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「──クビだ」
その一言で、頭が真っ白になった。
さかのぼれば数分前、「お前、使えないな」と言われたときは、いつものことだと聞き流せていた。
だが、その日だけは違った。
まさかその言葉が、解雇宣告への前触れだったとは思わなかったのだ。
デルクス株式会社──イベントの企画・運営を請け負う企業で、都内にいくつかの営業所を構えている。
俺が所属していたのは、新宿の複合オフィスビル四十三階にある営業所だ。
職場は終日、喧騒に包まれていた。電話は鳴りっぱなしで、ボソボソ話したところで相手には届かない。机の上はどこも書類の山。数メートル歩く間にも、通路に紙が散乱している。
注意して歩かないと、簡単に足を取られる。
「危ないな、足元気をつけろよ」
不注意な俺は、よくそんなふうに小馬鹿にされた。もはや「おはよう」よりも耳にする頻度の高い言葉だ。それほどまでに、俺は“危なっかしい奴”らしい。
そんな環境での解雇通達だったせいか、不思議と感傷的な気分にはならなかった。
むしろ、怒りのほうが先に湧いてきて、そのまま他の感情をかき消してしまったようだった。
上司は両手を腰に当て、胸を張り、険しい顔で怒鳴り散らす。
「お前はトロい」
「なに一つまともにできない」
「お前みたいな使えない奴、初めて見た」
──実際に“偉い”立場なのだから、そう言う権利はある……と同僚たちは言う。
だが、解雇された今となっては、その上下関係も消えたはずだ。
つまり、もう偉そうに言われる筋合いなんて、どこにもない。
……とはいえ、俺の口は「すみません」という呪縛にすっかり囚われていて、反論する気力すら湧いてこなかった。
本当は、深いため息のひとつでも吐きたい。
そして、「なんだその態度は」とさらにキレる上司に向かって、「うるせぇ」とでも吐き捨てながら、思い切り顔面をぶん殴ってやりたい。馬乗りになって、顔が変形するまで容赦なく叩きのめしたい。
……のに。
硬直したままの俺の身体は、ぴくりとも動かなかった。
無職となった俺は、身支度を整えて、ビルの屋上へと足を運んだ。
陽はすでに傾き始め、ポツポツと街灯が灯り出す。平日の秋空の下、夕暮れどきの新宿を見下ろせば、いつも通り大勢の人々が行き交っている。
まるで、人がゴミのようだ──
自分もその一員だということは棚に上げて、ふとそんな月並な感想が頭をよぎった。
屋上には、室外機やキュービクルが並び、ゴォーという機械音を立てながら、黙々と働いている。誰に褒められるでもなく、ただ人々の役に立つべく、忠実に動き続けている。落ち込むには、いささか騒がしすぎる場所だった。
俺は空を見上げ、ようやく──念願の、深いため息を吐いた。
さて、これから俺は“無職”だ。
蓄えなんて、ほとんどない。せいぜい──もって一ヶ月。
それまでに、どうにか次の職を見つけなければならない。
不安が、じわりと胸を満たしていく。
最近、気づいたことがある。どうやら俺は、並の人間よりも欠陥が多いらしい。
頭は悪い。運動神経もない。手先は不器用で、人付き合いも苦手。責められれば口ごもり、考えなしに動いては失敗ばかり。怠け癖もあるし、面倒なことはすぐ後回しにする。
──目も当てられない、どうしようもないクズだ。
仮に運よく次の職場が見つかったとしても、またすぐにクビになるだろう。
何度転職しても同じ結末。そのうち年齢も重なり、どこにも雇ってもらえなくなる。金は尽き、家を追われ、行き着く先は──ホームレス。
そして、最後は……惨めに糞でも食って生きる生活。
「そうだ。死のう」
試しに呟いてみる。
……まだ冗談として口にできるあたり、俺は案外、前向きな性分なのかもしれない。
せめてもの救いは、彼女の存在だった。
受付の女性と付き合って、もう一年。愛嬌があって、いつも笑顔を絶やさない彼女は、社内でも結構な人気者だった。
そうだ。今こそ、彼女に慰めてもらおう。
ここ最近は残業ばかりで、ろくにデートもできていなかったし、今なら時間はいくらでもある。
俺はスマホを取り出し、連絡を入れようとした。
──が、その前に、彼女からのメッセージが届いていた。
『今日、友達から聞いたよ。クビになったんだって? ごめんね。別れよ』
……この屋上から飛び降りれば、あっけなく死ねるかもしれない。
──いけないいけない。
俺は空を見上げ、涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。
さて──悩んでばかりもいられない。
わざわざ屋上まで来たのは、本来の目的を果たすためだ。
塔屋の出入口から裏手へ回り、隅に置かれていた油性マジックを手に取る。そして、壁にこう書き記した。
【株式会社ドリームへの手配を怠ったのは早乙女部長である】
──俺がずっと、叫びたかった言葉だ。
たった一行の落書き。
それだけのことで、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。
「よし」
自分の頬を軽く叩いて、気合を入れる。
俺のような不器用な人間は、せめて楽天的でなければやっていけない。視点を変えれば、今日から“自由の身”ということになる。朝早く起きる必要もない。同僚の嫌味に怯えることも、理不尽な説教に耐えることもない。職場の人間関係のストレスも、仕事のプレッシャーも、もう全部消えた。
これからは、ただ──“暇”という名の悩みと向き合っていくだけだ。
暇なら、なんだってできる。
明日は、恩人の佐伯政之さんに会いに行こう。愚痴を聞いてもらいたい。
明後日は、学生時代の友人、矢後雄司と朝まで飲み明かすのもいい。金はないが──今回は仕方ない。いっそ、歌舞伎町で豪遊してやるのも悪くない。
……なんだか、ウキウキしてきた。
無職も──案外、悪くない。
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古びた木造の一軒家。
瓦屋根にはアンテナが立ち、クリーム色の外壁に曇りガラスの窓。庭は決して広くないが、車を二台は停められそうだ。
かなり年季の入ったその家は、新築ばかりが建ち並ぶ近所の中で、少々浮いた存在だった。
ここが──佐伯政之さんの家。
お世辞にも、立派とは言いがたい佇まいだ。だが、下町とはいえ都内に一軒家を構えているのだから、やっぱり羨ましい。
佐伯さんに連絡を取ろうと、まずは電話をかけてみた。しかし返ってきたのは、「この電話番号は現在使われておりません」という無機質なアナウンスだけ。
──それでも、愚痴を聞いてほしかった。
俺は諦めず、以前佐伯さんが話していた最寄り駅や近隣の店、外観の特徴を頼りに、あてもなく歩き回った。そして、ついに──【佐伯】と書かれた表札を見つけ出すことに成功した。
迷いはなかった。
あの菩薩のように優しい佐伯さんなら、突然の訪問でもきっと笑って迎えてくれる。そう信じて、俺はインターホンを押した。
「はい」
応答したのは、女性の静かな声だった。
「あ、もしもし。清水と申します。以前、職場で佐伯さんにお世話になりまして……政之さん、いらっしゃいますか?」
「父ならおりますが……失礼ですが、どういったご関係でしょうか?」
どうやら娘さんらしい。
父とは対照的に、はっきりとした口調が印象的だった。
「デルクスの後輩です」
そう名乗ると、しばしの沈黙が訪れた。
「……デルクス? あのデルクスですか? 一体、何のご用ですか?」
声の調子が明らかに変わる。警戒と、わずかな苛立ちがにじんでいた。
「ちょっと……お話をしたくて」
そう伝えると、今度は露骨な拒絶が返ってきた。
「申し訳ありませんが、父とは一切関わらないでいただきたいです。
それによく、平然と押しかけてこられますね。──あなたの会社が、父に何をしたのか、ご存じですよね?」
──なるほど、怒っているのも無理はない。
理不尽に解雇された父を恨んでいて当然だし、その元社員である俺にも、同じ憤りを向けられているのだろう。
ここは、下手に出るしかない。
「すみません。そんなつもりはなかったんです。ただ……自分もデルクスをクビになりまして。
それで、いろいろと話をしたくて……本当に、それだけなんです」
「……あなたも? 一体、どんな会社なの……」
怒りの温度が、ふっと下がった気がした。言葉尻には、わずかながら同情の気配すら漂っていた。
「……わかりました。今、出ます」
プツリとインターホンが切れると、中から足音が近づいてきた。そして、玄関の引き戸がガラリと音を立てて開く。
「すみません、事情も知らずに……」
控えめに、けれどどこか恥ずかしそうに、彼女はそっと顔をのぞかせた。ほんのわずかに視線を逸らしながら、それでも目元には礼儀正しい柔らかさが宿っている。
その瞬間──俺は、息を呑んだ。
夜空を流れる天の川のように、きらびやかで、それでいてどこか儚げな黒髪。まるで雪の妖精が人の姿を借りたかのような、透き通るような白い肌。
ややつり上がった大きな瞳は、凛とした強さを宿しながらも、底のほうに寂しさのようなものを抱えているように見えた。
平均的な身長ながら、短パン姿のせいかスラリとした体のラインが際立ち、無駄のない所作がどこか気品すら漂わせている。
派手さはない。けれど、何かひとつでも欠ければ成立しないような──絶妙な美しさだった。
つまり、この上なく、可愛かった。
そして何より、ただの“美人”ではなかった。
一瞬で空気の密度を変えるような、その存在感。どこか他人を寄せつけない雰囲気と、それでいて“守りたくなる”ような繊細さ。
言葉にできない何かに、心を掴まれた。
「可愛いな」
つい、口から漏れていた。
「はい?」
怪訝そうな視線を向けられて、ハッと我に返る。なんという頓珍漢な第一声だ。
「……実は今、父は寝込んでおりまして。あなたのことを話したら、中へ通すようにと──」
そう言って、彼女は玄関を開けてくれた。
まさか、と思った。
この俺を、あっさり家に入れるなんて。つい先日失業して、屋上で人生を見下ろしていたような男。社会的信用ゼロ、将来性ゼロ。しかも今は、初対面の彼女に一目惚れして、狼並みの性欲を漲らせている自覚すらある。
そんな俺を、だ。
こんな狼もどきの男を、何の警戒もなく家に入れるとは──なんとも無用心だ。
だが、その無防備さが、今はなぜか優しさに思えた。
「寝込んでいる? 病気ですか?」
「まぁ……ここではなんですので。中へどうぞ」
彼女に案内され、俺はそのままダイニングへと通された。
四人掛けのダイニングテーブルが中央に置かれ、外観こそ和風だったが、室内はフローリングにカーペット、そしてソファもあって、案外モダンな印象を受けた。
おそらくこれは娘のセンスなのだろう。一方で、部屋の片隅に場違いなほど存在感を放っている、鉄紺色の巨大な壺。センスのかけらもないその置物は、どう見ても佐伯さんの趣味に違いない。
「父を呼んできますね」
そう言って立ち上がろうとする彼女を、思わず呼び止めた。
「あの、えっと……お名前は?」
「私ですか?雪音です」
佐伯雪音──なるほど、実にぴったりな名前だ。
「雪音さん……いい名前ですね。あの、お仕事は──」
「父を呼んできますね」
俺の言葉を、ぴしゃりと断ち切るように遮ると、雪音は足早にその場を離れた。
警戒されたか、あるいは単に面倒がられたか。
……もしくは、その両方か。
いずれにせよ、もう少し慎重に行くべきだったと、俺は小さく反省した。
やがて、佐伯さんが現れた。
久しぶりに見るその姿は、明らかに以前とは違っていた。もともと控えめな性格ではあるが、それにしても顔色が悪く、ひどくやつれて見える。
足取りもおぼつかず、雪音に肩を貸してもらいながら、ようやく歩いてきたという感じだった。
俺は慌てて立ち上がり、律儀に頭を下げた。
「清水くん、久しぶり」
かすかな声が聞こえた。続けて──
「娘から少し事情を聞いたが……そうか、君も……」
俯いたままのその声は、聞き返したくなるほどに小さく、弱々しかった。まるで俺に話しかけている実感がない。
(あれ? 本当に俺に言ってるの?)
思わずそんな疑問が頭をよぎる。まるで首でも痛めたかのように顔を上げず、ぎこちなく言葉を発する姿に、俺は戸惑いを隠せなかった。
あるいは──この短時間でカンペでも用意して、今それを読んでいるのだろうか? いや、そんなことはないだろう。とはいえ、まるで“久しぶりの再会で人見知りしてます”みたいな、そんな他人行儀な雰囲気を漂わせている。
かつてあれほど頼りがいのあった佐伯さんが、こんなに余所余所しくなるなんて……。
「そうなんですよ。なにもしていないのに、いきなりクビを言い渡されて……部長、自分のミスを、よくもまぁ、部下に押し付けられるもんですよね」
努めて明るく話しかけた。湿っぽくなりすぎないように、少し冗談めかして。
「まぁ、ひどい話よね。お父さんのときと同じ」
雪音も、苦笑いを浮かべながら相槌を打ってくれた。その様子がなんとも健気で、気を遣ってくれているのがわかる。そういうところがまた、ずるいくらい可愛かった。
俺はふと思った。
佐伯さんは、俺の恩人だ。だからこそ、敬意を持って接したい。くだらない冗談を飛ばしながらでも、できるだけ明るく振る舞いたいと思っている。
──が、雪音は違う。
綺麗で、優しくて、ちょっと気の強そうなその顔が、たまらなく良い。口元の動き、首筋の白さ、脚のライン。見るたびに、俺の中のろくでもない欲望がむくむくと育っていく。
なので俺は、佐伯さんには最大限の敬意と気遣いを。
そして雪音には──ストレートに、いやらしい目で見ることにした。
「……そうなのか……」
佐伯さんは、生気のない声で呟くだけだった。心ここに非ず──といった表情で、目を伏せたまま。
空気が重たくなってきたので、俺は必死に話をつなげた。
佐伯さんが俺をかばってくれたこと。そのせいで責任を押しつけられ、解雇されたこと──
「庇う?」
怪訝そうに聞き返したのは雪音だった。
俺は改めて、一連の経緯を説明した。
部長が自分のミスを俺に押し付けようとしたこと。それを察した佐伯さんが、自ら責任をかぶってくれたこと。その結果、佐伯さんが解雇されることになってしまったこと。
「佐伯さん、あの時は本当にカッコよかったです。解雇されるって、みんななんとなく察してて、社内には妙な同情ムードが流れてたんですよ。僕も居たたまれなくなって謝りに行ったら、佐伯さん、笑ってこう言ったんです──『気にするな。俺はどうせ定年間際だから』って。……痺れましたよ、ほんとに」
「へ、へぇ〜……お、お父さん、カッコいいじゃない」
雪音が、ややわざとらしい調子でそう言ってくれた。
だが、肝心の本人はというと──
「……そうだったのか……」
そう呟いたきり、うつむいたまま。空気はどんよりと淀んでいた。
……というか、そもそもなぜ、彼女はこの場に同席しているのだろうか。
父親と俺の話をするだけなら、わざわざ横に座っている必要なんてないはずだ。
まさか──俺に一目惚れでもしたのだろうか?……それなら、まぁ、仕方ない。お互い様だ。
そんな阿呆な妄想に浸っていた、そのとき──
「ピンポーン」
玄関のチャイムが鳴り響いた。
佐伯さんと雪音が、同時にビクリと肩を震わせたのが、はっきりとわかった。
雪音は、最近観た洋画の話を手で制して、インターホンへと向かって行った。一方の佐伯さんは震えた声で「すみません。すみません」と肩を震わせ始めた。
一体なにごとだろうか。
しばらくして、雪音と訪問者が、玄関先でなにやら揉めているのがわかった。内容まではわからなかったが、最後に雪音が「とにかく、用はありませんから帰って下さい!」と罵声を放ったのには背筋が凍った。
雪音が疲れ切った様子で戻ってきた。
情けないことに、俺はどう反応すればいいのかまったくわからなかった。口を開くべきか、謝るべきか、立ち上がるべきか──どれもしっくり来ない。
だから俺は、「暇さえあればスマホをいじる現代病患者」ということにして、黙ってスマホをいじることにした。
そう、"暇さえあれば"なのだ。別にスマホが好きなわけじゃない。ただ、こういう時に限って、無意識に手が動いてしまう。気まずさや居心地の悪さから目をそらすために、何かに逃げたくなる。そんなとき、一番手軽な逃げ道が、スマホだった。
雪音が、あからさまに大きな溜め息をついた。
だが俺は“依存症なので仕方ない”というていで、画面に集中するフリを続ける。これはもう習性だ。だから、反応がないのも当然なのである──たぶん。
すると今度は、扉を**ドンドン!**と激しく叩く音が響き渡り、間髪入れずに男の声が飛んできた。
「佐伯さ〜ん、いるんでしょ〜? 出てきてくださいよ〜。この前ご紹介した“幸福を呼ぶペンダント”、お持ちしましたよ〜!」
雪音は頭を抱え、ぶつぶつと何かを呟いている。
佐伯さんはというと、「すみません……すみません……」と、依然として肩を震わせながら、壊れた機械のように繰り返すばかり。
俺はというと──スマホを眺めることに全力を注いでいた。
ネットを開いて、[昨日の晩御飯]と検索。知らない家のカレーの写真を見ながら、現実から目を逸らす。
「佐伯さ〜ん、困りますよ〜。もうご契約されてるんですよ〜? 今さら買わないなんて、そりゃ困りますよ〜。いいからここ、開けてくださいよ〜!」
「……ああ、もうイヤだ……」
雪音がさらに深く頭を抱え込んだ。
「はい、いますぐ」
もちろん、佐伯さんが立ち上がる気配はない。動けるはずがない。
俺はその間も[田中家の晩御飯]というブログをスクロールし続ける。“手作り春巻きとブロッコリーの胡麻和え”──そんな文字列に、なんとか心を保っていた。
「佐伯さーん!」
扉越しの男の語気が一段強まる。
「いい加減にしてくださいよ! 契約書にはもうサインしてるんですからね!? 早くしてくださいよ、訴えますよ! 本当に!」
──そのときだった。
「……訴えられるなら、訴えてみなさいよ」
静かに顔を上げた雪音の瞳が、ギラリと鋭く光った。
その瞬間──俺は、恐怖のあまりスマホを取り落とした。
カツンという音と共に、床に転がるスマホ。どうやら変なところを押してしまったらしい。
そして次の瞬間──
「んっ……あぁっ、やっ……んんっ……」
落ちたスマホから、女の喘ぎ声が部屋中に響き渡った。
「……」
「……」
「……」
雪音は無言で椅子から立ち上がると、ガタンと音を立ててテーブルを揺らし、意気込んだ足取りで玄関へと向かった。
(ああもう……死にたい……)
「やめて下さい! 近所迷惑ですよ!」
「あなたに用はない。親父さんいらっしゃるだろ。上がらせてもらいますよ」
「やめて下さい。不法侵入で訴えますよ!」
「だから、それはあなたのお父さんが──」
「いいから早く出てって下さい! 警察呼びますよ!」
玄関先で、激しい言い争いが勃発した。
俺も加勢すべきか……と、一瞬考えたが、全く立ち上がれる気がしない。恐怖と羞恥と、あと残りカスみたいな理性が、体をガッチリ拘束していた。どうしたら良いものか──悩みに悩んだ末、とりあえず床に落ちたスマホを拾い上げることにした。画面には“人妻×逆夜這い”のサムネイルが表示されていた。
(なんでこのタイミングで……!)
玄関からは、「親父さんを出せ!」「お引き取り下さい!」の応酬が続く。
押押し問答が何往復か繰り返された末、ようやく男はしぶしぶ引き下がった。
場は、やがて静寂に包まれる。
けれど──俺の心は、とっくに死んでいた。
呼吸の音すら気まずいほどの沈黙の中、玄関のドアが閉まる音が遠く響いた。
そして次の瞬間──
雪音がバタンと勢いよくダイニングに戻ってきた。
顔を見なくても、わかる。怒っている。いや、そんな生やさしいものじゃない。全身から怒気が溢れ出ていて、あたりの空気が一段冷たくなった気がした。
彼女は無言のまま俺のほうへ顔を向け、その瞳にはっきりとした怒りが宿っていた。口元はピクリとも動かず、頬にはまだ怒声の余韻が張りついている。
明らかに“完全にキレてる人の顔”だった。
俺は目を逸らした。冷や汗が背中を伝う。ここにいてはいけない。そんな気配が、肌に刺さるほどに伝わってくる。
そして──
「あなたも帰って下さい」
その声は、鋭く、冷たく、斬り捨てるようだった。
俺は動けなかった。というか、動揺のあまりフリーズしていた。
すると──
「すみません……」
俺の口から、情けない謝罪がこぼれる。
同時に──
「すみません……」
佐伯さんの声も重なった。
虚しい「すみません」が、ダイニングにぽつんと響いた。
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