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世の中には「お邪魔虫」という生態が存在する。
粘り強くしつこい居酒屋のキャッチ、煽り運転するチンピラ、そして人の恋路を平然と邪魔する矢後と真鍋。
彼らは、他人の効率性を著しく阻害し、時には進行そのものを妨げる。これぞお邪魔虫――非常に厄介な存在である。
北千住の毎度お馴染みの居酒屋。
これまで意識すらしていなかったが、店名は「焼鳥クリア」というらしい。妙に運命的な名前に、少しばかりの親近感を覚える。
雪音はゆずるの件以来、非常に機嫌が良い。
しきりに「スッキリした」と微笑みながら、焼き鳥をつまんではビールを流し込んでいる。俺は尋ねた。
「意外だな。てっきり『もっとまともな案はなかったの?』って怒り出すかと思ってた」
「いいのよ。あんな奴ら、ボコボコにしてやればいいのよ」
あどけない顔で、物騒なことをサラッと言ってのける雪音。……その昔、なにかあったのだろうか。
「なぁ、あの少年とはどこで知り合ったんだ?」
お邪魔虫1号・矢後が口を挟んでくる。ちなみに、2号の真鍋はというと、未だ雪音と打ち解けられず、口をパクパクさせるばかり。いい加減慣れろよと、心の中でツッコむ。
「さっきの橋の下でいじめられてたの。清水くんったら、透明マントをかぶって助けに行ったのよ」
クスクスと笑う雪音。その言葉に、俺は耳を疑った。
今……今、彼女は「清水さん」ではなく「清水くん」と言ったのだ。これは……これは、偉大なる一歩である。
「光亮が?」
矢後は信じられないといった表情で俺を見る。腹立たしい。
「俺は心優しき偉大な人間であるからにして、困っている人を放っておけないのだよ」
「なに言ってんだか。お前、あの少年から――」
「あっ!」
慌てて矢後の言葉を遮る。余計なことを口走らせるわけにはいかない。
「で、あの後、田辺どうなったんだ?」
話題を強引にすり替える。作戦は成功し、矢後は大袈裟に笑いながら答えた。
「いや〜愉快だったよ。見事に異常者扱いされて、誰にも相手にされなくなった。あの消しゴムの件も、目撃者がいなかったから有耶無耶になったらしい」
計画通り。これで少しは懲りてくれればありがたいが……まあ、どうでもいいことだ。
「お前が変なことやりだすからだろ」
そう言って俺は、真鍋の額をぺしりと叩いた。
真鍋は額をさすりながら、むくれた声で言う。
「だってあのババァ、俺の母ちゃんに似ててムカつくんだもん。いつもいつも、働けって口うるさいし」
それは親として当然の言動だ。田辺とは全く系統が違う。
「お母さんは、透明マントのこと知らないの?」
雪音の何気ない一言に、真鍋は口ごもる。……不憫な奴である。
一つ、肝心なことをやらなければならないことに思い至った。それは、矢後雄司の株を、徹底的に陥れておくことである。
彼は過去に、学年をまたぎ、学校中の女性たちと浮き名を流したという、実に罪深き歴史を持っている。しかも重度の面食いで、憎らしいほどの艶福家だ。知友の想い人でさえ平然と射止めるような男で、何度、俺が苦汁を飲まされたことか、数えきれない。
今回ばかりは、そんな事態を未然に防がなければならない。先手を打っておく必要がある。
「そういえば、雄司の隣にいた女性教師ってこれか?」
俺は小指だけを立てて、矢後の顔に押し付ける。つまり「彼女か?」という意味だ。
「えっ! 矢後くん、恋人いるの?」
雪音がどこか残念そうに反応した。しかもいきなり“くん付け”である。この野郎、もう雪音を手中に収めつつあるのか……胸糞悪い。
「いや、違うよ。ただの同僚」
矢後の返答に、雪音は「な~んだ」と笑って見せた。いや違う。あれは「つまらない」と落胆した顔だ。そうに違いない。
矢後がそう答えるのはわかっていた。コイツは昔から、色恋沙汰をやたらと隠したがる。モテる男のいやらしさだ。
「お前、付き合ってもいないのに、それはいかんよ」
俺は矢後の肩をポンと叩き、さらに呆れ顔を向けてやる。もちろん、矢後がそんな軟派な男でないことは百も承知だ。ただ、そう見せかけてやるのだ。
「ふざけるな。そんなわけねぇーだろ」
いくら否定したところで、雪音の中に疑念の種は蒔かれたはず――そう信じた、次の瞬間。
「矢後くんがそんなことするとは思えないよ」
唖然とした。なぜ、出会ったばかりの矢後の肩を、そんなに簡単に持つのだ。
ちくしょう……作戦失敗だ。
「お前は相変わらず浅はかだな。俺を陥れようとしたな?」
矢後はニヤリと笑う。雪音がクスリと笑ってくれたのが、せめてもの救いだが――それでも完敗に変わりはない。
「矢後くんは、彼女とかいるの?」
自然と会話の中心になるのが矢後という男だ。ズルい。
「いないよ」
矢後のその返答に、雪音は頬杖をつき、上目遣いで、色っぽくこう言った。
「でも、矢後くんなら、作ろうと思えばすぐできると思うけど?」
……俺には、何も聞いてこない。どうやら俺に恋人がいないことは、彼女の中で“確定事項”らしい。いや、まぁ事実なんだけどさ……けど一応、二週間前まではいたんですけど?
矢後への誉め殺しは続く。
「二枚目だもんね」
「へぇ〜、良い大学出てるんだ。じゃあ頭良いんだね」
「あははっ、面白い〜!」
「へぇ、サッカーやってたんだ。なんとなく上手そうだもんね〜」
それに対して俺は、必死で横槍を入れる。
「いやいや、胡散臭い顔だよ」
「ガリ勉なだけだろ」
「アホだな、バカだな、死んじまえ」
「一年の時はベンチだったろ」
情けない。実に情けない話である。
真鍋に優しく背中をさすられた。……彼が女だったら、今すぐ抱きついていたところだ。
「雪音さんは、彼氏いないんですか?」
矢後の粋な質問に、俺も息を呑んだ。耳をそばだてる。
「いるよ……」
……今なら遺書がスラスラ書ける気がする。あとは火葬場の予約でもすれば完璧だな。雪音は、にっこりと微笑んでいる。人の気も知らないで、呑気なものだ。真鍋なんて、動揺のあまり鼻に枝豆を詰めようとしていたではないか。
「清水くん、大丈夫? 酔っ払いすぎよ」
俺はというと、無意識にグラスの氷をバリバリと噛み砕いていた。
そして、衝動に突き動かされるように勢いよく立ち上がる。
「ええい、どこのどいつだ、その彼氏とやらは!」
矢後が「落ち着けよ」と制しにきたが、俺は駄々っ子のように振り払って、雪音を真正面から見据える。
彼女はムッとした顔だった。
「もう。人の話は最後まで聞きなさいよ。今“いない”って話したじゃない」
……なんだと?
ちょこんと椅子に座り直す。
紛らわしい言い方をしやがって。どうやら“いるよ”の後に、「って言いたいところだけど……」と続けていたらしい。
真鍋も紛らわしい奴だ。
彼の枝豆は、動揺ではなく――興奮によるものだったのだ。
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焼鳥クリアを出た直後だった。まるで待ち伏せしていたかのように、三人組のチンピラに取り囲まれた。
「おっ、色っぽい女だな。そんなむさ苦しい奴らじゃなくて、俺たちと遊ばない?」
いかにもなセリフで絡んできたのは、サングラスをかけた金髪の男だった。
正義感など微塵も持ち合わせていない俺は、とりあえず――自分が話しかけられたわけではないという冷静な判断のもと、しばし様子見することに決めた。
だが、正義感気取りの矢後は「なんだ。いきなり……」と眉をひそめて応戦の構えを見せ、そこに世間知らずの無神経、真鍋が被せるように「通行の邪魔なんだが、どけよ」と言い放った。
当の本人である雪音はといえば、無表情のまま黙り込みを決め込んでいた。腹をくくっての無視か、それとも警戒ゆえかは定かでない。だが、俺としては是非とも「話しかけられているぞ」と忠告してやりたかった。ついでに「無視はいけない」と教養面まで説いてやるべきかもしれない。
案の定、チンピラたちは怒りを露にし、「なんだてめぇら」と威圧的に詰め寄ってくる。……ほら、言わんこっちゃない。
俺は心の中で深くため息をつき、肩の力を抜いて大きく息を吸い込むと、
「すみませんでしたっ!!」と、勢いよく声を張って頭を下げた。
突然の土下座寸前謝罪に、チンピラたちは面食らったように言葉を失う。その一瞬のスキを見逃さず、俺は雪音の腕を素早く掴み、チンピラの間をすり抜けてその場を後にした。
街中で大ごとにはしたくない――そんな判断が、あちら側にもあったのだろう。追いかけてくる気配はない。
どうやら、うまく切り抜けたらしい。
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二軒目は趣向を変えたいという意見もあり、俺たちは落ち着いた雰囲気の酒肴屋へ足を伸ばした。店内は和装の趣。水槽のある玄関を通り抜け、奥の六人掛けの掘りごたつに通される。
和やかな空気の中、会話は自然と弾み、話題は学生時代の思い出へと流れていった。矢後と真鍋とは同級生だったため、ネタは豊富だ。
俺と矢後のファーストコンタクトは、最悪だった。
中学に上がってすぐの小テストで、俺は彼の答案用紙を盗み見ようとした。何気なく背後から首を伸ばして覗き込もうとしたところ、すぐに気づいた矢後は、スッと背中を丸めて答案を隠したのだった。
矢後は俺のことを「卑怯者」と思い、俺は矢後を「ケチ臭ぇな」と内心で毒づいた。
その後、互いに陰口を言い合い、ついには「決闘」する運びとなった――といえば聞こえはいいが、実際には痛い思いをしたくない一心で、プールの自由時間中に転ばし合いをするという、ただのじゃれ合いだったというのがオチである。
真鍋との出会いは、中一のバレンタインデーだった。
当時クラスで一番モテていた男子が、受け取った大量のチョコを一人では食べきれず、男子トイレに隠しているという噂が、まことしやかに広がっていた。
それを真に受けた俺は、期待に胸を膨らませながら男子トイレ中を探し回った。そして、そこで出会った“同志”こそが真鍋だったのだ。
この日、俺と真鍋は「変態同盟」を結成した。
この同盟の活動は、実に活発だった。
中二の夏、矢後が初デートをすることになり、俺と真鍋はその後をこっそり付け回すという“任務”を敢行した。デート中、彼女の前で顔を真っ赤にしていた矢後の姿は、俺たちの記憶に鮮烈に焼き付いている。
後日、俺たちはその様子を手書きで「活動報告書」にまとめ、含み笑いを浮かべながら矢後に手渡した。
「童貞、勇姿笑う」――
それが、当時の得意げな矢後のセリフである。
さて、このままでは「女のことしか考えていない、生粋のエロ」という不名誉な烙印を押されかねない。……まぁ、今さら否定するつもりもないが、そろそろ話の方向性を大きく転換させる必要があるだろう。
そこで、当時やらかした“いたずら”の話題を持ち出した。
中学の頃、やたら威張り散らしているヤンキー集団が同学年にいた。
特にその中でも頭を張っていたAくんは、廊下ですれ違うと生徒たちが自然と道を開けるほど、周囲から恐れられていた存在だった。
俺たちに直接の実害はなかったため、特に気にしていなかったのだが――ある日、Aくんが当時付き合っていた彼女に手を上げている現場を、偶然目撃してしまった。
それを見た瞬間、俺と真鍋から成る「変態同盟」としては、「これは見過ごせない!」という結論に達した。
かくして、変態同盟+矢後+今はどこでなにをしているのか全く知らないBの四人で、団結して立ち上がった。
作戦決行は、体育の時間。
俺たちは脱衣室に忍び込み、Aくんのズボンの尻――まさにド真ん中に、熊の刺繍を縫い付けてやった。
さらに日頃から調子に乗っていたAくんの取り巻きたちのズボンのチャックも、ついでに片っ端から破壊しておいた。
こうして俺たちは、学年の頂点に君臨するヤンキー集団を、笑い者の的に仕立て上げたのである。
雪音は、その話を聞くと「くだらない」と笑ってくれた。
……それでいい。それが狙いだ。
基本的に俺は、他人にどう思われるかよりも、その場の“盛り上がり”を優先させる性質なのだ。もちろん、多少の誇張が混じっているのはご愛嬌である。
美人の雪音は、おそらく学生時代、クラス内で「階級の高いグループ」に属していたのだろう。
だが、話を聞いていると、なかなか屈折した青春時代を過ごしていたようだ。
陰口、仲間外れ、無視……そのあたりは当たり前。
「わたしは止めたんだけどね」などと、ちょいちょい“良い子ちゃん”ぶるものの、実際は空気を読むにとどまり、止められた試しなどなかったらしい。けれど、自分がその標的になってからは、さすがに“良い子のフリ”さえも控えるようになったらしい。
どのような嫌がらせを受けたのか、彼女は詳しく語らなかったが――
その伏せられた部分にこそ、雪音の過去の“傷”があるように思えた。
「4Pかい。懐かしいな」
なんとも失礼な発言とともに割り込んできたのは、顔中煤だらけの、いかにも汚らしい中年男だった。図々しくも、日本酒とおちょこを持ったまま、俺の隣に腰を下ろす。
「いやいや、どちら様ですか?」
そう問いかけると、煤だらけは隣のテーブルを指差した。
そちらには、これまたクセの強そうな中年男が四人。「やぁ」と軽く挨拶をされる。どうやら仲間らしい。
名前を聞いても覚えられそうにないので、例によって、見た目の特徴で勝手に代名詞を付けることにする。
そこには――歯のほとんどない“歯無おっさん”、完全なスキンヘッドの“丸ハゲおっさん”、チワワのように目がくりくりした“くり目おっさん”、そして一人だけやけに小綺麗な格好をした“小奇麗おっさん”が、揃って酒を酌み交わしていた。
以後、「おっさん」は割愛させていただく。
歯無が口を開く。
「そちらはペッピンさんばかりでいいなぁ」
……どうやら、この男の目は節穴のようだ。どう見ても、べっぴんさんは雪音ただ一人である。
「どういうお集まりなんですか?」と雪音が尋ねた。
煤だらけは、隣の小奇麗を指差して答える。
「彼が奢るって言うから来たんだ」
それだけでは事情が分からない。俺たちの困惑した表情を察してか、小奇麗が穏やかに続けた。
「もともと私は、しばらくの間ホームレス生活をしていましてね。寒い夜には、この方々に随分と助けられました。今は息子の世話になって、こうして普通の暮らしに戻れたものですから……せめてもの恩返しのつもりで、お招きしたんです」
「……いい話ですね」
雪音が感慨深げに頷いた。
ただ、その表情の奥にある本当の気持ちまでは、俺には分からなかった。
「それで、“4Pが懐かしい”ってのは、どういうことなんですか?」
俺が素朴な疑問をぶつけると、「そこかいっ!」と矢後が即座にツッコミ、「やだ、もう〜」と雪音が呆れたように肩をすくめた。
真鍋はというと、無言のまま瞳孔を見開き興味津々であることを態度で示した。
「その昔、香港のマカオで豪遊したのさ」
煤だらけが懐かしむように語る。――なんと羨ましい話だ。
「他にはどんな遊びを?」
思わず食いつく俺に、煤だらけは語り出した。
その内容は、今の煤だらけの見てくれからは到底想像できないほどに豪奢で、どれもこれも現実離れした夢のような話ばかりだった。
「他にはどんな遊びを?」
思わず食いついた俺に、煤だらけは待ってましたとばかりに語り出した。
その内容は、今の見てくれ――顔中煤だらけで酒臭いおっさん――からは到底想像もつかないほどに豪奢で、どれもこれも現実離れした夢のような話ばかりだった。
当時、世界各地にいくつもの豪邸を所有していたという煤だらけは、自家用ジェットで空を翔け、国をまたにかけて遊び尽くしていたそうだ。
月曜日はラスベガスでカジノに興じ、火曜日はロンドンで資産家たちと株とチェスを肴に一杯。
水曜日はハワイの浜辺でのんびりとバカンスを楽しみ、木曜日はカタールの夜空に特注の花火を打ち上げて、世界の平和を願う。
金曜日には日本に舞い戻り、総額百万のディナーを平らげる――そんな日々を送っていたらしい。
馬主としても名を馳せていたそうで、自身が経営する牧場には何頭ものサラブレッドが在籍していたとか。
中でも「ネグッロ」――やたら促音と濁音が多くて聞き取りづらかったが――という馬は、競馬界では知らぬ者はいない名馬だったそうだ。
だが、俺が最も心を奪われたのは、その栄光に満ちた暮らしの中で繰り広げられた、一世一代の大恋愛のエピソードである。
相手は、宝石のように輝くフランスの金髪美女。
夜の街で出会い、瞬く間に意気投合。毎晩のように愛を囁き合う甘い日々。
中でも思い出深いのは、パリの高級レストランでのプロポーズだという。
何億円もする百カラットのダイヤモンドリングを手渡し、未来を誓ったその瞬間――彼女は涙を流して喜び、一生の愛を誓った。
……なんと羨ましい。
日本ではあまり公言されていないが、金髪美女に憧れを抱く男は多い。
真鍋がごくりと生唾を呑み込んだのが、まさにその証左である。
しかし、そこに悲劇が待っていた。
彼女には幼い頃から決められた許嫁――“貧乏ったれ”がいたのだ。
その男はなかなかの策士で、金髪美女の両親に対して、煤だらけの過去を虚実織り交ぜて吹聴。
両親は二人の関係に猛反対し、やむなく二人はカナダへ駆け落ちする。
しばらくは穏やかで幸せな日々が続いたという。
だが、ある日突然――警察が突入してきた。
「おまえは彼女を誘拐したんだ」と言われ、手錠をかけられた――――。
それ以来、彼女とは会えていないのだという。
俺は――ただただ、うっとりと耳を傾けていた。
だが、そんな俺に水を差すように、矢後が小声で耳打ちしてくる。
「全部、嘘だろ」
……なんて夢のない奴なんだ。
真鍋は目を閉じて天を仰ぎ、噛みしめるように頷いているし、雪音に至っては手を合わせて祈るように煤だらけを見つめ、目元を潤ませているというのに。
そんな中、矢後だけが冷め切った口調で続ける。
「だいたい、ハワイからカタールなんて、フライトだけで半日はかかるだろ」
「時差があるだろ、バカ」
「進むんだよバカ」と頭をぴしゃりと叩かれた。
言い返す言葉が浮かばず、不貞腐れる。……とことん嫌味な奴である。
俺はそんな矢後を放っておいて、煤だらけに握手を求めた。
真鍋はぶつぶつと何やらお祈りを始め、雪音は濡れた瞳を手の甲でそっと拭った。
「なんだこれは……」と矢後がぽつりと呟いたのが聞こえた。
さて、話を大きく戻すが――
“お邪魔虫”は気がつけば6号まで膨れ上がっていた。
そろそろ見切りをつけなければ、雪音との夜のランデブーをする時間がなくなる。
「さて、そろそろ出ようか」
名残惜しさはあるが、そう言って立ち上がった。
すると歯無が、「もう出るのかい?」と寂しそうに声をかけてくる。
「家が近いんで、またどこかで会いますよ」
そう笑顔で返してやった。
その時、視界の端で、丸ハゲがこっそりと雪音に触れようとしたのが見えた。
思わず「おい」と声を上げて手を伸ばしかけたが、彼女は軽やかに、そして冷静にその手を払い除けた。――どうやら、心配はご無用だったようだ。
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秋の夜空を仰ぎながら、雪音にだけ三軒目を持ちかけたが、「明日仕事だから無理」と、いつも通りの返答で断られた。仕方なく矢後を誘うと「俺もだ」とつれなく返され、まさかの真鍋までもが「実は明日、用事があるんだ」と言い出す始末。
「なんだよ、ノリ悪いな……」と虚しくつぶやきつつ、結局そのまま解散。俺は夜の街を、唾を吐きたくなる衝動をなんとか堪えながら、一人とぼとぼ歩く羽目になった。
いっそ、さっきのオッサンたちのところに合流しようか――そんなことを考えていた矢先のことだった。
突然、背後から口を塞がれた。
叫ぼうとした瞬間、脇腹に強烈な一撃を食らい、「うぐっ……」と声にならない呻きを漏らす。そのまま地面にねじ伏せられ、口を何かで縛られ、手足も動かぬよう拘束される。抵抗する間もない、まさに一瞬の出来事だった。
顔に黒い袋を被せられる直前、かろうじて視界に入った相手の顔――それは、先ほどのチンピラどもだった。
その後、文字通り袋叩きにされ、俺の意識は闇の中へと落ちていった。
お読みいただきありがとうございます。
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