぶりを振りながら、グピグピと勢いよく喉に流し込んでいく。
案外いける口らしい。少し見直した。
「ところで、君は仕事しているのか?」
その問いに、心臓がドクンと跳ねた。触れてほしくない話題だった。
「あ、いや……その~」と、情けない声が口から漏れる。
容赦ない吉岡は、すかさず追撃してきた。
「ニートが、雪音様と釣り合うとでも思っているのか?」
ぐうの音も出ないとは、まさにこのこと。俺は押し黙るしかなかった。
すると彼は「ここぞ」とばかりに畳みかけてくる。
貧乏人、ニート、遊び人、紐になるには顔が足りない――口を開くたびに、毒のスパイスをこれでもかと振りかけてくる。
どうにか耐えていたが、ふと冷静になって考えてみた。
おい、待てよ。こいつだって、似たようなものでは?
「ちょっと待て。お前だって無職同然だろうが。平日の真っ昼間から佐伯家の前にいたくせに!今日、仕事のはずだろ。なんでそんな時間に、うろついてたんだよ」
「君が無理やり連れてきたんだろう?」
いやいや、そういう話じゃない。
雪音が会社に出てる時間帯に、なぜ家の前をうろうろしていたのか――そっちの方が問題だ。
「僕は婚約者として、雪音様に変な虫がつかないよう監視する義務があるのだ」
なるほど。その“変な虫”に、俺が引っ掛かったというわけか。
「つまり、働いていないのと一緒ではないか!」
どうにか対等な立場に持ち込もうと俺は食い下がった。だが、次期社長候補、資産家、雪音を社長夫人──最低でも社長令嬢にはしてあげられるという、同性から見ても思わず唸るほどの魅力的な条件を、吉岡は得意げに並べ立ててきた。
全く歯が立たない。
正直、羨ましすぎて、「雪音は譲るから、俺を養子にしてくれ」と頼み込みそうになったほどだ。財力、豪遊ぶり、そのすべてが圧倒的で、眩しかった。
……なるほど。
煤だらけのかつての恋敵が、金持ち相手に卑屈になっていた気持ちが、今ならよくわかる。
俺は早々に、吉岡をこちら側に引き込むのを諦め、次なる一手を繰り出した。
「黙れ、この常識知らず!」
雪音から聞き出していた情報を元に、今度は彼の“社会性の欠如”を責め立てる。
仕事中にゲームをしてはいけない。先輩に頼まれたら返事くらいしろ。なんでもかんでも「ハラスメント」だと騒ぐな──。
一つひとつ、非常識エピソードを並べるたびに、必ずこう締めくくった。
「そんなんじゃ誰もついてこない。次期社長? 笑わせるな。お前に人の上に立つ資格なんてない」
――こうして、レベルの低い、くだらない罵り合いが加熱していく。
貧乏人 vs 非常識。
その応酬は、まるで永遠に続くループのようだった。
気がつけば、互いに缶ビールを三本空け、焼酎に移行していた。ボトルはすでに半分ほど減っていて、ろれつも怪しい。
「この貧乏人が! 餓死してしまえ!」
「なんだと? この社会のお荷物が! どうせ親に勘当されて終いだ!」
ゴンッ。
ついに吉岡は机に突っ伏したかと思えば、そのまま椅子から転げ落ちた。
「おい、大丈夫か?」と心配になって近寄ると、彼は机の下で蹲り、すすり泣いていた。……言いすぎたか?
さすがに気まずくなって、俺は背中を軽く摩りながら、苦し紛れに言った。
「まぁ……お互い様ってことで」
それは弁解とも、慰めともつかない、実に中途半端な言葉だった。
「いや……違う……勝手に……」
酒のせいか、感情が高ぶっているのだろう。吉岡は、しゃくりあげながら鼻をすすり、両袖で何度も目元を拭っていた。だが、涙はまるで堰を切ったかのように流れ続け、顔を濡らし、顎を伝い、床にぽたりぽたりと雫を落としていた。時折、嗚咽が喉の奥から突き上げるように漏れ出し、言葉も途切れ途切れで、うまく喋れない様子だった。
一向に泣き止む気配もなく、見かねた俺は、仕方なく背中を摩り続けた。指先に伝わる彼の震えが、どうしようもなく、切なかった。
やがて、唐突に彼が語り始めた。
「本当は……わかってるんだ」
自分がストーカーであるという自覚があること。雪音に酷いことをして、嫌われてしまったこと。そして、本当はそれに気づいていながら、いつも行動を誤ってしまうこと。全部……わかっていたらしい。
「でも、僕には……どうしたらいいのかわからない。恋愛なんてしたことないし、相談できる友達もいない。ただ、雪音様が、あまりにも美しくて……優しくて……つい、独占したくなってしまって……でも上手くいかなくて、もう……なにがなんだか……わからなくなって……ただ、ただ……あの、優しく微笑む雪音様を……ずっと、見ていたかったんだ……」
その思いは、俺にも痛いほど分かった。
会社をクビになり、絶望の淵にいた俺にとって、雪音はあまりにも眩しかった。虚無に沈み、目標も見失っていた俺にとって、彼女の存在は、唯一の生きる糧となっていた。そう考えれば、彼女には随分と救われている。
きっと俺と吉岡は、同じ穴のムジナなのだろう。
それにしても──
二人もの男をここまで狂わせるなんて、雪音はまさに魔性である。と同時に、二人ものストーカーに同時に目を付けられるという、稀に見る不運な女性でもあるのだが……。
「ふぅ~」
俺は深い溜め息をつき、思い切り彼の背中を叩いた。そして、高らかに宣言した。
「わかった! 俺は下りよう!」
顔を歪ませながら、吉岡がこちらを振り返る。
「その代わり、条件がある。ただ遠くから眺めてるだけじゃダメだ。面と向かって付き合うこと。それができるなら、俺は引く」
その言葉に、彼がうっすらと笑う姿を期待していた。けれど──
吉岡は、ゆっくりと首を横に振った。
「僕には……もう無理だ。それこそ、世界中の全男性を……皆殺しにでもしない限り……雪音様が僕に振り向くことは、ない」
いや、むしろそんなことをしたら真っ先に嫌われるだろう、と突っ込みたかったが……彼の気持ちを汲み取り、余計な口は挟まなかった。
「だから……きっ……君に……」
言葉は途切れ途切れで、ひどく不恰好だった。
「君に、ゆっ……譲……」
でも、俺は笑わなかった。いや、同じ男として──笑えるわけがない。
「譲るよ」
その瞬間、一人の男が偉大なる決断を口にした。
誰がなんと言おうと、これは立派な“英断”である。
性欲が未来を掴むのなら、委託は未来を譲る行為だ。どちらも、真剣な感情の証に違いない。
彼の熱意に胸を打たれ、目頭が熱くなる。顔が歪む。
吉岡に肩を叩かれ、俺も彼の肩に手を回す。
二人して、嗚咽まじりに泣いた。どちらが先に泣き出したかなんて、どうでもよかった。
暗い天井を、二人並んで、仰向けになって見上げていた。
「今日は本当に楽しかった」
「ねぇ。できれば僕と、友達に——」
「もう友達だ!」
泣き止んだあとは、今度は声を上げて笑った。それは誰かを蹴落とすためでも、見下すためでもなく、心から相手の幸せを願う、純粋な笑いだった。こんなにも清らかな友情に出会ったのは、いったい何年ぶりだろう。
「じゃあ俺は、雪音のもとに行くよ」
最後に拳を軽くぶつけ合い、吉岡と別れた。
すっかり酔いも冷め、歩き出してしばらくしてから——俺はレンタカーで来ていたことを思い出したが、もうどうでもよくなっていた。
電車に揺られ、街の灯りに照らされながら、俺は佐伯家へと向かう。
インターホンを鳴らすと、ドア越しに雪音が不機嫌そうな声を響かせた。
「家に来ないでって、言ったじゃない」
そんな彼女に、俺は得意げに笑って言ってやった。
「大丈夫。それなら、もう解決した」
「……はぁ?」
怪訝そうな表情の彼女を尻目に、興奮が冷めないうちに、勢いよく宣言した。
「それより……俺たち、ようやく付き合えるぞ!」
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さてさて、長らくお待たせして申し訳ない。
では最後に、のちに矢後が放った言葉を締めに。
「とんだ茶番だ!!!」
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ、評価して下さるとありがたいです。




