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いたずら青年、世にはばかる  作者: 堀尾 朗
第1章「夢の透明マント」
1/22

—1—

 「──クビだ」


その一言で、頭が真っ白になった。

さかのぼれば数分前、「お前、使えないな」と言われたときは、いつものことだと聞き流せていた。

だが、その日だけは違った。

まさかその言葉が、解雇宣告への前触れだったとは思わなかったのだ。


デルクス株式会社──イベントの企画・運営を請け負う企業で、都内にいくつかの営業所を構えている。

俺が所属していたのは、新宿の複合オフィスビル四十三階にある営業所だ。

職場は終日、喧騒に包まれていた。電話は鳴りっぱなしで、ボソボソ話したところで相手には届かない。机の上はどこも書類の山。数メートル歩く間にも、通路に紙が散乱している。

注意して歩かないと、簡単に足を取られる。

「危ないな、足元気をつけろよ」

不注意な俺は、よくそんなふうに小馬鹿にされた。もはや「おはよう」よりも耳にする頻度の高い言葉だ。それほどまでに、俺は“危なっかしい奴”らしい。

そんな環境での解雇通達だったせいか、不思議と感傷的な気分にはならなかった。

むしろ、怒りのほうが先に湧いてきて、そのまま他の感情をかき消してしまったようだった。

上司は両手を腰に当て、胸を張り、険しい顔で怒鳴り散らす。

「お前はトロい」

「なに一つまともにできない」

「お前みたいな使えない奴、初めて見た」

──実際に“偉い”立場なのだから、そう言う権利はある……と同僚たちは言う。

だが、解雇された今となっては、その上下関係も消えたはずだ。

つまり、もう偉そうに言われる筋合いなんて、どこにもない。

……とはいえ、俺の口は「すみません」という呪縛にすっかり囚われていて、反論する気力すら湧いてこなかった。

本当は、深いため息のひとつでも吐きたい。

そして、「なんだその態度は」とさらにキレる上司に向かって、「うるせぇ」とでも吐き捨てながら、思い切り顔面をぶん殴ってやりたい。馬乗りになって、顔が変形するまで容赦なく叩きのめしたい。

……のに。

硬直したままの俺の身体は、ぴくりとも動かなかった。



無職となった俺は、身支度を整えて、ビルの屋上へと足を運んだ。

陽はすでに傾き始め、ポツポツと街灯が灯り出す。平日の秋空の下、夕暮れどきの新宿を見下ろせば、いつも通り大勢の人々が行き交っている。

まるで、人がゴミのようだ──

自分もその一員だということは棚に上げて、ふとそんな月並な感想が頭をよぎった。

屋上には、室外機やキュービクルが並び、ゴォーという機械音を立てながら、黙々と働いている。誰に褒められるでもなく、ただ人々の役に立つべく、忠実に動き続けている。落ち込むには、いささか騒がしすぎる場所だった。

俺は空を見上げ、ようやく──念願の、深いため息を吐いた。

さて、これから俺は“無職”だ。

蓄えなんて、ほとんどない。せいぜい──もって一ヶ月。

それまでに、どうにか次の職を見つけなければならない。

不安が、じわりと胸を満たしていく。

最近、気づいたことがある。どうやら俺は、並の人間よりも欠陥が多いらしい。

頭は悪い。運動神経もない。手先は不器用で、人付き合いも苦手。責められれば口ごもり、考えなしに動いては失敗ばかり。怠け癖もあるし、面倒なことはすぐ後回しにする。

──目も当てられない、どうしようもないクズだ。

仮に運よく次の職場が見つかったとしても、またすぐにクビになるだろう。

何度転職しても同じ結末。そのうち年齢も重なり、どこにも雇ってもらえなくなる。金は尽き、家を追われ、行き着く先は──ホームレス。

そして、最後は……惨めに糞でも食って生きる生活。

「そうだ。死のう」

試しに呟いてみる。

……まだ冗談として口にできるあたり、俺は案外、前向きな性分なのかもしれない。

せめてもの救いは、彼女の存在だった。

受付の女性と付き合って、もう一年。愛嬌があって、いつも笑顔を絶やさない彼女は、社内でも結構な人気者だった。

そうだ。今こそ、彼女に慰めてもらおう。

ここ最近は残業ばかりで、ろくにデートもできていなかったし、今なら時間はいくらでもある。

俺はスマホを取り出し、連絡を入れようとした。

──が、その前に、彼女からのメッセージが届いていた。

『今日、友達から聞いたよ。クビになったんだって? ごめんね。別れよ』

……この屋上から飛び降りれば、あっけなく死ねるかもしれない。

──いけないいけない。

俺は空を見上げ、涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。


さて──悩んでばかりもいられない。

わざわざ屋上まで来たのは、本来の目的を果たすためだ。

塔屋の出入口から裏手へ回り、隅に置かれていた油性マジックを手に取る。そして、壁にこう書き記した。

【株式会社ドリームへの手配を怠ったのは早乙女部長である】

──俺がずっと、叫びたかった言葉だ。

たった一行の落書き。

それだけのことで、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。

「よし」

自分の頬を軽く叩いて、気合を入れる。

俺のような不器用な人間は、せめて楽天的でなければやっていけない。視点を変えれば、今日から“自由の身”ということになる。朝早く起きる必要もない。同僚の嫌味に怯えることも、理不尽な説教に耐えることもない。職場の人間関係のストレスも、仕事のプレッシャーも、もう全部消えた。

これからは、ただ──“暇”という名の悩みと向き合っていくだけだ。

暇なら、なんだってできる。

明日は、恩人の佐伯政之さえき・さまゆきさんに会いに行こう。愚痴を聞いてもらいたい。

明後日は、学生時代の友人、矢後雄司やご・ゆうじと朝まで飲み明かすのもいい。金はないが──今回は仕方ない。いっそ、歌舞伎町で豪遊してやるのも悪くない。

……なんだか、ウキウキしてきた。

無職も──案外、悪くない。


――――――――――――――――――――――――――――――


古びた木造の一軒家。

瓦屋根にはアンテナが立ち、クリーム色の外壁に曇りガラスの窓。庭は決して広くないが、車を二台は停められそうだ。

かなり年季の入ったその家は、新築ばかりが建ち並ぶ近所の中で、少々浮いた存在だった。

ここが──佐伯政之さんの家。

お世辞にも、立派とは言いがたい佇まいだ。だが、下町とはいえ都内に一軒家を構えているのだから、やっぱり羨ましい。

佐伯さんに連絡を取ろうと、まずは電話をかけてみた。しかし返ってきたのは、「この電話番号は現在使われておりません」という無機質なアナウンスだけ。

──それでも、愚痴を聞いてほしかった。

俺は諦めず、以前佐伯さんが話していた最寄り駅や近隣の店、外観の特徴を頼りに、あてもなく歩き回った。そして、ついに──【佐伯】と書かれた表札を見つけ出すことに成功した。

迷いはなかった。

あの菩薩のように優しい佐伯さんなら、突然の訪問でもきっと笑って迎えてくれる。そう信じて、俺はインターホンを押した。

「はい」

応答したのは、女性の静かな声だった。

「あ、もしもし。清水と申します。以前、職場で佐伯さんにお世話になりまして……政之さん、いらっしゃいますか?」

「父ならおりますが……失礼ですが、どういったご関係でしょうか?」

どうやら娘さんらしい。

父とは対照的に、はっきりとした口調が印象的だった。

「デルクスの後輩です」

そう名乗ると、しばしの沈黙が訪れた。

「……デルクス? あのデルクスですか? 一体、何のご用ですか?」

声の調子が明らかに変わる。警戒と、わずかな苛立ちがにじんでいた。

「ちょっと……お話をしたくて」

そう伝えると、今度は露骨な拒絶が返ってきた。

「申し訳ありませんが、父とは一切関わらないでいただきたいです。

それによく、平然と押しかけてこられますね。──あなたの会社が、父に何をしたのか、ご存じですよね?」

──なるほど、怒っているのも無理はない。

理不尽に解雇された父を恨んでいて当然だし、その元社員である俺にも、同じ憤りを向けられているのだろう。

ここは、下手に出るしかない。

「すみません。そんなつもりはなかったんです。ただ……自分もデルクスをクビになりまして。

それで、いろいろと話をしたくて……本当に、それだけなんです」

「……あなたも? 一体、どんな会社なの……」

怒りの温度が、ふっと下がった気がした。言葉尻には、わずかながら同情の気配すら漂っていた。

「……わかりました。今、出ます」


プツリとインターホンが切れると、中から足音が近づいてきた。そして、玄関の引き戸がガラリと音を立てて開く。

「すみません、事情も知らずに……」

控えめに、けれどどこか恥ずかしそうに、彼女はそっと顔をのぞかせた。ほんのわずかに視線を逸らしながら、それでも目元には礼儀正しい柔らかさが宿っている。

その瞬間──俺は、息を呑んだ。

夜空を流れる天の川のように、きらびやかで、それでいてどこか儚げな黒髪。まるで雪の妖精が人の姿を借りたかのような、透き通るような白い肌。

ややつり上がった大きな瞳は、凛とした強さを宿しながらも、底のほうに寂しさのようなものを抱えているように見えた。

平均的な身長ながら、短パン姿のせいかスラリとした体のラインが際立ち、無駄のない所作がどこか気品すら漂わせている。

派手さはない。けれど、何かひとつでも欠ければ成立しないような──絶妙な美しさだった。

つまり、この上なく、可愛かった。

そして何より、ただの“美人”ではなかった。

一瞬で空気の密度を変えるような、その存在感。どこか他人を寄せつけない雰囲気と、それでいて“守りたくなる”ような繊細さ。

言葉にできない何かに、心を掴まれた。

「可愛いな」

つい、口から漏れていた。

「はい?」

怪訝そうな視線を向けられて、ハッと我に返る。なんという頓珍漢な第一声だ。

「……実は今、父は寝込んでおりまして。あなたのことを話したら、中へ通すようにと──」

そう言って、彼女は玄関を開けてくれた。

まさか、と思った。

この俺を、あっさり家に入れるなんて。つい先日失業して、屋上で人生を見下ろしていたような男。社会的信用ゼロ、将来性ゼロ。しかも今は、初対面の彼女に一目惚れして、狼並みの性欲を漲らせている自覚すらある。

そんな俺を、だ。

こんな狼もどきの男を、何の警戒もなく家に入れるとは──なんとも無用心だ。

だが、その無防備さが、今はなぜか優しさに思えた。

「寝込んでいる? 病気ですか?」

「まぁ……ここではなんですので。中へどうぞ」

彼女に案内され、俺はそのままダイニングへと通された。

四人掛けのダイニングテーブルが中央に置かれ、外観こそ和風だったが、室内はフローリングにカーペット、そしてソファもあって、案外モダンな印象を受けた。

おそらくこれは娘のセンスなのだろう。一方で、部屋の片隅に場違いなほど存在感を放っている、鉄紺色の巨大な壺。センスのかけらもないその置物は、どう見ても佐伯さんの趣味に違いない。

「父を呼んできますね」

そう言って立ち上がろうとする彼女を、思わず呼び止めた。

「あの、えっと……お名前は?」

「私ですか?雪音です」

佐伯雪音さえき・ゆきね──なるほど、実にぴったりな名前だ。

「雪音さん……いい名前ですね。あの、お仕事は──」

「父を呼んできますね」

俺の言葉を、ぴしゃりと断ち切るように遮ると、雪音は足早にその場を離れた。

警戒されたか、あるいは単に面倒がられたか。

……もしくは、その両方か。

いずれにせよ、もう少し慎重に行くべきだったと、俺は小さく反省した。

やがて、佐伯さんが現れた。

久しぶりに見るその姿は、明らかに以前とは違っていた。もともと控えめな性格ではあるが、それにしても顔色が悪く、ひどくやつれて見える。

足取りもおぼつかず、雪音に肩を貸してもらいながら、ようやく歩いてきたという感じだった。

俺は慌てて立ち上がり、律儀に頭を下げた。

「清水くん、久しぶり」

かすかな声が聞こえた。続けて──

「娘から少し事情を聞いたが……そうか、君も……」

俯いたままのその声は、聞き返したくなるほどに小さく、弱々しかった。まるで俺に話しかけている実感がない。

(あれ? 本当に俺に言ってるの?)

思わずそんな疑問が頭をよぎる。まるで首でも痛めたかのように顔を上げず、ぎこちなく言葉を発する姿に、俺は戸惑いを隠せなかった。

あるいは──この短時間でカンペでも用意して、今それを読んでいるのだろうか? いや、そんなことはないだろう。とはいえ、まるで“久しぶりの再会で人見知りしてます”みたいな、そんな他人行儀な雰囲気を漂わせている。

かつてあれほど頼りがいのあった佐伯さんが、こんなに余所余所しくなるなんて……。


「そうなんですよ。なにもしていないのに、いきなりクビを言い渡されて……部長、自分のミスを、よくもまぁ、部下に押し付けられるもんですよね」

努めて明るく話しかけた。湿っぽくなりすぎないように、少し冗談めかして。

「まぁ、ひどい話よね。お父さんのときと同じ」

雪音も、苦笑いを浮かべながら相槌を打ってくれた。その様子がなんとも健気で、気を遣ってくれているのがわかる。そういうところがまた、ずるいくらい可愛かった。

俺はふと思った。

佐伯さんは、俺の恩人だ。だからこそ、敬意を持って接したい。くだらない冗談を飛ばしながらでも、できるだけ明るく振る舞いたいと思っている。

──が、雪音は違う。

綺麗で、優しくて、ちょっと気の強そうなその顔が、たまらなく良い。口元の動き、首筋の白さ、脚のライン。見るたびに、俺の中のろくでもない欲望がむくむくと育っていく。

なので俺は、佐伯さんには最大限の敬意と気遣いを。

そして雪音には──ストレートに、いやらしい目で見ることにした。

「……そうなのか……」

佐伯さんは、生気のない声で呟くだけだった。心ここに非ず──といった表情で、目を伏せたまま。

空気が重たくなってきたので、俺は必死に話をつなげた。

佐伯さんが俺をかばってくれたこと。そのせいで責任を押しつけられ、解雇されたこと──

「庇う?」

怪訝そうに聞き返したのは雪音だった。

俺は改めて、一連の経緯を説明した。

部長が自分のミスを俺に押し付けようとしたこと。それを察した佐伯さんが、自ら責任をかぶってくれたこと。その結果、佐伯さんが解雇されることになってしまったこと。

「佐伯さん、あの時は本当にカッコよかったです。解雇されるって、みんななんとなく察してて、社内には妙な同情ムードが流れてたんですよ。僕も居たたまれなくなって謝りに行ったら、佐伯さん、笑ってこう言ったんです──『気にするな。俺はどうせ定年間際だから』って。……痺れましたよ、ほんとに」

「へ、へぇ〜……お、お父さん、カッコいいじゃない」

雪音が、ややわざとらしい調子でそう言ってくれた。

だが、肝心の本人はというと──

「……そうだったのか……」

そう呟いたきり、うつむいたまま。空気はどんよりと淀んでいた。

……というか、そもそもなぜ、彼女はこの場に同席しているのだろうか。

父親と俺の話をするだけなら、わざわざ横に座っている必要なんてないはずだ。

まさか──俺に一目惚れでもしたのだろうか?……それなら、まぁ、仕方ない。お互い様だ。

そんな阿呆な妄想に浸っていた、そのとき──

「ピンポーン」

玄関のチャイムが鳴り響いた。

佐伯さんと雪音が、同時にビクリと肩を震わせたのが、はっきりとわかった。


雪音は、最近観た洋画の話を手で制して、インターホンへと向かって行った。一方の佐伯さんは震えた声で「すみません。すみません」と肩を震わせ始めた。

一体なにごとだろうか。

しばらくして、雪音と訪問者が、玄関先でなにやら揉めているのがわかった。内容まではわからなかったが、最後に雪音が「とにかく、用はありませんから帰って下さい!」と罵声を放ったのには背筋が凍った。

雪音が疲れ切った様子で戻ってきた。

情けないことに、俺はどう反応すればいいのかまったくわからなかった。口を開くべきか、謝るべきか、立ち上がるべきか──どれもしっくり来ない。

だから俺は、「暇さえあればスマホをいじる現代病患者」ということにして、黙ってスマホをいじることにした。

そう、"暇さえあれば"なのだ。別にスマホが好きなわけじゃない。ただ、こういう時に限って、無意識に手が動いてしまう。気まずさや居心地の悪さから目をそらすために、何かに逃げたくなる。そんなとき、一番手軽な逃げ道が、スマホだった。

雪音が、あからさまに大きな溜め息をついた。

だが俺は“依存症なので仕方ない”というていで、画面に集中するフリを続ける。これはもう習性だ。だから、反応がないのも当然なのである──たぶん。

すると今度は、扉を**ドンドン!**と激しく叩く音が響き渡り、間髪入れずに男の声が飛んできた。

「佐伯さ〜ん、いるんでしょ〜? 出てきてくださいよ〜。この前ご紹介した“幸福を呼ぶペンダント”、お持ちしましたよ〜!」

雪音は頭を抱え、ぶつぶつと何かを呟いている。

佐伯さんはというと、「すみません……すみません……」と、依然として肩を震わせながら、壊れた機械のように繰り返すばかり。

俺はというと──スマホを眺めることに全力を注いでいた。

ネットを開いて、[昨日の晩御飯]と検索。知らない家のカレーの写真を見ながら、現実から目を逸らす。

「佐伯さ〜ん、困りますよ〜。もうご契約されてるんですよ〜? 今さら買わないなんて、そりゃ困りますよ〜。いいからここ、開けてくださいよ〜!」

「……ああ、もうイヤだ……」

雪音がさらに深く頭を抱え込んだ。

「はい、いますぐ」

もちろん、佐伯さんが立ち上がる気配はない。動けるはずがない。

俺はその間も[田中家の晩御飯]というブログをスクロールし続ける。“手作り春巻きとブロッコリーの胡麻和え”──そんな文字列に、なんとか心を保っていた。

「佐伯さーん!」

扉越しの男の語気が一段強まる。

「いい加減にしてくださいよ! 契約書にはもうサインしてるんですからね!? 早くしてくださいよ、訴えますよ! 本当に!」

──そのときだった。

「……訴えられるなら、訴えてみなさいよ」

静かに顔を上げた雪音の瞳が、ギラリと鋭く光った。

その瞬間──俺は、恐怖のあまりスマホを取り落とした。

カツンという音と共に、床に転がるスマホ。どうやら変なところを押してしまったらしい。

そして次の瞬間──

「んっ……あぁっ、やっ……んんっ……」

落ちたスマホから、女の喘ぎ声が部屋中に響き渡った。

「……」

「……」

「……」

雪音は無言で椅子から立ち上がると、ガタンと音を立ててテーブルを揺らし、意気込んだ足取りで玄関へと向かった。

(ああもう……死にたい……)

「やめて下さい! 近所迷惑ですよ!」

「あなたに用はない。親父さんいらっしゃるだろ。上がらせてもらいますよ」

「やめて下さい。不法侵入で訴えますよ!」

「だから、それはあなたのお父さんが──」

「いいから早く出てって下さい! 警察呼びますよ!」

玄関先で、激しい言い争いが勃発した。

俺も加勢すべきか……と、一瞬考えたが、全く立ち上がれる気がしない。恐怖と羞恥と、あと残りカスみたいな理性が、体をガッチリ拘束していた。どうしたら良いものか──悩みに悩んだ末、とりあえず床に落ちたスマホを拾い上げることにした。画面には“人妻×逆夜這い”のサムネイルが表示されていた。

(なんでこのタイミングで……!)

玄関からは、「親父さんを出せ!」「お引き取り下さい!」の応酬が続く。

押押し問答が何往復か繰り返された末、ようやく男はしぶしぶ引き下がった。

場は、やがて静寂に包まれる。

けれど──俺の心は、とっくに死んでいた。

呼吸の音すら気まずいほどの沈黙の中、玄関のドアが閉まる音が遠く響いた。

そして次の瞬間──

雪音がバタンと勢いよくダイニングに戻ってきた。

顔を見なくても、わかる。怒っている。いや、そんな生やさしいものじゃない。全身から怒気が溢れ出ていて、あたりの空気が一段冷たくなった気がした。

彼女は無言のまま俺のほうへ顔を向け、その瞳にはっきりとした怒りが宿っていた。口元はピクリとも動かず、頬にはまだ怒声の余韻が張りついている。

明らかに“完全にキレてる人の顔”だった。

俺は目を逸らした。冷や汗が背中を伝う。ここにいてはいけない。そんな気配が、肌に刺さるほどに伝わってくる。

そして──

「あなたも帰って下さい」

その声は、鋭く、冷たく、斬り捨てるようだった。

俺は動けなかった。というか、動揺のあまりフリーズしていた。

すると──

「すみません……」

俺の口から、情けない謝罪がこぼれる。

同時に──

「すみません……」

佐伯さんの声も重なった。

虚しい「すみません」が、ダイニングにぽつんと響いた。

お読みいただきありがとうございます。

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